茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ごゆっくり閲覧ください。
No.103したり尾2005-03-21 14:17:02.064481+09
よく分かりました。
ところで、利休のかかわった物も、織部様式と言われましたが、それはなぜですか。
一般的には、利休のかかわったものと、織部とでは随分違うように見えるのですが。
No.104さむしろ2005-03-21 15:47:39.663994+09
安倍安人は、織部がかかわったとされる茶陶と利休の指導によって生まれたとされる長次郎の楽茶碗は、ともに同じ三点展開理論によって形作られているといっています。残念ながらそれらの茶陶を直接手にとって見る機会はないのですが、複数の角度からの写真を注意深くみると、安倍安人の主張と附合することがわかります。そのことから造形的には長次郎の楽茶碗と織部様式茶陶は同種、同根であって、その意味でひとくくりに織部様式といっています。ただ、この織部様式という言い方は広く認知されたものではありません。一部のものがかってにつかっていると理解していただいとほうがいいでしょう。
No.105したり尾2005-03-21 16:34:06.646913+09
さむしろさんが言われていることは、「窯辺談論」のうち、門脇満さんの書かれた「安倍安人の『理』と『ロマン』」の趣旨を指すわけですね。
No.106さむしろ2005-03-21 18:23:53.714021+09
「安倍備前の造形と焼成考」のほうですね。
わたしはできるだけ単純化したほうが理解しやすいと思っています。
遠州や不昧の資料のなかに、紙に道具の形・寸法を書いたものがありますが、それによって注文したと思われます。このことは、遠州や不昧の指導によるものは紙に形・寸法を書いて送ればできるものであったということを示しています。
ところが、長次郎を含めた織部様式の茶陶は、写真や現物の一部については手にとってみたであろう近代から現代の著名な陶芸家、人間国宝が挑戦しながら遠く及んでいないという事実があります。
No.107したり尾2005-03-21 20:05:27.08022+09
なぜですか。
No.108さむしろ2005-03-21 22:56:10.595752+09
なぜですか?の対象がなにかわかりませんが、単純化したほうがわかりやすい、の部分について述べましょう。織部様式とそれ以外のものと若干の例外を考えています。「それ以外のもの」の範疇にはいる陶芸職人・作家は数千、数万に及ぶでしょう。そしてそのだれもが主張やこだわりをもっていたことでしょう。それらをいちいち検証しようとしても不可能ですし、その意欲を持たせてくれる作品に出会いません。だから「それ以外のもの」としてひとくくりにすることによって、安倍安人がいうところの「アート」と「職人仕事」と若干の「例外」にわける程度がわかりやすいという結論になります。このことは、個別に興味の対象をもって研究する人がいてもそれを中傷するものではありません。
No.109したり尾2005-03-22 08:45:51.903724+09
曖昧な質問で失礼しました。
伺いたかったのは、なぜ「近代から現代の著名な陶芸家が挑戦しながらも遠く及んでいない」と言えるのかということです。
今、一部お答えいただきましたが。
また、この話は、アートとしての焼き物全般に及ぶのでしょうか。それとも、茶陶に限っての話でしょうか。
No.110さむしろ2005-03-22 10:38:18.18808+09
茶陶に限ってです。他分野のアートについては語るべき見識はもちろん知識もありません。
評価するについてはいろいろな尺度があるでしょうが、金額評価つまりいくらまでなら出せる、いくらまでなら買う人がいるという評価方法がわかりやすいと思うのですが、それによると前に述べたように一方は数千万円、なかには数億円だして動くかどうかというものもあります。他方は高いもので数百万円、多分数千万円という額はでてこないでしょう。このような視点にたてば評価の差は歴然でしょう。とはいっても、だれだれの作が好きだという御仁もおられるでしょうが、それは人それぞれですからご勝手にというしかありません。著名な美濃もの作家がいますが、写真で見る限りですが、どうしてもいじくりまわしているだけとの印象がぬぐえません。とにかく「ほしい」と思えないんです。
No.111したり尾2005-03-22 10:52:25.321925+09
現代の陶芸家についてのご意見は、よく分かりました。
ところで、茶陶に絞るというお話ですが、しかし、茶陶の成立について、当時の文化状況、経済状況、あるいは政治状況など、周辺の状況を語らないわけにはいかないと思うのですが、いかがでしょうか。
No.112さむしろ2005-03-22 13:39:36.862259+09
あの時代、何のまえぶれもなくいきなり楽茶碗や織部様式の茶陶がでてきたわけですが、これはどのように理解したらいいんでしょうか?
たとえば矢筈水指のモデルとなるものがあったんでしょうか?
No.113したり尾2005-03-22 15:47:57.11116+09
矢筈は難しい。これは説明のつけようがない。考えます。
楽については、さむしろさんとは別の観点から不思議に思っていました。
なぜ、あの時代にあんなに焼きの甘いものが出てきたのだろうという疑問です。誰も、古い楽の破片を持ったからといって喜びませんものね。
また、楽に関する限り、箱があって、伝来があって初めて価値が出てくるので、裸では相当の作家のものでも二束三文です。つまり、作品のよさではなく、誰が所有していたかということに意味がある。焼き物としての価値は、ほとんど認めていないということです。おかしなことだと思われませんか。
さむしろさんの次の質問は、次の機会に話しますが、当時の政治状況や経済状況抜きには、その理由は語ることができないだろうと思います。
No.114さむしろ2005-03-22 23:22:57.534466+09
茶碗は茶を喫するためのものであり、普通に考えれば飲みやすいものを求めるはずです。ところが、あさがお形茶碗と比べてけっしてのみやすくはない楽茶碗がうまれた。矢筈水指にしてもけっして使いやすいものではない。民芸においては「用」の美などと言ったりするけれども、「用」の見地にたてばまったく反対の極にたっている。そしてその使いにくさは何の疑問もなく(なかったであろうとの推測)現在までうけつがれている。
わからん。
No.115したり尾2005-03-23 09:00:31.050022+09
「飲みやすいものを求めるはず」というさむしろさんのはじめの一行で、気がついたことがあります。
よく言われていることですが、利休は、(正確に言えば、もう少し前からその動きはありましたが)それまでの価値観を逆にしてしまった。広い華美な「広間の茶」から、狭く遣いづらい田舎屋を模した「茶室」へ。しかも入り口は、屈まないと入れない。
道具も、使いやすいものからあえて遣いづらい形のものへ。
キーワードは、従来の世俗的で貴族的な価値の否定というところにあると思います。(その背景には、町人社会の台頭、経済活動の本格化があることは、その他の例からも見て取れます)
このように制限を設け、敢えて難しくすることは、茶道以外にもしばしば起こることで、例えば芭蕉が、「世俗的な俳諧」から「俳句」へ高めていくときも、似たようなうるさい決まりを作っています。
その精神を十分に理解し、使える者しか使えない形にしてしまうということです。「遊び」から「精神を高める場」への変化です。
大まかに言えば、この説明は大きく違っているわけではないと思います。
では具体的になぜ「矢筈」の形を選んだのか、その原型は何かと問われると、分かりません。その筋の専門家がいるはずですが。
No.116さむしろ2005-03-23 14:22:00.618191+09
そうなんです。青磁なんかも砧より珠光青磁など侘びたもののほうを評価するようになっていっています。竹を切って花入れをつくるというのも同じ線上のものだろうと思います。この当時利休は「侘びて、慎ましやかで、驕らぬ」さまを茶の本態としていたのかもしれません。秀吉への反発も多分にあったと思います。あるいは秀吉への反発がこのことを加速させていったとも言えるかも知れません。
No.117したり尾2005-03-24 13:00:57.153052+09
なるほど。秀吉への反発は、個人的なものですか。それとも、経済活動の中心にいた堺の納屋衆としての反発ですか。
話は変わりますが、昨夜から今朝にかけて、久々お酒に飲まれまして、ふらふらです。少し寝ます。
No.118さむしろ2005-03-24 14:24:32.061846+09
普通は酒を飲むんですが、酒に飲まれたんですね。とりあえず体調を戻して下さい。
政事についてもあったのでしょうが、唐物名物や金ぴかに飾りつけようとする、「秀吉の茶の湯」に対する軽蔑であったか反発であったか「茶の湯とはそんなものではないよ」という利休の思いは一貫してあったんでしょうね。
No.119したり尾2005-03-24 16:50:58.874676+09
しばらく考えてみましたが、私には、秀吉というよりも足利の美意識に対する抵抗感があったのではないかと、思えてきました。
利休の消息などを読んでも、秀吉に対する恩義こそあれ、抵抗感は見受けられません。
なにしろ、秀吉によって大茶人に取り上げられたのですし、一見無理な注文も、逆にそれをうまく取り入れて立派な茶会に仕立て上げてしまうのですから。また、随分お金も儲けさせてもらっているようです。
秀吉は政治面で、利休たちは文化面で室町時代を終わらせていったともいえるのではないでしょうか。
No.120さむしろ2005-03-24 22:06:14.586911+09
 もちろんいろんな要素があって、これと決めつけることはさけなければいけません。
 室町の唐物による書院茶に否定的であったことは確かでしょう。この書院茶に対し侘びた風情、侘び道具をとりあげたのが村田珠光ではなかったかと思います。侘びへの傾倒をより進め、侘び茶を完成させたのが利休であることに異論はないでしょう。利休の秀吉への恩義は恩義として二人の間にいろいろな確執があったといわれています。例えば黄金の茶室、黒茶碗、朝顔の花をみたいという秀吉を迎えるのに、すべての花を摘み取りただ一花を床に活けて迎えた。また利休の一番手の弟子である山上宗二の惨殺。最後に利休の切腹とつながるほどの確執があったことは間違いないでしょう。主に対する従の立場と茶の湯者としての信念のはざ間にいて、秀吉との関係が抜き差しならないところまで進んでいったのではないでしょうか。
No.121したり尾2005-03-25 09:30:22.536796+09
さむしろさんの、はじめの問題提起は、「なぜ、矢筈口ができたのか、なぜ、使いづらい茶碗ができたのか」ということでした。
ですから、そのことについては背景として、室町的な美意識の否定があるように思われると考えたのです。
利休と秀吉との関係は、また、別の次元の話のように思うのですが・・・。
No.122さむしろ2005-03-25 10:11:00.686054+09
121の思いでいたのですが、119から秀吉と利休へ行かざるをえないと考えたしだいです。
室町的美意識の否定の意識があったとは思いますが、まったく新しい造形が生まれた理由にはならないと思うんです。変化や新しいものを受け入れやすい環境ができた素地とはなったとは思いますが。
造形的にはなにもないところにいきなり新しい造形が生まれたと理解したいと思います。それもたんなる思いつきあるいは既存のものを変化させてといったものではなく。
No.123したり尾2005-03-25 15:27:42.67792+09
さむしろさんが言われたとおり、私は、環境といいますか、思いといいますか、茶の湯の考え方の成立の理由の説明しかしていません。なぜ、あのような造形が生まれたのか、それは推測しかできません。
利休型の茶碗は、利休が古くから所有していたとされる黄瀬戸にあるだけです。この茶碗は見たことがあります。これが利休茶碗の原型であるならば、話は簡単です。しかし、原型であるという説を聞いたことはありません。
しかも、黄瀬戸茶碗は、確か、轆轤弾きであったと記憶しています。
なぜ、楽茶碗は、そもそも手捏ねなのか、なぜ、あのような特殊な窯で作られたのか、そして、なぜ、あのような形なのか、いくつかの推論はありますが、確たる証拠のある議論は知りません。
古い時代の作品は、書き物が少ないので訳が分からないところがあります。同時代の屏風絵などでは、随分研究が進んでいてある程度納得のいく説明がなされているのですが、お茶の関係のものは伝説ばかりが多く、理論的な説明がなされていないのが現状です。
No.124さむしろ2005-03-25 18:12:51.446961+09
しょせん推測しか出来ないだろうとは思います。長次郎の黒楽茶碗「俊寛」のようなものがいきなり出てきたとは思いにくい。その前段階に赤楽「道成寺」や同じく赤楽「勾当」のような茶碗があってそれが進化した、という推測は出来ませんか? 天正8年の利休の茶会に「ハタノソリタル茶碗」がつかわれたとの記録があるようです。
No.125したり尾2005-03-25 18:49:51.482253+09
推測といいながら、説得力のあるものであるならばそれはそれでいいのですが、曖昧な憶測では具合が悪い。できる限り、証明できることまで証明したいと希望しています。
ところで、楽茶碗の話です。私ももちろん匂当や道成寺が、初期のものであろうと想像します。そのあたりまでは、一般的な意見に従います。
素直に読めば「ハタノソリタル」は、そうした赤楽を指すのでしょう。
No.126さむしろ2005-03-25 20:11:46.631355+09
それはそうですが、あまりに窮屈になりすぎるとものが言えなくなりそうです。
そこで道成寺や勾当が長次郎の(最)初期のものとして、長次郎の典型的黒楽(胴を気持ちしぼって腰の部分が外へ張っている形)にいくのにもう一段階も二段階もありそうな気がします。赤楽茶碗で「曲水」と「白鷺」の二つの茶碗があります。ともに腰が丸くなってそのあと口縁までほぼまっすぐにあがっています。口辺のつくりはよくわかりませんが単調にみえます。そしてともに高台は無釉です。
No.127したり尾2005-03-25 21:43:01.252985+09
それは手元に写真がありませんので分かりませんが、高台に釉薬がかかってないのなら、長次郎物としては初期の作品ですね。
「憶測・・・」の件ですが、しがしばHPには、憶測や悪意に満ちた捏造記事が多く、しかも本人が消さない限り永遠に残ります。
HPの価値を高めるためにもそれだけは避けたいと私は心がけています。このような発言をしたのは、そういうわけです。
No.128さむしろ2005-03-26 13:26:31.666918+09
なるほど。仮説、推測であることを断っての意見ならどうでしょう。
推測ですが、「曲水」「白鷺」は長次郎の「道成寺」「勾当」に次ぐ時代のようにみえます。そのあと俊寛などに発展していくのに大きなひらめき或いは影響を受けるなにかがあったという気がします。
No.129したり尾2005-03-26 16:54:47.894119+09
いちいち仮説、推測と断る必要はありませんが、ご自分の意見なのか、誰かの意見なのか、それとも事実か、明確に伝わればいいのではないでしょうか。
そして、万が一、間違いをした場合、間違いであったことを明らかにすればいいと思います。私的な会話ながら、公の場ではあるのですから。
ところで、お説には、今の段階まで賛成です。
さて、これがなぜ、「俊寛」などへ変化していくのか、閃きがあったとすれば、それは利休か長次郎か。謎ですね。
ところで、NO123で紹介した利休所持とされる黄瀬戸との関係は、どのようにお考えになりますか。
No.130さむしろ2005-03-26 18:21:00.631986+09
長次郎一人の作意とは考えにくい。あの時代に一介の瓦職人が茶の湯の茶碗をつくるということは恐れ多い事であっただろうという気もします。
時系列的に黄瀬戸が先であれば、白鷺・曲水には大いに影響があったと考えるほうが自然かと思います。
道成寺は朝鮮ものの熊川茶碗によく似ています。なにか参考になるものがあったというほうが自然でしょうね。
No.131したり尾2005-03-26 18:45:58.653364+09
黄瀬戸茶碗は、形の上では見事に口が内側に曲がっているのです。
展覧会の説明では利休所持とありました。
ですから、形の上では初期長次郎の作柄とは随分違います。一番近いものは「俊寛」あたりの形です。ただし、胴の辺りに轆轤目がありました。
実物を見て、たいへん驚いたことを記憶しています。
さて、どうでしょうか。
もうひとつ。長次郎が瓦職人であったということは、既に誰かによって確認されたことなのですか。瓦職人である可能性があるということまでは、何かで読んだことがあるのですが。
No.132さむしろ2005-03-26 23:28:41.938772+09
長次郎が瓦職人であったであろうという記載はありますが、そうであったあるいはそうでなかったとの記録は知りません。また、長次郎を名のったのも一人ではないとの説もあります。
俊寛の口造りは完成されているとの認識でいますが、その前提で考えると、曲水、白鷺のあとに太郎坊、無一物などがあり大クロへと進化していったと考えるほうが無理なく受け入れられます。黄瀬戸と俊寛が造られたころの楽茶碗とは形は似ていても造形的に決定的な違いがあると考えています。
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