茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ごゆっくり閲覧ください。
No.73マスター2005-03-15 21:44:05.312067+09
そうでしたね。あれはすばらしい文章でしたね。安倍さんの壺中居の個展の頃だったように覚えています。
No.74さむしろ2005-03-15 23:08:20.218756+09
久しぶりに読み返してみたくなりました。図録をおもちなら拝見したいですね。
No.75マスター2005-03-16 08:26:51.263214+09
どこかにまだあるはずです。あとで捜してみますが、散らかしていますので見つかるかどうか。努力します。
No.76さむしろ2005-03-16 19:20:32.726624+09
楽しみにしてまっています。
きょうは、先日来やりかけていた仕事の仕上げで小倉に行ってきました。親友に頼んで目的地まで車で送り迎えをしてもらい助かりました。多少時間があったので喫茶店に入り、その親友が最近手に入れた茶碗をみせてもらいました。一見して「斗々屋」とわかる茶碗でした。よく焼き締まった伝世のいい茶碗です。形はキリッとして、見込み、口縁、高台もいいです。本や美術館でしかみることの出来ない、極めて少ない茶碗をながめながらのコーヒーでした。もう一碗珍しい茶碗がありました。これは初めてみましたが、なるほどとうなづけるものでした。これは明日紹介しましょう。
No.77したり尾2005-03-16 22:17:20.265814+09
それはいいものを見ましたね。うらやましい。
その珍しい茶碗のご紹介も楽しみです。口ぶりから察すると、やはり高麗茶碗ですか。それとも、唐津あたりかな。場所が場所だから、勝手にいろいろ想像しています。
焼き物は、美術館のようなところでガラス越しに観ても結局本当のところは分からず、いつも歯がゆい思いをしています。いいものは、やはり手にとって観なければね。
No.78さむしろ2005-03-17 09:58:51.153425+09
もう一つの茶碗というのが和蘭陀と言っていいと思いますが、染付けの茶碗です。染付けは非常にいい呉須で、初期伊万里風の菊花、虻、山水が描かれていました。ボディはトロンとしておぼこい感じです。和蘭陀の葉たばこの水指は有名ですが、茶碗は初めてみました。数寄者の茶席で出てくれば、うーんとうなりそうなものでした。
No.79したり尾2005-03-17 10:42:45.020935+09
ぜひぜひ観たいですね。
和蘭陀茶碗となると、見当がつかない。安南などではなくて?
箱には何かありましたか。
No.80さむしろ2005-03-17 13:31:10.651447+09
安南はそれでも結構キリッと焼けているし、形もそこそこキリッとしているとの印象です。和蘭陀はやはりオットリした感じがします。和蘭陀だからこそオットリ感が許せる気がしました。日本、中国、朝鮮のものであれば多分許せないでしょう。箱はなかったそうで、取りあえず合う箱に入れたといっていました。
他のものとの取り合わせでいきる茶碗だろうと思います。つまりホッとさせてくれそうな茶碗です。
No.81したり尾2005-03-17 17:14:43.931735+09
もちろん、斗斗屋のほうが焼き物としては上等なのだろうと推察します。
しかし和蘭陀は珍品ですね。図柄からすると、やはり注文したものでしょうね。考えてみると贅沢です。
世の中には、まだまだ、知られざる名品、珍品があるのでしょうね。
あるいは、実は世に出ているものよりも、どこかのお蔵のあるもののほうがすばらしいものがあるのかもしれない。などと、妄想しています。
No.82マスター2005-03-17 17:52:56.441157+09
いやいや妄想ではありません。ある旧家の蔵の奥に伊部水指の大名品がある、と安倍さんがよく言っておられます。まだまだあると思いますよ。
中国の焼き物がヨーロッパに渡ってチャイナといわれていますよね。日本からもたくさんの伊万里が渡っている。ヨーロッパには磁器がなかったのでたいそう珍重された。そのうちにこちらで作ってしまえとなって磁器を焼き、渡来のものを手本にして絵柄をいれてしまった。そんなところのようです。そんなものがいつの時代か日本に渡って来たということなんでしょうね。
No.83したり尾2005-03-17 18:18:11.73482+09
しかし、茶碗となると向こうでは使いようもないわけですから、大名か大商人か注文したということもある。
畠山美術館にある葉水指も、オランダには似たようなものはなく、日本からの注文作品かもしれないという説もあります。御所丸などの例もあるのですから、あるいは、さむしろさんがご覧になったその茶碗も注文品かもしれないと、想像しています。
なにしろ、あの時代は何でもありでしたから。

マスターが、今言われた蔵の中の名品の話。
誰にも見せず、密かに何代も何代も伝わっていく。だからこそ後世に残っていくともいえるし、世に出さなければ、そのまま消えてしまうこともある。
摩訶不思議な世界ですね。
No.84さむしろ2005-03-17 22:07:50.92584+09
注文によっていろいろなものが招来されていますが、わたしが見た染付茶碗は注文ではなく、食器の一つとしてつくられたものだろうと思います。
No.85したり尾2005-03-17 22:21:13.096597+09
なるほど。とすると、あまり大きくない?
日本に入ってきたのは、それほど昔ではない?
明治以降ということですか。
食器としては、何に使ったものですか。洋食はあまり得意ではないもので想像しにくいのです。
No.86さむしろ2005-03-18 09:55:14.324425+09
大きさはちょうど抹茶茶碗にいい大きさです。いつの時代に渡ってきたものかについてはまったくわかりません。染付けの顔料である呉須について、出川さんの新しい本に載っているかもしれないのでみてほしいのですが(初期伊万里、伊万里の項に載っているのではと想像します)、初期の時代にいい発色の呉須が使われていますが(たいそう高価であったらしい)、そのようないい呉須が使われていました。
No.87したり尾2005-03-18 18:52:16.852007+09
ごめんなさい。彼岸なので墓参りなどをしておりました。
出川さんの本を調べてみましょう。しばらく、お待ちを。
No.88マスター2005-03-18 22:44:23.14498+09
そうでしたか。
きょう、苫ちゃんから電話がありました。早い機会にコーヒーを飲みにきたいとのことでしたので、もう少しまちましょう。
No.89したり尾2005-03-19 08:22:57.067296+09
出川さんの本は、分類の仕方が今までのものとは随分違うので、染付けの話は書いてあるのでしょうが、ざっと見たところ分かりません。ともかく、分厚いものを全部読んでしまわないと、具体的に何がどこに書かれているのか何ともいえないのです。ごめんなさい。

それから苫さん、待っていますよ。
No.90さむしろ2005-03-19 15:59:51.759222+09
古い(江戸初期以前)ものに共通しているんですが、いずれもキチッと焼けていて、それが魅力の一番手だろうという気がしますがどうですか?そうでないと江戸初期以前の美濃ものや唐津の発掘品を夢中になってほしがる人はいないし、ぶち割れの破片に数千円、数万円の値がつくはずがない。決して「桃山」という時代の響き、耳障りのよさだけではないと思うんです。
No.91したり尾2005-03-19 16:13:00.032926+09
賛成です。何しろ、焼けが一番です。時代が下がるに連れて、釉薬が発達し、融点が低くなり、だから焼きが甘くなる。
進歩って一体なんでしょうね。焼き物に限らず、ほかの分野でも不思議になることが多々あります。
No.92さむしろ2005-03-19 18:54:12.506552+09
釉薬を焼くための”焼き”になってしまって、ボディが焼けているかどうかについては関心がない。その悪しき風潮は、焼き締め陶といわれる備前、伊賀、信楽なども”焼ききる”ことに無関心になってしまっている。
No.93したり尾2005-03-19 20:22:45.876084+09
そのとおりですね。
また、土も焼きやすいような土が開発され、窯も電気窯、ガス窯と誰でも焚けるものが開発される。
すると、素人でもある程度のものなら作れるようになる。私の周りにも、自分の作った食器で暮らしている人が何人もいますよ。
こうして、産地は廃れていくのです。どこか、おかしいとは思うのですが。
先ほど、書いたことをもう一度。進歩って、何ですかね。
No.94さむしろ2005-03-19 23:24:55.254973+09
進歩とはバイパスとみつけたり。目的地に早く着けばよい。
ただ、ヤキモノの場合、まるっきり違うところにたどり着いているのに、そのことに気がつかない。
なんていうのはどうでしょう。
No.95したり尾2005-03-20 09:06:54.714689+09
桃山時代以降の焼き物の状況の変化をあえて「進歩」ととらえてみれば、次のようなことがいえます。
「大量」に、しかも「安価」に「より多くの色」で誰でもが手に入れられるようになったこと。その結果、多くの日本人が食器として焼き物を利用できるようになったこと。(利休の時代あたりまでは、食器は木製品でした)
また、工業面で見ればニューセラミックス、ファインセラミックスに代表されるように思いもかけない分野に焼き物が利用されるようになったこと。
そうしたことは、もちろんいいことです。「進歩」というべきでしょう。
しかし、美術の分野では話は別です。
昔から、焼き物は壷などにみられるように工業品としての役割もありました。
しかし、そのことと美術品としての役割が混同されてしまった。
今、多くの作家といわれている人々は、焼き物に美術品としての役割を求めています。
美術品としての焼き物は何であって、どうしていくべきか冷静に考えてみれば、まだまださまざまなアプローチがあるような気がします。
売れるとなると、すべてが同じ方向に走ってしまう。そこが不幸の始まりではないでしょうか。
安倍安人の問題提起は、その辺りにあるように思います。誰もが安倍安人になる必要もないのです。
No.96さむしろ2005-03-20 12:42:17.672955+09
う〜ん。
安倍さんは、広く(時代的にも地理的にも)ある焼き物と桃山時代(江戸初期も入る)の極一部茶陶(織部様式茶陶)を一緒くたにするからわからないんだ、と言ってますよね。その意見にのっとって考えたほうが理解しやすいように思うんですが。
No.97したり尾2005-03-20 15:19:52.826691+09
焼けだけで言えば、NO.30でさむしろさんが言われていたとおり、江戸初期まで、つまり登り窯が出てくるまでは日用品でもきちんと焼けていたのでしょう。だからこそ、破片でも欲しがるというのは、そのとおりです。
安倍安人の言われるところのものは、美術様式の問題であろうと思います。もちろん、焼きも、それを表現するために重要な要素ですが。
No.98さむしろ2005-03-20 16:37:46.759456+09
「進歩」とか「美術品」とかがつくと、どうもよくわかりません。
桃山茶陶のうち織部様式のものも本来はお茶のための「道具」であったはずです。ただそれまで(当時も)茶道具の主流であった唐物とともに用い、あるいはそれらにとって代わるべく作られたものであり、一国の主や豪商達の時の権力者が頭を下げて扱うものであることから、それらの道具は特別なものである必要はあっただろうと推測します。しかしそれらの一品ものも織部の死とともに消え、また忘れ去られていきます。ただ「桃山茶陶のうち織部様式のもの」をアートとすることに異議はありません。いつ頃から始まったのかわかりませんが、千家に十職がいてそれぞれ茶道具をつくっています。十職のことを職方ともいい、すくなくともこれらの作品については「美術品」といった概念では捉えていないのではないでしょうか?遠州以降の陶磁器、茶道具についても「美術品」との捉え方はしていなだろうと思います。あくまで、お茶のための道具であったはずです。
美術品としだしたのは近代になってからではないでしょうか。
No.99したり尾2005-03-20 17:58:18.057698+09
「美術品」という言い方は誤解を生みますね。すみません。
茶道具にせよ、軸物にせよ、あるいは仏像など社寺仏閣の様々なものにせよ、特別な「美」を意識していたと、言い直します。
確かに「美術品」という括り方をしてしまったために美術館や博物館のガラスの向こうに置かれてしまったのですから。
そんなものではなかったはずです。「美的な生活のための道具」というところでしょうか。日常生活とは違うものですから。
これも、だいぶトンチンカンでしょうか。
No.100さむしろ2005-03-21 08:26:24.953625+09
そうですね。非日常のもの、特別のものであったのでしょうね。ただ、利休の楽茶碗、織部様式のものが利休、織部の生存中にうけた評価と、遠州以降につくられた茶碗などがその時代にうけた評価の質には相当な開きがあっただろうと想像しています。
No.101したり尾2005-03-21 09:36:08.745416+09
どのような評価の質のひらきがあるとお考えでしょうか。
そして、それはどのような根拠に基づくものでしょうか。
No.102さむしろ2005-03-21 13:18:10.501593+09
オートクチュールと既製服の違いといったところでしょうか。ただ、現在では既製服も上等、中等、下等と幅広くありますが、遠州以降においても「お茶」は限られた身分の者たちのものであり、道具の質については、現代の既製服ほどの幅はなかっただろうと思うんです。
織部様式のものでは、例えば伊賀花入れ銘「生爪」のように、上田宗箇から是非ゆずってほしいと懇願された古田織部が「生爪をはがされるような思い」でこれに応じた、といった逸話があります。遠州以降のものではそのような話しを聞いたことがありません。
遠州蔵帳、雲州蔵帳において上位におかれたものは唐物、高麗ものであり遠州七窯のものがわずかにその名をとどめている程度です。
そして現代においては、織部様式(利休・織部がかかわった茶陶)茶陶の評価は数千万円から数億円と評価され、他方は数百万円、それも伝来書付が揃っての評価ではないでしょうか。
高い評価をされるものとしては例外的に仁清や乾山といったところでしょう。
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