茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ごゆっくり閲覧ください。
No.675マスター2005-11-27 14:53:01.710831+09
スピード、(色々な意味での)変化、その他20世紀を形容する全てを含んだものが「20世紀」なのでしょう。
結局、後世の人々に飽きずに受け入れられ、また評価し続けられる作品は何か、という話だろうと思いますから、将来の歴史家の手にゆだねるしかないのでしょう。

個人的な好みですが、チャップリンの映画は一作を通して見た事はありませんが、偉大な喜劇王であることを否定する気はありません。また、「ローマの休日」は少なくとも5回は見ていますがそれでも飽きません。西部劇も色々見ましたし、いずれも面白い作品だったと記憶していますが、やがて名作といわれるものは数作品に収斂されるのではないでしょうか。
No.676したり尾2005-11-27 17:55:32.083624+09
本当は、時代の切れ目は世紀で分けられるようなものではなく、19世紀後半から20世紀的な状況が始まったと考えたほうがいいように思います。日本では明治維新のころです。そして、今もまだ20世紀的な状況は続いています。近々、次の時代の幕が開くという予感はありますが・・・。

それはそれとして、20世紀で日本が世界に確実に影響を与えた作家を漠然と思い返していたのですが、黒澤明だの衣笠貞之介だの小津安二郎だの北野武だのスタジオジブリだの映画制作者しか浮かんできませんでした。

話はまた逸れますが、先日お話した柳宋悦の「茶の湯」に関する文章をすべて読みました。確かに安倍安人と基本的には同じ認識を持っている文章を発見しました。もし興味があれば、今の話が一段落してからご紹介しましょう。

No.677さむしろ2005-11-27 18:12:17.281152+09
柳宗悦の話に興味があります。是非お聞かせ下さい。
No.678したり尾2005-11-27 20:58:08.914551+09
「奇数の美」という表題の文章は、昭和30年に出版された柳宋悦選集 第6巻にあります。
長い文章ですから、ごく一部をかいつまんでご紹介します。

柳は近代の美術運動の特徴はデフォルメ(破形)への追求であり、「破形」の本質は「奇数形」であるとしたうえで、次のように述べています。
「『破形』即ち『奇数形』は、別に新しい表現の道ではなく、却って一切の真実な藝術が必然に要請するのものだといってよい。ただ、その破形の美を新しく見直し、意識的にそれを強調したのが近代藝術の特色であるが、東洋ではそれよりずっと以前から、茶の湯においては『数寄』の美として厚く鑑賞せられた。(中略)それ故茶人達の愛した美の世界には大いに近代的なものがあり、むしろその先駆をなすものであって、この歴史的事実はもっと注意されてよいであろう。」

なお柳は「数寄」とは「好き」の意味であるが、「奇数」を意識した書き方であるという推理も述べています。数十ページに渡る長い文の一部ですから十分には伝えられませんが、基本的には安倍さんの説と同じことです。
さらに詳しくお読みになりたければ「茶と美」(講談社学術文庫)をお読みください。
No.679さむしろ2005-11-28 19:13:09.249903+09
難解ですね。
以前、茶道具の取り合わせで偶数を嫌い、奇数になるように飾るものの数を加減する、という話を聞いた事があります。ただ流派によって違うかもしれません。
No.680したり尾2005-11-28 21:01:38.646629+09
「破形」という言葉や「奇数形」という言葉が理解しにくいのでしょうか。NO.641と併せて読んでいただければお分かりになると思います。
「破形」について、柳は次のように説明しています。

「『破形』とは定まった形を破ることで、(中略)これを『不定形』とか『不整形』とかいってもよいが、分かりやすく『奇数の美』と呼ぶことにしたい。『奇』とは(中略)『整わざる様』である。形を不均斉、不整備のままにすることで、要するに『破形』は『不均等』asymmetryと相通じる。」

つまり「ゆがみ」です。柳はこの「ゆがみの美」を「奇数の美」と理解したのです。
柳の話は、やがて茶器にも及び、次のようにも記しています。

「近世西洋で破形(デフォーメーション)の美が意識的に考えられ、近代美術はほとんどすべて何らかの破形を求めるが、実に『茶美』は四百年も前にこの破形の美を求めていたのである。」

いかがでしょうか。安倍安人のお考えと基本的には同じことだと思いませんか。
No.681さむしろ2005-11-29 20:26:02.691832+09
「破形」あるいは「奇数形」の意味が「ゆがみ」と同様の意味であれば、安倍安人の三点展開の理論とは異なるのではないかと思います。
確かに安倍備前はゆがんで見えるとも言えますが、「ゆがみ」ということは安倍安人の本意ではないように思います。つまり、ゆがんで見えるということと、ゆがめたということは違うわけで、安倍安人の造形は「ゆがめる」ための造形ではないと理解しています。
いずれにしても本人に聞くのが一番かと思います。
No.682したり尾2005-11-30 09:47:12.537215+09
失礼しました。
柳の文を読んで私がすぐに感じたのは、安倍さんの常々言われていた桃山茶陶には、一定の論理があるという点です。それを安倍さんは三点展開と言い、柳は奇数と言っていますので、ある共通点を感じましたので。
ゆがみにはゆがみの理論がある、それを三点展開であると安倍さんは言われる、ゆがめ、削ったことによって始めて面ができる。それが桃山茶陶の特色である。私は今まで、そう思っていました。
また、安倍備前は安倍備前であり、桃山茶陶は桃山茶陶であるとも思っていました。ただ、桃山茶陶のついての安倍さんの見解が柳のそれと同質であると認識したのです。
しかし、それは基本的に大間違いであるということですね。すると、柳も基本の認識が違っているということですか。
どうやら私の認識が甘いようですね。
なお、ヨーロッパの近代美術もデフォルメすることを目的にしてはいないことは、申し添えておきます。
それにしても、浅薄な知識を振り回してお恥ずかしい。
No.683さむしろ2005-11-30 18:25:28.585697+09
柳は「数」としての「奇数」と「形」としての「破形=奇数(形)」をごっちゃにして理解したのではないでしょうか。
茶の湯において、数としての奇数は、わたしも認識していますし、多分安倍さんも認められるでしょう。
柳のいう「破形」について、安倍さんに尋ねれば、多分柳は「くずれた」との理解だろう(三点展開ということは理解していないだろう)、とおっしゃるのではないでしょうか。

これはまったくの想像ですが、柳は、破形をいやらしい作意とみて評価をせず、李朝壺や李朝秋草文のような民芸にその美を求めていったのではないかと思うんです。

いずれにしても、したり尾さんの提言は極めて重要で、又だれもが陥りやすいところだと思います。もちろんわたしの理解が正しければですが。
そしてこの部分が整理されれば、桃山織部様式茶陶の本当の評価が定まるといってもいいのではないかと思います。
No.684したり尾2005-12-01 10:54:59.24207+09
お恥ずかしいことですが、私が今どのように「陥ってるのか」皆目見当もつかないでいます。根本的な私の誤りは何なのでしょうか。是非、お教えください。

さて柳は、破形をいやらしい作為と見ていたかどうか、それは全く正反対で、積極的に評価していました。そしてその頂点である桃山茶陶をもっと世界に誇っていいことであり、もっと評価すべきであると言い切っています。これは既に引用している柳の文章をそのまま受け止めて頂きたいところです。

また、数としての奇数と形を混同しているわけでもありません。柳は「偶数は完全であり、奇数は不完全である」とも述べています。
さらに近代美術に限らず、「すべての藝術には、何らかの意味で破形を示さぬものはない」とも述べています。これは、破形つまり奇数形に、美の法則を見出しているということです。その意味で柳の主張と安倍さんの主張は、表現は違っても本質的には非常に近いと感じたのです。

先日発売された「炎芸術」の中で、桃山にしろ安倍備前にしろ、毒性と刺激性があるという趣旨のことが述べられていましたが、柳も同様に茶陶にはグロテスクなところがあるとも言っています。そしてグロテスクという言葉は決して否定的な意味ではなく、芸術に欠かせない要素であるということも語っています。
従って、私には柳の主張は「破形=単に崩れた形」とは捉えてるのではないと見たほうが素直であるように思われます。

以上が私の見解です。一体私は何に陥ってしまったのでしょうか。大きな戸惑いの中にあります。
No.685さむしろ2005-12-01 17:04:58.176516+09
柳が桃山茶陶の「破形」を積極的に評価していたとのことはわかりました。気になるのは「奇数は不完全」であるとしている点です。
したり尾さんは、柳が奇数形に美の法則を見出していて、安倍さんと近いと思われた。
わたしは、安倍さんの造形における「ゆがみ」は奇数ではないと理解しています。加えただけ他から引く、どこかで3を加えれば他から3を引く(この3は1+2でもよい)といった作業をしておられるのでプラスマイナス〇という考え方です。
No.686したり尾2005-12-01 18:27:33.639694+09
「完全」「不完全」の問題は、柳の次の文でより明確になります。

「例えば『楽茶碗』などを見ると(中略)それはただ不完全な未完成な形ではなく、完全の固定を打破しようと企図したものである。『楽』が手作りなのは、轆轤による完全な円形を拒否するためである。しかも胴体や縁作りを、削ったり押したりして、全体に歪みを与える。(中略)これら一切の意図は完全への打破なのである。この否定によって茶美に生命を甦らせようとする。」

つまり「完全」とは茶碗では完全な円形(正確には半球形だと思いますが)を指すと柳は言っているのです。
これは安倍さんの常々言われていることと、基本的に同じことです。安倍さんも、完全な円形からは面は生まれないことを常々発言しておられますから。
しかも、柳は、安倍さんと同様にこのことは近代美術の先駆をなすものと考えています。

No.687さむしろ2005-12-02 12:26:10.923452+09
柳の考え方(完全への打破)には同意できません。
安倍さんの造形は、動きを与えそして動き(過ぎ)を止めるためにヘラを入れる、そんな造形と理解していますから、柳のいう完全への打破とは違うだろうと思います。柳の考えは「月にむら雲」「満月より三か月」という世界ではないでしょうか。
柳が「面」という考えを持っているかどうかについては疑問を持っています。
No.688したり尾2005-12-02 13:22:25.392252+09
さむしろさんのご意見をまとめると、次のようなことになると理解していいのでしょうか。

@柳宋悦の言う「奇数形」は数字と形を混同しており安倍さんの「三点展開」とはまったく別物である。
Aいわゆる「ゆがみ」は、たまたまゆがんであるように見えるだけであって、実際にはゆがんではいない。従って「破形」(奇数形)は、単に形の崩れたものであって安倍さんの造形論とは無関係である。
B柳の言う「完全」「不完全」は、「月に村雲」の類の情緒的な問題にすぎない。

すると、柳が強調している「茶の湯の美意識は近代美術の先駆的存在である」という評価は、どのように理解すればいいのでしょうか。

もちろん出川直樹さんの柳宋悦批判は、かつてある感動を持って繰り返し読んだ記憶がありますし、柳の民芸運動の欠点もそれなりに理解しているつもりです。
しかし、同時に美の指導者としての柳の存在を全面否定するものではありません。そのあたりが私の甘さでしょうか。
「誰もが陥りやすいところ」と私の理解を指摘されましたが、どこに陥っているのか、併せてお考えをお聞かせください。


No.689さむしろ2005-12-02 18:32:22.390994+09
@ABのように断ずるほどのものは持ち合わせません。投稿原文をそのまま読んでいただいたほうが正確かと思います。

陥りやすい、とは一般的(あるいはほとんどといっていいのかもしれない)に桃山茶陶を(多少の出来の良し悪しはあるとして)同一群と考えています。このHPの動画「桃山茶陶の焼成と造形」の中で安倍さんが解説されていました三角花入れの話は印象的でした。
ひょっとしたら、したり尾さんも同じものと分類されているのではと思った次第です。間違っていたら済みません。
No.690したり尾2005-12-02 22:31:27.294616+09
私が、柳の「奇数の美」で意識していた茶碗は、長次郎茶碗です。桃山茶陶の原点ですし、柳も明らかにそれを意識して語っています。(これは、さむしろさんにも分かっていただいていると思っていました)

そもそもは、新聞記事で柳の「奇数の美」という言葉に惹かれ、その意味を知りたくて原典に当たったのは、ご存知のとおりです。
すると、そこに「美には法則があるということ」、「茶陶美と近代西洋美術とは本質的に同根であるということ」が書かれており、少々興奮したしだいです。
立場や時代は異なっても、あるいは細部に渡っては少々相違はあっても、考え方の基本は安倍さんと柳は非常に近いと思ったものですから。
ことに「楽茶碗」の成立のくだり、つまり「完全な円形の拒否」には、私は強く惹かれました。
しかし、さむしろさんは「同意しかねる」と否定されましたので、ここらで議論を整理する必要があると思ったのです。

私の全くの錯覚であるなら、すべて取り下げます。やはり錯覚ですか。

安倍さんのインタビューはいつも楽しみに観ています。
花入のお話は、大変興味があります。しかし、せめて実物を見てみないと完全に理解するには難しい問題です。いつか実物を拝見しながら考えることにします。
なお、ここで話題にする場合、焼き物であるなら実物を見たものだけ、書き物であるなら原典に当たったものだけについて見解を述べてきました。今後も、そのつもりです。写真や孫引きは、騙されることが多いので。

No.691さむしろ2005-12-03 08:06:13.426471+09
長次郎と他の織部様式茶陶は同根であるとの前提にたっています。
柳と安倍さんの話の中でたまたま一致するところがあったとしても、織部様式茶陶についての考え方は基本的な部分は遠いのではないかと考えています。

錯覚かどうかはわかりませんが、わたしとしたり尾さんとは前提が相当違うようです。
なお、したり尾さんのご見解を取り下げられる必要はまったくないと思います。
No.692したり尾2005-12-03 08:51:30.18467+09
私も長次郎茶碗と、織部様式の茶碗は同じ理論の中にあると思っています。その上での話でした。

さむしろさんが、柳と安倍さんの理論は違うとお考えであるらしいとは承知しております。
伺いたかったのは、なぜ、安倍さんの理論と柳宋悦の「奇数の美」に書かれている考え方が違うと思われるのか、その理由なのです。
ことに「楽茶碗」のくだりで、柳の箆使いに対する考え方は「月に村雲」「満月より三日月」だと言われる理由を、ご紹介した柳の文章から読み取ることができませんでしたので。
No.693さむしろ2005-12-03 15:21:12.838473+09
一つお聞きしますが、「破形」とは具体的に言うとどういうことでしょうか?

NO680によると、破形とは定まった形を破ること = 不均斉 = 不均等 ⇒ ゆがみの美  となります。

柳の破形論をとことん突き詰めていくと、どこか一点を押せば「破形」は完成するということになりませんか?
安倍理論ではそれは成立しません。
それとも「小さい破形」を繰り返し繰り返しおこなって、そして完成したものを「破形」というのでしょうか?
あるいはもっと別のものでしょうか?
No.694したり尾2005-12-03 16:12:12.97054+09
円をどこか一点押しても、(引いてもいいのですが)奇数形にはなりません。それは楕円であり、楕円は数字で表せば「2」でしょう。ですから、一点押しただけでは偶数形にしかなりません。
柳は偶数形ではないと言い切っています。

それから、うっかり書き落としまして申し訳ありませんが、柳は「400年前の茶の湯」と書き、また、具体例として「楽茶碗」とも記していますので、長次郎茶碗をイメージしていると、推定しました。
No.695さむしろ2005-12-03 20:01:11.955293+09
一点を押すことによって「えくぼ」が出来るイメージでしたので、楕円は想定外でした。
それはそれとして、二点を押せば奇数形になるという話でしょうか?
そうであれば長次郎茶碗は偶数回(奇数になる回数)だけ押す(あるいは引く)作業を受けているという事になりそうですが、そういうことでしょうか?

変形がすなわち破形であり奇数形となるということではないのですか?
No.696したり尾2005-12-03 22:59:16.328186+09
「楽」の場合は、ご存知のように手捏ねですから、初めからその形の原型を作ります。それを半乾きになったところで、彫刻のように削りだします。ですから、押すも引くもないのです。
志野や織部茶碗などは轆轤挽きですが、実際の作業は、手で包みあげて、その形に持っていきます。押すとか挽くとかいうのは、そう言ったほうが説明しやすいからです。
しかし、おっしゃるとおり2回押すか引くかすれば、三角になる原理ですね。

柳の文章に出てくる「破形」ですが、彼は偶数ではなく奇数であることを強調しています。また奇数の「奇」の字の意味までわざわざ説明しています。ですから、言葉どおり「奇数形」は奇数に意味があると受け取るほかはないと思います。
No.697さむしろ2005-12-04 14:30:32.062141+09
柳は長次郎楽茶碗を念頭においている。

手捏ねである。

奇数であること。

そうすると「手捏ね」をどのようにカウントするのでしょうか?
それとも手捏ねした原型が「1」で「削りだし」をカウントするのでしょうか?
No.698マスター2005-12-04 15:52:37.974364+09
白熱していますがここらで薄茶でも一服いかがですか?

12月1日、古い友人が当地に出張ということで十数年ぶりに会いました。最初に紹介をしてくれた友人とその奥さんの4人で、旬の魚と懐かしい昔話、友人の消息などを肴に大いにお酒がすすみました。
いずれも親しい間柄とはいえ、互いに次はいつ会えるかわからないという一期一会の思いを持ちながらのかすかな緊張感と気配りもあり、それは茶席での緊張にも似て、大いに満足しました。
No.699したり尾2005-12-04 21:48:07.555356+09
マスター いつものもことながらお気遣いありがとうございます。
私も若くはありませんから、マスターの言われることはよく分かります。人だけではなく、季節や風景、触れ合ったすべてのものの出会いが一期一会のような気がしています。

さて、さむしろさんのご質問ですが、よほど私の説明が下手なのですね。
柳の「奇数形」は、作り方の手順ではありません。安倍さんの「三点展開」が手順を指しているのではないように。
茶碗の姿が「奇数形」であると述べているのです。
No.700さむしろ2005-12-04 23:19:07.446386+09
えぇ。どうもよくわかりません。
手順の問題ではないことはわかります。手数(てかず)の話をされているのだろうと理解していますので、その数はどうカウントするのだろうと聞きたかったのです。

「彼は偶数でなく奇数であることを強調」「言葉どおり奇数形は奇数に意味」とあり、
又「茶碗の姿が奇数形であると述べ」とあって、
前者を読むと数の問題としか読めませんし、後者では数の奇数偶数は問題ではなく形そのものが奇数であるとも読めます。
この部分の意味がまたわからなくなりました。
No.701したり尾2005-12-05 13:28:49.848784+09
やはり、私は、よほど表現が下手ですね。自分でも、ほとほとあきれ果てました。

「奇数形」とは、例えば三角形や五画形のことです。
四角形や六角形は、「偶数形」ですね。
初期の楽茶碗は、基本構造がそのような「奇数形」をしているように見えるということです。もちろん、「楽茶碗は三角形をしている」ということではありませんよ。

私の表現の拙さから、混乱を招いたことをお詫びします。申し訳ありませんでした。
No.702さむしろ2005-12-05 19:15:22.887591+09
そうでしたか。こちらの早とちりだったのかもしれません。

二つの相違点があります。
一つ目は、柳のいう「奇数形」についての理解というか解釈ですが、
したり尾さん・・・三角、五角、七角、九角の奇数角形
さむしろ・・・角の奇数、偶数に関係なく正円でなくなったものが奇数形である。1点を押し「えくぼ」が出来たものもこれにあたる。

二つ目は、「破形」についてです。(奇数形も同義のようですが一つ目との混同を避けるため破形といいます。)
したり尾さん・・・破形 = 三点展開
さむしろ  ・・・破形 ≠ 三点展開

一つ目ですが、取りあえずふたつ指摘します。
@柳が長次郎楽茶碗の造形から数的な奇数を読み出したとは考えられない。(根拠は薄弱ですが諸々の情報から。例えばNO680では『破形とは定まった形を破ることで(中略)分りやすく奇数の美と呼ぶことにしたい。』とあり、ここだけ読めば「数」ではないと言っているようです。他の文章は見ないままですが…。)
A伊賀の花入や水指には四方(四角)のものがある。

二つ目ですが、柳の破形論が安倍さんの三点展開と同じであるためには、
@破形論をもって、長次郎楽茶碗、志野茶碗、備前三角花入、伊賀水指等々の織部様式茶陶が説明出来なければならない。
A破形論をもって、織部様式茶陶とそうでない桃山茶陶の違いが説明出来なければならない。

一服いただいたので、長文になりましたが、少し整理してみました。



No.703したり尾2005-12-05 20:58:28.057159+09
まとめていただきましたので、さむしろさんと私の見解の違いが見えてきました。また、少しの誤解もあるようです。

誤解から参りますと、私は柳宋悦と安倍さんが完全に一致しているとは思っていません。しかし、目のつけ方がかなり近いと思っているのです。柳の話は織部様式までは達していませんし、和物茶碗では「楽」以外の言及はありません。しかし、「長次郎茶碗」の形の本質を見抜いていたように思えます。

最も見解の違いがあるのは、「奇数形」の理解の仕方です。
柳の言う「奇数形」は、円に対するものではありません。「偶」に対する「奇」であると、彼自身が述べていますから、それはつまり「円」だろうというのは、無理があります。
つまり、四角でもよい、角ばっていればよいというわけにはいかないのです。

また、繰り返しになりますが、柳は「茶の美は近代美術の先駆をなすもの」と語っています。ここが安倍さんと柳の認識の近さです。そのような視点から茶の美を語った人物は、安倍さんと柳以外、私は知りません。
お二人とも、時代やジャンルを飛び越えて、美の本質を掴む確かな目を持っている。そう思います。

ただし、実は柳の「奇数の美」という文章には、まだ続きがありまして・・・。それは、またいずれの話にしましょう。
No.704さむしろ2005-12-06 11:42:24.398916+09
確かにそうですね。話もうまくかみ合っていない感じがします。

「完全に一致しているとは思っていない。」「目のつけ方がかなり近い。」
「長次郎茶碗の本質を見抜いている。」  とのお説、

わたしは「=」としましたが、したり尾さんの認識が「かなり近い」とのものであることはわかります。従って「=」を「かなり近い」に訂正します。
しかし「本質を見抜いて」いるのであれば、「柳の話が織部様式まで達していな」くても、長次郎茶碗と同根である織部様式茶陶についても説明できる理論であるべきではありませんか?

また、円に対するものではない、ということですが、
NO686轆轤による完全な円形を拒否するため、(中略)完全とは茶碗では完全な円形を指すと柳は言って、
NO690完全なる円形の拒否、
などとありましたので、「円形」を使いましたが、わたしは「完全なものを偶とし、これに対するものを奇といって」おられるとの理解です。この理解は一致していると思いますが…。

しかし、したり尾さんから柳説を聞く限りでのわたしの理解は、どのようなかたちであれ完全を壊せば「奇」であるというものです。
したり尾さんのお説をみますと、単純な破壊だけでは「奇」になりえず、やはり「奇数」である必要がある、との主張されているように見えます。

ご存知かと思いますが、利休の美意識を示す逸話のひとつに、砧青磁の花入の片方の耳の一部分を打ち砕いた、というのがあります。
あまりに完全無欠であったため利休の美意識に適わなかったと言われています。
また、わたしの茶の師匠である宗匠から聞いた話ですが、床には掛け物を掛けるための釘がうってあります。その釘は真ん中にうつのではなく「釘一本分横にずらし」て打ち込むそうです。これを「みねずり」というそうですが、これも完全、完璧を避ける美意識ではないかと考えています。
わたしは、柳の美意識もこれらと通じるものではないかと思っています。
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