茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ごゆっくり閲覧ください。
No.1035したり尾2006-06-23 16:22:25.66941+09
織部陶をこんなに広く定義することには当然抵抗があるでしょう。敢えて幅を広げてみたほうが議論がしやすいかなと考えて、織部時代に制作された織部様式に当てはまる全てを仮に織部陶と呼んでみたのです。あくまで仮にです。
No.1036さむしろ2006-06-23 20:16:54.992281+09
個人間の対話で、いち度定義づけをして「織部陶」を使うのはいいでしょうが、他からの訪問者が圧倒的に多いこの「ものはら」で「織部陶」を使うことには賛成できません。

「織部陶」の文字面だけからでは「織部焼き全般」と同義にとられかねない、あるいは同義ととるほうが普通かもしれないので、訪問者には却って話をわかりにくくすると思うからです。
No.1037したり尾2006-06-23 20:52:00.987066+09
さむしろさんの指摘されたとおりですね。その部分は撤回します。失礼しました。
そのほかの部分はいかがですか。
No.1038さむしろ2006-06-24 13:23:19.457186+09
なまいきを申しました。

そのほかの部分こそ最も知りたいところです。
今段階では宗易形茶碗が最初であろうとの考えは同じです。ただ、楽の黒焼きと瀬戸黒の先後も大変重要です。瀬戸黒の引き出しによる制作技法が黒楽の制作につながったとの話もどこかにあったような気がします。
No.1039したり尾2006-06-24 19:11:40.629827+09
そういえば、そんな話を聞いたこともあったかもしれません。
待てよ、古瀬戸ではなかったでしたっけ??
古瀬戸であるなら辻褄が合うのです。
No.1040さむしろ2006-06-25 20:28:46.382754+09
「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」にこんな記載もあります。

尼ケ根窯出土の黒茶碗も轆轤成形のやや小振りの茶碗で、形は後に出現してくる箆削りを加えた作為的な瀬戸黒茶碗と違って、長次郎焼の茶碗とどこか趣きの似通った半筒形の腰のまるいつつましやかな作振りである。この碗は考古学的な考察によると天正十年前後の作と推定されている。

茶会記に現れる「瀬戸茶碗」について、使用年、頻度を調べてみる必要もありそうです。
No.1041したり尾2006-06-26 13:41:39.280597+09
流れとしては大体それでいいように思えます。瀬戸黒は明らかに織部時代のもののように見えますから。
いずれにせよ、長次郎焼は技術的な問題でいくらかは瀬戸茶碗の影響を受けていたのかもしれませんが、歴史の新しい一ページを開いたことに違いはありません。
No.1042さむしろ2006-06-26 21:38:33.911835+09
手元の茶会記資料によると、
1558 亭主・納屋宗久 志野茶碗
1570 亭主・納屋宗久 志野茶碗
    (*ひヽきわれらの茶碗よりこまかに覚候、なりそへに有之、あめふくりんふかし、土紫也、茶碗うすく候、われら茶碗より少也、)
以後、1571 志野茶碗、 1572 瀬戸天目、 1572 瀬戸茶碗、 1575 志野茶碗、
1579 黒茶碗(薄茶)
1580 千宗易 ハタノソリタル茶碗

などとあります。NO1019で「1597年以前の層から志野が出土していない・・・」との記述の紹介をしていますが、即「おかしいじゃないか」とはならないほうがいいと思います。 
No.1043さむしろ2006-06-27 12:38:50.537167+09
武野紹鴎所持といわれる瀬戸白天目茶碗(室町時代)や他にも天目形の志野茶碗がありますが時代は少し上ると思います。あるいはこれらを指しているのではないかと想像します。
No.1044したり尾2006-06-27 13:44:54.626299+09
さむしろさんのおっしゃる意味は、宗久の「志野茶碗」は、今一般的に言われる、例えば「峯紅葉」のような志野とは違うと理解すればいいのですね。
とすると、大萱あたりの窯では比較的古くから、白濁した釉薬を使った焼き物は作られていた。それが織部時代になり、今に伝わる様々な名品が作られるようになった。そのように理解すればいいのでしょうか。
No.1045さむしろ2006-06-27 17:48:00.481987+09
大萱のあたりか瀬戸のほうなのかわかりませんが概略そういうことです。

1579 黒茶碗(薄茶)も興味あるところです。
また、
1583 亭主・宗栄 せと茶碗
1585 亭主・古田佐介 瀬戸茶碗
1585 亭主・上院ノ乗春 セト茶碗(薄茶)
1586 亭主・曲音 セト白茶碗
1586 亭主・草部屋道設 瀬度茶碗
1586 亭主・中坊源五 宗易形茶碗

とあり、瀬戸茶碗が増えてきます。
No.1046したり尾2006-06-28 09:48:26.332038+09
焼き物に関する限り、当時の「瀬戸茶碗」という呼称が、現在の瀬戸地方の生産品をのみを指しているのか美濃地方の生産品まで含まれるのか詳しいことは知りません。ただ、そのあたりが曖昧だなと感じることは時々あります。
いずれにせよ、あの辺りが既に鎌倉期から焼き物の産地であり、中国の焼き物の模倣のようなものを数多く生産していました。かなり先進的な技術がここに蓄積されていたことでしょう。
また、信長、秀吉のテリトリーでもありました。
ですから、当時、焼き物の技術が瀬戸から京都へ持ち込まれたと考えても何の問題もありません。
だから、やがて、逆に京都から瀬戸へ焼き物の思想が流れていってもおかしくはないのです。
No.1047さむしろ2006-06-28 12:49:31.215757+09
京都から瀬戸へ焼き物の思想が流れても勿論おかしくはありません。それどころかはっきりと確認できないものかと考えています。

仮に1579の黒茶碗(NO1042)が瀬戸(黒)茶碗であって、またこの黒茶碗ではないとしても、1586の宗易形茶碗より前に轆轤引きのあと「造形」を施された茶碗があったのか、あるいはなかったのかを確かめたいのです。
宗易形茶碗と瀬戸黒茶碗の製作の先後をたしかめるヒントが茶会記にないだろうか、ということです。
No.1048したり尾2006-06-28 18:26:50.046355+09
この確認は随分大変だろうと思います。もし楽以前に轆轤挽きでなおかつ造形が施されているものがあれば、やがて発見される可能性はありますが、それは存在しないということを証明することは至難の業だからです。

私は轆轤挽きで造形を施されている茶碗は織部や志野、いわゆる瀬戸黒など織部時代にできたものだろうと考えています。
長次郎焼は完全な手作りで、制作過程はかなり異質です。
それに比べて織部時代のものは轆轤挽きの上に造形を加えています。つまり従来の技術の上に長次郎焼の造形の思想と技術を加えていったということでしょう。
No.1049さむしろ2006-06-28 19:14:04.03274+09
したり尾さんのおっしゃるとおりであろうと思いますが、手造りだから最初に三点展開による造形が可能であったことにはならないのであって、轆轤引きのものに三点展開による造形を行ったとしても矛盾はありません。
宗易形茶碗の出現前に瀬戸茶碗、黒茶碗が存在して、これらが瀬戸黒茶碗である可能性が消えない限り、長次郎楽茶碗が最初のものとは断じられないのではないでしょうか?
No.1050したり尾2006-06-29 08:49:16.340678+09
私の言いたかったことは凡そ次のようなことです。
もし、長次郎の制作以前に造形を施された茶碗があったことが証明されれば問題はありません。
もし証明されない場合でも、長次郎以前に造形された茶碗は存在したが失われてしまったとも言う余地が残ります。
つまり、長次郎以前に造形された茶碗はなかったという証明は非常に難しいということです。
むしろ、問題の鍵は利休以前の造形論とはどんなもので、利休はどのような造形論を構築したかということではないでしょうか。
また、いわゆる瀬戸黒茶碗は動きの大胆さなどから、織部時代以前のものであると言うことは無理があるように思えます。さむしろさんの言われる瀬戸黒が古瀬戸を指しているなら別ですが。
No.1051さむしろ2006-06-29 18:47:04.759364+09
より厳密化していけば、したり尾さんのおっしゃるようになるでしょう。

ただ、宗易形茶碗=長次郎楽茶碗として、この茶碗は、
@長次郎の創意により製作し、利休がこれを茶の湯茶碗として認めた(あるいは取り上げた)。
A利休の創意を長次郎が形にした。
のいずれとも決め手になるものはありません。二人のほかに関わった者がいたかもしれないし、いなかったかもしれません。

また、いきなり生まれたものか、あるいはなにかヒントになるものがあったのか、わからないことだらけです。そのような理由から極力固定しないで記録的に確定したものを動かないものとして色々な仮説をたてて解明に一歩でも近づきたいという思いです。
No.1052したり尾2006-06-30 08:33:39.985977+09
したりおさんのおっしゃる意味は理解しているつもりです。宗易形茶碗がどのような経緯で登場したのか、その秘密を知りたいということだろうと思います。その疑問は私も変わりません。
ただ、私は技術的な問題に重点を置くのではなく、時代状況や茶に対する考え方などにその答えを見出せないかと考えているのです。

技術の問題で言えば、私にとって最大の興味は、なぜ楽独特の窯が誕生したのかという点です。中国に似たものがあるだのないだのいろいろ説はありますが、決定打となるものは知りません。後にも先にもあれだけですから気になって仕方がないのです。
No.1053さむしろ2006-06-30 12:48:26.893563+09
なるほど、お考えの一端がわかりました。わたしは技術的(技法的と言った方がいいかも)な部分からの解明が、わずかかもしれませんが道が明るいと思っていますが、したり尾さんの、時代背景や茶道思想などからの論も待ちたいと思います。

楽独特の窯からあの焼き成りが得られたであろうことはわかりますが、あの造形(の本質)もあの窯ゆえとの考えでしょうか?
No.1054したり尾2006-06-30 17:44:31.842348+09
私の時代論や茶道論など大したものではありません。
ただ、最近様々なの芸術のジャンルで大きく歴史が変わるときに何が起きたか、それまでとは違う新しいものは、どのようにして登場するのか共通項はあるような気がしています。まだまだ勉強中です。

楽独特の窯の件ですが、あの窯と宗易形の成立とは直接的には関係はないでしょう。しかし、全てが他とは違うところがなんとも気になるということです。
理由は何かあるのでしょう。
No.1055さむしろ2006-06-30 19:43:41.734039+09
茶道も今では女性の遊びといわれるところに身を置いていますが、桃山時代は権威の象徴ともいえる程の特権階級にのみ許された「許し事」といってもいいくらいのものであったと思われます。

そうした中で利休は茶の湯について絶対的な権威者であって茶の湯(道具も含)の良し悪しを断じることの出来る唯一の人であったといっても過言でないでしょう。

そのような立場であったからこそ「にじり口」を作って秀吉にも頭を下げさせ、(秀吉が嫌ったとの説もある)黒茶碗を用い、これを広めることができたといってもいいでしょう。このことは利休後の織部にもいえることでしょう。

このような意味で時代背景も大きな要素であると思います。
No.1056したり尾2006-06-30 22:32:20.489741+09
どこの国でもそうですが、歴史は下克上が健全な流れです。
鎌倉期の成立は貴族社会から武家社会への転換という下克上でした。
そして桃山という時代は、結局町人文化の始まりの時代ではなかったかと考えています。その象徴が大町人としての利休であると。
さむしろさんの言われたことも要すればそういうことだろうと思います。
No.1057マスター2006-07-02 17:21:55.862641+09
第1回パラミタ陶芸大賞展が7/1〜8/31の予定で始りました。

パラミタ陶芸大賞展は美術評論家、美術館関係者、美術ジャーナリスト、全国の陶芸画廊198名の方々の推薦により、上位8名の陶芸家が選ばれました。期間中、入館者による投票と主催者の審査により、パラミタ大賞1名、ほか各賞が選出されます。(主催者・財団法人岡田文化財団の挨拶状から)

7/1午後2時からのオープニングレセプションに行ってきました。予想を超える多くの出席者のもと、和やかにまた厳粛にオープンしました。

No.1058マスター2006-07-03 12:49:23.577466+09
安倍安人以外の出品者を順次紹介します。(主催者のほうでは、あらかじめ出品者による抽選で展示順を決めておられました。その順で紹介します。)

田嶋悦子
陶と鋳込みガラスを組み合わせることで、植物の持つ生命感、豊穣のイメージをつむぎ出す作品で知られろ。陶のオブジェにありがちな曖昧さを排した明快なフォルムは、極めて現代的であると同時にエネルギッシュな生命力を感じさせる。
No.1059したり尾2006-07-03 14:34:14.639799+09
紹介途中で申し訳ないのですが、実は私も伺いました。マスターとも久々お会いすることができました。お許しを得て、ここで少々長くなりますが安倍さんの作品の紹介をさせていただきたい。

安倍さんの作品は一口で言えば、空間構成とでも言うべきものです。空間そのものが作品です。
12の水指を台に乗せてチェスのように縦横揃えて等間隔に並べていく。
中央近くの水指は緑や赤の色が施されていて、そこだけスポットライトが当たっているように見え、自然に目がそこへ行きます。
ふと見渡せば、そのほか2つばかりの水指にもわずかに色が施されていることに気づく。
目を上げれば、遠くの正面の壁のやや上方には目を刳り貫かれたキューピーの頭が確か5つ並んで、見えない目でこちらをじっと見ている。
そして、その壁のさらに上にはいくつかのキューピーの体が影のように浮かんでいる。ざっとこんな具合です。
この空間の前に立つと、人は安倍さんによって自然に目の動きを指定されます。
水指は、その意味を捨て去り、空間を構成する物体と化しています。
しかしそれでも水指には違いないし、それでも主人公は水指ですから、意味を捨て去ったことで却って見る者に二重の意味を感じさせます。
空間全体を眺めた後、一つ一つの水指を水指としてじっくり味わってもいいのです。
会場の中で、ここは静かな緊迫感に包まれています。12の水指と書きましたが、私は無数の水指がはるか彼方まで並んでいるような錯覚に陥りました。
これぞ「ANJIN WORLD」というところでしょうか。
私の理解が正しいかどうか、一度お出かけになって確かめてください。
No.1060マスター2006-07-03 18:36:39.995452+09
したり尾さん、わかりやすい解説ありがとうございました。

ものはら別室に会場で撮った写真を載せました。携帯電話での写真でボケていますが見て下さい。

なお当日は四日市で泊まり、旧知の皆さんと食事かたがた一杯やりました。しかし、遠方からこられたある一組のご夫婦は、京都に宿をとったといって会場からそそくさと帰られました。愛妻家なんだな、と理解することにしました。
No.1061したり尾2006-07-03 20:10:02.364285+09
ちなみにPARAMITA MUSEUMそのものがなかなかいいですよ。場所は近鉄 大羽根園駅付近で名古屋から約40分、あまり知られていない場所ですが、そんなに行きにくいこともない。大阪からも東京からも日帰り可能です。
建物も庭もよくできています。
常設は池田満寿夫さんの晩年の大作「般若心経」ですが、これは見ごたえのある作品です。すべて焼き物でできている人物群や文字群で大変な数ですが、飾り付けがいいセンスです。見る価値は充分にあります。ともかくお出かけください。
No.1062マスター2006-07-04 18:47:13.819281+09
内田鋼一

繊細な器から大胆な大壺まで、自在に土を操る制作は研ぎ澄まされた感性の所産である。用の美とオブジェとの境界さえも楽々と乗り越える作品は常に新しい可能性に向かって次々と変化してやまない。
No.1063マスター2006-07-04 18:55:33.082353+09
三原 研

出雲という風土にこだわりつづけ、出雲の土で焼き上げられる器は、土の持つ風合いを生かした「せっ器」(「せっ」は原文では火へんに石)と名づけられている。表面装飾を捨て、手捻りで成形されるフォルムと質感だけによる表現は素朴さの中に独特の魅力をたたえている。
No.1064マスター2006-07-05 14:20:32.046741+09
秋山陽

黒陶を成形してバーナーで表面を焼くという独創的な手法を用いて、土本来のもつ力を露出させる作品は、陶芸という枠に収まりきらない力強さを秘めている。現代彫刻と陶芸の可能性を掘り下げる制作は高い評価を受けている。
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