茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.555さむしろ2008-07-17 23:24:59
NO554の写真の内、右側の茶碗は造形がなされている。オリジナル物か陶工によるコピー物か、この写真だけではわからない。
No.556マスター2008-07-24 23:44:38
連日の猛暑で夏休みにはいったようですが、

このHPに「安倍安人のアートを理解してますか?」とのメールがありました。

何をもって理解したとするかという問題もありますが、この質問について考えてみました。

以前、ものはらで、NHK日曜美術館の中で作品を紹介するのに「えもいわれぬ云々」という言い方がなされたことに触れたことがあります。「えもいわれぬ良さ」から「絵にもかけない美しさ」を連想しましたが、「えもいわれぬ」を説明・表現ができないの意味とすると、説明がつかないものが名作足りうるのかという疑問をもったからです。

辞書には、「理解」:物事のすじみちを解き分けること。内容・意味などをのみこむこと。と説明してあります。「理論的に解明し内容・意味などをのみこむこと」と言い換えてもいいでしょう。

そうであるとすると、安倍安人のアートを理解しているのであれば、その「理解」したものを言葉で説明できないといけないのではないか。言葉で説明できるということは、そのアートの良さ、美しさ、魅力等(逆も含め)を他の人に伝えることができるということにほかならない。

そのように考えたときに、安倍安人のアート、すなわち陶芸、平面、コンテンポラリーの良さ、魅力なりを他の人に説明し、伝え、理解させられるかと問われれば、とんでもありませんというしかない。

そんなことで、ご質問への答えは、「とんでもありません」ということになります。
ただし、陶芸については、不完全ですが言葉で説明し伝えることができると思っています。良さを言葉で説明できる作品ということが、安倍安人のすごさでもあると考えています。

もしご見解を投稿いただければ、ものはらで紹介させていただきます。
No.557マスター2008-07-27 17:29:42
久し振りに小倉に行きました。会合後、友人二人と黒崎へ行き「麦」という小料理屋さんへ寄りました。

古美術が好きな店主で、十数年ぶりに会いました。
No.558マスター2008-07-27 17:33:05
初期伊万里酒器。
シノギとなっていて壽の文字が書かれています。
大変に可愛いものでした。
No.559マスター2008-07-27 17:40:11
食器棚にコレクション(の一部)が並べてあり、お願いをして手にとって見させてもらいました。
斑唐津酒器。
No.560マスター2008-07-27 17:56:30
古唐津、初期伊万里が特に好きなようですが朝鮮ものもありました。左の鶏竜山酒器とは別に鶏竜山高杯もあり、なかなか味わいのあるものでした。
ほかにも古唐津酒器が続々とでてきました。
久し振りの良ちゃんも相変わらずの美貌で、いい笑顔をしておられました。

ただ、安倍安人は「知らない」とのことでガックリ。
No.561マスター2008-07-28 19:21:52
NO556に対して投稿がありましたので掲載します。

はじめまして。
安倍安人先生の良き理解者マスター様

 出口の見えない質問に誠意あるご返事ありがとうございます。私が「理解していますか」と問うたのは、安人先生のホームページを運営されている方から彩色備前の評価(良し悪しは別として)が伝わってきません。今現在、先生は彩色備前をここ数年主流に表現活動を試みていると理解していますがいかがでしょうか。
 理論的に表現しなければならない職業の方は別として言葉で説明、表現できることのみが他の人に伝える手段でしょうか。言葉で表現、伝えることが出来ないものが在るからこそアートと言う世界が在るのではないでしょうか。アートには伝道師入はいりません。各個人が自分なりに理解していれば良いのです。自由なのです。従って答えは「私なりに理解しています」だと思っています。
 陶芸についてお話すれば、古備前、桃山茶陶のフィルターを通してのみ安倍備前を理解しようとしていませんか。作家も購入者(使い手)も古備前、桃山などと言いがちですが、安倍備前が出現したのですから卒業したいものです。私は、自分で紡いで染め上げたフィルターを通して心に伝わってくるもののみを評価しています。
 最近、安人先生をより理解したく思い油絵を手に入れました。油絵具のマチエールと安倍備前の胡麻、彩色のガラスユウ、絵の構図と安倍備前の凛とした造形が重なるのです。安倍備前をアートとして再認識したところです。やはり、安倍安人は造形作家なのです。

 ”ものはら 茶房”織部論 ご健闘お祈りいたします。


以上です。なお、投稿には住所、お名前等記載されていますが、ここでは発言者全員が匿名で発言していますので、投稿者のお名前は掲載せずに紹介します。
ありがとうございました。
No.562マスター2008-08-04 20:40:17
NO561様
ご投稿ありがとうございました。投稿の趣旨に対し十分ではないかもしれませんが、一応まとめましたのでお答え致します。

彩色備前について評価なり見解なりをということですが、ここで発表出来るほどの理解はありません。ある程度の時間を経て世間的評価が出尽くし、やがて定まるのではないでしょうか。
しいて言えば、表現方法が一つ加わったということであって、見た目の驚きほどの変化とは考えない方がいいのではと思っています。

ご期待に答えられず申し訳ありません。

製作者と鑑賞者との関係においては、おっしゃるように鑑賞者が、見たままに、感じたままに感じられれば、それはそれでいいと思います。

陶芸についても色々な視点があっていいと思っています。
NO561さんが「ご自分なりのフィルターを通して心に伝わってくるもののみを評価される」ことに何等の異議もありません。

私は、ここ「ものはら」では、安倍備前=安倍理論を尺度として桃山茶陶が論じられていると理解しています。
そして、その尺度をもって、職人ものの「桃山茶陶」とアーティストものの「桃山名品茶陶」を分別しなければいけないと主張し、桃山名品茶陶を生み出したアーティストがだれであるかを解明しようと試みていると理解しています。

過去に無いまったくの新説ですので、興味ある方にはそれなりに面白く読んでいただけるのではないかと思います。

安倍備前がアートであるとの認識は同感です。
No.563マスター2008-08-05 20:12:07
再度ご返事がありましたので掲載します。


ご丁寧なお返事ありがとうございます。
”桃山名品茶陶”の作者は、不明か判っていても西欧のように当時の作家論が存在しないため逆に悠久の時間を思い馳せることが魅力の一つになっていると思っていますが、その作者を解明する試みは困難を伴うと思われますが非常に楽しみです。期待しています。


今後どのような展開になるかわかりませんが、お楽しみいただければ幸いです。
どうもありがとうございました。
No.564さむしろ2008-08-20 18:35:19
書き尽くしたとの感もあり、暫く夏休みをしています。

先日、知人の喜寿の祝いの席に呼ばれたので行ってきました。その席で隣り合わせになったのが、旧知の画家のKさんでした。(S12生、光風会、日展で活躍中。)凡そ10年振りです。

雑談のなかで、
今、桃山名品茶陶の解明を試みていること。
同時期に、遠隔地でありながら一群のものが同一のルールで造られていること。
楽長次郎の茶碗も同一のルールであること。
各窯跡とも、完成品・過程品のいずれについても陶片が出てこない事。
鍋島藩主が国許へ宛てた書状で、古田織部が今ヤキ候者を唐津に派遣して焼いて持ち帰らせていることを認めていること。
私は、そのようなことから一群の桃山名品茶陶は長次郎によって造られているのではないかと考え、HPで発言していること、
を話しました。

Kさんは大いに興味を示され、まったくありえない話ではないとの印象を受けられたようでした。
Kさんの理解は早く、いったん話題が変わった後からも再度話題にだされるほど熱が入ったように思いました。
少々疲れ気味でしたが元気をもらいました。
No.565さむしろ2008-08-24 22:57:03
以前、小山富士夫がローソクの明かりで長次郎茶碗を見て、その美しさに感動したという話があると書いた。

そのときのもう少し詳しい状況がわかったので紹介しよう。

昭和18年頃のある夜、鳥海育児、今東光の二氏が自宅を訪ねてきて持参の「あやめ」を見てくれという。
当時戦時灯火管制下で電灯がない。仕方がないのでロウソクをつけて見た。
自分は前にこの茶碗は見たことがあり、見事さは知っているつもりだったところ何と灯かりの光に照らされたこの楽茶碗の美しさ「皮のような渋い肌もさることながら、起伏、ひずみの美しさ」に感嘆した。

一夜明けて翌朝日光の光でもう一度見てまた驚いた。昨夜見た美しさは霧のごとく消えてしまっている。
そこで、光について考え、昔の人は今のわれわれの知らない美を見ていたに違いないとの感を深くした。

以上である。
No.566さむしろ2008-08-26 00:08:44
昔から、夜目遠目傘の内ということがある。少し影の中にあるほうが美しく見えるということはどうも真実のようである。
しかしこれを小山富士夫の話と一緒にしてはいけない。影の中におけば駄作が優品になるということではない。

安倍さんの作品には小山富士夫の言が当てはまる。朝晩安倍さんの茶碗でお茶をいただくが、飲みおえた茶碗を台所に置くと、茶碗の裏側から入る光で陰影が生まれ、とてもいい表情になる。

明るさで見なければ分からない美があり、又、明るさに消える美もある、と著してあった。

このHPにある安倍さんの作品は陰影を意識して、その表情を見せてくれている。
No.567さむしろ2008-08-29 23:24:12
武将達にとっての茶はどのような存在であっただろうか。

武士の知らぬは恥ぞ馬茶の湯
はじより外に恥はなきもの

こんな話もある。
ある日、秀吉が黒田如水を茶会に招いた。如水は茶の湯を馬鹿にして習っていなかったので困った。しかし主命、いやいやながら茶室に入った。他に客はおらず、秀吉も茶を点てようとはせず、軍略の話ばかりだった。数刻たって秀吉がほほえみながら言った。「これが茶の一徳だ。もし茶室以外で、長時間の密議をこらしたら、人はいろいろと疑惑を招くだろう」と。

如水も「なるほど」と答え、それ以後茶の湯を学んだという。
No.568さむしろ2008-08-30 23:48:43
豊後の大友宗麟の弟晴英(後改名して義長と名乗る。)は瓢箪の茶入を所持していた。

弘治三年、毛利元就は大内の家督を継いだ大内義長を長門に攻めた。そのとき、元就は大友宗麟に貴弟の義長を助けようか、どうしようかといってやった。すると宗麟は、弟はどうなってもよいが瓢箪の茶入だけは譲ってもらいたい、と返答したので、元就はそのとおりにしたという。

ここでの瓢箪茶入は、天下六瓢箪の一つで、茶入の随一といわれたものだという。
No.569さむしろ2008-08-31 23:14:11
ある茶入の履歴

初花肩衝は、新田、初花、楢柴とならび称された天下の三名物の一つである。

足利義政(東山御物)−鳥居引拙−大文字屋宗観−信長−信忠(信長長子)−松平念誓−
家康−秀吉−宇喜田秀家−家康−松平忠直−松平正信−徳川綱吉(柳営御物)−徳川宗家

戦国の動乱、本能寺の変、夏の陣、明暦の大火などなどをたくみにくぐりぬけた。

この間名物狩り、政治的意図によって進上され、また恩賞として、また権威を誇示するものとして役割をもはたした。
No.570さむしろ2008-09-01 23:07:28
初花肩衝の話は、初花のみのことではなく、他の名物も同様であった。

秋月種実は、楢柴肩衝を秀吉に献上して首をつないだとの話だし、武将の意地で平蜘蛛の釜をあの世へ連れていった松永久秀の話もからも、武将たちの名物への思い入れが想像できる。
No.571さむしろ2008-09-02 21:36:51
信長は名物を秘蔵するだけでなく、戦功のいちじるしかった者に褒美として与えた。名物を与えるとともに茶の湯を許された。

秀吉は「御茶湯御政道といえども」これを許されたとき、その有難さは「今生後世忘れ難く」夜昼涙を流して喜んだという。

武将達にとって茶の湯を許されることは、一かどの武将として認められることであり、地位の向上、権威の象徴であったいう。
No.572さむしろ2008-09-04 00:03:16
上井覚兼日記

上井覚兼は島津の武将で、宮崎城主であるが、茶の湯日記の天正10年11月12日からの一ヵ年をみると70回の茶会を催している。かなりの回数である。

また道具を誇示した様子も察せられるという。
そして覚兼の茶の湯には、盤上の遊びと、風呂と、酒宴が結びついていたという。

地方にまで行き渡り、慰みとなっていたようである。

なかには次のようなものもある。

佐久間甚九郎は余りに茶の湯をやりすぎた。もしその百分の一でも武道に心がけていたならば、父信盛の失敗もそれ程多くあるまいものを、無益の数寄に・・・・。

と茶の湯に溺れた例もあげている。
No.573さむしろ2008-09-04 23:56:34
利休により侘茶が確立されるとともに道具の好みもかわり、

『山上宗二記』に「惣テ茶碗ハ唐茶碗スタリ、当世ハ高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼ノ茶碗迄也、形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」
とあるように、高麗茶碗が多く使われるようになり、形さえよければ「数寄道具」となるといっている。

このことは名物道具を持たなくても数寄道具を持てば茶の湯が出来るようになったともいえる。茶の湯が、特権階級のものから大衆化とまではいわなくとも、裾野を広げたことは間違いない。
No.574さむしろ2008-09-06 01:07:06
利休は、御成りの茶においても一切の虚飾を排して「侘び」の茶を主張したが、古田織部は利休の茶を学びながらも自らの茶の湯に対する考えを積極的に打ち出した。

1622年に秀忠の尾張屋敷御成りが行われた。
そのときの道具は、東山御物の堆朱布袋香合、秀吉旧蔵の南蛮芋頭水指、名物梶釜など、いわゆる名物茶道具ばかりであった。

利休自刃後30年ばかり経ており必ずしもふさわしい記録ではないが、名物は完全に見捨てられたということではなく、最高位クラスの蔵に納まったままとなり、中低位の茶の湯者とは無縁のものとなっていたと考えたい。
No.575さむしろ2008-09-07 23:18:41
秀吉が茶の湯を許されたとき、その有難さは「今生後世忘れ難く」夜昼涙を流して喜んだという話や、武将達にとって茶の湯を許されることは、一かどの武将として認められることであり、地位の向上、権威の象徴であったいう時代は、

秀吉が北野の大茶会で、

茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜一つ、釣瓶一つ、呑物一つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること。
と触れをだした1587年頃には、若党、町人、百姓を問わず茶湯を楽しむことは自由となっていたと思われる。

秀吉が秀次に家督を継がすため四ヶ条の教訓状を与えたというが、その中で、「茶の湯は慰みごと」だから、時には茶会を開き、人を招待することはよろしい、と書いている。

茶の湯は、信長の時代の「政道の手段」から秀吉の時代には「慰み」にその役割が変わった。
No.576さむしろ2008-09-09 09:51:55
若党、町人、百姓を問わず茶湯を楽しむことは自由となっていた、といっても茶の湯を楽しんだのは極一部一握りの権力者、富裕層とそれらに連なる人々であったと想像したい。

織部の時代になっても大筋において変わらなかったものと思われる。
織部の書状を見ると、茶入の蓋と袋の誂えの世話、
墨蹟の目利きと表具の仕立ての世話、
釜底の修理の手配、
茶入の目利、茶入用唐物朱盆の世話、
等々を織部が行っていたことがわかる。

名だたる武将あるいは商人であればあるほど、茶会を催して恥をかきたくない。立派な茶の湯者振りであったといわれたい、という思いが強かったのではないかと思う。

細川三斎でさえそうである。再々伺いをたてていることが書状からわかっている。
細川幽斎、三斎に仕えた松井佐渡守は、主君に代わって尋ね事、相談事をしていたと思われる。(NO273)

利休七哲の一人といわれる細川三斎でさえ、道具について織部に相談をしないと茶の湯ができなかったと想像させる。
No.577さむしろ2008-09-10 00:03:57
名だたる武将、商人が、織部を頼りとすればするほど、織部の茶の湯者としての地位と名声は高まる。

NO573で、『山上宗二記』に「惣テ茶碗ハ唐茶碗スタリ、当世ハ高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼ノ茶碗迄也、形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」
とあるのを紹介した。

特に注目したいのは、「形さえよければ数寄道具となる」といっている部分である。

私は、瀬戸茶碗は瀬戸黒茶碗ではないかと考えている。今焼茶碗は長次郎茶碗である。

山上宗二記が著されたとき、長次郎茶碗に造形がなされていたかどうかは不明である。1587頃であれば、あるいはなされていたかもしれないしまたなされていなかったかもしれない。

しかし瀬戸黒茶碗は造形がなされていた。しかも長次郎茶碗より先に誕生している可能性が高い。

宗二は瀬戸黒茶碗に出会っていたはずである。しかし造形には触れず「形さえよければ」といっている。このことから、宗二は「造形」について聞いておらず、また気付いていなかったのではないだろうか。
No.578さむしろ2008-09-11 23:44:12
「形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」

頃合いさえよければ数寄道具であって、造形、景色については基準には入っていなかったとも読める。利休の作意だからこそ「成る程!」と茶の湯者達を唸らせたのかもしれない。

瀬戸黒のおだやかな造形、長次郎茶碗の気付かないほど静かな造形には、微かな波があることはわかってもその本質、意図に気付かないまま「これは利休殿のお目を通った茶碗」ということのみに気をとられ、造形から感じられる心地よさはそれとは気付かぬまま大事にしていた。

No.579さむしろ2008-09-12 19:29:09
利休の今ヤキ茶碗ということで、「利休」がついていることが大切であったのかもしれない。

そういえば現代でも家元の書付がないと茶会で使えないといったことがある。ものの良し悪しの判断がつかないから書付の有る無しで判断する、そんなことがあったのかもしれない。

利休の亡き後、そうした利休の役割を織部が引き継いだ。

No.580さむしろ2008-09-16 20:25:20
慶長期になると、茶会記に登場する茶会の数が激減する。
 年  回
1592・・21   1600・・1   1608・・7
1593・・19   1601・・4   1609・・4
1594・・21   1602・・3   1610・・0
1595・・4    1603・・4   1611・・3
1596・・4    1604・・4   1612・・3
1597・・14   1605・・8   1613・・3
1598・・4    1606・・13   1614・・1
1599・・23   1607・・2   1615・・0

これをもって茶会が開かれなくなったとはいえない。
古茶会記の記録者が招かれた茶会が減ったというふうに考えたほうがいいだろう。

秀吉亡き(1598)後の豊臣と徳川との覇権争いが大坂冬・夏の陣で決着するまでの間、織部は、茶の湯を利用して、中間派、大坂方武将に対して大いに調略を行ったと思われる。
その手段としての、客組み、道具のやり取りが行われたと想像したい。
秀吉が行ったような、権力を誇示する茶会は皆無といってもいいのではないか。

疑心暗鬼のなかでは、自由に行き来する茶会はそんなに多くはなかったのではないだろうか。
No.581さむしろ2008-09-17 23:55:19
OLIBE 古田織部のすべて 久野治著 鳥影社に次の記述がある。

=関が原の合戦=

最後まで戦った三成の本体も午後には算を乱して敗走する。天下を二分して戦われた関ヶ原の合戦もあっけない幕切れであった。
これは戦前、家康が小早川秀秋等に内応をとりつけていた結果といわれる。家康は老獪であった。織部は隠居の身であったが、茶道の弟子にあたる常陸の佐竹義宣を東軍へ、調略したとして七千石加増をうける。

この記述の元となる出典はわからないが、多分そうであろうと思いながら読んだ。


No.582さむしろ2008-09-19 11:51:31
1600年代初頭、おびただしい数の美濃焼が焼かれたという事実もあるようなので、幅広い層で茶の湯が楽しまれたのも事実だろうと思われる。

織部も、大いに招き招かれ、道具の目利き、世話等等行ったことは間違いない。
しかし、その実体は闇の中でほとんどわからない。
No.583さむしろ2008-10-29 19:27:36
話題を変えよう。

以前、安倍さんに「先生の作品には力がありすぎるためお茶の先生たちは使いにくいのではないか」といったことを話したことがある。これに対して安倍さんは「茶道具として(使ってもらおうと思って)作ったことはない。」と話された。茶道具を作っているとの感覚はなく、水指という造形作品、花入という造形作品を作るとの感覚なのだと理解した。
No.584さむしろ2008-10-30 09:34:43
これまでを振り返ってみると、私は、一貫して茶道具としての水指、花入として見てきたように思う。勿論、このことを間違っていたというのではない。
いつか安倍さんの水指を茶席に据えて、あるいは花入を向う掛として又、床に置いて茶会をやってみたいと思っていた。

そのためにはそれにふさわしい茶席が必要であった。

No.585さむしろ2008-10-31 12:09:31
奥出雲に櫻井家という旧家がある。田部家、絲原家とともに出雲地方の御三家と言われている。

櫻井家には、松江藩主の御来駕のために、藩お抱えの棟梁によって築造された書院がある。吟味された材料と名工の手によった瀟洒ながら重厚な書院である。

また、代々伝えられてきた美術品、調度品、家業のたたら関係資料等を展示公開するための可部屋集成館があるが、それらとともに本邸と庭園が有料で公開されている。

幸い何度か訪問の機会を得て、書院をその内側から拝見した。
No.586さむしろ2008-11-03 15:52:15
見るべき目を持たないわたしでも、さすがに造りが違うということはわかった。そして、繰り返し見ていくうちに段々と良くなる。

書院には三畳(台目畳三枚)の小間茶室がそなわっている。
最初の印象は小さすぎて使いにくいだろう、というものであった。


No.587さむしろ2008-11-04 13:08:15
その後、多分数十回になると思うが訪問し、最近この茶席が極めて珍しいものではないかと気付いた。

ここへ安倍備前を据えてみたいと思うようになったのである。まだ安倍作品を一度も据えてはいないが、彩色備前水指でさえピタッと座るのではないかと想像している。

No.588さむしろ2008-11-05 11:35:57
この茶席がなぜ極めて珍しい茶席だと思うかであるが、まずどのような茶席か紹介しよう。

先に書院には三畳(台目畳三枚)の小間茶室がそなわっている、と書いた。書院は上の間、ニの間、三の間からなっていて、ニの間、三の間に接して台目畳三枚の小間茶室が作られている。

言葉の説明ではわかりにくいと思うが、上の間、ニの間には縁側が廻らされていて、なお三の間がニの間と一間ずらされたことにより一間半の茶室がとれたということである。
この説明のみではあまりにわかりにくいので図を入れておく。
No.589さむしろ2008-11-06 12:02:47
この茶席は「御茶所」と呼ばれている。書院築造のときからそのように呼ばれていたことは、櫻井家に伝わる古図からわかる。

御茶所の名がいつ頃から出てきたのかわからないが、手元の資料によると、前田利家が豊臣秀吉の御成りのため築造した書院に「御茶所」が設えられたとある。
No.590さむしろ2008-11-07 10:03:43
室町時代足利将軍の頃には随分と御成りがあったようである。
秀吉が天下人となり、主と臣下の立場を明確にする意図で幾度かの御成りを行ったようだ。漫画或いはドラマで見られた方もあると思うが、秀吉が家康に上洛を求め、諸大名の前で「○○(名前であったか官位であったか不明)上洛大儀」と言って自らが主であることを諸大名に見せつけた、というものがあった。これに通じるものであろう。
No.591さむしろ2008-11-08 14:38:26
「歴史読本」臨時増刊‘78―9将軍の御成りと茶の湯・佐藤豊三に詳しく書かれているので紹介しよう。ただし所々をつまんでの紹介になるので必ずしも正確でない恐れがあるので、出来れば原文にあたっていただきたい。


室町の御成りでは、茶は別室で点てて運び出したという。このことはよくご存知のとおりである。しかも、必ずお茶がついているというものではなく、所望があった場合に供したようだ、と書かれている。

御成りの次第は「儀式」と「宴席」から成り立っている。お茶については、将軍が好む場合にのみ、お供衆が持参するものであると述べている、としている。
No.592さむしろ2008-11-09 16:57:50
「歴史読本」臨時増刊‘78―9将軍の御成りと茶の湯・佐藤豊三から。

前田利家は秀吉を迎えるに当り、三年も前から利休とも相談しながら数奇屋・書院の準備を行ったという。
「文禄三年九月二十六日、大坂の前田邸へ秀吉が御成りを行った際、織田有楽が残らず指図した。有楽の妻は自分の祖父の娘という縁からこの図をことごとく写した。中川源太夫為範」といった頭書がある、大変詳しく記された資料があるという。
この御成記に「御成書院」と「御茶所」があることが記されている。

なお、文禄三年にはすでに利休はいない。
No.593さむしろ2008-11-10 11:44:12
「歴史読本」臨時増刊‘78―9将軍の御成りと茶の湯・佐藤豊三から。

室町時代の茶の湯所は、四畳半が原則で、時には三畳敷の場合もあったが、この御成記の挿図には一室を一間半とあり、三畳敷であることがわかる。この点は、数寄の茶が書院の建築内に持ち込まれ、定着した証として注目される。ただし、その解説によると、茶道具類はすべて飾られており、この部屋に秀吉が座して茶事を行ったとは思われず、一覧に供したであろうが、名称通りの御茶所として、点て出しの場であったと推測される。

この席に床があったのか、なかったのか?
炉が切ってあったのか、なかったのか?
については触れられていない。
No.594さむしろ2008-11-11 09:34:58
「歴史読本」臨時増刊‘78―9将軍の御成りと茶の湯・佐藤豊三から。

徳川将軍の御成り。
家康。慶長九年四月浅野幸長邸へ、ついで結城秀康、池田輝政、金森長近、伊達政宗、藤堂高虎の各邸を訪問。但し、規模内容は不明。
秀忠。藤堂高虎、伊達政宗邸へ。但し、様子は不明。
真に将軍として御成りを行ったのは元和三年五月、前田利常邸に対してのもの。その様子は「事々敷御作法」と伝統的な御成り形式を遵守しながら、足利、秀吉時代とは異なった形式で行われている。
その形式は「朝は数寄に被為成。其より御書院へ被為成」たことで、御成り次第に茶事が組み込まれたのみならず、その次第の一番目に数奇屋での茶事が行われたことである。

しかし数奇屋での茶事がどのように行われたかは不明という。
No.595さむしろ2008-11-12 09:29:13
光禅さんはNO56で、
『「慶長御尋書」あるいは「宗甫公織部へ御尋書」として、従来まで遠州が織部に尋ねた聞書きとされた文書ですが、現在では龍谷大学大宮図書館から「茶道長問織答抄」が発見されたことで、浅野幸長が、上田宗箇を使いとして古田織部に尋ねたものであったことが判明しています。
 内容的には織部らが工夫した、武家における御成(家臣が君主を自邸に招いて饗すこと)の茶事のこと、「織部格」と呼ばれた約束事などです。
 しかし、それより何より興味深いのは、これが、関ヶ原に勝利した3年後の慶長8年に、家康が将軍として江戸幕府を開いてから、慶長19年、元和元年の冬夏の大阪の役に至る前年までの、約10年間の伏見城下での出来事であったということです。』

と、新しい御成り形式の成立を述べておられる。
家康の、慶長九年四月の浅野幸長邸への御成りは、まさにこの「織部格」によってなされた、と言ってもいいのではないか。
No.596さむしろ2008-11-13 10:00:53
家康の慶長九年四月の浅野幸長邸への御成りが「織部格」によってなされたとすると、秀吉を迎えて前田邸で行われた御成り形式はすでに過去のものとなっていたことになる。

前田利家が利休に相談しながら御成りを迎える準備をしたことから当然といえば当然なことではある。
つまり、利休は、御成りのときも小座敷であれば小座敷、書院であれば書院と一日の内で座をかえての接待を戒め、御成りといえどもこのことは一貫していたと思われるからである。
No.597さむしろ2008-11-14 12:50:05
これに対し織部格では、座をかえるという事を行っている。まず数奇屋で茶事を行い、茶室の通い口から書院に向かう途中に「鎖の間」を設け薄茶の接待席とするという形式である。

「鎖の間」は、茶室での接待から正式な書院の接待へと移る前のくつろぐ場としての性格をもっていた。(「歴史読本」臨時増刊‘78―9将軍の御成りと茶の湯・佐藤豊三から。)
No.598さむしろ2008-11-15 12:22:50
「御茶所」を備えた書院は、あるいはもっと短い期間のみであったのかもしれない。
織部は利休が茶室に求めた侘びの厳しさを巧みに緩和させながら、武家の建築庭園に調和を図った。(「歴史読本」臨時増刊‘78―9将軍の御成りと茶の湯・佐藤豊三から。)

相伴席を付け加え、鎖の間へとつなぎ、そして書院へと導く形式である。ただ、この形式の完成は、織部と幸長、宗箇による、慶長御尋書の完成によってということになる。
No.599さむしろ2008-11-16 16:52:57
徳川秀忠の尾張屋敷御成りと前代との比較。

御成りの時刻
足利将軍    午後二時  翌日午前十時御帰り
秀吉       午前十時  その日のうちに御帰り
元和の御成り  
ご相伴衆
足利将軍、秀吉  少なくとも十名以上の公卿、大名が相伴
元和の御成り  水戸頼房、藤堂高虎の二名    数奇屋での茶事のためか。
御成りのお迎え
室町期      四足門(御成門)の前まで出迎え。
元和の御成り  数奇屋の外露地まで出迎え。
  (「歴史読本」臨時増刊‘78―9将軍の御成りと茶の湯・佐藤豊三から。)
No.600さむしろ2008-11-17 12:59:43
時代は100年ほどとぶが、元禄15年の綱吉の前田家への御成りの記録である。

御膳は、(略)など膨大な量にのぼり、当日だけでも七〇〇〇人以上の饗膳が用意され、前後を含めた総賄い高は三万人ほどであったという。

この中で夕の三汁八菜の膳は譜代大名、老中、大御番頭など、二汁五菜は譜代大名の家来衆、一汁三菜は役者などに饗され、身分によって出された料理の内容に差別があったことがわかる。

また、この御成に伴う御殿は、表書院、式台、広間、納戸、廊下、勝手など四八棟の殿舎が造営され、それらの襖、壁、戸、天井には長谷川等麟、探雪、休碩、養朴その他一流の絵師が多く動員され、贅を凝らした装飾を行っている。

また、御成が終わった後、大名、旗本、門跡などを招待し、饗応を行う「後見の祝」として、合計で九回の招待を行っている。


なんとも言いようの無いスケールの御成りの行事である。
No.601さむしろ2008-11-18 13:50:09
小堀遠州による御成り形式

織部の亡き後武家の茶の湯を指導したのが小堀遠州である。
遠州は、織部の創り出した数奇屋・鎖の間・書院と連続する形式をさらに発展させて、鎖の間に続いて「納炬の間(どうこのま)」を重用し茶室と書院との一体化を図り、華やかな書院の茶を創り出す。

室町の寝殿には、御納戸・御休息所が必ず設けられて、将軍の休息や衣服を改める部屋とした。(「歴史読本」臨時増刊‘78―9将軍の御成りと茶の湯・佐藤豊三から。)

納炬の間はこれと同様の役割と思われる、とある。
No.602さむしろ2008-11-19 11:47:17
盛大な御成りも、秀忠の薨去、また家光の薨去以降簡略化され、特に寛永七年四月の島津家久邸を最後に外様大名への公式訪問が行われていないことから、幕府の外様大名への外交政策の転換がその大きな理由と考えられる。(「歴史読本」臨時増刊‘78―9将軍の御成りと茶の湯・佐藤豊三から。)
No.603さむしろ2008-11-20 18:35:48
このように御茶所を設えての御成り屋敷は前田亭のほかに、あったのかなかったのかわからないが、「御茶所」が織部好みのものではなかったのは確かである。

前に書いたが、細川三斎でさえ茶の湯にかかわることは織部に相談しながら行っていたくらいであるから、その他の武将達もしかるべく相談をしながら茶の湯を行ったことは容易に想像できる。

そのような観点からみると、御茶所を備えた書院はそう多くはなかったと思われる。織田有楽が係ったものがあればあるくらいではないか。
No.604さむしろ2008-11-21 10:58:59
このようなことから、櫻井家に残る「御茶所」は大変稀な茶室ではないかと考えるのである。

古典をよく研究し、また、学んでいたといわれる松平不昧であれば、このような茶室を設計したとしてもなんの不思議もない。

過去分へ


クリックすると日本語トップページに戻ります。