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No.585 | マスター | 2005-09-23 20:23:54.579977+09 |
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今日は岡山の岡南ギャラリーでの安倍安人作品展に行ってきました。力作が出品展示されていました。ほしいものがありましたが、ポケットには小銭しかありません。しばらくのあいだ悶々です。 |
No.586 | あしろ木 | 2005-09-23 21:03:28.813065+09 |
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18日の中秋の名月はとてもきれいでした。なんでもここ10年間でお月見が出来たのは、わずか4回だそうです。とても貴重な名月を見ることが出来てラッキーでした。まだなにかいいことがありそうな気がしてきました。 マスターは岡南ギャラリーへ行かれたそうですね。 なにが印象的でしたか?(あおい) |
No.587 | マスター | 2005-09-24 17:03:39.438795+09 |
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岡南ギャラリーの方に、今のHPへのアップペースではいくらも見られません、という話をしたのですが、お出でいただくお客様の楽しみをうばってもとの思いもありまして・・・、という話がありましたので、どれどれがよかったと言うのは控えますが水指、茶碗にほしいと思うものがありました。今、岡南ギャラリーHPにアップ中の釣瓶水指はすばらしかったです。 |
No.588 | さむしろ | 2005-09-24 21:46:08.699564+09 |
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そんなに中秋の名月は見れていないんですか。 でも、たしかに雨の印象がありますね。 今夜は窓を開けると寒い風が入ってきます。 いよいよ芸術の秋ですね。 |
No.589 | さむしろ | 2005-09-25 18:48:51.763614+09 |
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とあるところに、「桃山志野の特徴について誰か講義して下さい」というのがありました。 それに対して、 @釉薬がやわらかい。 A器体がうねっている。 Bもぐさ土と釉薬、全体のバランスで決定。その他絵付け造形、最後に持ったときの重さと手の馴染。 C口造りの美しさ。釉薬の色。高台の良さ。滑らかな土の質感。 D口つくりに力があるよね。最後まで気を抜いていない感じがする。現代ものは口つくりが弱い。 というのがありました。Aの説明が織部様式の桃山志野を正しく言い表していると思います。(安倍理論に合致します。) |
No.590 | したり尾 | 2005-09-26 10:10:02.669037+09 |
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久々投稿します。 「志野のうねり」について 私は「うねり」という言葉より「動き」といったほうがいいように思います。動的な世界なのか、静的な世界なのか、あるいは激しい世界なのか、穏やかな世界なのか、対比で語ったほうが分かりやすいですから。 (あるいは「大きくうねりながら動いている」と表現したほうが志野そのものを表しているかもしれません) 誰の目にも分かる明らかな「動き」を茶碗の世界で確立したのは志野の陶工たちでしょう。当然、その「動き」は口造りにも及びます。箆入れや絵付けも、その動きを強調したり、動きすぎを抑えたりする役割を与えています。 全体が補完しあいながら必然的に動いている。つまり「そうなるようになる」というところでしょうか。 「そうなるようになっていない作品」は、つまらないものです。もちろん焼き物に限った話ではありませんが。 |
No.591 | さむしろ | 2005-09-26 20:47:22.460899+09 |
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「器体がうねっている」と書いた御仁がどのような方かわかりませんが、したり尾さんのNO590をご覧になれば、もっと理解が進むでしょう。 織部様式について、ゆがみがある、あるいは押したり引いたりしているといった説明が多い中で「器体がうねっている」と感じた感性には実は驚いています。 なお、「確立したのは志野陶工」という部分については、以前にも論争しましたが別の見解をもっています。 |
No.592 | したり尾 | 2005-09-27 14:41:19.893424+09 |
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「確立したのは志野の陶工」という部分は、この際訂正しておきましょう。さまざまな意見があり、明確なことが言えるほど自信がありませんから。 |
No.593 | さむしろ | 2005-09-27 18:55:38.88956+09 |
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また材料(資料)がでましたら議論しましょう。 NO589で、C口造りの美しさ。D口つくりに力があるよね。 と書いているように、口造りの美しさや力強さに魅力を感じておられることがわかります。 安倍さんは、口造りについてもルールに則って造形されていると言っておられます。織部様式茶碗を注意深く観察すると、安倍さんが言っておられるルールと合致していることがわかります。 |
No.594 | したり尾 | 2005-09-28 13:28:00.117756+09 |
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先ほども書いたように、器全体を動かせば、必然的に口造りにも影響が出てくるはずです。口は口、胴は胴、腰は腰ではなくて、全体像を関連性を持って見るべきだと私は思います。 また、必ずしも「ゆがみ」とか、「押したり引いたりする」という表現が誤りだとも言い切れないところがあります。制作過程で「押したり引いたり」して「ゆがめ」その結果、大きくうねるように動いていくことになるのですから。 また、美しく見えるものには、必ず美しく見える理由があります。志野など織部様式といわれている茶碗には、合理的な「動き」の法則(理由)があって、安倍さんはその法則を説明なさっているのだと理解しています。 |
No.595 | さむしろ | 2005-09-29 12:48:27.84692+09 |
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NO589、とあるところから借用。 愛知陶芸資料館行ってきたよー。 すげーよかった。 桃山志野の質感とか(何であんなに釉に潤いがあるのかなー?)、織部菊文茶碗が意外に小さいこととか(持ち主のT氏が「あれで自服が一番気持ちいい」といっていたのが 実感できる)、いろいろよくわかった。 というのもありました。 桃山志野の釉の潤いについて、安倍さんは、当時のものと現代のものとでは釉薬が違うとのお考えです。 |
No.596 | したり尾 | 2005-09-29 17:18:07.770303+09 |
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多分安倍さんの言われていることは当たっているのでしょう。 志野に限らず、ほとんどの焼き物はすべての面で桃山時代とは似て非なるものです。 さらに、単なる「写し」に過ぎないものがあまりに多い。おそらく、そうしたものを希望する購入者が多いのか、多いと作家の皆さんが思っているからでしょう。残念なことです。 |
No.597 | さむしろ | 2005-09-30 09:44:42.120783+09 |
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桃山志野の質感とか(何であんなに釉に潤いがあるのかなー?) 安倍さんは「さくらんぼのような肌」という言い方をされていました。また、桃山志野はおそろしく高温で焼かれているとの意見でした。 |
No.598 | したり尾 | 2005-09-30 15:32:33.933522+09 |
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確かに「桃山志野」の場合、畳に落とした程度ではひびも入らない代物ですから、高温で焼かれていることは間違いありません。現存している「桃山志野」の中には、ひびも、傷もないものがかなりあります。低温で焼かれている「楽」の多くは、ひびや割れ、傷がかなり多いので、比較すれば誰にでも分かります。 「釉薬」については、はっきりこれだと言い切れるものはありません。現代の「志野」とは明らかに違うように見えるのですが。 |
No.599 | さむしろ | 2005-09-30 17:49:08.20119+09 |
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とあるところの書き込みです。 ある人(原文にはあるが確認できないのでこのように記す)はこのように言っている・・・ 楽茶碗は長次郎で完成しているので、いまさら古作(長次郎)を写しても意味がない。それは単なる模倣にすぎない。 今を生きる陶芸家は、今を生き今作陶する意味を考え、現代に合った、新しい現代の陶芸を行うべきである。 芸術とは過去の模倣ではけっしてなく、新しいものを生み出すことである。古作の模倣(写し)は古作の代用としての意味しかない。 古作が現在にも残されている以上、古作が欲しければ、古作を買えば良い。 現代の陶芸家として現代の作品を作り上げる事が、現代の陶芸家としての義務であり、陶芸史の発展につながるものである。 古作の模倣(写し)は、長い陶芸の歴史からみると意味のないことであり、古作が欲しい人へ代用品を安価で提供するという意味しかない。(ここまで引用) どうも理屈っぽくてよくわからない。模倣(写し)の定義もよくわからない。コピーの意味ならわからなくはないが…。定義がわからないままだが、はたして模倣しきれたものがあるのだろうか? たとえ模倣でも長次郎を模倣しきれているのであれば是非手にとってみたい。 |
No.600 | したり尾 | 2005-10-01 11:54:33.767498+09 |
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完璧な模倣があったとして、それはやはり贋作の部類になってしまいますから、まずいでしょう。いわゆる「写し」はよくあることです。作家の勉強のためであれば分かりますが、そうでなければ「とある人」のご意見に賛成です。 |
No.601 | さむしろ | 2005-10-01 19:32:22.112419+09 |
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それでも俊寛、備前三角花入、峯紅葉のどれでもいいですが、土、造形、焼き、上がりと非のうちようのないものがあれば欲しいと思うんですが…。 オリジナル性よりも、物そのものが魅力をもっていればそれはそれで名品といっていいのではないでしょうか? |
No.602 | したり尾 | 2005-10-02 08:27:00.216067+09 |
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おっしゃる気持ちは分からないではありませんが、現実にはあり得ません。同じ作家でも同じものを作ることはできませんし、電気窯ならいざ知らず、薪窯ではまったく同じように焼けることはありませんから。 |
No.603 | さむしろ | 2005-10-02 22:17:11.466999+09 |
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おっしゃるとおり同一のモノは出来ないでしょう。ですが、造れる造れないという視点ではなく、全て「模倣モノ = 魅力ナシ」とは言えないのではないかということです。 勿論模倣は許さないという世界の存在を否定するものではありません。しかしたとえ模倣モノでも魅力のあるものは受け入れますということです。ただ現実にあるかどうかは別の話です。 また、ニセモノを許すということではありません。 |
No.604 | したり尾 | 2005-10-03 09:18:45.905259+09 |
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陶芸に限らず作家が作品を作るとき、その作品でしか表現できない世界を表そうというする意志があります。仮に寸分違わず同じ作品を作ったとしても、形は模倣できても、その精神は模倣しきれるものではありません。 あるいは、例えば長次郎と同じ高さの精神と同程度の技術の持ち主がいれば、彼は俊寛を作らなくとも、別の作品で同程度の高さの感動を与えることができるでしょう。作品は必ず作家とともにあるものです。 茶碗などでは「写し」も認められています。しかし、「写し」と「本歌」とは必ず違いがあって、茶人たちはその違いを楽しむのだろうと思います。つまり形はよく似ていても本歌と写しでは、描く世界が違うのです。私は「本歌」と「写し」の関係までなら理解できます。 |
No.605 | さむしろ | 2005-10-03 11:47:09.972965+09 |
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宗達の描いた杜若図(であったと思う)屏風がありますが、ほぼ同じ構図(であったと思う)の杜若図屏風を光琳と呉春(であったと思う)が描いています。 であったと思う、ばかりで心もとないですが、 宗達の杜若図屏風、光琳の杜若図屏風、呉春の杜若図屏風としていずれも高い評価を得ていると認識しています。 |
No.606 | したり尾 | 2005-10-03 20:24:05.799699+09 |
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「風神雷神図」も同じことですね。本歌は明らかに宗達ですが、光琳も確か抱一も「風神雷神図」を描き、それぞれ芸術として独立している。 こうなると、本歌と写しとの勝負というところですね。 このような関係の茶碗があれば面白いのですが・・・。 |
No.607 | さむしろ | 2005-10-04 20:04:12.709147+09 |
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どういう人がどのような心入れで取り組んだかによって模倣が模倣ものでなくなるということかもしれません。 とあるところの、とあるお方の意見です。 写しはしょせん写しです。本物に対してのコピーでしかないです。桃山陶と似たものが作れたから、それがなんなんでしょうか。 似たものが出来たと喜んだら、それでおしまいです。桃山陶を写している陶芸家は桃山陶以上のものを作ることはできません。 独自の境地を開拓しない限り桃山以上のものは作れません。桃山陶が頂点を極められた理由は、真似事ではなくそれまでの焼物とは違う独自の作品を作り上げることができたからで、 新たなものを生み出したエネルギーが一気に頂点にまで押し上げたのです。(ここまで引用) このお方が言われる「似たもの」というのがどのようなものを以って「似たもの」とされているのかわかりませんので、このことについてのコメントはありません。「桃山陶が頂点を極め」たとの認識は同じようです。 |
No.608 | したり尾 | 2005-10-05 08:47:07.296749+09 |
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現在の焼き物の状況では「とある方」のご意見に賛成です。現在の「写し」は、「本歌」に対峙するようなものではないからです。 しかし、宗達と光琳の関係のような関係であるならば大いにやるべきだと思います。 光琳は宗達と同じテーマを殆ど同じ構図で制作し、なおかつ光琳自身の世界を表現しているからです。 ただ、器の分野ですが、魯山人のものは多くの作品が「写し」です。それでも魯山人の世界を表現しているといわれています。 魯山人そのものの評価はあえてしませんが、「本歌」に対してそれなりの世界を構築してことは事実です。茶道具の分野では、そういった対峙の仕方は知りませんね。 |
No.609 | さむしろ | 2005-10-05 18:17:34.937107+09 |
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架空の話ですが、安倍安人作水指です。胡麻が流れて落款が消えてしまいました。落款以外は大変出来の良い作品です。安倍さんは売ることが出来ないので某マスターに「これはあげましょう」とマスターにやりました。 ところがこれがどうしたことか流通してしまいました。安人作とはわかりません。箱なしで、本人もマスターも口外しません。 この作品を手にとったときに、 @「安人に似ているからコピーだ。」 だからいらない。 A「だれの作かわからないが良いものは良いんだ」ともって帰る。 さて、あなたはどちらですか? |
No.610 | したり尾 | 2005-10-06 08:31:23.136047+09 |
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もちろん、Aです。作者の問題ではなく、作品の良し悪しが問題なのですから。 だから安倍安人の落款があるからといって、すべて良しとしているわけでもありません。 この話は601の話とは繋がっていきません、念のため。 |
No.611 | さむしろ | 2005-10-06 19:06:54.80628+09 |
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またまたとあるとかろから。 写しはやってますよ。その当時までは桃山陶を復興できた人はいなかったから、まずは、どのようにして桃山陶が作られたかを研究し技術的に桃山陶を復興させる必要があった。 それは現代陶を作るうえで、第一段階として必要だったこと。 その後、陶陽にしろ、唐九郎にしろ、桃山陶を復興させた後は独自の作風を打ち立てている。この独自の作風が彼らの最終目標なんだよ。 桃山陶の技術を再現することは、それ以上の現代陶を作る上で、必要不可欠だったということ。 彼らのお陰で、桃山陶の技術がある程度解明され、誰でもある程度は再現できるようになった現代において、桃山陶を写す事は、当時のような崇高な目的も意味も無くなってしまった。 現代においては、桃山陶の雰囲気を味わうための代用としての意味しかないってこと。 そう言う意味で、桃山陶を買えない人にとっては需要はあるし、需要があるから作ればよい。(ここまで引用) 上記引用文は、評価としては結構一般的な評価かもしれないと思うが、「桃山陶を復興させた後は」「桃山陶の技術を再現」といっていることについては、桃山陶を復興させあるいは再現したとは言い難く、はっきり言えば遠く及ばなかったと思う。 「桃山陶の技術がある程度解明」についても「解明などされていない」と反論したい。 |
No.612 | したり尾 | 2005-10-06 20:29:42.888064+09 |
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他の場所の書き込みに文句をつけるのは、本来好きではありません。その人ときちんと議論ができないからです。 その上で、あえてこの文の一番の問題点を挙げるなら次のセンテンスです。 「桃山陶を買えない人にとっては(写しは)需要はあるし、需要があるから作ればよい」 これは、いわば手の届かない憧れの女の写真を壁に貼って眺めているようなものです。 こういう行為は、どこか不健康です。 |
No.613 | さむしろ | 2005-10-07 19:23:58.628096+09 |
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したり尾さんとは少々見解が違うようですが、不健康という意味ではプロマイドや風景写真も似たようなものでしょうか? 「陶陽や唐九郎が桃山陶を復興させた」とか「桃山陶の技術がある程度解明され」という部分については、一般的に広くいわれている、或いは多数説といっていいかもしれませんが、このHPでの安倍理論とは相容れないものです。 そのため、あえて実際にある意見を取り上げて、ゲストの皆さんにもこのことを強調したかったということです。そのことがここで何を言おうとしているかの理解の一助になればとの思いです。 陶陽や唐九郎の作品と桃山陶は異質なものであると考えています。 そして、いつの日かそのことを立証出来ればと夢みています。 この区分けが出来ないと安倍備前の理解は出来ないでしょう。 とあるところのとあるお方の意見を、失礼ながらそれなりの見識と思うからこその引用ですから、とあるお方にはお許しをいただけるだろうと思います。 |
No.614 | したり尾 | 2005-10-07 23:12:23.885424+09 |
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陶陽さんや唐九郎さんたちの作品と、桃山時代の備前や美濃の作品とは、見ればどれほど違うものか一目で分かります。 世にいろいろ言われているようですが、もしそれぞれの作品を実際に見ずに「再現した」と評価するとすれば、おかしな話です。また、もし見て、それぞれを比較した上で「再現した」と言われるならば、どの点を再現されたのか伺いたいとも思います。 また「桃山陶の技術がある程度解明され」とありますが、どんな技術がどの程度解明されたか、これだけでは具体性にかけますのでなんとも言えません。 陶陽さん、唐九郎さんたちが「どのようにして桃山陶が作られたかを研究し技術的に桃山陶を復興させようとした」のは事実でしょう。その試みは大変意味のあることです。 いずれにせよ、このことはもはや触れる必要などないと思っていました。大事なことは「実際に作品を見て、自分で判断する」ということです。 私は陶陽さんや唐九郎さんたちの作品を否定しているのではありません。ただ、見れば桃山時代の作品とは全く違うものであることが明らかに分かるということを言いたいだけです。 |
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