安倍安人の「理」と「ロマン」
笹山 央    
 安倍さんの備前の作品を見て古備前の再現とみまがうのは無理からぬことであると思う。私は最初は写真で見たのだが、写真的世界の特殊効果か、目の錯覚でそう見えるのかのどちらかだろうと思っていた。実物を見た時にも、最初はやはり自分の目を疑ったり、室内の光の効果によるものだろうかと思ったりしたものだが、どう見てもそうではない。その古備前的肌合いと造形のダイナミクスは、確かに安倍さんの作品自体のものであった。

  このことは私にとってはいささか信じがたいことのように思われた。なぜかと言えば、現代においては古備前的風格のやきものは達成が不可能であるとされているし、私自身もそう信じていたからである。現代には現代の備前焼がある、ということで納得するしかないではないかと私は考えてきた。安倍さんはそういった私たちの常識、おそらく固定観念と言っていいようなことをくつがえしてしまったことになる。そのことを了解するのに私にはしばしの時間が必要だった。しかしなぜそれが可能であったのか。安倍さんと話をする機会に恵まれた時には、その秘密を是非探ってみたいものだと私は思った。

 念のために言っておくと、私は、古備前と同じレベルのやきものを焼くこと自体を凄いと思ったわけではない。言い換えれば、古備前の「写し」を可能とさせたその技能自体を賞賛するわけではない。安倍さんがもし古備前の「写し」をもって満足するような陶芸家にすぎないとするならば、なんだかずいぶんとつまらない話になってしまうし、古備前の「写し」を可能にする技術(つまり「やきもの」というものを成立させる技術)の本質的な意味を捉えそこなうことにもなってしまう。私の関心は、古備前の作行きを再現した、その背景にあるはずの安倍さんのやきもの観であり、ものの見方、考え方というところにあった。その時点で、私たちの「常識」や「固定観念」と呼ばれているものをくつがえす力学、あるいは理(ことわり)がすでに働いているはずだ、と私は思ったのである。

 安倍さんのやきもの観については、そのさわりの部分はこれまでの個展のカタログや雑誌などでそのつど紹介されてきているので、ファンの人たちの耳にはタコができているかもしれないが、やはりここでもそれを外して書くことができない。たとえば一昨年の大阪日動画廊での個展のカタログ序文で安井収蔵氏は、安倍さんの言葉を次のように紹介されている。

「・・・やきものを土だと思うから理解できないのです。たとえば不純物が入った金属だと思えばいいのです。不純物が多い鉄、それが、やきものです。良い鉄をつくるには炭素が必要です。炭素と鉄を結びつけるのは水ですから、水分をうまくコントロールさえすればよいのです。」

 しかしそういうふうに言われてしまうと、「やきもの」というものに対して抱いていた夢やロマンのようなものが消えて、味気ないものになってしまうではないか。安倍さんの仕事はどうも理が勝ちすぎる。初めに1を設定し、1+1が2になり、2+2が4になるというように創作を組み立てていく。しかし創作物に対する感動というものはそういった理詰めで生れてくるものではないのではないか。理屈では説明できない「情緒」や「味わい」や「夢」や「ロマン」といったことが重要ではないのか――。やきものを愛好する多くの人たちはそのように考えるかもしれない。

 私の考えは少しちがう。安倍さんは、たとえば「生意気なことを申しますが私の求めているところは、いわゆる古備前の再現、復元ではなく、それを超越、超克したものをつくりだしたいということです」と言っている(同上)。このような目的意識の中に、私は安倍さんの「夢」と「ロマン」を感じる。安倍さんはロマンチストであると私は思う。ロマンチストの夢が、鉄や炭素や水といった元素とそれらが熱と圧力の作用の中で化学変化を遂げていくその物質的過程にぶつかることによって生じてくるのが、「情緒」とか「味わい」といったものだ。安倍さんの備前は、古備前にみまがうばかりの古格を誇るから素晴らしいのではない。むしろそれは現代のやきもののオリジナルな成果であり、安倍さんのロマンと夢を担う創作物として素晴らしいのである。

 そして安倍さんのロマンは、言うまでもなく「理」による裏付けを求めようとしている。安倍さんの「理」とは、現実を虚飾のない目で正確に見つめようとする視線に応えてくるものであり、ものごとの成り立ちを必然づけているものである。たぶん安倍さんは「古備前を再現することはさほど難しいことではない」と言うだろう。「やきもの」がどのようにして成り立つのかを、熱作用を受けた物質の化学的変化の必然として捉えていけば、古備前は自ずから生れてくる。その必然を捉える目と方法を現代の私たちは失っているだけである。

 それだから、古備前を超越、超克することも、「生意気なことを申しますが」と言いつつ、安倍さんは実はそれほどだいそれたことだとも思っていないはずである。「やきもの」の理に従っていけば、古備前を超克することは必然である。その確かな感触をいささか謙遜気味にではありながら、実感していることだろう。

「やきものは人間の精神の大きな流れのようなものとしてあるものだ。やきもので器をつくるということは、その中のごく一部の営みにすぎない」。こういった意味のことを私は安倍さんの口からきいた。古備前が超越、超克されて行き着く先は、いうならば「やきものの本道」ともいうべき場所だ。人間にとってやきものとは何かを考えた時に、その答えが人間の存在の奥深いところから立ち上がってくる、そういう場所である。それは「やきもの」だけには限らない。そもそも人間がものをつくることの必然性、「ものごと」の成り立ちの中に秘められている自然の「理」が顕わな姿で立ち現れてくる、そのような場所である。ニ、三年ぐらい前から安倍さんは、いわゆるオブジェと呼ばれる、用途から離れて美術的に表現された作品をつくり始めた。と同時に油絵もそろそろ描き始めている。絵については、もともと十代、二十代を画家として活動してきた人だからお手のものである。しかししばらくブランクがあったので、ウォーミングアップ段階といったところか。

 やきものによるオブジェ表現では、現段階ではキューピー人形をモチーフにした作品が目立っている。安倍さんによれば、アメリカと日本の文化意識のギャップを表現しているのだそうである。また現代美術の在り方として、安倍さんなりの提言も含まれている。それは、これまでの主流であったミニマルあるいはコンセプチュアルな展開に代わって、文学性、物語性を復活していくべ.きであるという考えである。

 一見したところポップアート的な風刺性が妙味と思われる作品群であるが、よく見ると、やきものならではの質感を生かそうとしているところなど、細部の表現へのこだわりが、ポップ風を越えたある独特の作調を生み出している。特にやきものの質感の出し方は、安倍さんだけがなしうる深味を感じさせている。

 安倍さんのことを備前焼の茶陶作家だと思っている人にしてみれば、安倍さんがオブジェに手を染めはじめたり、絵を描き始めたりしたことを、余技の拡張というふうに受けとめられるかもしれない。そして余技に手を広げる作家はもちろんたくさんいるから、それは悪いことではない、と納得しようとされるだろう。しかし安倍さんの場合は、備前のやきものを焼くことも、オブジェをつくることも、絵を描くことも、いずれが本業でいずれが余技ということではないと私は思う。そのことは、上述してきたことを理解していただければわかってもらえるだろう。安倍さんが立っているところはものづくりの「理」が顕わとなるところ、あるいは少なくともその場所へと至る途上であり、備前もオブジェも絵も安倍さんにとっては本質的には等価の価値を持つものとしてあるはずである。仮にやきものに限定して言い換えるならば、備前もオブジェも、「精神の大きな流れ」としてあるやきものの世界の中で、各々の場所を与えられ意味づけられた領域である。

 私は安倍さんが、「精神の大きな流れ」としてあるやきもの(ものづくり)の世界の全体像を、私たちの目の前に繰り広げてくれることを期待したいと思う。



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