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No.645 | さむしろ | 2005-11-04 11:04:00.928189+09 |
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わたしも見ました。 同じような感想をもちました。 安倍安人を陶芸家ではなくアーティストと認識しての文章で、「この人はわかっているかも。」と思いました。 『ドラム缶で焼く「備前」』も衝撃的でした。 |
No.646 | したり尾 | 2005-11-04 13:38:38.073764+09 |
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「ドラム缶で焼く」のは、安倍さんがいつも言われている「焼き物は温度が大事だ」ということを証明するためのものだったのでしょう。人に見せるのに一々窯を焚いていたのでは間に合いませんし。 そういうことだと理解しました。 |
No.647 | マスター | 2005-11-04 16:43:18.488527+09 |
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安倍さんに電話をしましたら、三つの数値が揃えば焼けるということを実証するために行ったということでした。 知人の友人から席披き茶事の案内をもらいました。五人でのお招きです。案内状をものはら別室に載せました。 |
No.648 | したり尾 | 2005-11-05 16:26:43.706424+09 |
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別室拝見しました。うらやましいかぎりです。ごゆっくりお楽しみください。 |
No.649 | マスター | 2005-11-05 19:06:26.566913+09 |
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ご亭主は、常の稽古とは別に月に一度、茶事の稽古をされているようですので腕も相当だろうと想像しています。お師匠さんはしたり尾さんもご存知の方です。 |
No.650 | したり尾 | 2005-11-06 15:25:40.106259+09 |
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なるほど、そういうことですか。私が始めて安倍さんの作品に出遭ったあの茶席の先生ですね。何年前かな・・・。懐かしいかぎりです。 さぞいいお茶会になるでしょうね。ますますうらやましいことです。 |
No.651 | マスター | 2005-11-06 20:07:34.246911+09 |
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そうです。 なお、連客4名は全員女性と聞いています。(亭主も女性です) |
No.652 | したり尾 | 2005-11-07 09:00:37.452955+09 |
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ますますうらやましいとしか申しようがありません。 |
No.653 | マスター | 2005-11-11 20:27:28.971955+09 |
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彫刻家佐藤忠良についての日経新聞記事(02.09.22)から 目深に帽子をかぶり、足を広げて腰掛けた女性像「帽子・夏」(72年)は、傑作との評価が高い。スラックスが八分丈ほどになっているが、これは「パンタロンのすそを切った。帽子とパンタロンの両方に焦点が分散してしまうのが嫌だった」からだ。 この「帽子・夏」には、佐藤美学の要点がギッシリ詰まっている。女性の両足がハイヒールを履いたように、かかとを上げているのも意図的だという。「重心が低くなりすぎるのを防いだ。五重塔の屋根の先が、きゅっと上がっているのも同じ理屈。職人の徒弟制度で作られた昔の良いものは、作用、反作用の配分がきちんと考えられている」 さらに左右対称に見えるが、実は微妙に違って作られている。「仏像と同じで、右と左が少しだけ違っているところに、何度見ても飽きない造形の秘密がある。これが職人の技。技巧ではなく技術です。芸術は『爆発だ』とは思わない。能のように爆発しない内向きの力の中で、喜び、悲しみ、怒りを伝えたい」 失敗を重ねながら、コツコツと誠実に作る。「私は職人ですから」と念を押し、「受けようとしたら良い作品にはならない。自分の作品も昔の方がいい」と自戒する。 |
No.654 | したり尾 | 2005-11-12 09:14:39.676493+09 |
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彫刻家佐藤忠良のこの言葉には、いろいろな要素が含まれています。 @焦点の分散を防ぐために作用、反作用の配分を意識したこと A左右非対称のバランス Bこれらは技巧ではなく技術であること C芸術は爆発ではない。内向きの力の中で表現することである。 Bの「技巧」と「技術」の違いは、理解が難しいところですが、個人的な思いつきによるアイデアではなく、美の法則のようなものであると受け止めてもいいのでしょうか。 Cは@〜Bまでとは違って、佐藤忠良の姿勢であると理解しました。 全く同じことをカナダのピアニスト グレン・グールドも次のように語っています。 「芸術の目的は、アドレナリンの瞬間的な放出ではなく、驚きと穏やかな心の状態を、生涯かけて築いてゆくことである」。 私の分類がマスターの意図とあるいは違っているかもしれません。 マスターは、佐藤忠良のこれらの言葉の中で、何に注目されたのでしょうか。 |
No.655 | マスター | 2005-11-13 17:17:19.467086+09 |
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安倍備前は彫刻である、との考えにたっています。そのため「彫刻」についての記述には目がとまります。 @「両方に焦点が分散してしまうのが嫌」→パンタロンのすそを切った A「重心が低くなりすぎるのを防」ぐため→かかとを上げ B「作用、反作用の配分がきちんと」 C左右対称に見えるが…「右と左が少しだけ違っているところに」…造形の秘密があった などの説明とともに「職人の徒弟制度で作られた昔の良いもの」、「これが職人の技」、「私は職人ですから」と職人であることを強調しておられます。 @ABCは安倍さんの造形の考え方と一致していると思います。安倍さんは「職人もの」と「アーティストもの」を区別しておられます。 その基準でいくと佐藤忠良さんは「アーティスト」となるでしょう。 しかし、それはそれとして、職人も名人といわれる人の物作りは「理」に則っている。 アーティストの傑作も又「理」に則っている。 そういう意味では両者は共通している。 が、しかし、やはり職人とアーティストは分けて考えるべきであると思います。 おなじく芸術を「爆発」とは思いません。これについての私見はきちっとした説明はできませんが「表現」だと思います。その「表現」が伝わるかそれとも伝わらないかが秀作と駄作の違いということが言えるのではないでしょうか。 忠良さんが「技巧」ではなく「技術」です、といっておられる意味がまったくわかりません。 |
No.656 | したり尾 | 2005-11-14 09:55:06.512872+09 |
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随分丁寧に佐藤忠良の文章をお読みになったのですね。マスターの理解に刺激を受けました。 言われるとおり、この文のキーワードは「職人」という言葉です。 安倍安人の焼き物が彫刻であると言い切っていいものかどうか、少々異論はあります。しかし、美術作品であることには違いありません。 さて、「芸術は爆発だ」と言ったのは太陽の塔で有名な岡本太郎です。(あれは何かのコマーシャルでした)岡本と佐藤は全く同時代の作家であり、岡本は日本の抽象芸術の中で大きな足跡を残し、佐藤忠良は今もなお具象芸術の巨匠です。 岡本は「自分の内側にあるものを外に向かって大胆に表現していくこと」を「爆発」という言葉で表したのでしょう。 それに対して、佐藤は「内側にあるものを見つめ、掘り下げていくことこそ芸術的行為である。そしてそれを表現するには過去のさまざまな技を学ぶことが欠かせない」と言いたかったのでしょう。「過去に蓄積された技術」を学ぶことは、まさしく「職人」としての行為です。その意味で佐藤は自分自身を「職人」と規定したのだと思います。 この表現の違いに、同じ時代を生きた岡本に対する佐藤の対抗意識を感じます。 安倍安人があえて職人を否定するのは、現代の焼き物がこうした美術界の外側に位置し、ほとんどの陶芸家たちもそのことに疑問を持たないことに対する怒りがあるのでしょう。 焼き物以外の美術の世界では「美」とは何か、どう表現すればよいか、さまざまな葛藤があり、理論があり挑戦があります。そうした美術の世界の人間である安倍から見れば、ただ過去の技にのみしがみつく陶芸界が我慢のならない存在であるに違いありません。 佐藤が自身を職人と言い切ったのは、美術界に身を置いているからこそです。 |
No.657 | マスター | 2005-11-15 20:42:51.788015+09 |
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「技巧」と「技術」の違いですが、 技巧はその人固有のテクニックであって個性といってもいい要素を含んでいる。 技術は正しく伝承すれば次代、次代と正しく伝わる普遍的なまさしく技術である、とはいえないでしょうか? |
No.658 | したり尾 | 2005-11-16 08:40:48.418674+09 |
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「技巧を凝らす」という言い方はありますが、「技術を凝らす」とは言いません。 また「技術的に確かなものある」とは言いますが、「技巧的に確かなものがある」とは言いません。 佐藤忠良がどのような意味で遣っているのか正確には分かりませんが、一般的には「技巧」は個別のものであり、「技術」は普遍的なものであるというニュアンスの違いはあります。 ただ、一人の作家の作品にも技巧を凝らしたものもあれば、そうでないものもありますから、技巧が個性と結びつく要素を含むというと、やや言いすぎかなという気がします。 |
No.659 | マスター | 2005-11-16 19:09:13.954862+09 |
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最新作(02年当時)「おおきなかぶ」制作中のアトリエの壁際にロープが結んである。反対側の壁には大きな鏡。「ひもを自分で引っ張って、鏡を見ながら体の動きを研究する。つま先を上げたり足の動きを変えたりして、もう既に何度も作り直してきたが、二人の足の運びが同じになってしまった。まだバランスが悪いかな」 制作過程はこんな調子のようです。 テレビでもみましたが、繰り返し繰り返し体のバランスを確かめ、限りなく自然な動きに近づけようとされていました。 安倍備前の場合は鏡に写してもわかりません。例えば水指のヘラ一つを取ったらどうなるだろうか、とか、あるいは一ヘラ加えられないだろうかと何日間も眺めていて、結局見つからず諦めたことがあります。 |
No.660 | したり尾 | 2005-11-17 09:08:49.516897+09 |
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表現をする場合「バランス」(構成、構図)が大変重要な要素になります。 我々の書く文章でさえ、何をどのように配置して書けば意図が伝わるか、少しは文章構成を考えます。 作家の皆さんが、さまざまなご苦労をされていることは言うまでもありません。 |
No.661 | マスター | 2005-11-17 18:54:55.509224+09 |
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その「バランス」のとり方ですが、多くの場合「こんなものだろう」という「勘」によっているのではないでしょうか? 安倍さんの造形では「力」を定量化して、加えた分だけ他から引く、という作業の積み重ねがなされているとの理解です。もちろん秤ではかるということではありませんが…。 |
No.662 | したり尾 | 2005-11-18 17:22:56.755668+09 |
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マスターのご質問の中の「多くの場合」は、焼き物の世界のことでしょうか。それとも美術全般の話ですか。 |
No.663 | マスター | 2005-11-19 15:29:40.389038+09 |
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焼き物の世界の場合ですが、他の世界でもあるいは同じではないかなと思っています。ただ、そうは言っても絵画の世界についてはまったくの素人ですから、絵画はそうではないと言われれば反論はありません。 小説を読んで面白かったからドラマになっても面白いとはかぎりません。例えば1時間内におさめるためあちらこちらを端折るため、本を読んだほどの感動がなかったということがあります。これもバランスの狂いといってもいいのではないでしょうか。 しかし、世界々々によって妥協せざるを得ないことが多いのも事実でしょう。そこで妥協が出来る人と出来ない人がいて、その結果が異なったものなるということもあるでしょう。 |
No.664 | したり尾 | 2005-11-19 17:21:12.405834+09 |
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安倍安人がよく「西洋美術を学んだことのあるものなら、自分の言うことはよく理解するはずだ」と言われています。 絵画の構図も配色もすべてバランスです。例えば、美術教室などで人体のデッサンをしますが、あれは基礎的なバランスを学ぶためのものです。 小説も、最も大事なのは構成です。(プロットといいます)犯人探しの推理小説は、プロットなしには生まれませんでした。 テレビ制作でも、構成力のない制作者は一流にはなれません。 音楽の世界はさらに厳しく、クラシック音楽などは複雑で厳密な理論によって構築されていました。だから、ある作曲家は「音楽は安らぎの場ではなく、思考の場である」とまで言い切っています。 つまり「表現の世界」は、すべて大変論理的な世界です。 焼き物の世界だけが、どうもそこから外れている。もともと理論はあったのでしょうが、日本的な「言わず語らず」の伝え方の中で、理論が抜け落ちていったのでしょうか。 |
No.665 | マスター | 2005-11-19 19:55:30.429447+09 |
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あらゆる分野で、バランスや構成に多くの注意をはらっておられることはわかりました。 そうした中で出来上がった作品の内どれくらいの数の作品が、後世までその評価を受け続けることが出来るだろうか、ということですが、その点はいかがでしょう? つまり、多くの注意や労力をかけたということと、適ったということの違いですが…。 焼き物は職人物であったということであろうと思っています。桃山の一時期一部作品を除いて…。 |
No.666 | したり尾 | 2005-11-19 20:55:17.028028+09 |
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大まかに言えることは、新しい技法を生み出した作品は必ず後世に残るということです。また、その技法を完成させた作品や作家も残っていくでしょう。 それは、新しい技法でしか描くことのできない新しい世界が出現したともいえるでしょう。時代を切り開いていったもののみが残っていくのです。 単に前世代のものを踏襲しただけでは、一時期もてはやされても、歴史の中ではやがて消え去るものです。 非常に大まかな言い方ですが。 |
No.667 | マスター | 2005-11-21 19:33:30.450244+09 |
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成る程。 それでは、20世紀から21世紀の現代までの色々なジャンルのなかで21世紀に名を残す作家はいるのでしょうか? いるとしたらどういう人達が考えられますか? |
No.668 | したり尾 | 2005-11-22 13:52:43.759823+09 |
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これは大変なご質問です。仮に100年と限ってみても、丁度日露戦争終了から今年で100年になります。その間に2回の大戦があり、それまでの1000年、2000年に匹敵するほどの変化がありました。あらゆる意味においてです。 従って、すべての表現のジャンルで活躍し、歴史を作っていった人の数は1000人では足りないでしょう。 古代から100年前までの表現者の数と同等か、それ以上になるはずです。 |
No.669 | マスター | 2005-11-22 18:06:02.659093+09 |
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う〜〜ん。 そんなに。 う〜〜ん。 明日、ゆっくりお茶をいただいてきます。そしてまた考えてみます。 |
No.670 | したり尾 | 2005-11-22 20:44:53.196053+09 |
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そうでしたね。明日はお茶会でした。存分にお楽しみください。 その前に、ちょっと、例えば戦後の音楽を思い出してみてください。 それまでになかったロックだとかフォークソングなど新しいジャンルの音楽が生まれました。その中で今も残るミュージシャンは何人いるでしょうか。ざっと思い返しても20人や30人はすぐ出てきます。 もっと分かりやすいところでいえば、映画も20世紀に生まれた新しい世界です。何本の名画が誕生しましたか。数え切れません。 その他、建築物やファッションなど、20世紀になってから新たに生まれたジャンルは山ほどあります。そしてそれぞれのジャンルで歴史に残る名作や名人は限りなく誕生しました。 19世紀後半から世界の文明は劇的に交じり合い、技術も飛躍的に伸び、新しいものが驚くほどのスピードで次から次へと生み出されていきました。何しろ人類は月まで行ってしまったのですよ。 20世紀というのは、大変な世紀だったのです。 21世紀・・・、もう想像もできません。今この瞬間も、世界のどこかでまた新しい何かが誕生しているのでしょう。 では、ごゆっくり。 |
No.671 | マスター | 2005-11-25 20:39:34.056128+09 |
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確かに有名、著名あるいは偉大ななアーティストはたくさんいます。ただ、世紀を超えて評価され続けるとなると少し違うんじゃないかな、と思うんです。日本陶芸の世界でもこの50年の間に多くの名人といわれる方たちが現れました。しかしメトロポリタン美術館に収蔵されたのは二人だけと聞きます。また、その折の話として「○○さんや△△さんが評価される日本とは違います」との話がでたということが、このHP「アトリエ訪問」のなかで触れられていました。(○○さん、△△さんは日本では超有名なアーティストです) やはり抜きん出て、世紀を代表する作品あるいはアーティストというのは別格だと思うんですが…。 話題が変わります。 お茶事に行ってきました。(お茶事とは正式な茶会のことで、3〜5人を招き行われます。炭点前、懐石・これにはお酒も付きます、濃茶、薄茶と続きおよそ4時間余かかります) 昔の美女4人との同席でした。私が正客ということで、前日連客の一人から、失礼だけれどもこれとこれは忘れずにやって下さい、と電話がありました。それは知っていますと大見得をきりましたが、最後の場面でその内の一つを忘れてしまいました。それはそれとして楽しい一日でした。 伊部砂金袋水指がでました。江戸期のものでしょうか。 |
No.672 | したり尾 | 2005-11-26 10:44:29.878904+09 |
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穏やかな晩秋のお茶事、目に浮かぶようです。 さて、マスターのお話ですが、日本国内に限った話でしょうか。 確かにメトロポリタンに収蔵されている日本人の作家は数少ない。 しかし、目を世界に転ずれば、例えば抽象はすべて20世紀になってから誕生したものです。ピカソやマチスを初め、歴史に残る作家たちは群れをなしています。(私はピカソやマチスは抽象作家とは思っていませんが) 映画はどうでしょうか。20世紀に登場したもののすべてが、やがて消え行くものとは思えません。そのジャンルだけでも大変な数です。 繰り返しますが、世界でです。日本に限って言えば、歴史的に新しいものを創りあげた作家は、残念ながら数が少ない。ほとんど世界の動きに翻弄されてきたと言ってもいいかもしれません。 |
No.673 | マスター | 2005-11-26 17:50:09.943523+09 |
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日本の例をあげましたが、世界でということで結構です。 ただ、多数の、きら星のごとくとなると、結構普通のことということになりませんか? 以前のプロ野球では3割打者は「一流の大打者」というふうに感じていましたが、今のように3割打者がゾロゾロいると、3割打って普通の強打者くらいにしか感じません。これと似てるように感じるんですが…。 |
No.674 | したり尾 | 2005-11-26 18:38:29.935754+09 |
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やや書き足りないところがあるので、書き足すことにしました。 マスターは20世紀という世紀を、どのように理解されているのでしょうか。 20世紀の10年は、それまでの世紀の50年にも100年にも当たるほど恐ろしい速さで変化し続けていきました。 20世紀から21世紀の変化に比べれば、それまでの時代は、とまっているように見えるほどです。 芸術の分野でも、あまりに多くのことが猛烈なスピードで起き続けているので、現代をまとめて語ることは危険です。 しかし、どうしても抜きん出た世紀の芸術作品を挙げろと言われるなら、それは美術というジャンルにはないような気がします。多分、映画か、音楽か・・・、20世紀の中で初めて誕生したものの中の何かにあるはずです。これは日本の中だけでも、世界でも同じことです。 いすれにせよ、現代という時代をどのように理解し、位置づけるか、それによって随分変わります。 マスターのお考えをお教えください。 |
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