茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.1240さむしろ2011-06-25 09:18:54.190791
松永安左ェ門著作集を読む。

明治四十年。その昔名古屋の茶人高田源良が原ソウ手造の鈍太郎茶碗を得て自ら茶室を太郎庵と称した。その茶碗を入手された翁は明治四十一年に太郎庵写しを御殿山に建てられた。

今の太郎庵がそれで鈍翁の号が生まれ、その年十二月洋行して帰朝後の重患快癒祝いと、還暦と太郎庵披き連会の茶を出された。

この時はもはや日本一の大茶人としての矜持があり、堂々たるものであった。
No.1241さむしろ2011-06-26 00:51:15.152774
松永安左ェ門著作集を読む。

野崎幻庵の「茶会漫録」
床    小倉色紙  表装古織好  本田佐渡伝来
      たれをかも知る人にせん高砂の松もむかしの友ならなくに
釜    立松山城 銘 碧雲    香合   染付 叭々鳥
花入   遠州深山木 江月箱    水指   木地曲    茶入   霊亀
広間床  印陀羅 寒山拾得     香炉   砧 千鳥形  卓    鎌倉時代
棚    東山殿永村短刀 時代和歌浦蒔絵硯筥
釜    宮島           香合   青貝一文字 二羽鶴
水指   祥瑞共蓋         茶器   藤重     茶杓   時代象牙
茶碗   井戸 春日野   雲鶴 女郎花
No.1242さむしろ2011-06-26 23:57:10.367076
松永安左ェ門著作集を読む。

御殿山東南の一角、元真葛庵の跡に為楽庵が建てられたのは大正二年で、江月、沢庵、遠州の三筆の額が掛けられた凝った茶室であった。

これは不昧公の袖ヶ崎茶席の為楽庵写で、いかに翁が明治の不昧公をもって任ぜられていたかその気宇の壮なるを知ることが出来る。
No.1243さむしろ2011-06-28 00:30:33.085504
松永安左ェ門著作集を読む。

六十一歳の本復祝兼還暦祝いの茶は、更にその茶境の進展に拍車をかけ、その頃よりやや三井の表職を退隠の心持ちがきざし、好きな茶が唯一の趣味となり、御殿山の茶道場は大師会の催と相俟って百華咲き出づるの盛観となり、更に六十六歳で三井の重職を一切擲たれ、閑雲野鶴の一鈍翁となり了せられた。

大正五年頃の茶事こそ最も充実せる時代である。
No.1244さむしろ2011-06-28 23:47:06.673471
松永安左ェ門著作集を読む。

昭和十一年十二月二十八日、客 高橋箒庵、田中親美、松永耳庵
寄付   沢庵文  綿帽子を貰った礼
本席   朝吹柴庵の消息
水指   紹鴎信楽            茶入  野田手月迫
茶杓   普斎  銘 去年今年     茶碗  非黙作翁さび
淡茶の茶碗は唐津銘晩鐘  八代暦手
No.1245さむしろ2011-06-29 23:31:20.130278
松永安左ェ門著作集を読む。

大正七年、翁は七十一歳で男爵を授けられ、十二月に口切茶会を催す。
床   隆蘭渓「居山」二字      釜   田屋糸目
香合  染付張子牛
後座
花入  遠州尺八 深山木に妙連寺と光悦椿    茶入  唐物つる付
茶碗  御所丸黒刷毛         茶杓  三斎共筒 松平周防守伝来
応挙館八帖 薄茶席
床   月山 稲の絵         釜   与次郎 福寿文字入
No.1246さむしろ2011-06-30 23:52:54.961309
松永安左ェ門著作集を読む。

深山木花入は翁が晩年までも寵愛せられたる名花器である。
入手は日清戦争の頃。小堀家入札が星岡で開かれ、令弟紅艶君が八百円で落札したのをその十倍の八千円で買い受けた。
No.1247さむしろ2011-07-02 00:13:46.152106
松永安左ェ門著作集を読む。

   席    高松邸  苦楽庵
床   寸松庵色紙「霜のたて」    花入   遠州作山姫
釜   与次郎 万代屋        香合   呉州銀杏
茶入  名物 鷹羽屋         茶碗   玉子手(注:高麗茶碗)
茶杓  三斎公共筒
No.1248さむしろ2011-07-03 09:36:35.19979
松永安左ェ門著作集を読む。

当時の白眉であり、また鈍翁茶会中の傑作と称すべきものは太郎庵茶会である。
富田宗孝氏も日記より抄出。
寄付  覚々斎鈍太郎茶碗 添文高田源良宛   丸炉に寒雉瓢形釜
火入  古備前小
床   利休鶴雑炊文             花入   遠州作山姫
釜   与次郎大切合         五徳   与次郎大爪
懐石
向附  志野四方累座足付     香物鉢  刷毛目
酒器  古備前      盃  井戸平  青磁八角
中立    煙草盆一閑釣瓶      火入   織部
No.1249さむしろ2011-07-03 23:20:44.93078
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後入
花入  古瓢           水指  古常滑
茶入  備前緋襷肩衝       茶杓  後藤宗伴より贈り筒 鈍太郎付属
茶碗  覚々斎作 鈍太郎 竺嶺和尚箱   建水  古丹波いびつ鈍太郎用と有
薄茶
茶器  町棗           茶碗  御本筒     替   権兵衛
茶杓  江岑共筒
No.1250さむしろ2011-07-04 23:03:28.597934
松永安左ェ門著作集を読む。

大正十三年八月二十一日 正午   主 鈍翁
 客 高橋蓬庵 加藤勝太郎 梅沢安蔵 益田多喜 横井三王 横山雲泉
床   芭蕉文          釜   古天明     風炉   朝鮮なべ
茶入  宗旦手張朱棗       茶杓  普斎      茶碗   粉引酢口
No.1251さむしろ2011-07-05 23:54:21.382966
松永安左ェ門著作集を読む。

紫明夫人の内助。
こはむつかしい問題だが、杉の森、茅場町、明石町のその家は翁の茶会場となったが、紫明夫人は翁の趣味を助長した。その理由は本邸の夫人は茶を好まれず、家族の方も喜ばれなかったから、翁が茶事に内助を求むれば紫明夫人より外はない。もし智謀の人として見るならば、古今にその類を絶する女流茶人であった。
No.1252さむしろ2011-07-06 22:54:14.305048
松永安左ェ門著作集を読む。

柏木貨一郎
翁に最も影響した人と思う。明治初期の破壊時代に古美術を蒐めて脇目もふらず。また観古美術協会や鑑画会の起こる先駆で、フェノロサを開眼したその人は柏木一団の先覚ではなかったか。この人に導かれたのが鈍翁である。
No.1253さむしろ2011-07-07 23:45:28.752416
松永安左ェ門著作集を読む。

森川如春
氏にはその眼識に服していたようである。苦労人と坊ちゃんの対照であるから問題ではないが、それだけは如春庵主の眼識は越格の調がある。それを翁は愛して他山の石とした。
No.1254さむしろ2011-07-09 23:23:10.938669
松永安左ェ門著作集を読む。

浅川伯教
翁が所蔵の茶碗の戸籍調べは翁に取っては興味ある問題のので、度々伯教氏の見を問われた。
No.1255さむしろ2011-07-10 22:01:16.0104
松永安左ェ門著作集を読む。

倉持貞重郎
氏は一色氏の門弟で天性庭造りの名人であり、茶花探求の名人であったので、翁の花が一世を風靡したのはこの人の裏面の力による。茶杓、花入の下削りをもした。
No.1256さむしろ2011-07-11 23:15:02.011206
松永安左ェ門著作集を読む。

松山吟松庵老
翁が最晩年に茶の方面の悟道に入ったのは全く松山老の力である。『宗及日記』の結論は翁が面白く帰結され、それが数回翁によって実行せられたが、その終止符が松花堂三百年忌茶会であった。
No.1257さむしろ2011-07-12 23:26:48.658769
松永安左ェ門著作集を読む。

歌人大口鯛二
氏は初め翁が山縣公の常盤会同人として歌を出された時からの選者であった。以来大正九年大口氏の没年にまで翁の歌を見られた。翁は大口氏の蔵品を買い上げられたと思うが何品であるか解らぬ。本願寺三十六人集はこの人の発見である。
No.1258さむしろ2011-07-13 22:10:40.655926
松永安左ェ門著作集を読む。

かって鈍翁が私に「自分は素人で道具や書画のことはよく解らぬが、それで古美術をかくまでに蒐め得たのは、皆その道の達人を友人に持ったからで、いわば自分の勘で人の噂、よさそうな口振り、目つき、その一切を勘得して「これだなァ」と考えると思い切って買い取った。ただそれだけだ。」といっておられた。
No.1259さむしろ2011-07-14 23:51:35.006907
松永安左ェ門著作集を読む。

益田翁よりの礼状
拝啓 昨日は計らずも尊邸に於いて御馳走に陪席之得機種々御馳走夫も御郷里の特別なる御料理を拝味し何とも大幸拝謝仕候別してチリは大好物特に結構に有之候
又思い懸無き御茶を頂戴し有名なる桃山と申処も足を入れ候は初めにて以御蔭大幸不過之御相客も御知り合候のみ 尊意深く奉謝候
令夫人には別て御深切に種々御配意被下候段宜しく御礼奉願候其節申上候太夫と申茶器拝呈仕度昨日の紀念に水屋御用被下候はば別面難有奉存候(品物は小包郵便に託し候)右御礼まで早々頓首
   一月念八                    益田孝拝
松永安左ェ門様
      侍史
No.1260さむしろ2011-07-16 00:09:57.848477
松永安左ェ門著作集を読む。

小田原の古陶拝見
茶碗    志野 開山    高麗 割高台    上 志野 銘 広沢
      黄瀬戸 銘 難波 筒形    黄瀬戸 胴〆 あやめ手
香合    志野 弦付
鉦鉢    菖蒲手 蕪の絵
右の内にても黄瀬戸筒茶碗難波は天下無比なり、広沢これにつぐ。
No.1261さむしろ2011-07-17 21:07:02.08747
松永安左ェ門著作集を読む。

素人の茶道
お茶を始めてからヤット一年、別に師匠はいない。諸方で招かれて茶席に列なりいつの間にか味を覚えたというに過ぎないのだが、お茶なるものはこの程度がよい、むしろ真諦に触れているのではないかと思う。

つまり型に嵌ってしまっては駄目なんで、器物にしろ軸物にしろ、それがいいからいいと思い愛用するのであって、器物の由来書が添えてあり遠州候の書付があるからいいのだとか、古筆家の添状があるから珍重するのだとかいったようになってはお仕舞いで、そんなものあっても差し支えはないがなくたっていいもので、道具そのものの持つ味を楽しむのが本当だと思っている。
No.1262さむしろ2011-07-19 23:50:23.895501
松永安左ェ門著作集を読む。

 ・・・。言っておきたいことは道具屋に左右されぬことである。道具屋が茶席に列なって道具の説明をし、これが何の折紙があって何万円など値段を発表するが如きは茶の気持ちを損なうこと夥しい。

茶道が一種の形式に流れ、茶事を贅沢化したるは今に始まらぬことであって、不昧公が上方に行かれてその宗家や富豪の茶事の堕落を嘆じて江戸の友人に書状を書き送られた。
No.1263さむしろ2011-07-20 23:29:39.035932
松永安左ェ門著作集を読む。

《書状》
京大阪ともに見かけは、利休も宗旦も存命の様に見候へども手に取候へば江戸程茶の吟味強、むつかしく候事は無之候、当時江戸茶人、三都の第一に被存候、京大阪に茶湯らしきは昔の事也と存候。尤、我等始めて呼し事故、会席料理等格別に馳走いたし候にては可有之候へば、そこらの茶の湯にて上手巧者は致方の有りそふな事に候、茶事はしらぬ国と可申哉、千宗室へ茶を申込候所、宗室申候は御大名方表向御出被候へば銀五十枚又御忍にて御出被成候へば三十枚、此段御心得に申候由申込候者へ、
                 《つづく》
No.1264さむしろ2011-07-21 23:26:11.283874
松永安左ェ門著作集を読む。

及挨拶候に付、家来もけしとみ御数寄屋御庭等見物許にて御うす茶も御所望不申候はば 御礼の儀はと申候へば左様も御座候はば十枚にて宜候由申に付、家中の者とも拝見に召連候はば如何哉と尋候へば、是も料理の仕度は是非仕候事故、只御出とても十枚は申請候由に付、旦那儀此間風邪候へば快相成亦々可申入由申、たれにけに仕候、家本、如此の儀、千家に茶道は絶候事、なげかわしき事どもに御座候、ソツ啄は宗旦忌画賛を認、門弟中へ千疋づつに押くはりに致候。

是に恐れ宗守へも茶には不参、帰りには様子次第と存候。藪内へ、うす茶給に参り候。今紹智、茶を振舞候、路次数奇屋は比類なれども不茶人にて水屋を所望仕見候へば、物置の如く言語道断に不足儀、其外種々の事共は筆紙にいたし難く云々

とあって寛政文化の頃よりすでにその精神を失いたること一人宗家に止まらず、また京大阪に止まらず、全国的に廃頽したるを見るべきである。
No.1265さむしろ2011-07-23 23:36:29.547048
茶会に同行してみよう。
松永安左ェ門著作集を読む。

藤原氏の茶会
十二年三月二十二日午後五時半  白金今里町本邸
相客  田中 仰木兄弟 中村の諸氏 自分夫婦と六人

五日月が弦の如く輝き、打ち水清き同邸の茶庭の待合、壁床に蕉翁が春の落椿の句をかけ、汲出に添える祥瑞香煎入は綺麗であった。

出迎いによって予は正客となり入席、田中氏と家内とは二客を争い甚だ手数なりしが遂に氏を二客に推せり。

床には春屋禅師「夢」の一字あり、その表具といい、筆の柔らかさといい、同師の出来の最もよき一品なるらし。因幡家の入札にて入手せられしものとか、なお藤原氏のこの茶は故馬越氏追悼の意味を含めたる会なる由にて、夢の字も更に意義を有することならん。
No.1266さむしろ2011-07-24 22:48:18.027508
松永安左ェ門著作集を読む。

やがて主人の挨拶あり、炭点前にかかられ、染付水牛香合、唐物炭斗さては取り合わせの火箸の良き、釜カンの面白き、殊に釜は名物なる由にて、主人が三井さんと別の釜を争いたるも(別の分はフトン形とか)謙譲してこちらを取られたるが、三井さんの分は底に洩りがあって結局の成功こちらにありしとの談あり。
No.1267さむしろ2011-07-25 23:08:55.868363
松永安左ェ門著作集を読む。

そのうち炭を終え釜をかけられたが肝心の香をたくことを忘れたるにぞ、お詰の中村より注意し、香の遣りなおしも一興なりけるが、懐石も終わり茶も出て、両器拝見後、建水の見事なるに(水指は木地曲)お詰はお水指を拝見と願い出でたるに、先刻の仇打ち、主人より、「私も今までお茶をしますが、木の曲げものを拝見とは初めてです」と出られたので一同の哄笑となったのも面白く、これで一通り勝敗は棒引きとなり、座は更になごやかに進行して行く。
No.1268さむしろ2011-07-26 23:23:01.830377
松永安左ェ門著作集を読む。

懐石中の器物はいずれも見事にして、主人の接待行き届き、いわば板につき、堂に入っているので、思わず酒を過ごして紅潮暈酔を感じたのであった。さなきだに不慣れの正客、幾多の失敗をしたのであろう。
No.1269さむしろ2011-07-27 23:09:52.198425
松永安左ェ門著作集を読む。

中立の腰掛の前に月光を帯びて庭隅に据えられたる巨石は、日苔の蒼くつきたる具合すこぶる見事であったがこれは同行の魯堂氏が据えられたるよし、合図の鳴物にて席に入れば、備前の扁壺風の水の滴る思いする花生に黒百合と白蓮を生け、この会の意味を表されたのは老巧。
No.1270さむしろ2011-07-28 23:16:59.751912
松永安左ェ門著作集を読む。

さて上手なお点前で取り出されし茶碗は、松浦家からずっと前年に特に取り出されし由なる粉引の茶碗であって、外側は水泡のため生じたるものか、釉薬落ちて地肌を出せる景色あり、深く刳れる内面の作行き、高台の強く大きく見事なる、近来まれに見る名碗であった。
No.1271さむしろ2011-07-31 00:18:27.325638
松永安左ェ門著作集を読む。

茶杓は遠州、茶入は瀬戸銘玉川、この茶入ははなはだ見事であった。黄釉一つなだれ、浪に映れる秋萩の一株とも見られ宗尊親王の歌に「いまそ見るのちの玉川たつね来て色なる浪の秋の夕暮れ」より銘の来れるものなり。
No.1272さむしろ2011-07-31 23:42:24.52963
松永安左ェ門著作集を読む。

やがて広間に移れば、床には徳光禅師賛達磨の一幅がある。これぞ伝説肥後の血達磨として同藩士大川友右衛門が宝蔵の中より一巻を取り出し火中に助かることの困難を感じ、腹を割いてこれを蔵い、この一幅をして鯉魚の災より免れしめたものであるという。見たところまことに結構で伝説の如何にかかわらず、佳き幅はよきものである。
No.1273さむしろ2011-08-01 23:53:22.703154
松永安左ェ門著作集を読む。

この間の飾りつけは、青磁の香炉、これは右の幅に対し当然のことなり。ただ青磁七官手花生に白牡丹を生けられたるは如何か、二つつき合いにならぬか、ここにて薄茶にお菓子をいただいた。
No.1274さむしろ2011-08-02 23:39:18.617923
松永安左ェ門著作集を読む。

しかるにここにまた一大事出来し、田中翁三客の妻に席を譲らんとして立たれた折り、袴が手付煙草盆に引っかかり、染付火入を引っくり返し濛々として座中に灰神楽が立ったことであった。

予は帰宅後、その二つの出来事を合わせて、

 やれお香それ水指と灰神楽春の夕の里のにきわい

と書して主人に送る。


緊張と気ぬき、遊び心に思いやり等など主客次第で茶席はいかようにもなると思われる。もちろん道具も。
No.1275さむしろ2011-08-04 22:46:12.747361
松永安左ェ門著作集を読む。

「平心」の茶事   昭和12年4月9日 井上侯爵 予(耳庵) 畠山一清 外2

使用道具のうち主なもの
清拙「平心」の二字横物    酒器(徳利か?)粉引   盃 三島平、志野胴〆
茶碗 光悦 青井戸   広間床 牧谿筆布袋画賛    薄茶茶碗 魚々屋、黄瀬戸菖蒲手

追記  香合は珍しき鷹の染付四方入り、炭斗は唐物一文字見事也。・・・・・灰器南蛮、匙、火箸ともに雅、この日主翁は香を用いて炭を直さる。

付記  小田原の鰹の大盤振舞のお代わりは御馳走であったが、後にて聞けば、まさかあれを片付ける気遣いはあるまじとの主人の了見は見込み違いで、大盤を片付けてお代わりの要求に台所は大狼狽、直ちに自動車で小田原中を探してやっと後の鮮魚を取り寄せ、突き出されたる由であるが、その後の分も全部平らげて終わって主翁は一きれも口にすることの出来なかったのはお気の毒千万呵々。ここに後々の参考と戒めのために書き記しおく。
No.1276さむしろ2011-08-06 00:10:44.741616
松永安左ェ門著作集を読む。

「棟上げの茶」
原三渓先生より三十年保存の遺材を譲られ茶室を普請。棟上げ式に併せ一席。
床   行成筆 伊予切
水指  備前矢筈
茶入  松木棗
茶杓  宗旦
茶碗  古高麗
No.1277さむしろ2011-08-07 23:09:05.312324
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「掃雲台 遠州蔵帳茶会」席中の逸話
主翁の談に、あるとき加州公が定家の一軸を入手せられすこぶる自慢で遠州公を招き床に掛けられたが、一向に感心した顔もせぬので、老臣の一人が袖を引き、アレを誉めねば困るとのことであったが、候は「実はアレは自分の書いたものでまことに閉口している」といわれたということがある。
それ程定家は手に入ったものであったと。
No.1278さむしろ2011-08-09 23:32:33.641615
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「蓮華院の茶事」 亭主 三渓

床   牧谿     水指   備前矢筈形     茶入   時代黒 独楽
茶杓   藤村庸軒作     茶碗   柿の蔕 銘白雨 不昧公所蔵
替茶碗   柿の蔕 銘木枯 赤星家伝来


主茶碗、替茶碗共に柿の蔕を使うことには賛否あると思う・・・。 が、よくもまあ集めたものだと驚くばかりだ。
備前矢筈の水指には、内側に吉蔵と彫り銘があるという。
No.1279さむしろ2011-08-11 00:09:10.126574
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「正月の瀬戸黒茶碗」 昭和十三年一月九日正午

大隠の閑寂その物の如き主翁はいとも無造作に志野水指の前に飛騨塗棗、黒茶碗の上に瀬田掃部作茶杓を添え濃茶を練らる。その茶味はもとよりその掌にせる黒碗の触覚、尋常一様の物にあらざるを感ぜしが、拝見を願いて見ると瀬戸黒の逸品、その作行きはまず鈍翁所持小原木と同一人の作なるべく、その色は今一つ寂びて褐色味を帯びている。見込みの茶溜りが半月形に落ち込める、高台の作りは大ヘラの荒削りで楽に見る能わざる強味と、志野の高台になき粗朴味がある。ー略ー

その昔鼠志野と取り替えられたのがこの瀬戸黒で、まさに小原木と比すべき名碗にしてそのさび、落ち着き、到底全柳瀬の碗を総動員するも敵うことではない。後日森川君は小原木以上と誉めるのは大いに過ぎているといわれた。あるいは然らん。
No.1280さむしろ2011-08-11 23:54:13.340203
松永安左ェ門著作集を読む。

「大寒の夜会」 昭和十三年一月二十日

午後五時原宿に行く。炭の火の燃えさかる大炉を取り囲み、大鍋に鶉の肉、人参、大根の寄せ鍋という大盤振舞に一同の箸忙し。

二席は三畳台目で宗旦の瓢花生、備前矢筈の水指。持ち出された茶碗は長次郎黒の見事さが首肯るるので、一同目をみはりお茶一巡の後これを拝見するに、中村の外は皆初見の客で井上家の雁取、団家の志賀寺と同形同作、兄たり難く弟たり難く原翁、田中翁の激賞は非常なものである。

胴締り、口作り、見込みの意気までいずれも長次郎の特色を発揮して、小服ながら五客に十分の濃茶を喫し得せしめたるこの名茶碗に対し一同感歎の声を放った。
No.1281さむしろ2011-08-13 00:54:53.021514
松永安左ェ門著作集を読む。

「南風村荘梅の茶会」昭和十三年二月七日

道具のうちでは光悦の黒茶碗が主役になっていた。ことにその茶碗にからまる因縁談が面白いので、一座は賑やかになって来る。その物語とは・・・、

原さん位面白い人はないが、同時に鷹揚なところがある。中作からこの茶碗を見せられた原さんは、言い値の小切手を書いて仰木に届けて払うようにとのことであるが、一応考えられてはと申し上げたら、それには及ばぬすぐ払えとのことであったが、念のため中作に一割負けろとかけ合ったら二言なく負けて来て、その茶碗と割り戻しとを届けたら大喜びでその忠実を激賞され、何か褒美の意味で粉吹の徳利を二本並べて、良い方をとれよといわれる、その一本には下の方に「芒」のようなシミとその上に「月」のような丸いシミが出ている。どうも月に芒では俗でいかぬと主翁がいわれるので、謙遜して悪いといわれる方を貰って帰った。

越えて旬日、原宿の自宅で茶を催して原さんを呼んだ。そして例の粉吹の月のあるシミを正客に向けて出したら「これはいい、いい」と大変な感動で「仰木に甘くしてやられたが、初めから自分で理屈をいったのであるから、これは降参するの外はない」と諦めて帰られた。
No.1282さむしろ2011-08-14 00:01:04.27422
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おくがき
茶事をどう考えれば良いか

茶事を各方面の視角から見れば「茶」に含まれた意味
がはっきりすると考える。私は大胆にもおれに手をつけんとしている。しかし失敗するであろうことはあまりにも明白である。
第一の理由は点茶作法に通ぜぬこと。
第二のそれは器具鑑賞に自信なきことである。

注:
「茶事」とは、客を招き、席入りから炭点前、懐石、中立・後入、濃茶、薄茶という流れでもてなす茶会のことをいう。茶の師匠について、濃茶点前や薄茶点前を習ったり炭点前を習うのは、茶事の一部分を習っているのである。
No.1283さむしろ2011-08-14 23:09:27.146247
松永安左ェ門著作集を読む。

主客
主人七分で客三分といわるる茶会でも真に気の合った、共に茶を楽しむ同人の間ならば主人十分の客十分でどちらも主たり客たることを忘れて深くその三昧境に入るべきである。


主人七分で客三分:茶の湯の楽しみは、主人が七分に対し客は三分で、主人の楽しみが大きいことをいう。
No.1284さむしろ2011-08-15 23:20:08.833129
松永安左ェ門著作集を読む。

私は茶道修業の三年間においても、各家の茶室の花には初めより多大の疑問を持っていた。私の観念では花のあしらいそのものが、茶道全般を表現しているのではないかと思う。理屈からいえば茶席に花を生けるのは無理なことではないかと思う。日本の国には見渡すところの山野に、庭園で、花なき時は少ない。これすなわち花を茶室内に生けることの難事たる所以である。

―略―  しかるに心なき茶人は花器に大金を掛け、珍花奇草を貪り求め、美と茶礼をその間に構成せんと努力しておらるる。その意味においての努力は骨を折れば折るほど、茶そのものとは縁の遠い何物かに堕して行くのではあるまいか。
No.1285さむしろ2011-08-16 23:18:06.547776
松永安左ェ門著作集を読む。

花器にいたりてはその取り合わせがむずかしいのであろう。大方の先輩の苦心談、道具商の手柄話など如何にも賑やかなことではあるが、その狙いどころがもし間違っていたなら、眼前一寸の異は距たるに従い千里万里の差をなし、これまた茶道とおよそ関係のなき結果が招来するのではあるまいか。
No.1286さむしろ2011-08-17 23:50:32.125743
松永安左ェ松門著作集を読む。

―略― 花器の選択も花の取捨も、茶の宗匠や出入りの道具商任せにしてただ他のこと、すなわち道具に名品が揃ったか否やにのみ心を奪われている。この点、予は反対である。他はともかく花は茶事の一部として、 −略― その人の力の限りを尽くして工夫し、その会その会の挿花に全精神を発揮せねばならぬと思う。
No.1287さむしろ2011-08-18 23:39:13.540897
松永安左ェ松門著作集を読む。

茶道具
私に道具類の禁句をいわしてほしい。
第一、 出入り道具商の太鼓の音
第二、 お書付や伝来の主張   
この二つを何時か解消したい、聞き障り見障りである。
No.1288さむしろ2011-08-20 00:23:03.185089
松永安左ェ松門著作集を読む。

自分も客も好きな道具なら何時でも使うがいい、春夏秋冬それぞれの定器があると思うのは俗人の考えである。小田原翁はこの無頓着な代表者で、主客の好むものなら年に数十回も同じ物を使われ、共に喜び共に楽しんで飽きることを知らない。

三渓先生はまた一風変わった行き方で、道具や装飾を省略すること吝翁の物を惜しむが如くである。鶯語一声、ただ一声のみ、空谷は更に閑寂を加える如き簡素味がある。人の悪い道具の扱い方である。庫にあまる名物茶入や道具を陳列せずして、淡々談笑のうち無量の茶味を満喫するのはその人格と茶略とによると申す外はない。
No.1289さむしろ2011-08-21 00:36:07.484613
松永安左ェ松門著作集を読む。

解説  桑田忠親 から
―略― 松永翁は、五十にして茶の道に入り、書も学んだが、陶器趣味と食い道楽のほうは、もっと年期をかけているとのこと。

茶の湯の師匠は、益田鈍翁と原三渓だという。何々流のお茶の先生も側近にいたが、お点前のことなど眼中になく、点前改革論をお茶の先生をさしおいて、得々とやっていた。

松永翁の初対面の印象は、その日本人ばなれした魁偉な風貌であろう。体躯も堂々としていて、外人と立ちまじって少しの遜色も感じられない。政治家には政治の話、銀行家には経済の話、僧侶には仏教の話、百姓には農作物の話。私たち学者には歴史や茶道のことなど。談論風発、まことに尽きるところを知らぬ有様であった。 ―略―
 


戦前、戦中、戦後にわたり、古美術、茶道を楽しんだ大実業家の数寄者達の茶の湯を、庭の垣根越しほどに覗いて見たが、かすかなりとも薫りが残れば幸いである。


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