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No.1065 | マスター | 2006-07-05 19:11:44.993839+09 |
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林邦佳 長年にわたる中国明代の古陶磁の真摯な研究から生み出された「豆彩」「金襴手」などの精妙な色絵磁器は、高い評価を受けているが、「玩具容」と称する磁器による詩的なオブジェもまた、作者の展開する小宇宙である。 |
No.1066 | マスター | 2006-07-06 12:34:46.482707+09 |
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杉浦康益 陶による岩の群を制作することから出発した作家は、次いで陶の木立、陶の花を制作することへと進んでいった。あるがままのかたちに生の息吹をふきこむ作品からは、自然の美に対する陶の存在感を追究する作者の姿勢がうかがわれる。 |
No.1067 | マスター | 2006-07-06 17:17:37.749689+09 |
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三輪和彦 萩に生まれ萩焼を熟知しながら、伝統の現代的意味を問いなおす作業を続けつつ、その枠を飛び越え、現代造形の先端を切り開いていく国際感覚あふれる作品で、造形作家としての力量を高く評価されている。 |
No.1068 | したり尾 | 2006-07-06 17:31:10.605871+09 |
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NO.1057でマスターが書かれたように、この8人は、美術館や画廊、美術評論家の投票によってノミネートされた方々ですから、今、もっとも人気のある8人ということになりますね。 |
No.1069 | マスター | 2006-07-07 20:12:02.540772+09 |
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これまで、このような催しではどのような基準で出品者が決まっていたのか、まったく知りませんが、今回その基準を知ることによって爽やかさを感じましたし、また、オープニングセレモニーに立ち会って、主催者の意気込みを感じました。 しかしこの「大賞展」を育てるのは、いかに多くの鑑賞者が訪れるかであるとも感じました。 |
No.1070 | マスター | 2006-07-09 14:54:48.213069+09 |
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パラミタミュージアムからの帰り、大羽根園駅から近鉄四日市駅までの間、某ギャラリーの店長さんと一緒でした。 車中、店長から、お客さんからこのHPの茶碗をみて「あのような茶碗がほしい」と言われるんですよ、という話がありました。 ここでの写真は”表情”を撮っているので必ずしも作品そのものとは一致しないですよ、といった話をしました。 実はそのとき、店長がいうところの茶碗のことが頭にありませんでした。帰ったあと気付いたのですが、あの茶碗は名品です。代表作の一つと言っていいでしょう。あの手は後にも先にもありません。 そういえばわたしも二三度、安倍さんに、写真をみながら「こんなのができたらほしいのですが」とお願いしたことがあります。当時は、一度出来たのだからまた出来るだろうと思っていました。それがとんでもない考え違いであることに気付くまで数年かかりました。 電気窯なりガス窯なりで釉薬ものを焼くのであれば何個でもとれるのでしょうが、穴窯ではそんな訳にいきません。 |
No.1071 | したり尾 | 2006-07-09 21:38:59.718564+09 |
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穴窯というだけではなく、安倍さんの場合、茶碗に限らす徳利に限らず、二つと同じものは作らないのですから、あれも欲しいこれも欲しいとなったら、過去から未来まで全部買い占めてしまうしかありません。 先日も書きましたが、パラミタの安倍さんのコーナーで私が見たものは、焼き物そのものというより焼き物を素材にした空間構成です。 安倍さんはご自身を造形作家とされていますが、多くは陶芸家と見たり、画家と見たり、あるいは抽象作家と見たりしています。 世間の人々は、安倍さんの全体像ではなく部分部分に触れて、他の面は見ないようにしているようです。 今回の安倍さんの作品は、そうしたものに対する安倍さんの答えであるように思えます。 つまり、部分部分が統合され、造形そのものが姿を現したのです。 本当にしたいことを安倍さんはなさったのでしょう。 そのことをできたことが、安倍さんには今回一番よかったことかもしれません。 私にとっては、安倍さんの感覚がさらに研ぎ澄まされていることを確認できたことが何よりの収穫でした。 前回、やや書き足りなかったもので書き足しました。 |
No.1072 | マスター | 2006-07-10 18:53:57.680067+09 |
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そういう視点で観ると、写真にもう一工夫も二工夫も欲しかったですね。 写真撮りをとがめられないようにということのほうに気がいっていました。 |
No.1073 | したり尾 | 2006-07-10 20:19:42.710571+09 |
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気になさらないほうがいいようですよ。 緊迫した空気を撮ることは、かなり難しいものです。 それにあくまで私の見方であって、正しい見方とは限りません。 皆さんにできるだけ現場にいっていただいて、作品に接していただきましょう。 |
No.1074 | マスター | 2006-07-11 17:34:24.21957+09 |
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そうですね。空間を感じていただくのが一番ですね。 |
No.1075 | したり尾 | 2006-07-12 18:24:44.577434+09 |
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展覧会は今月一杯続きますから、また新しい情報があったら教えてください。 ところで、さむしろさんはお元気でしょうか。 |
No.1076 | さむしろ | 2006-07-12 19:32:26.182531+09 |
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暑さにバテそうになりながらも元気です。あれやこれやと忙しくて、なかなか発言ができません。 でも、急ぎ再開します。 |
No.1077 | さむしろ | 2006-07-13 16:46:47.000691+09 |
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パラミタ関連の話題の前に戻りますが、別室に写真を載せました。 ともに「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」からの引用です。 「尼ケ根窯出土の黒茶碗も轆轤成形のやや小振りの茶碗で、形は後に出現してくる箆削りを加えた作為的な瀬戸黒茶碗と違って、長次郎焼の茶碗とどこか趣の似通った半筒形の腰のまるいつつましやかな作振りである。考古学的な考察によると天正10年前後の作と推定されている。」 と解説されています。 天正10年は1582年で宗易形茶碗が現れたのが1586年です。 |
No.1078 | したり尾 | 2006-07-13 20:24:15.407554+09 |
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確かに別室の写真にある茶碗は、長次郎のものと大変よく似ています。 あの写真だけからははっきりとはいえませんが、轆轤挽きだとしても、その後造形をしていますね。あるいは轆轤挽きではないのかしら。 作り方から、大変大きな謎です。 |
No.1079 | さむしろ | 2006-07-14 20:01:13.916523+09 |
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そうでしょう。 大変興味深いというか気にかけておかなければいけない茶碗であると思いました。 |
No.1080 | したり尾 | 2006-07-15 08:48:00.135532+09 |
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問題は「尼が根窯」出土の考古学的考察であると思います。 具体的には、どのような考察であったのか、なぜ天正10年前後と言えるのか、また前後とはどの程度の範囲なのかという点を知りたいところです。 私が僅かに知っているところでは、考古学では前後数十年の誤差があるはずです。その後、その幅は小さくなったのかもしれません。 歴史学的考察でしたら分かるのです。 |
No.1081 | さむしろ | 2006-07-15 16:10:30.586092+09 |
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確定的なものはなかなか期待できないので、複数の状況資料から推察するしかないでしょうね。 例えば、正確な記憶ではありませんので後日確かめますが、「黒楽茶碗は瀬戸の引き出し黒からヒントをうけた」といったたぐいの記述です。 |
No.1082 | したり尾 | 2006-07-15 19:13:04.463132+09 |
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ここは、一連の議論の中でもっとも重要なポイントですので、慎重な調査をお願いします。 私としては、尼が根窯についてあまり詳しくないので、ある程度の情報も欲しいし、この際、この文章を書かれた方も知りたいところです。ある程度、知れた方なら、他の著作などから考古学に明るい方なのかどうか判断の材料になるからです。 |
No.1083 | さむしろ | 2006-07-16 19:57:57.308266+09 |
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わかりました。今夜、本のほうをもう一度読み直してみましょう。 |
No.1084 | さむしろ | 2006-07-17 12:13:04.242931+09 |
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出典は「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」中、林屋晴三「桃山の茶陶 −その造形の展開ー」の項の中に出ています。 尼ケ根窯については、美濃小名田の尼ケ根と呼ばれる古窯跡出土、となっているだけです。 |
No.1085 | したり尾 | 2006-07-17 13:20:02.796115+09 |
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尼が根窯は、確か黄瀬戸や織部が出土されているとは聞いています。しかし、いつの時代の窯か、登り窯か穴窯かなど私にも全く分かりません。なにやら謎だらけですね。 |
No.1086 | さむしろ | 2006-07-17 15:17:56.130377+09 |
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穴窯の時代ではないかと思います。登り窯時代になると緑釉の織部焼きの時代ではないでしょうか?もちろんきれいに一線は引けないでしょうが・・・。 「宗易形の茶碗」について同じく「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」の林屋さんの項に、 (茶会記の)記述だけでは、それが長次郎作の茶碗であったか否かは厳密には判然としない。だがこの日の茶会の後につづく諸会記の記述から推測すると、この宗易形の茶碗は瀬戸茶碗ではなく、その後今焼茶碗と呼ばれる長次郎焼の茶碗であったと推定される。 というのがあります。確かに茶会記は「今焼茶碗」というのがふんだんに出てきます。ただし、今焼茶碗=長次郎焼との根拠は不明です。 |
No.1087 | したり尾 | 2006-07-17 21:43:41.646694+09 |
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瀬戸茶碗が天正10年以前だとすると穴窯であると言えますが、まだ、その確証はありません。 窯は消耗品ですから、穴窯の跡に登り窯を作るということは考えにくいことです。駄目になれば、次々に土のあるところに移っていくものです。 もし、織部焼きも確かに尼が根窯から発見されているとすれば、別室にある黒茶碗が天正10年ごろに作られたという話が危うくなってきます。 ということですから、尼が根窯とはどういう窯であるか調べる必要が出てきたように思います。 利休のいわゆる宗易形茶碗の話ですが、彼の手紙にある国焼き茶碗は、確か今に伝わる長次郎茶碗ばかりであった記憶があります。手紙にはあったのは茶会の話ではなく、ほとんど売買の話ではありましたが。 暇を見て、もう一度じっくり手紙を読んでみようかと思います。 |
No.1088 | さむしろ | 2006-07-18 18:50:57.185228+09 |
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NO1086では勘だけで書きましたが、穴窯、登り窯についてはよくわかりません。穴窯で引出し黒が焼けるかどうかについても確かめていません。 尼が根窯跡からどのようなものが出てきているのかについても手持ちの資料では不明です。 |
No.1089 | したり尾 | 2006-07-18 20:36:14.448823+09 |
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完全な穴窯であれば、引き出すことは無理でしょうね。半地下式であれば登り窯の一部屋だと思えばいいのですからできるはずです。引き出す口を作ればいいのですから。 いずれにしても、ある程度、窯が発達する必要があります。 天正年間の美濃地方の窯がどんなものであったのか知りたいですね。 話は思いもかけず面白い方向に向かい始めました。この入り口から何か新しいことが発見できるかもしれません。 |
No.1090 | さむしろ | 2006-07-19 14:13:35.578035+09 |
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疑問が次々とでてきます。 同じく「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」の林屋さんの項に、 天正・文禄・慶長(1573〜1615)にかけての茶会記には長次郎や長次郎焼の呼称はまったく誌されていない。 消息を伝える確かな資料はないが、利休の侘び数寄が深まってゆく天正10年(1582)頃(茶室待庵ができたと推定されている)、利休と長次郎の出会いはすでにあって、 −略ー 利休好みの茶碗が造られつつあったと推測される。 ー略ー 茶碗はまず赤茶碗が先行していた、 −略ー 当時の長次郎のもつ技術では、当初は赤茶碗しか出来なかった。 −略ー 美濃ですでに焼かれだしていた焼成中に窯から引き出すことによって生じる黒釉の技法ー引出し黒ーを倣い、手捏ね成形による黒茶碗を長次郎に焼かせたのであろう。 といった記述もあります。利休と長次郎のかかわりが、いつから、どの程度のものであったかはっきりしたものはないようですね。 それでもここらが核心部分であることは間違いないでしょう。 |
No.1091 | したり尾 | 2006-07-19 22:11:23.520168+09 |
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ざっと調べてみたところ、利休自筆の手紙には、長次郎焼きの茶碗は、雁取、早船、大黒の3点です。他の資料でも同様のことが書かれていますから、このほかには利休の手紙には記されていないのでしょう。 雁取の手紙には「焼茶碗」と書かれています。利休に近い人間が焼いた茶碗という意味でしょう。 書かれた年代は雁取については推定ですが、天正15年あたりです。 この3点は気に入っていたらしく当時利休の手元にありました。 天正から慶長にかけての茶会記には長次郎焼の記述はなくとも、天承15年には深いかかわりがあったことは分かります。 その他の林屋さんの記述についての根拠は、私は分かりません。ただ、一般的には、ほぼそのようなことが言われています。問題は根拠ですね。根拠が明らかになっていない記述は、あえて納得しないで事実なのか推測なのか、ひとつひとつ調べていくことが必要です。 |
No.1092 | さむしろ | 2006-07-20 20:46:11.111434+09 |
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とりあえず続けます。 瀬戸黒茶碗について林屋さんは、「宗易形の茶碗」について「桃山の茶陶 破格の造形と意匠」において、 ー略ー そして天正年間後期になると瀬戸黒茶碗は長次郎焼のような無作為な形の茶碗とはちがって轆轤成形後胴に箆削りを加えて、作為を顕わに見せる作調に変貌して、美濃の瀬戸茶碗独特の作風を見せるようになる。その様相の一端を示すものとして利休所持という伝承を持つ瀬戸黒茶碗「小原木」がある。 (「小原木は素朴な溜塗りの曲物におさまり、蓋表に黄漆で「小原木」と記されているが、利休の筆と伝えている。」と中央公論社、日本の陶磁3にあります) |
No.1093 | さむしろ | 2006-07-21 12:31:23.202206+09 |
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根拠がなかなか難しいですが、書状はいい資料になるかもしれませんね。 とにかく根気がいる作業です。 |
No.1094 | したり尾 | 2006-07-22 18:12:50.245818+09 |
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林屋氏のご意見では楽茶碗と瀬戸黒茶碗は、造形の上では、楽は瀬戸黒から影響を受け、あの独特の形ができた。その後、楽は大きな変化なく引き継がれていったが、瀬戸黒はさらに動的な茶碗へと変化していった。こういうことですね。つまり瀬戸黒こそ、桃山時代の茶碗のリーダーであったということになります。 このご意見を成立させるためには天正10年頃の作とされる瀬戸黒茶碗が、確かに天承10年頃に作られたという証明が必要です。どうしても考古学的検証の実態が知りたいところです。このことが明確に分かれば林屋氏のご意見は正当なものになります。 しかし、証明されなければ正当なものとは言えません。 また楽茶碗は無作為であるという表現も、私は少々気になります。一般的に楽茶碗は作為がないといわれます。私は織部や瀬戸黒と楽茶碗は動的であるか静的であるかぐらいであって、どちらも十分に作為はあると思っています。 |
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