陶陽・安人 備前展に寄す
出川 直樹
1.土への回帰と織部様式
 室町末から桃山にかけてわが国の陶芸史上では、他国とまったく異なる出来事が二つ起こった。
 ひとつは「土への回帰」である。ほとんどの国の陶芸は土器にはじまり、b器(焼締め)、釉をかけた陶器、さらに磁器へと進化し、そのまま磁器が主流となった。ところがわが国では室町時代末に興隆した草庵の茶の巨匠達が焼締め陶の美に着目し、農民の雑器であった種壷などを水指や花入として茶会に用いた。さらにはそれら焼締めの茶陶が多く作り出され今に至っている。一斉に磁器へと向かう陶芸史のなかで、土そのものの個性を味わう「土への回帰」という逆流現象が起きたのであった。
 草庵の茶が生みだしたいまひとつは「織部様式」である。左右非対称の動きのある造形と、抽象文様を特徴とするこの様式は、美濃に始まり、信楽、伊賀、備前、丹波、萩、唐津、薩摩、と広汎に伝播していった。この様式も他国に類似するものがまったくない日本陶芸の独創である。最近米国メトロポリタン美術館でこの織部焼特集展が行われたが、それを見る人々は皆その現代のオブジェにも通ずる斬新さと飛翔する自由な美意識に目を見張っていた。
 この二つの独創性こそが、日本人のやきものへの独自の美意識と感性を育ててきたのであった。
2.桃山備前
 この二つの日本陶芸の独創性が交差する座標に生まれたものこそ、真に日本を代表するやきものといえよう。すなわち、桃山時代に焼かれた伊賀、信楽、備前、丹波、常滑などの無施釉焼締めの茶陶群がそれである。その中でも最もめざましい展開を遂げたのが備前焼であった。桃山時代の侘び寂びの美意識に適いしかも生気あふれる茶陶群の存在が現代の志野、織部、萩、唐津などの声価を支えているように、現代の備前焼も桃山備前の巨大な影のもとにある。
 しかし、その備前茶陶も次の江戸時代には生彩を失い、その主力は置物、細工物などに移っていった。それらには細密な技術は表現されていても、心を打つ芸術性は失われていったのである。
3.金重陶陽
 永くこうした状態が続く中、備前窯元六姓のひとつという名家に生まれて、精密な技術を習得し細工物や煎茶器の名人とうたわれた金重陶陽が、そこに安住することなく桃山備前に目を向けその再現を目指しはじめたのである。本格的な茶陶制作は昭和前期からだが、彼はただ一人まったくの手探り状態でさまざまな研究と模索を重ねるという厳しい道を歩まねばならなかった。細工物のヘラを置き、茶陶の轆轤に向かったのが四十歳に近い頃のことで、この彼の方向転換こそがその後の備前焼全体の方向を定めたのであった。桃山備前の美と力に目覚めたその感受性と努力から、今の備前焼の盛んな状況が生まれてきたと言えよう。その意味で彼の功績はきわめて大きく、備前焼中興の祖と讃えられるゆえんである。
 土味、火襷などで自ら開発した技法を自在に駆使し、その造形も桃山風のものから彼独自の工夫を加えた現代風のものまで幅広く、とても一人の人間には成し得ない巨大な足跡を遺したのであった。
 陶陽が確立した「炭桟切り」などの技法は、彼によって再び盛んになった備前焼の諸作家の踏襲するところとなった。が、大方の作家の作風が桃山の源流ではなく、いつのまにか陶陽を原点とし、手本としたところに現代備前の限界が生まれていたのではないだろうか。
 その頃筆者はある文章に、現在備前で主流を占めるのは「厚化粧をした火消し壷のような水指、土管のような花入」と書いたことがあったが、これも作家三百人以上を擁し、全盛を極める備前焼への警鐘のつもりであった。かさかさした器肌、コークスのような灰かむり、わざとらしい牡丹餅、火色などに強い違和感を覚えていたのである。
4.安倍安人
 そんな中で偶々安倍安人の小さな個展を東京で見て、その造形や肌合いが他の作家の備前焼とまったく異なっているのに注目した。造形に骨格があり、しかも伸びやかで生気に満ちている。表面的な「炭桟切り」による化粧ではなく、焼き抜いた肌合いに深みがありしかも潤いがある。土味や器肌の変化ともにごく自然でわざとらしさがない。
 彼の作品に接する機会はその後も少なかったが、その作品が発するいわば「ほんもの」としての力と美はその輝きを増し続けていった。その作品の裏には二十基余りつきかえたという窯そのものに対するあくなき研究をはじめ、数々の桃山備前からの発見、技法の再現、また彼独自の技法の開発が多々あったと思われる。作品の肌合いと造形の一体化ひとつとっても他の現代備前には見られない高さに到達している。
 よく伝統陶芸においては桃山の再現と一口に言われ、彼の作陶もその誤解を受けているようだが、実際には造形も表現も彼独自のものであり、その作品に桃山名器の再現を目指したものはひとつも見られない。おそらく彼が桃山備前から汲み取ったものはその外観ではなく、それを作り出した精神なのであろう。それは自由な創作力と「創る喜び」に満ちた溌剌とした精神である。類を同じくする精神から生まれた作品が放射する力の質が、彼の作品を見たときに桃山という開かれた時代の息吹を感じさせるのかもしれない。
 桃山から遥かに金重陶陽を経て安倍安人に至り、ようやく備前焼は桃山を超える領域に踏み出した。彼の焼成技法を学ぶ作家も多い。その将来に明るさが見えてきたのである。
 名声に包まれた人間国宝と、いまだ無冠に近い一作家という組み合わせのこの二人展の企画には敬意を表したい。昨年、安倍安人の作品が厳しい審査を経てメトロポリタン美術館に二人目の日本の陶芸家として収蔵されたこと(同館コレクションセンター、ダンケル・パーカー氏調べ)と合わせて、作品の実力を見通す現代の目の健在が感じられて心強い。
 この展観に桃山備前の名品の何点かを加えたなら、おのずから陶陽と安人それぞれの伝統の受容と、それからの方向と距離が明らかになったであろう。
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