茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ごゆっくり閲覧ください。
No.163したり尾2005-04-08 09:54:52.853078+09
「勾当」「道成寺」「早舟」「大クロ」の四つの茶碗は、多くの本が1586年頃の作とあります。この四つだけ、なぜそのように特定できるのでしょうか?10月13日の茶会と関係があるのですか?
No.164さむしろ2005-04-08 19:09:55.884079+09
一つには造形があるのではないでしょうか? 「勾当」「道成寺」は造形的に出来上がっておらず稚拙な感じ、よくいえばおぼこいということになりそうですが…。「早舟」は写真がみつからないので「大クロ」にかぎっていえば形が端正です。正装といった感じです。やがて造形がくわえられ動きが出てくると想像します。
No.165マスター2005-04-08 19:11:24.147789+09
茶会記は最も有力な資料の一つでしょう。
赤茶碗の「無一物」も大クロと同じ範疇にはいるんでしょうね。
No.166したり尾2005-04-09 18:31:45.085523+09
やはり茶会記は制作年代を決定ずける上で大切なものだという事がよく分かりました。
今日は昔から一度見たかった中宮寺の国宝「菩薩半跏像」をみてきました。実に美しかったし、思ったよりなまめかしいものでした。美しさの理由は、勿論そのお顔にもありますが、全体像にもあります。説明によれば、足元の蓮弁の両端と光背の先端を結ぶ三角形の中にそのお姿がうまく収められているからだという事でした。確かにお顔は異常に大きいのに、なぜか全体像はバランスがいいのです。
No.167マスター2005-04-09 18:46:09.764857+09
そうですか。それは羨ましい。心静かに菩薩像を拝むのもいいものでしょうね。
前述の利休消息文の頃には和物道具を結構使い始めたと考えていいんですかね?
No.168さむしろ2005-04-09 19:01:25.193525+09
菩薩半跏像なんていいですね。なまめかしいですか、いいですね。
松屋会記によると和物で「瀬戸白茶碗」が1586年に使われている。和物茶入は1582年頃までは、一流数寄者間ではほとんど無視状態で、利休が1587年に備前茶入を表舞台に登場させたあたりから人気を高めた。茶会記の花入をみると、この頃を境に唐物中心から和物花入へと趨勢が移っている、との記述がある。
No.169したり尾2005-04-09 21:42:54.673816+09
これはかなり重要な情報ですね。
さむしろさんは1586年の「瀬戸白茶碗」は志野茶碗だとお考えですか。志野だとすると・・・?
No.170さむしろ2005-04-09 22:43:36.323297+09
おっしゃるように志野ではないかと思っています。そしてしたり尾さんのご期待?の織部様式を思いたいのですが、織部が本格的に主導権をにぎるのはもう少し後になります。今手元にある資料からでも結構みえてきますね。いまこれまでの考えを若干修正する仮説がうかんできつつあります。
No.171したり尾2005-04-10 08:15:53.76628+09
今までの仮説をどのように修正しようとお考えですか。
No.172さむしろ2005-04-10 09:56:50.038162+09
昨日は、初代長次郎の楽茶碗では彫刻的造形をしていないのでは、との可能性を考えました。ところが、今朝資料をみていると「伊賀花入生爪と同形の花入があり、その背面には利休の判が漆書されている。」「伊賀花入れのなかに利休好みのものがあること」「歪みのあるものはすべて利休没後、織部の好みのごとくされている傾向をこの花入れは修正」などとあります。資料をじっくり読む必要があることを改めて認識しました。
No.173マスター2005-04-10 10:31:22.873593+09
解説
安倍安人は「桃山茶陶の一部のものは特別の意識で造形焼成されたアートであって、偶然できた職人ものとは別ものであり、わたしはそれを目指している。」と言っています。しかし桃山茶陶の一部のものがアートであるとの主張は極一部の主張で、広く認知されたものではありません。今ここでは、そんな安倍の主張についての議論がされています。
No.174したり尾2005-04-10 14:15:54.637715+09
資料は大変重要です。資料を読む際、大事なことはその説の大本になる資料がいつの時代にできたものか、真筆か、写しかということだということが最近分かりました。
たとえば、例の朝顔の茶事ですが「天正元年9月16日南坊宛利休自筆伝書」にそのよりどころを求める者があったけれど、これは後世の作り物で、明治34年岡倉天心が「茶の本」でさらにこれを広めてしまいました。
また、別に「道喜老人宛朝顔の文」がありますが、これも真筆と写しがあり、内容が若干違っています。
難しいことですが、資料をきちんと読み込むために、まず資料を疑ってかかれというところでしょうか。
これは自分に言い聞かせているところです。
No.175さむしろ2005-04-10 22:25:21.339605+09
信憑性のことはおっしゃるとおりだと思います。その信憑性が高いとされた茶会記は一級の資料だろうと思います。その茶会記によると1587まではほとんどが唐物花入れで、翌1588には急激に備前花入れが増加。1590には竹花入れ初見とあります。今段階では「多分」ですが、竹花入は向う掛けといって床の真中ほどに釘を打って掛けて使う使い方があります。織部様式花入には釘あながありますから、向う掛けを行うようになってからの作と言っていいと思います。
No.176したり尾2005-04-10 23:48:00.805628+09
さむしろさんは、織部様式は利休時代に既にあったということを証明なさりたいのですね。
それを裏付ける別の資料があります。平成12年2月に出版された「茶道具の世界 楽茶碗」(楽 吉左衛門責任編集 淡交社)の中に黒楽と瀬戸黒の関係を考古学的観察をした結果、瀬戸黒の技法を取り入れて黒楽が作られるようになったと推察しています。つまり、瀬戸黒が先にあったというのです。(天正10年以前)
どうお感じになりますか。
No.177さむしろ2005-04-11 09:42:18.322195+09
織部様式への関与について、
1.織部の主導     2.利休の主導
3.織部、利休の共同  4.織部が主、利休が補
5.利休が主、織部が補 6.その他
等が考えられます。そこで、まずそれらの品がいつ頃から茶会記に現れるのかというところから調べてみたいと思ったんです。
瀬戸黒の天正10年というのは随分早いですね。
No.178したり尾2005-04-11 10:49:38.184471+09
瀬戸黒の話は、いかにして黒楽が誕生したかというくだりに記載されていました。
美濃窯の発掘調査の結果、引き出し黒の技法の年代が特定されたとありました。ただし、その瀬戸黒の茶碗は「小原女」のような碗形ではなく、長次郎の茶碗に近いものだとあります。この文章は、茶道資料館学芸部長の赤沼多佳氏の記述です。
いずれにせよ、織部茶碗を生んだ美濃焼と楽焼の深い関係を暗示しています。
No.179さむしろ2005-04-11 12:46:24.35349+09
利休の茶会記に「ハタノソリタル茶碗」が出てくるのが天正8年12月ですから、瀬戸黒の天正10年以前という話と重なることは重なりますね。
赤楽を焼いていたが美濃の引き出し黒の技法を学んで黒楽を焼き始めたということですか?
No.180したり尾2005-04-11 16:51:45.829311+09
そのとおりです。ちなみにさむしろさんが前に指摘されていた「獅子像」ですが、これも赤楽と同じ土、同じ釉薬を使っており、その腹部には「天正二年春 長次良 造之」とあるそうです。
なお、瀬戸黒の茶碗は轆轤成形だそうで、この点では以前私が指摘した黄瀬戸に近いものかなと想像しています。
赤沼さんの結論では「初期に赤茶碗がつくられ、さらに美濃窯の技法が取り入れられて黒茶碗がつくられるようになったようである」とあります。
No.181さむしろ2005-04-11 19:36:42.310449+09
唐津の登り窯が美濃に伝わって、美濃地方でも登り窯を使うようになったとの話があったように思います。そのような意味での技術の移転ということだろうと思います。
慶長6(1601)織部の7月20日の茶会記に「三角筒」と記され(宗久茶湯書抜)以後織部は備前三角花入をしばしば用いる、との記載があります。出典は未確認ですが、この頃には備前三角花入れが存在したと思われます。これがHP動画ででてくる三角花入れであれば、この頃にはすでに織部様式は完成していたことになります。
No.182したり尾2005-04-11 21:39:16.578208+09
今までの話をまとめてみると、1586年に瀬戸茶碗と宗易形の茶碗が茶会に登場してきている。しかも、それ以前に瀬戸黒の技術が黒楽の誕生に関わっている。とすると、楽茶碗と瀬戸茶碗が互いに影響しあいながら、織部様式へと向かっていったとは考えられませんか。勿論、高麗茶碗も大きな影響を与えていると思います。
慶長の初期には「小原女」のような瀬戸黒、志野などが制作されているようです。
こうしたことから完成と言い切れなくても、少なくとも慶長初期には織部様式が登場していたことは間違いないように思います。
No.183さむしろ2005-04-12 10:15:56.450087+09
茶会記に「宗易形茶碗」が現れたことの意味ですが、これはその時点における楽茶碗の存在を意味しても織部様式の造形は必ずしも意味しないとの思いがあります。楽茶碗「無一物」や「大クロ」には織部様式的造形はなされていないのではないかとの思いです。
No.184したり尾2005-04-12 16:33:31.985244+09
長次郎の作品の特徴のひとつに口縁のうねりがあります。それまでのものには、高麗茶碗のような偶然のゆがみを別にして、口縁のうねりはありませんでした。それは手捏ねで作り上げられる際に生まれた力学的な必然です。
そして、長次郎によって開発されたゆがみの美は美濃の作家に受け継がれ、大胆に変化し様式化していきました。
織部様式は、こうして誕生し完成していったのだと私は理解していました。
ですから「大クロ」も「無一物」も、あるいは「太郎坊」も織部様式の作品であり、長次郎の代表作のひとつであると思っていました。
この理解が間違っていたようです。自分の浅学と浅い美意識を恥じるしかありません。
No.185さむしろ2005-04-12 18:06:44.832239+09
なにをおっしゃいますやら。学者、評論家、陶芸家を含めほとんどの方々が、したり尾さんと似たりよったりの考えを、今現在もしておられると思います。かくいうわたしも安倍安人の理論を何度も聞いて、安倍安人の言う事のほうがすなおに納得できるようになりました。
No.186したり尾2005-04-12 20:36:52.35937+09
すると、「早舟」「大クロ」「一文字」「太郎坊」「二郎坊」「北野」「まこも」「恩城寺」「なでしこ」「禿」「白鷺」などは、いけないということですね。まったく自信がなくなりました。
「ムキ栗」はどうでしょうか。
No.187さむしろ2005-04-13 10:57:24.442917+09
いけないということではなくて、いつからあるいはどの作品から「織部様式の造形」がなされたかということを追究することによって、織部様式といっている造形に利休が係わっていたかどうかがわかれば面白いと思うのですが…。
大クロ、北野、まこも、一文字は同じような形ですね。
太郎坊はかすかに造形があるようにも見えます。これは利休所持となっているようですので、これに造形がなされていれば利休の関与の可能性が推測できますね。
二郎坊は胴を押したように見えますがどうでしょう。
禿は造形がなされているように見えますがどうでしょうか?
白鷺は特に古い手のように見えます。
ムキ栗は四方ですね。どうでしょうか?
他は手元の資料で見つかりませんでした。


No.188したり尾2005-04-13 18:11:35.454253+09
今までは、面によって構成されているもの、しかも力の波及が力学的に自然にできているもの、それは自然の摂理に従って3点で展開されていくものを織部様式と認識してきました。
その意味で「大クロ」なども「ムキ栗」も面によって構成されていて、それまでの焼き物とは違うものだと思っていました。
しかし、それでは織部様式としては、やはり何かが足りないのでしょうね。それとも、見方が甘すぎるのでしょうか。
No.189さむしろ2005-04-14 09:51:45.2773+09
織部様式には典型的造形の約束があって、それらを作品によって強く、弱く変化させながら形造る、といった理解です。茶碗の場合、高台、高台脇、腰、胴、口縁がそれぞれ勝手に造形されるのではなく、一つの変化が次ぎの変化に影響を与えながら全体を形造っているのではないかと思います。
No.190したり尾2005-04-14 10:22:26.263036+09
なるほど。それが力の波及ということですね。織部様式のおさらいのようで申し訳ありません。
さむしろさんが「大クロ」を織部様式ではないと言われる理由は何ですか。私には高台から始まって口縁にいたるまで静かな力が無理なく伝わっていっているように見えるのです。胴の僅かな膨らみも、微かな口縁のうねりに波及しているように見えました。
No.191さむしろ2005-04-14 13:20:53.878953+09
胴の膨らみのつぎには押さえ(くぼみ)があるはずなんですが、それが見えません。そのほかの部分も、手捻りの凹凸かそれとも造形かわかりません。手にとってみれば、もう少しわかるかもしれませんが所詮素人ですから限界があります。プロ(安倍安人)が手にとってみた、その感想を聞きたいものです。
No.192したり尾2005-04-14 14:35:09.200719+09
そうですか。なるほど・・・。
しかし「楽」の場合、手捏ねの後、2、3日室で半乾きになるまで乾かし、その後かなり薄くなるまで削り上げます。そうしないと、釉薬が分厚いので重すぎて使い物になりません。
ですから、形は細部まで偶然ではなく、作者の責任です。
なお、「楽」の場合、「てびねり」ではなく「てづくね」といって、皿のような円盤を少しずつ立ち上げて、やがて手にすっぽり納まるように作っていくという独特の作り方をしています。作り方、そして刀鍛冶のような特殊な窯に、なにか秘密があるような気がしています。
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