茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ごゆっくり閲覧ください。
No.1095さむしろ2006-07-22 19:30:46.278487+09
したり尾さんのご理解はちょっと違うと思います。

楽茶碗は、瀬戸黒から影響を受けて独特の形が出来た、といわれているのではなく、瀬戸の黒茶碗の引出し黒(黒焼き)の焼成技法を学んだのではないか。
そしてその瀬戸の黒茶碗は、轆轤後に箆削りを用いた作調に変貌し独特な作風となった。

といわれていると理解しています。
林屋さんの「楽茶碗が無作為」との意見には私も同意できません。
No.1096したり尾2006-07-23 18:17:29.718595+09
お言葉ではありますが、NO.1077や別室の写真にあるように、宗易型の茶碗の原型も天正10年制作と思われる瀬戸黒にあるということになりませんか。
No.1097さむしろ2006-07-23 22:18:49.506046+09
確かに原型だと言われれば納得しそうなほどよく似ています。そういう意見があっても良いと思っていますし、その可能性も考える必要があると思っています。
ただ、林屋さんは、道陳好みという黄瀬戸茶碗とともに興味深いと言っておられます。また、長次郎焼のように利休と直接的なかかわりはなかったであろうが、あるいはそれらも利休好みの影響下に焼かれているのではないかと最近考えるようになつた、とも。
少なくとも引用の本の中で瀬戸黒の影響で楽茶碗ができたというふうに言っておられるのではありません。そのような意味においてです。
No.1098したり尾2006-07-23 23:10:34.245818+09
おっしゃることは、少し分かってきました。その黄瀬戸は、あるいは利休所持といわれた茶碗ですか。もしそれならかつて見たことがあります。あれは明らかに轆轤挽きで、その後手は入れていないように思いました。しかし形は宗易型に近いものでありました。
林屋さんの想像なさるような利休と瀬戸あるいは美濃との関係は、まだなんとも言えません。
No.1099さむしろ2006-07-24 20:01:52.460968+09
黄瀬戸茶碗はあの利休所持といわれる茶碗だと思います。
瀬戸の黒茶碗ですが、ものはら別室に載せている写真のうち下のほうの茶碗の胴のほうに丸い痕がみえますが、写真で見る限りは引出しの際についた跡ではないかと思われます。現物なりもっとはっきり写った写真なりを見ないと断定はできませんが・・・。
No.1100したり尾2006-07-25 20:23:49.631363+09
少々ボケているので何とも言えませんね。どなたか個人の方がお持ちなのですか。写真の下にそのように書いてあるように見えます。
すると展覧会などに出る可能性は少ないのでしょうか。
黄瀬戸の場合もそうでしたが、現物を見てみると想像していたものとは随分違います。結局写真を見ているだけでは絶対に確定的なことは言えません。是非とも現物が見てみたいな。
そして尼が根窯跡にも行ってみたいものです。
文献では分からないことも、現場に行ったり、現物を見たりすることで確信を持って分かるようになるものです。
No.1101さむしろ2006-07-26 12:46:01.857127+09
瀬戸の黒茶碗ですが、確認したところ個人蔵となっています。轆轤造りのようですから、ある程度の数は作っているように思います。現物を是非見てみたいという思いは同感です。
情報があればほしいですね。
No.1102したり尾2006-07-26 18:23:24.620252+09
轆轤作りだから数があるとは限りませんよ。瀬戸や美濃のものは原則として轆轤挽きですから。
でも現物は見たいものです。
No.1103したり尾2006-07-27 11:04:24.823081+09
この議論のポイントの一つは、瀬戸・美濃地方は焼き物の世界で、どのような役割を果たしてきたのかという点にあるように思います。
あの辺りは六古窯とは違って、鎌倉期から主に中国の焼き物をお手本として、その技術を先進的に取り入れてきた地域であると言われています。
織豊時代には政治的にも日本の中心地のひとつにまで登り詰めていったのですから、京都とは違った新しい文化が生まれてもおかしくありません。そして新しい焼き物も・・・。
ただし、焼き物に絞って言えば、京都と瀬戸・美濃地方の関係が分かったようで分からないのです。
No.1104さむしろ2006-07-28 19:42:54.233785+09
おっしゃっていることは、そう大きくは違わないと思いますが、
わたしは、
安倍さんがいうところの「織部様式茶陶」の氏素性はいったいどのようなものなんだ?
つまり、何時、どこで、だれによって造られたのか?
長次郎黒楽茶碗と瀬戸黒、織部黒、黒織部、志野など(の一群のもの)は同根であるとすると、どれが最初に造られたのか?
安倍さんが「とても及ばない」というほどの優れた造形力が京、美濃、信楽、伊賀、備前、唐津など各窯場で期せずして生まれ得たであろうか?
それとも一方から他方へ伝わったのか?
もし伝わったのであればどちらが先か?
等の部分がポイントで、その余の話は答をみつけるための参考資料、状況資料といった位置づけと思っています。
ポイントを曖昧にしておくと、読む人にとって、わかりにくい話がますますわかりにくくなるように思うからです。
No.1105したり尾2006-07-29 10:01:28.575578+09
さむしろさんの言われていることは凡そ分かりました。確か安倍さんは織部様式の茶陶は、産地の陶工が制作したものではなく今日の作家が制作したものであるという推論をたてているようですね。その根拠にひとつが産地には作品が残されていないことを挙げられていました。多くの者がかかわったなら、窯跡にその破片ぐらい必ず残っているはずだとも。
No.1106さむしろ2006-07-29 17:50:17.634821+09
「今日の」は「京の」ですね。
例えば、(焼いてもらうために)10点の茶碗を送れば10点全部を送り返してもらう。たとえ割れようが、ひっつきがあろうが全てを送り返す、ということですね。
No.1107したり尾2006-07-29 18:14:30.162069+09
失礼しました。「京の・・・」です。
その安倍さんのご意見と林屋さんのご意見とどこが違うのか。
問題になるのは天正10年といわれる瀬戸の黒茶碗です。尼が根窯跡で発掘されたというところが一番の問題ですね。これが事実であれば、その瀬戸の黒茶碗は京の作家が作ったものではないということになります。
時代のずれなどいくつかの推測はできますが、実物を見ないことには作家が作ったものか陶工が作ったものか分かりません。
No.1108さむしろ2006-07-29 19:57:32.807918+09
形は茶碗の形ですよね。
それも非常に端正でよく出来ているようにみえます。雑器にはみえません。
No.1109さむしろ2006-07-30 09:45:45.955848+09
林屋さんのお考えをもう一度整理してみると、
『@茶会記において宗易形の茶碗の出現以来「今焼茶碗」と「瀬戸茶碗」がにわかに多く現れるようになる。
Aこの瀬戸茶碗が何であつたか判然としない。
Bこれまで私は黄瀬戸・瀬戸黒・志野などの茶碗であると考えていたが、志野は当時まだ出現していなかったとの見解が強くなった。
Cその中で興味深い作品二つが現存する。一つが道陳好みという黄瀬戸茶碗であり、もう一つが尼ケ根窯出土の瀬戸の黒茶碗である。
D天正年間後期になり轆轤成形後箆削りを加え作意を顕わに見せる作調に変貌し美濃の瀬戸茶碗独特の作風を見せるようになる。』

私は、@について同じ認識です。Aについても同じです。B漠然とそんな思いをしていましたが、林屋さんの記述を読みながら和物の釉薬ものをひとくくりに「瀬戸茶碗」といったのではと考えました。唐津が含まれる可能性を考えました。今のところ根拠はありません。
C黒茶碗については極めて重要かもしれません。大いに興味をもっています。
Dここでの「変貌」の認識が決定的な相違点かもしれません。
No.1110したり尾2006-07-30 13:20:20.715877+09
正直に言いまして、お話がやや難しすぎて私は何とご返事していいか分からなくなりました。
話の手がかりが私には掴めないのです。申し訳ないのですが・・・。
No.1111さむしろ2006-07-30 15:36:29.979505+09
したり尾さんのNO1110は多分に謙遜がはいっていると思いますが、ここでの議論になじみのないかたを念頭に少し整理してみましょう。
@についてですが、古い茶会記(1500年代半ばくらいからのもの)に出てくる茶碗は、当初はその多くが唐物茶碗でした。ついで利休による侘び茶の進行や朝鮮出兵の影響と思われますが、朝鮮物の茶碗が多く使われだします。そしてそれらが、そのほとんどでもありました。
ところが天正14年の茶会記に宗易形の茶碗を使ったとの記載が現れ、とたんに以後の茶会記に今焼茶碗と瀬戸茶碗が多く現れ、今焼茶碗と瀬戸茶碗が主流となって使われるようになってきました。
No.1112さむしろ2006-07-30 16:28:17.127162+09
Aについては文章どおり、

ところが、この今焼茶碗、瀬戸茶碗が今でいうどの茶碗にあたるのかわかりません。
No.1113さむしろ2006-07-30 17:35:37.233264+09
Bですが、
林屋さんは「瀬戸茶碗」とは、黄瀬戸・瀬戸黒・志野などの茶碗であると考えておられたようですが、先に出てきたように志野茶碗の出現がもう少し後になってからとの見解が主流となりました。そこで志野を除いた黄瀬戸・瀬戸黒が「瀬戸茶碗」ではないかと考えられるようになったというのです。

わたしも漠然とそんな思いをしていましたが、林屋さんの記述を読みながら、和物の釉薬ものをひとくくりに「瀬戸茶碗」といったのではと考えました。唐津が含まれる可能性を考えました。今のところ根拠はありませんが、わたしが小さい頃、磁器ものを「セトモノ」、土ものを「カラツ」と言っていたように思います。
天正年間に、これは美濃、これは瀬戸、これは唐津といった分別ができたのだろうかという疑問です。
ただ唐津茶陶について、いつ頃から使われだしたのかについての資料について確かめていません。このことが根拠なしという大きな理由です。

今焼茶碗については長次郎茶碗ではないかと思っていますが、もう少し検討します。
No.1114したり尾2006-07-30 18:19:15.015332+09
謙遜ではなく、本当に少々混乱しています。申し訳ありませんが、NO1109から何を話しているのか分からなくなってきました。多分私の理解力が不足しているのでしょう。
ただ「セトモノ」と「カラツ」の話だけは分かります。
今でも関東では焼き物全体を「セトモノ」といいます。私は関東出身ですが、焼き物というよりセトモノといった方がぴったりきます、陶器であろうが磁器であろうが。
関西から西では「カラツ」というらしいと聞いたことはあります。(実際にはそうした呼び方を聞いたことはありません)
「セトモノ」「カラツ」という呼び方は食器の生産量の問題で、この議論とは直接的に関係があるとは思っていませんでした。
No.1115さむしろ2006-07-30 20:20:36.362589+09
わたしは関西出身でセトモノ、カラツで育ったように思います。

Cについては読まれたとおりです。
D部分での林屋さんの考えを想像すると、
ものはら別室に掲載している写真の黒茶碗は、当時ある程度の数が作られていたと考えられる。その黒茶碗は天正年間後期になると、轆轤つくりではあるが、(多分陶工の創意によって)箆削りを加え、そうして強い作意をもった茶碗となって、やがて今にいう「瀬戸黒、黒織部、織部黒」へと進化していった。
これは美濃独特の進化である。
もっといえば無作為である長次郎茶碗と対極に位置する進化であり、直接の関係はなく生まれた。もちろん利休から何がしかの影響は受けたのではあろうが…。

この独自に進化したことによって生まれたという部分から、安倍さんのいうところの「長次郎楽茶碗と瀬戸黒、黒織部、織部黒、志野、備前、唐津の一群の織部様式茶陶とは同根である」との考えと出発点から違うと言えると思うのです。

その意味で、この部分に、林屋さんと安倍理論の相違点が如実に現われていると思ったのです。
勿論相違点はこれだけではありませんが・・・。
また、「独自に進化」については、多分林屋さんと別の意味で使用することになるかもしれません。
No.1116したり尾2006-07-31 11:18:55.603287+09
ようやくご趣旨が見えてきました。丁寧に書いていただいてありがとうございます。

もとより安倍さんのご主張と林屋さんのご主張とは、楽とその他の茶碗の関連性の問題がありますが、その他の相違点も見られます。
今までのところ、林屋さんのご意見には制作した作者のことが触れられていません。
あの時代のことですから、芸術家の社会的位置は低く職人との区別などありませんでした。ですから作者がたまたま分かっているのは長次郎一人です。(それもきわめて漠然としていて人物像などは全く分かりません)
織部や唐津の作者は一般的な陶工なのか、それとも現代で言うところの芸術家なのか、それによって随分議論が違ってきます。
私は、現在に伝わる茶碗の大多数は、特定の作家によって制作されたものであると思っています。それが何人ぐらいの作家であるのか、作品の全てを見ていないので私には分かりません。しかし、作品のひとつひとつを検討すればある程度は分かるはずです。
この角度から見てみる必要もあるのではありませんか。
No.1117さむしろ2006-07-31 20:01:15.409236+09
わかりにくい文章で申し訳ありません。

NO1116下から4行目の「現在に伝わる茶碗の大部分」ですが、誤解を招きそうですから一言書き加えたほうがいいかと思いますがどうでしょうか? たとえば「桃山茶陶のうちいわゆる織部様式茶碗」の大部分、では意味が違うでしょうか?

それらの茶陶が特定の数人程度の人たちによって作られたのではないかとの考えはわたしも同じです。

したり尾さんの「この角度から」こそ一番の近道であると思います。
No.1118したり尾2006-08-01 19:01:14.331241+09
確かに誤解を招きそうですね。
織部様式といってしまうと、またその説明をしなければなりませんから、桃山時代に日本で作られた名品といわれる茶碗の大部分といっておきます。

林屋さんは、その文の中ではそうした見方はなさっていないのでしょうか。
私は○○焼ということにとらわれず、どの作品とどの作品が同じ手であるか確認したほうが、全体像が見えてくるように思います。しかし、それには写真は限界があります。そこは我々の問題ですね。
No.1119さむしろ2006-08-02 12:52:53.983273+09
林屋さんにその意識があるようには感じられません。

作品を確かめるにも限界があるのはその通りですが、避けては通れません。
また、同じ手かどうかについてもなかなか判じがたい。しかし必要な作業である事は間違いありません。

ある共通の特徴をそなえた作品がほぼ同時期に、京で、美濃で、伊賀信楽で、備前で、九州唐津で生まれたことは驚きです。しかし、驚きとなるためには「共通の特徴」の存在の理解も必要です。
だんだんわからなくなりますが、一ヶ所に絞らずに色んな角度からみたほうが、取り敢えずは近道かなと思います。
No.1120したり尾2006-08-02 16:21:55.839961+09
近道か遠回りか分かりませんが、多角的に検討しないと間違った結論を出してしまうことになります。ポイントは作家であると私は思いますがね。

同じ手であるかどうか判じがたいとのお話ですが、例えば安倍さんの作品は、他のどんな作品の中に紛れていても分かるでしょう。それと同じことです。写真はごまかされますが、実物を見れば分かりますよ。チャンスがあれば逃さずにせっせと見ましょう。
No.1121さむしろ2006-08-02 18:41:50.055826+09
「ポイントは作家である」について具体的に説明していただくとありがたいですね。
どのような意味においてのポイントであり作家であるのか判断に迷うものですから。

同手についての判別はこれからの勉強課題としましょう。
No.1122したり尾2006-08-02 20:53:53.12381+09
これは安倍さんの言われていることですが、一人の、例えば京の作家が、各地の窯で作品を制作したのであれば、同時期に各地の窯で焼かれたものが同じような特徴を有していてもおかしくありません。
そのような作家の存在があるのかどうかということがポイントであると申し上げたかったのです。
そしてあるとき突然途絶えてしまったことも、こう考えれば理解できます。それはその作家が作らなくなってしまった。あるいは作れなくなってしまったということです。
これは安倍さんの仮説です。しかし、説得力はありますね。
No.1123さむしろ2006-08-03 09:39:19.809672+09
よくわかりました。
わたしも同じ認識です。
No.1124したり尾2006-08-03 20:07:54.375895+09
私は漠然と一種の芸術家集団の存在を想像しています。明らかに手の違う作品があるからです。
例は悪いかもしれませんが、例えば柳宗悦の下には川井寛次郎や富本憲吉や浜田庄司が集いました。互いに影響を与えながら、それぞれの個性は失いませんでした。
あの様な集団は、どの時代にもどの国にもあるのですから、桃山時代にあっても悪くない。
これは安倍さんのお説に刺激を受けての夢想です。
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