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No.133 | したり尾 | 2005-03-27 08:07:05.211451+09 |
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自分の頭の中を整理するために、現代の作家に置き換えて考えてみました。 すると、理論は誰か作家でない人物が作り、その誰かに理論どおり作れと作家が命令されて、あのような作品ができあがるとは到底思えないという結論になりました。 例えば、安倍安人が注文を受けて茶碗なり茶壷なり作ることはあっても、あくまで安倍理論に基づいた作品であるはずだということです。 ですから、いわゆる長次郎茶碗は、長次郎とされる人物が彼個人の理論(美意識と置き換えても結構です)に基づいて、数々の名品を作ったのだろうと思います。 また「瓦職人が茶の湯の茶碗を作るのは恐れ多い」といわれますが、例えば和歌の世界などでは、天皇も庶民も同じ場で歌を競い合ったことは、古くから通常行われていたことでした。まして下克上の時代です。身分差別は、江戸期に確立されたことです。 利休と長次郎の関係は、世に言われているほど絶対的なものなのかという疑問が私にはあります。いつの時代でも、プロデューサーと作家とは緊張関係にあるものではないでしょうか。 むしろいっそのこと「長次郎茶碗は実は利休が作ったものだ」と誰かが言えば、ある程度納得はできます。(むろん長次郎と利休は別人とされていますが) また、作品の順序は大まかに分類すことはできるでしょうし、さむしろさんの分類に私も概ね賛成です。 さらに、黄瀬戸との関係も賛成です。「はたを外にそらす」のではなく、あえて内側に曲げてしまうことぐらいは、あの黄瀬戸を見て思いついたのかもしれません。また、偶然その部分のみ、一致してしまったのかもしれません。 |
No.134 | さむしろ | 2005-03-27 18:03:09.269311+09 |
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長次郎なるものの理論で数々の名品を作ったとの意見には同意しかねます。 安倍安人は自らの論文の中で、「文章にすると大変むずかしく感じるが、実践的には初心者でも教材をともなって教えれば30分かからずマスターできる。ある有名大学の造形学の名誉教授などは私が「織部は三点展開だと思うんですが」と言ったとたんに「あ、わかった。そうか。」と三秒もかからなかった。」と言っています。 長次郎が瓦職人であったかどうかは別にして、長次郎作とされる獅子瓦があります。並みの腕ではなかったろうと推測します。相当な技術をもったものに造形理論を教えて作らせれば、先の安倍安人の説明とあわせ考えればそうむつかしいことではないのではないか、ということです。その昔には、主君の御道具を見る場合は二間も三間も離れて、かすかに拝む程度であった、といつか読んだことがあります。茶席で同席すれば格別、そうでないときは特に許しがなければみることもかなわなかった、というほうが当時の世相でなかったかと思います。つまり指示指導がなければ作り始めることはできなかっただろうというふうに想像しています。 |
No.135 | マスター | 2005-03-27 19:36:06.868413+09 |
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なかなか盛り上がっていますね。まあ一服いかがですか? 今日は今年1月に亡くなったお茶仲間(といっても90歳を超えておられたようですが)の追善の茶会があり行ってきました。小間で濃茶、広間で薄茶をいただきました。しっかりした道具組でした。小間の床に観音さまの画(由緒ある立派なものでした)に経ずつの花入れ、釜が非常にいい古天命の甑口で肩から筋がありました。茶碗は呉器、これも稀に見る名品でした。水指は伊賀でしたが、これはちょっと弱い。 広間は故人が好きであったという歌切れ(いいしたくのものでした)、釜は芦屋の霙、水指が古染付けで尻張りになっていましたが、ボディの白いぬけ、呉須もいい発色でした。ともに大名品でした。 勝手に言えば、伊賀の水指に替えて安倍安人の通称「像の足」が置いてあれば思わず唸ったでしょう。 それではまた続けて下さい。 |
No.136 | したり尾 | 2005-03-27 21:42:37.379186+09 |
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それは、また、羨ましい限りです。 では頂戴します。ありがとうございました。結構なお服でした。 ところで、さむしろさんに同意頂けなく残念です。 安倍安人の逸話は、私はさむしろさんとは逆に理解しました。 つまり、安倍安人は作家であるからこそ、織部の三点展開を見抜くことができた。焼き物を長年研究されていた大学の先生は、作家でなかったから織部のポイントを自分の力では見抜けなかった。 和物茶碗の頂点にある楽茶碗の大作家が、自分で発想できないはずはないと思います。大黒にせよ俊寛にせよ、自分の発想がなければできないものではないでしょうか。作家の力を信じます。長次郎に関することで申し上げれば、織田有楽斎が長次郎に注文して作らせたという茶碗を見たことがあります。 長次郎は利休とは深い関係にありましたが、必ずしも利休のみのための作家でもなかったようです。もっとも、これは長次郎の作品が持て囃されるようになってからのことではありますが。 いずれにせよ、中世、都の人間関係は、想像以上に自由なものであったことは、様々な人たちが語っています。まして、町人たちの独立共和国の堺が舞台です。 それらの自由さから豊かな町文化が生まれ、茶の湯の思想も育っていったと想像しています。 |
No.137 | さむしろ | 2005-03-28 12:22:25.948521+09 |
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したり尾さんとの見解の違う部分がみえてきました。 「安人は作家であるから見抜けた」との説ですが、それが正しければ、長次郎以降現代まで数千、数万の作家がいたろうに、それらの作家はどうなるでしょうか? 「和物茶碗の頂点にある楽茶碗の大作家が自分で発想できないはずがない」というお考えについてですが、このまま理解すると、長次郎がこれまでなかった「無」から「三点展開」を生み出した、というふうによめるのですが、そういうことでしょうか? その論によった場合、備前、伊賀、信楽、志野等美濃もの、唐津のうちの織部様式のものはどうなるでしょうか? わたしの考え(といっても安倍安人の話からわたしが理解したものです)では、あるヒントを得た指導者が、長次郎にその理論を教え、それを学んだ長次郎がその実践をとおして進化、完成させていった、というものです。 光悦も自ら作陶した茶碗を楽(長次郎だったと思いますが)に焼かせているようです。その手紙があるようですが、随分きつい内容で、身分や立場の違いが如実に現れた書き方である、と現在の楽さんだったと思いますが書かれた本にありました。 また、京の町と堺の町では自由度が随分違ったのではないでしょうか? |
No.138 | したり尾 | 2005-03-29 11:00:47.131036+09 |
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ご質問は、次の三点でした。 @安倍安人になぜ織部様式のポイントを見抜くことができたのか? A織部様式と長次郎茶碗との関係 B当時の人間関係 いずれもかなり重いご質問です。特にAはかなり込み入った話ですので、今回は@Bに絞らせて頂きます。 @ご存知のように安倍安人は洋画から出発し、その後焼き物など様々な美術のジャンルで活躍している作家です。絵画では構図が最も重要な要素であり、安倍も構図を考え抜いたに違いありません。その画家としての安倍の目が焼き物に向かった時、織部の構造をつかみとる事ができたのではないか、と想像しています。 安倍以外の陶芸家達はあまりにも伝統の世界にとらわれ自由な視点から焼き物を見ることは難しい、考え方もなかなか伝統の域から抜け出す事ができないのでしょう。そんなところではないかと思っています。 話は少し外れますが、安倍があの焼き味を獲得したのもおそらく伝統にとらわれない自由さであったと思います。 B「光悦」の「楽」への手紙に次のようなものがあります。 「茶碗四分ほと 白土赤土御持候而 いそき御出可有候 かしく 光悦(花押)より ちゃわんや 吉左 殿 光悦」 手紙の相手は楽家の当主ですが誰だか具体的にはわからないそうです。この手紙を「きつい内容」と読むか「親しい内容」と読むか立場によって読み方は変わります。尚、光悦は「のんこう」とかなり親しかったという話です。当時楽家はかなり貧しく光悦はお金持ちでした。それ以上のことはわかりません。 |
No.139 | さむしろ | 2005-03-29 19:57:13.520305+09 |
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「伝統の世界にとらわれ」「自由な視点から焼き物を見ることは難しい」。 したがって織部様式のポイントを見抜くことができなかった、ということのようですが、一見もっともらしいのですがどうもよくわかりません。 とりあえず、既成概念に囚われ、疑問をもつことを忘れ、新しい発想も試してみることもしなかった、というふうに理解してみました。 多少極端かもしれませんが、焼きについて言えば桃山、江戸、明治と「伝統」より「効率」を求めたためにすっかり焼きが変わってしまったとは言えませんか? 安倍安人が織部様式のポイントを見抜くことができたのは芸術への広い知識、深い素養、注意深さ、あくなき探究心、不断の努力(挑戦)などと、それを可能にした心と身体と生活の支えとでもいったほうがより真実に近いのではないでしょうか? わたしは安倍安人だからこそ織部様式の本質を解き明かす事が出来たと思っています。 |
No.140 | したり尾 | 2005-03-30 17:50:43.856459+09 |
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「安倍安人だからこそ織部様式を解き明かす事ができた」との事、勿論その通りです。でも、もし私がさむしろさんと同じように答えたら、さむしろさんは「それでは答えにならない」と言われた事でしょう。 安倍の内面を語る事は私にはできません。 「焼き」の話ですが、江戸初期に登り窯が入ってきた頃、比較的低い温度でも溶けるさまざまな釉薬が出てきた。焼きを忘れたのはそのためだと聞いています。勿論、当時はその方が効率的でした。しかしいつの間にかそれがそのまま固定してしまったのでしょう。私はあまり伝統という言葉はつかわないようにしています。 |
No.141 | さむしろ | 2005-03-30 18:56:31.468923+09 |
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「安倍安人には芸術への知識、素養、注意深さ等々があって、また強い心身、支えもあった。そのように条件が具わった安倍安人だからこそ織部様式の本質を解き明かす事ができた。」というつもりで書いたのですが、言葉足らずだったようです。 一度捨て去った技術を再び取り戻すには、周りの状況(あらゆる知識・環境等)がかわってしまっているだけにかえって難しいということもあるかもしれません。 |
No.142 | したり尾 | 2005-03-31 11:55:50.321458+09 |
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焼き物に限らず建造物など、一体どのように造ったのか今では判らないことが、この世には沢山あります。 ところで「茶の湯」は総合芸術だとつくづく思います。茶室という日常でない空間で、日常でないかすかな光の中で、茶碗などの日常ではない諸道具と、わずかな花と…。その中で研ぎ澄まされたすべての感覚を使って、日常でない人間関係を結び、日常でない時を過ごす、宗教上の儀式には世界各地に似たような時の過ごし方があります。しかし「神」のためではなく「美」のためのこうした時の過ごし方は、知る限り「茶の湯」だけです。「美の頂点」ですね。その「茶の湯」を完成させた桃山という時代に限りない魅力を感じます。 そして現代の私達には一体何ができるのか考えてしまいます。 |
No.143 | さむしろ | 2005-03-31 19:15:13.690791+09 |
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友人から京都市考古資料館で開催中の「桃山文化の陶磁器」の展示目録冊子をもらいました。京都市内屋敷跡から大量に発掘されたものです。茶碗、水指、花入れ、鉢、向付けなどですが、数の多さにビックリです。三点の擂鉢はありますがあとは茶道具と言っていいでしょう。織部様式のものとそうでないものがあります。織部様式のものと言っても、安倍安人のいうところの「アーティスト」が作ったもの、「職人」が作ったもの(このことについては掲載中の「桃山茶陶の造形と焼成」の動画を見て頂きたい)の両方があるようにみえます。勿論「職人もの」と思われるものがほとんどです。もっとも厳密に峻別する眼力はありませんのでお断りしておきます。昨年9月から今日(3月31日)までの予定でしたが展示物を追加して「続桃山文化の陶磁器」として17年8月末日まで延長されるそうです。 |
No.144 | したり尾 | 2005-04-01 11:05:18.500956+09 |
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私も数年前、京都の屋敷跡などから出たという黒楽を大量に見た事があります。 量の多さに驚きました。 焼きは長次郎の黒楽とよく似ていたように思います。記憶では「大黒」によく似たものが多かったようでした。当時京都では茶の湯が大流行したのですね。しかし、それらの黒楽は正直に申しあげてつまらないものばかりでした。 たまたま「大黒」と「俊寛」もそこにあったので、その差が非常によくわかって、いい勉強をしました。 さむしろさんの言われる展覧会も見れば必ず勉強になるはずです。時間があれば行きたいものです。 |
No.145 | さむしろ | 2005-04-01 18:55:57.052678+09 |
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資料によると9ケ所からの出土だそうですが、おびただしい数をみると、おっしゃるように茶の湯は相当に盛んであったようですね。「出土品には使用された痕跡がなく、窯だしの新品に近い状態」で発見されたと説明されています いつの頃どうしてこのようなことをしたのか大いに興味のわくところです。写真を見る限り、いずれもほぼ同時代の作とみます。遠州好みというか遠州七窯時代というか、そんな雰囲気のものは見当りません。ということはそれ以前ということか? 古田織部の死後、織部様式のものが茶会記から消えたとの印象をもっていますが、そこらへんに謎を解く鍵があるのかもしれません。 |
No.146 | したり尾 | 2005-04-02 16:30:46.394641+09 |
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私がかって見た黒楽も殆どが出土品でした。かせていたものも多くありましたが、そうでもないものもありました。かせたものはともかくその他のものは、道入以降のような釉ではなく明らかに長次郎風のものでした。確か説明書きには「利休の時代、都では茶の湯が大流行し、黒楽が出ると人々はたちまちそれを求めた」とあったように記憶しています。その説明が素直に信じられるような焼き物でした。でもゲテモノばかりですヨ。 いずれにしても桃山期である事だけは間違いのないところだと思います。 話はまったく変わりますが、さむしろさんでしたかマスターでしたか和蘭陀茶碗を見たと言われましたね。それはやや小ぶりのどちらかというと遠州好みの茶碗ではありませんか。実は最近カフェ・オ・レ・ボウルなるものの存在を知りました。それが、小ぶりの茶碗そっくりだったもので、あるいはと思ったのです。もっともカフェ・オ・レ・ボウルがいつの時代からあるのか知りませんが。ほんの興味本位で申し訳ありませんが、教えていただければ…。 |
No.147 | さむしろ | 2005-04-02 19:48:45.971924+09 |
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和蘭陀茶碗のことを書いたのはさむしろですが、小さいとも大きいとも特に感じませんでした。ちょうど頃合いであったと思います。用途がどのようなものであったかわかりませんが、時代は結構あるように思いました。 茶の湯の大流行といっても限られた世界での茶の湯ですから、強烈なリーダーの死によって茶の湯も変化していって当然ということでしょう。週刊誌で井沢元彦氏が書いていますが、三千家監修発行の利休大辞典には利休の処罰の理由として@利休キリシタン説 A秀吉毒殺陰謀への加担説 B舟岡山仏台石不敬事件の犠牲説 C秀吉の利休名物所望に対する拒否説 D秀吉朝鮮出兵反対説 E秀吉の征服欲と芸術家利休の不屈の精神の対立説など10の説があるようです。ただここでの話題の中心である織部様式については、その消滅に織部の死が大きく関わっていることは間違いないでしょう。巷間言われているように罪を問われての死であって、身分の高低を問わず古田織部や織部茶陶、織部茶道に関わる事が憚られる事情があったとの説が理解しやすいですね。 |
No.148 | したり尾 | 2005-04-03 17:42:59.384481+09 |
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カフェ・オ・レ・ボウルの歴史についてはコーヒーの専門家に調べてもらう事にします。 織部様式については、さむしろさんのおっしゃるとおり古田織部の死とともに終焉したと言えます。1615年大阪夏の陣で豊臣が滅ぼされ、織部が自刃を命じられ、光悦の鷹が峰拝領となる。すべて偶然同じ年に起きた事ではなく、徳川の世の本当の意味でのスタートであったのです。文化面もふくめて信長、秀吉的なものの全否定です。織部に代表される革新的な文化活動は、事実上禁止されたともいえるでしょう。もっとも桃山期というわずか二十年の間になすべき事はすべてなされたともいえるのです。 |
No.149 | さむしろ | 2005-04-03 17:47:19.643787+09 |
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事実上の禁止をしたのは徳川幕府でしょうね。他にはそれだけの権力は考えられませんから。したり尾さんの言われる「織部に代表される革新的な文化」には徳川の治世のためには害となるものを含んでいたということでしょう。徳川幕府はやがて鎖国へと進んでいきます。広い意味での桃山文化のスタートとなるのが鉄砲伝来、キリスト教伝来とみると、南蛮文化、バテレン文化が桃山文化の形成・発展に与えた影響は極めて大きく、信長の時代にはそうでもないのですが、秀吉の時代になるとキリスト教の禁止措置など功罪の罪のほうにも目が向いてきています。それらの文化が、利休の茶の湯完成や織部様式茶陶の制作にも少なからず影響を与えただろうと想像します。 |
No.150 | したり尾 | 2005-04-04 17:05:20.121979+09 |
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安土桃山時代は教科書流に言えば中央集権体制がここからスタートします。その中で自由都市堺も信長、秀吉によって弾圧され解体されていきます。信長、秀吉などの新興勢力はその力を貯えるうちに安土城に見られるような豪華絢爛な文化を作り上げていきました。それは、当時成立した茶の湯の思想とは一見正反対であるように見えます。しかしその茶の湯は信長、秀吉によって擁護され、だからこそあっという間に大名達に拡がっていきました。思想的には正反対のものが、互いに作用しあい高めていった事がこの時代の特徴の一つであると私は思います。ただし織部陶のような動きの激しいものについては時代の空気を反映していると言ってもいいと思います。 この時代とはどういう時代であるのか、様々な要素があるので一口では言えません。分からない事だらけです。 |
No.151 | さむしろ | 2005-04-04 17:39:07.383689+09 |
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随分前の話ですが、NHKドラマの中で木下藤吉郎が戦で手柄をあげ、信長から茶の湯の釜を授けられ、これで自分も茶の湯ができる、と大喜びをするシーンがありました。当時茶の湯ができるということは大きなステータスだったんだろうと想像できます。また、戦さの褒美に下手な一国をもらうより名物茶入れをもらいたいと言った武将がいたとの話もありますので、当時の茶の湯や茶道具は相当な価値をもっていたようですね。そのようなことから、例えば「今焼きの茶碗」でも特別のものでなければならなかったということがあったのではないでしょうか? |
No.152 | マスター | 2005-04-04 19:00:37.043849+09 |
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よそのサイトに次のような投稿がありました。 「古志野筒茶碗ってほとんど見ないけど数が少ないのか? 橋の絵をモチーフにした志野は数が多いが卯の花垣のような絵のものは見ないなあ。卯の花垣と同じ形で同じ絵付の志野茶碗はあれだけではなく、作られた数はもっと多いはず。だから、あがりは違っても同じ形と絵付けの伝世品が存在しても不思議ではない。同じ手があの一碗だけしかないと言うほうが不自然だよね。」 というものなんですが、こういうふうに考える人が多いんでしょうかね? |
No.153 | したり尾 | 2005-04-05 18:38:01.24478+09 |
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普通に考えれば同じ絵付の茶碗はまだまだあるはずだという気持ちはわかります。しかし実際には後述の利休の消息文にもあるとおり、名品はできた当時から名品ともてはやされ、大事にされたからこそ現代まで生き残ってきたのですね。「大黒」「早舟」がこの世に一つしかないように「卯の花垣」もこの世に一つのものでしょう。だいぶ前にさむしろさんがお書きになっていたように、旧家の蔵の中には私達の想像すらしていないような名品が眠っている可能性はありますが…。 |
No.154 | さむしろ | 2005-04-05 18:46:59.995641+09 |
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安倍安人が言っているんだけど、桃山茶陶にはアーティストの手によるものと職人の手によるものがある。職人は沢山作ってそのうちの出来の良いものを残せばいい。それが1点でも2点でも3点でも。しかし、アーティストは一品のみ。作るのも一つ、焼くのも一つ、出来たのも一つ。その作品の出来がよければ残り、悪ければ壊されて土に還る。このHPで連載中のアトリエ訪問や桃山茶陶の造形と焼成の動画をみていただきたいですね。 安倍安人が嘆いているように、ほとんどの人、専門家といわれる人でさえ桃山茶陶のすべてが、壺や甕や擂鉢と同じように出来ていると思って疑わない。 |
No.155 | したり尾 | 2005-04-05 18:48:38.242099+09 |
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茶碗や名物茶入れなどは一国に値するという話はよく聞きますね。しかし茶の湯についての色々な話は後世の人々によって作られたものが多いので本当のところは分かりません。ただ、名品は当時から是非手に入れたいと所望する人が多かったようです。例えば利休の自筆の消息に次のようなものがあります。 |
No.156 | したり尾 | 2005-04-05 18:52:09.841805+09 |
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此暁三人御出きとくにて候とか く思案候に色々申被下候ても不 調候我等物を 大黒を少庵にと らせ可申候はや舟をば松賀嶋殿へ 参度候 又々とかく越中サマ御心へ 分候はではいやにて候此理を古織 と御談合候て今日中に御済あるべく 候 明日松殿は下向にて候何にと も早舟事ぞうさなく候是もむつ かしく候越中殿へも心へ候て右 如申候 はや舟をば飛もし参候 大ぐろを少庵に可被遣候事乍迷 惑 其分にすまし可申候巳上か しく 十九日 両三人 まいる ここにある越中とは細川です。「大黒は少庵にやる事にしたので、細川がほしがっても渡す訳にはいかないと言っています。名茶碗を皆がほしがっている様子がわかります。 |
No.157 | マスター | 2005-04-06 18:13:36.642188+09 |
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利休所持ゆえにほしがったのか、利休所持でかつ長次郎造の名品だったからでしょうか?つまりこの当時すでに長次郎造というだけでの評価もあったのか?ということですが。 |
No.158 | さむしろ | 2005-04-06 18:17:13.297867+09 |
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長次郎は二人いるという説があるし三人だという説もある。ある本では長次郎は1589年没となっている。 |
No.159 | マスター | 2005-04-06 18:26:08.170705+09 |
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利休の切腹が1591年。とすると、したり尾さんの紹介された大黒、早舟は初代長次郎かもしれないし2代長次郎かもしれない、ということが言えるということですね。 |
No.160 | したり尾 | 2005-04-07 10:06:08.90448+09 |
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長次郎が何人いたのか分かりませんが、利休自筆の消息文で分かる事は「大黒」と「早舟」は初めから名碗で、弟子の細川三斎がほしがったが結局利休は、「大黒」は息子の少庵に、「早舟」は弟子の蒲生氏郷にやってしまったという事です。なお、この手紙では蒲生氏郷を松賀嶋と呼んでいますが、これは氏郷が近江の日野から伊勢の松ケ島へ移封されたためで、またそれが天正15年(1587)であるからこの消息は天正15年以降のものだとわかるという事です。 |
No.161 | さむしろ | 2005-04-07 18:21:56.186475+09 |
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天正14年(1586)10月13日の茶会に、奈良の井上源吾が「宗易形茶碗」を使用したとの記録があるそうです。今、明らかになっている記録では最も古いものだそうです。 |
No.162 | マスター | 2005-04-07 18:28:59.58823+09 |
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ということは、楽茶碗の誕生は天正14年(1586)から大きくはさかのぼらない? |
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