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No.1190 | さむしろ | 2011-05-01 11:14:02.420672 |
![]() 懐石で戒むる箸癖 昔から「箸に癖十四」と書いたものがある。そのうち懐石の時に気をつけねばならぬと思うのを六ツ書き上げる。 こじ箸 焼物など下の方から箸でこじ上げ撰び取るのは見にくい。 移り箸 懐石は飯、汁、それから飯に戻り、向付また飯といくものである。汁から向付、そのあと 直ぐ煮物椀とか焼物と、飯をぬきにして次から次と汁や菜に飛び移っては、みっともな いと戒めたものである。 |
No.1191 | さむしろ | 2011-05-01 21:12:05.191417 |
![]() 懐石で戒むる箸癖U 空ら箸 食わんとして箸をつけ、そのままに引っ込める。 受吸い 汁の再進を受取り椀を置かず、すぐに口に持って行くのを戒める。 膳越し 膳の上または脇の物を手にとり上げず、箸でじかに喰う。禅家では香の物さえ小皿を手 に取り上げて食うのである。 犬喰い 俯向いて挨拶もなく舌音を立てて喰うのをいましむ。 |
No.1193 | さむしろ | 2011-05-03 23:56:09.752821 |
![]() 寒山拾得 昔台州の天台山に国清寺という巨刹があった。その寺の僧が、父も母もない捨て児のような痴呆のみなし児を拾うて寺に連れて帰り庭を掃かせたり、台所の飯を焚かしたりして使役していた。 十二、三になりても聾の如く人と口をきかぬ、ある夜寺の僧侶みんな同じような夢を見た。それは寺の鎮護に祀りてある山王さんのお告げであった。 山王告げていう、この寺に拾得という小僧があるが来りて己を責むる、「お前は山の守護神でありながらお寺の仏や神さまのお供物を未だ下げもせぬうちから烏や鳶に攫われてなくなってしまう。それでは守護神としてのお役目ははたせないからと、怒って私を鞭つからどうぞ皆さんもお供物の下らぬうちに失敬せぬように頼みます」との夢の告げであった。 眼を覚ました衆僧は同じようなことを聞かされたので大いに不思議に思い、山王さんに来りて見ると、鞭のあとが生々しいので阿呆の拾得がなした仕業ということがわかり、それからこれは普賢菩薩の再来として尊敬することになった。 |
No.1194 | さむしろ | 2011-05-04 22:59:46.834976 |
![]() 今一人の寒山はこのお寺の岩穴に住んでいる風狂の隠者で、その寒山の山から来るので寒山とあとからいったものの風の如く寺に来り風の如くに去る、拾得は残菜があれば竹の筒に入れておく、寒山子は黙ってそれを持ち帰る、そのうちに両人は心会黙契するところあって無二の友達となった、寺の人も拾得の普賢、寒山の文殊という風に自ら畏敬を持つようになった。 以上が寒山拾得の逸話であるが、この逸話は知らなかった。。 |
No.1195 | さむしろ | 2011-05-05 22:50:18.554954 |
![]() 茶道に盛衰なし、変化なし、古今来往、貫くものは一つすなわち「侘」である。その心の働きは謙遜自抑である。知足安分である。 草庵を建て高僧の墨蹟を仰ぎ、露地を浄め、一碗の芳銘を拝服するところに静寂がある。 |
No.1196 | さむしろ | 2011-05-07 00:05:49.54866 |
![]() ―略― 敬のことにつき古人のことを考えてみよう。 水指の表は客付けにせずして、亭主に向け置き付けするが古法なり。 とある。客に正面を向ければ客を敬する心になるが、また一面誇る心にもなる。つつましくするには自分前がよいという意味である。 表は正面の意。 客付は客側の意。 |
No.1197 | さむしろ | 2011-05-09 23:56:29.087125 |
![]() 吉川英治さんの宮本武蔵の小説には茶人にとって学ぶべきことが多い。 武蔵は大和柳生庄に石州斎を訪れて教えを請う筈であったが、その機がなくして牡丹一枝を送られた。茶の分からぬ若き武蔵に花の贈り物は変なものであるが、武蔵はこれをじっと見入って、その切り口の鮮やかさは百錬の名刀をもって堅鉄を裁断した余勢を見せている、 ―略― 、自分などの修業がただ技と力とにのみむいていることを学び取った。 |
No.1198 | さむしろ | 2011-05-10 23:49:52.61927 |
![]() 米軍付きのリ−氏から日本の高級芸術品を個人的に解放して見せて貰いたいとの注文が有り、―略― 、茶室と美術品を持つ某氏が受け持つこととなった。 某氏は茶室を中心として、また一体として鑑賞されるものを一々取り離し、雑然と展観したのでは美の生命は半ば以上失われてしまわざるを得ない。 ―略―。 そこで主人は茶の湯の型通りむしろ外人には古典すぎるであろう程の濃茶の茶会を催されたそうであり、正味四時間かかり、説明やその他に外人も興を覚えて、更に一時間は定刻より長座して喜んで帰ったということである。 |
No.1199 | さむしろ | 2011-05-12 00:23:43.403531 |
![]() 世の中社交茶が溢れている、として。 利休の草庵は自らつとめて火を整え湯を沸かし、仏祖に茶を献じ、友と共に啜り、粗野質実の間に一輪の月を語り、一蓑の雪に送りたる友情そのものが茶であった。 私は茶事は南坊録に戻らねばならぬと主張する。一会一期でなければならぬと主張する。淡茶呈上、別席動座は社交茶人に一任してわが同志は同和同趣味の人々のみ相招きて真の草庵のわびに徹底すべきである。今の分の交際茶では真の茶道は必ず行き詰まる時が来る。 |
No.1200 | さむしろ | 2011-05-13 00:12:41.997597 |
![]() 私は恩田木工老と三渓先生と名古屋築港技師の恩田氏との性格こそ茶事に嵌った人々と考えている。 三渓先生の風格、真摯なる態度、自己犠牲的な寛容さ、栄辱の外に超然たる襟懐といった点において何人も追従をゆるさぬものがあった。先生こそ茶人的性格の持主であったといわねばなるまい。先生は徳川、明治の両時代を通じて光悦に比肩すべき大茶人であったといわねばなるまい。 ―略―。 三渓先生が自ら任せずとも、世間が如何に思うともわれ自らこれを松平不昧、藤村庸軒の上におき、光悦の茶人格と相連繋し、茶三昧境に悠然たりし態度において茶道四百五十年間の大名茶人や宗匠連を遥かに超越しているといい得らるるであろう。 原三渓の評価が高いのに驚いたと同時にどのような茶人であったか興味がわいた。 |
No.1201 | さむしろ | 2011-05-14 03:50:02.788762 |
![]() よく食物の味覚が発達した料理通の人は料理屋の料理も名人の料理も甘くなくなり、ただ新鮮な野菜に塩をつけて食べて、これが一番甘いという風になるのではないかと考えます。 しかしこれではいかぬので、お釈迦さんは達磨の問答などと違って俗人を相手にお説教して一生を送られたように、心は孤高であってもやはり更にこの孤高の心をも犠牲として、俗人に交わるというのが本当の仏の境界でありましょう。 |
No.1202 | さむしろ | 2011-05-16 23:30:00.896665 |
![]() 昔、道元禅師が永く支那に遊学して帰られた時に、「あなたは永く彼地におられたが得るところ何ぞ」と聞かれたのに対し「われは柔軟心を養うことを学んだ」といわれたそうですが、この柔軟心がすなわち和敬にあたると思います。 |
No.1203 | さむしろ | 2011-05-17 23:36:55.188621 |
![]() 茶の「清」は自ら水を汲み、庭を清め香を焚き心を正しくして粛然たる環境に一碗一味の茶を啜るといったところにあると思います。 |
No.1204 | さむしろ | 2011-05-19 23:55:15.753058 |
![]() (小林)逸山翁はよく名道具のことを貶されるが、それでは道具は嫌いか、いい物はなお更に厭かと聞くと、聴くだけが野暮でこの位道具好きの人はまれである。 私は今だに覚えているが二十四、五年前、木挽町に山口という旅館があり、私は九州から翁は大阪から共に上京して同宿している頃、私達は何の考えもなく金を散ずるといえば酒食に費やすか政治道楽であったが逸山翁は何か風呂敷包みに茶道具の一、二品を買って帰る。だが私達は見ようとは思わなかったし、翁もまた見せようともしない。 |
No.1205 | さむしろ | 2011-05-21 10:40:36.530463 |
![]() 東京で邸宅を構えられてからも暇さえあれば道具屋を見て歩く。それは日課のようなものであった。で、月に二、三度の帰阪が愉しみであったろう。それは池田の屋敷の倉へ這入りこんで「あれだ、これだ」と道具を調べては出したり入れたりさるるのみで碁も将棋も玉突もゴルフもしない。 道具こそ最愛の友であり唯一の慰めであった。であるから昔の安い時に買われた物に佳い優れた物のあるのは当然である。翁の如きは、道具を持っても道具に使われない茶をする、という第一義的な筆法の茶人である。 |
No.1206 | 2011-05-21 10:40:36.769457 | |
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No.1207 | さむしろ | 2011-05-21 23:56:24.686918 |
![]() 私の見るところでは益田鈍翁は上客として最も偉い人であったのであるが、箒庵老でも根津青山老でも上客振りはきわめてよかった。 北支で亡くなられた大谷尊由師はすこぶる線の太い鷹揚たる客振りであった。 ―略―初めて尊由師と相客になりその悠然たる上客振りに敬服した。 上客の「上」なるものは敬して諫せず、識っていわざるところにある。「中」はよく敬しよくいうにある。「下」はいわずもがなである。尊由師ごときはこの上の部に属する。 |
No.1208 | さむしろ | 2011-05-22 21:42:26.433986 |
![]() いま東京でこの種の上客を求むるならば井上三郎侯爵である。侯爵の風格は茶趣味そのものであり、建築に庭園露地に器物に、その茶境の全般にわたって閑寂にして典雅なる気分を出さるる実力を有さるるから、その席内へ出られると清談、雅致、しかもその中に飄蕩たるものがあり、自ら古をなすといった襟度は、これを他に求めて得易からざるものがある。 井上三郎:桂太郎の三男、井上馨は叔父。 |
No.1209 | さむしろ | 2011-05-23 23:06:33.445926 |
![]() 今里の暁雲庵亀彦翁、畠山一斎翁は立派な上客であり主客応酬の挨拶も自然流露、褒め上手で大した存在である。 |
No.1210 | さむしろ | 2011-05-24 23:27:14.35648 |
![]() 野村得庵翁の上客振りにはいまだ多く接しないのでその深みはわからないが、かつて星岡茶寮で越沢宗見宗匠が催しの茶事ではすこぶるくだけたお客振りであった。これは場所柄をわきまえられた働きと感心させられた。 次いで塩原邸禾日庵の慶祝茶会では奥様が亭主であったので、規矩の正しい応酬振りをされた。 |
No.1211 | さむしろ | 2011-05-25 23:24:20.385302 |
![]() お詰めとなるとこれはどんなものか、耳庵いまだその体験の回数が少ないので一種の想像談に過ぎないから、あるいは間違っているかも知れぬが、これはすこぶる興味を持っているから書いてみたい。利休時代のお詰めのことを考えて見ると宗及や宗達、利休といった人々が太閤さんや有楽斎、三斎、前田公といった人々の茶会ではお詰めをしていたであろう。 お詰め:正客、次客、三客、・・・そして末客となるが、末客のことをお詰めという。待合、路地、席中での世話係。正客以下が茶の作法を知らなくても、しっかりしたお詰めがいれば茶会はスムーズに進むといわれる。 |
No.1212 | さむしろ | 2011-05-26 23:44:08.330898 |
![]() (数寄者の茶会では)戸田、山澄、伊丹といった諸君、すなわち茶人であり道具商でもある人々がその役どころ。 戸田露○君は年は若いが祖父露吟老の血を享けて茶器の目利き、物知りであるのでそのお詰である間の雑話はすべて器物の約束と伝来に関するもので益するところが大きい。 この点、東京の山澄君と同様の巧者というべきであろう。 |
No.1213 | さむしろ | 2011-05-28 00:10:35.300957 |
![]() 伊丹揚山君の小田原茶会におけるお詰め振りはまさに天下一品ともいうべきものがあって、鈍翁も伊丹君の時は亭主振りが一段と光って見えた。 工芸家仰木政斎君も目下売り出しの茶家として評判は悪くはない。ただお詰めとしては落ち着きを欠くとの評もある。 |
No.1214 | さむしろ | 2011-05-28 22:56:39.243629 |
![]() 茶事のお詰めは第一に道具の由来因縁、売値と買値、右に関する失敗談、成功談、就中その亭主得意の手柄談を知悉しておらねばならない。 あくまで道具茶、数寄者の茶の場合のことである。 |
No.1215 | さむしろ | 2011-05-29 22:54:30.138993 |
![]() 併せて以下のような資質を具えていることも条件にくわえておられる。 時には不出来の濃茶が弾丸の雨、霰口のかたまりも鵜呑みにしなくてはならない。徳利をあけてその底の窯印を眺めるまでの酒豪、鉢物や重組をあけて回覧するための一切頂戴という胃袋の持主でなくてはならない。 酒食器に対する働きは、鉢中に残肴のままを水屋へ渡して拝見を所望するよりは、江戸前にすっかり平らげた気分が愉快なものであるが、それだけに努力と場数巧者と健康が条件である。 |
No.1216 | さむしろ | 2011-05-30 23:30:29.60642 |
![]() 原三渓先生に師事した中村好古堂主の如きは先生の茶事でさえサボって顔を出さぬことさえあった。 いわんやわが柳瀬荘などへは滅多に顔を出さぬ、しかし時折りに出れば実に行き届いたお詰めをする。 これというのも胃腸が弱いからであるからいずれも諒としている。 |
No.1217 | さむしろ | 2011-05-31 23:33:54.513331 |
![]() いまお詰めというものに対し耳庵が抱く人物感を若干陳べさして戴きたい。・・・・・およそ現代において最も鋭利なるその人生観を如実に説き得るものは山下亀三郎翁であろう。 山下翁はもとより茶人ではない。だが、茶の嫌いな本統の茶人である。真実天下の大茶人である。殊に天下経国の茶のお詰めの天才である。 |
No.1218 | さむしろ | 2011-06-01 22:58:55.172164 |
![]() 山下翁は苦労し尽して今日の大事業を築き上げ大富豪となられただけあって、常に自ら韜○して蔭にかげと廻って人のため世のために尽くしておられる。 そして自ら「箱屋」と称されている意味は器量もよくない、踊りも出来ぬので、立派な侠妓のために三絃を担いで奔走しているといふ謎で、表芸の大臣になる人や偉い人のために骨を折っているという意味深い一句である。 |
No.1219 | さむしろ | 2011-06-02 23:57:47.873517 |
![]() 世の中にはこうしたかげで車軸を廻している人があるので舞台の立役者も光るのである。かかる人こそ大切な人でどちらから考えて見ても、舞台の上で目をむいている人よりも役者は一枚方上である。 本人も口では箱屋箱屋といっていても心中では「誇り」というか、満足というか大いなる「矜持」を抱いておられることはいうまでもない。 |
No.1220 | さむしろ | 2011-06-03 23:05:28.004266 |
![]() 茶の湯の亭主として最もいい感じを与えるのは、藤原暁雲翁その人である。 これはどういうわけか考えても分からぬほどいい亭主振りである。私は外のことでは藤原翁とは交渉はないので、人の噂で翁の性格や人柄を判断するのであるから、判然とその全貌が分かっていない。 ただ茶事交会の席においてここ二、三年のお付き合いであるが、今里の同翁のお茶に呼ばれる度毎に、莞爾たる温容、にこやかなる接客ぶり、物腰の低い和ごみを含んだ会話、どこにも誇張や我執の影を留めない、渾然として八面玲瓏たる味であり、東風に揺るる青柳の糸であるといった感じを享受せずにはおられない。 |
No.1221 | さむしろ | 2011-06-04 23:53:52.720748 |
![]() 金沢に明治中頃の茶人であった原呉山という人は相当裕福な家であったが、その晩年に子息の失敗から雫落して陋巷に侘住いをしていた。 一夕のこと、その弟子であった山の尾というのを呼んで「心ばかりの茶をさしあげましょう」とのことで山の尾も「嬉しく参じます」とお受けして、その夕方参ると入口の間には幽かな燈火の下に巻紙がのべられて今日の懐石の献立書きがある。 |
No.1222 | さむしろ | 2011-06-05 23:27:31.174656 |
![]() (献立を読んでいたところ)、隣家の庵室からモクモクと木魚の音と、かすかなる読経の声が聞こえてくる幽寂さ、いうにいわれぬ情趣に感じ入っていると、庵主は笑いながら茶道口を開いて、「御恥ずかしいことながら献立を御目にかけただけで何も差し上げることの出来ない今の身分、まず隣室で御茶だけなりと差し上げたい」とて、一枝の野花挿せる侘席で茶を飲んだということである。 ただそれだけではあるがこの情調は味わい切れぬものであると、晩年にいたるまで、山の尾老人が語っていたと、老人の弟子である丸岡耕圃の夜咄である。 |
No.1223 | さむしろ | 2011-06-06 23:38:49.521761 |
![]() 益田さんと原さんの交会には面白い話が多い。何といっても年も違い茶臈も違う。あたかも親と子との情愛いのようだが、また性質の相違からも種々の閑葛藤も生ずる。それが面白いことになる。 そうなのでそれを書く。 |
No.1224 | さむしろ | 2011-06-08 00:10:10.564382 |
![]() 原さんの三渓園浄土飯の朝茶に「おれも一度は呼びなさい」と益田さんの注文で、原さんはある朝を約束した。三渓園朝茶は大概午前正六時であるが、気短で早起きの小田原翁は五時までに到着していた。 若い飯頭が迎いに出て、「主人は今に参りますが少し寝坊で」と挨拶をすると「いや待ちます待ちます」といわるるので、それでは「時間もございますから」と紅蓮が音をたてて一時に開く朝露の蓮池に漕ぎ捨ててある小艇へと案内した。 客は巨駆白髪の翁、棹をとるのは子童、まさにこれ周茂叔愛蓮の一図であり、染付型物香合そのままの模様で、朝起きも何かの徳と鈍翁の満足。 三渓翁、遥かに居室よりこの景色を望み「昨夜来の計画予習の成果なり」とほくそえむという上々の出来。 ところがこの池は潮の差し引きする池で、周茂叔を乗せた小舟は無惨にも干潟に舟を突きこんで進むも引くも出来ない。 |
No.1225 | さむしろ | 2011-06-08 23:29:50.004039 |
![]() 見ていた主人も「こりゃ大変な失敗」と青くなって飛び出す折から、東京から続いて来た相客もこの泥舟劇の珍場面に可笑しくて耐らず、池汀から声を立てて囃し立てるという有様、そのうちどう都合したか、翁は無事に担ぎ上げたが、こうなっては紅蓮の浄土飯も大徳寺納豆もあらばこそ、散々の不機嫌で帰途に鎌倉の姪の家に飛び込み、「飯じゃ飯じゃ、今日ははらの家に呼ばれて殆ど何も食べ物はなかった。早く飯じゃ」といって怒鳴られた始末。 |
No.1226 | さむしろ | 2011-06-09 23:58:43.032322 |
![]() その翌年八月再び三渓園の朝茶に行かれた時の帰り、また例によって鎌倉に寄られたので、姪女はプイと立って裏口から出たようであるが何時まで待っても帰って来ぬので翁は不思議に思われ、台所を覗くと姪女は襷がけ甲斐甲斐しく、朝飯大振舞いの用意最中であったので、どうした訳かと聞けば、「昨年、お爺さんは原さんの朝茶で、腹をお減らしになっていらっしゃったから本年も同様と心得、用意をしております」といわれるので翁は「なに、今日はそんなに腹は減っていない」とケロリとしておられたという。 この咄は三渓園朝茶のとき、筆者も鈍翁のお伴をしたので直接聞いた咄で、周茂叔蓮池座礁の件を思い出したままに記す。 |
No.1227 | さむしろ | 2011-06-11 10:40:45.868171 |
![]() 「豪華不忍池畔の朝茶」 蓮の話に因みては畠山一斎翁だって面白いことがある。翁の心入れの茶事。たとえばその前夜一家族、夜ッぴで寝もやらず道具を芝の白金町から運ぶやら、池の端の一料理屋を総動員で、酔客の帰った夜の一時から畳替えをし、簾まで取り替えるという心入れぶり、更に十里も遠い玉川から生きた鮎をその朝まで到着せしめたということなど、大変なお張り込みであった。 ところが弁天祠に参った暁雲翁、禾日庵主等々は折角の蓮見持ち出しの茶故、何処か蓮の花がありそうなものと思って見て廻ってもそれらしきものが見当たらず、客も蓮を語らず、主人もまたいわず、朝の蓮見は無言の間に終わったが、自分は機械のことなら相当でも植物のことは同様に行かず、蓮の見頃は少し早かった誤りであるといえばそれまでなれど、あの豪気な翁のことであるから、玉川から生鮎を取り寄せた序でに、何処ぞから蓮の花を取り寄せ、植えては見たが花はなかなかいうことをきかず、但しその朝だけ訊かなかったのかも知れない。 そういえば二、三輪弁天さんの橋の側で咲いていたが、それがそのお取り寄せの蓮花だったかと、気づいた時はお堂の扉から美しい弁天様の微笑みが漏れていた。 当時はなんとも豪快な茶を楽しんだようである。茶の本道かどうかは別にして。 |
No.1228 | さむしろ | 2011-06-12 23:29:02.730712 |
![]() 鈍翁が九十二歳の最後の月まで茶を楽しまれた。 享保の侘茶人であった土岐二三が、京都岡崎で九十四歳の生涯を終わったというので既往の茶人としては長寿第一人者であるが、その晩年は自分で釜を掛けたかその辺は不明である。 ・・・現今では茶人としての最高齢者に石黒況翁がある。況翁は今年九十五歳と聞くが、茶歴においては鈍翁と同じ程度の長期間にわたられしものとするも、数年前より病臥されたるまま茶事をなさる御体力がないと承っている。 これらに比して鈍翁はその九十二の生涯を終わらるる最後の月である昭和十三年の極月まで茶事を催され、自ら釜のあげ卸し、自ら懐石のお給仕をされ、掛物から道具万端自分できめられたというわけでその体力、精神力共に壮者を凌ぐの感があった。 |
No.1229 | さむしろ | 2011-06-13 23:01:48.265115 |
![]() 鈍翁についていましばらく続ける。 翁と五十余年間茶生活を共にせし多喜子夫人のお話では、翁は茶より道具の方が早く、本格の茶は明治二十八年頃すなわち日清戦争の頃であるが、道具の方はそれ以前の明治十二年頃から手を出しておられる。茶とは十五六年の差があるようである。 |
No.1230 | さむしろ | 2011-06-14 23:38:11.367969 |
![]() 明治初年頃は天正や慶長頃に一国とも取り替えた茶器が二束三文であり、それも見向きもせなかった時であったが、日清日露の役後わが国運の隆盛と共に茶道具の値段は遂に大変な高値を呼ぶにいたった。 翁は徳川末の不景気時代でも不昧公あたりは千両二千両で茶器を求めておらるるから明治の時勢が盛んになればその数倍になるにきまっているというのでその蒐集が始められた。その頃は道具屋に勧められても誰しも尻込む一方の時であった。 |
No.1231 | さむしろ | 2011-06-15 23:44:05.533336 |
![]() 翁の買い振りは耳学問と、鋭い頭の判断するのと、勘で行くのとでいろいろ買っているうちにだんだん好きになり、商人もいいものを持ち込み、名物宮島釜を金沢から買い入れたのも明治十五、六年であったろう。 幕府の作事奉行の縁故があった柏木貨一郎から仏教美術品、 絵巻物や歌切などを手に入れられるようになったのは、令弟克徳さんが道具の目利きであり、その見立てによるところが多かった、 茶を正式に遣られたと思わるる明治二十七、八年には、渡辺驥さんの入札で遠州蔵帳物を大量に買い込むという風ですでに一簾の古美術蒐集家であった。 |
No.1232 | さむしろ | 2011-06-16 23:53:44.108184 |
![]() 明治二十九年三月には自邸の御殿山で第一回の大師会を開き大師筆の座右銘を飾られ、会者の肝を抜いた。 翁が茶杓で羊羹を切って平気な顔で食ったという一つ話は明治三十四年頃で、その頃は品川東海寺境内の高橋という裏流宗匠の離れ座敷を借りておられた時で茶に無頓着時代であり、また井上世外候に、「茶道具に無益な大金を使わるるのは無分別でありませんか」と忠告を試みたというのもその頃で、美術品など買うのは怪しからんと憤慨時代でもあったのである。 |
No.1233 | さむしろ | 2011-06-17 23:39:47.74381 |
![]() 『安田松翁茶会記』に明治十四年十一月六日、その翌十五年三月二十六日に茶会を催された会記があるが、その頃は江戸十人衆の一人仙波太郎兵衛がいい道具を持っていたので、鈍翁は人を介してその道具を買われたので一日仙波が「斯様に道具を買われるなら一度拙者をお呼びなさい」といったので、御殿山禅居庵続きの二畳台目のような小間で仙波を招いたのが翁の茶の最初であるらしい。 時はちょうど松翁茶会記の明治十四年の頃で、その時分の世話は万事克徳君で、鈍翁は全くロボット亭主であったらしい。 |
No.1234 | さむしろ | 2011-06-18 23:49:47.623828 |
![]() 十四年頃には二畳位の仏間があったのを克徳さんが茶室に見立てて稽古かたがたお客をしたので、その次に明治十九年か二十年頃に堀留の家で渋沢さんを正客にして茶をすることになり、その時も克徳さんが肝煎りで山澄の先々代がおよそ二、三百円ほど掛物、花入、茶入、茶碗一切の茶道具をにわかに買い込み茶事をされた。 その時、正客の渋沢さんも翁も「こんな狭い部屋では窮屈でいかん」というところから広間に席を移すやら「茶は苦くていかん」というようなわけで折角の茶会も竜頭蛇尾で終わった。 それでしばらく茶も沙汰止み、・・・・・ 萱場町に居が定まり茶室もあったので、道具も溜まりぼつぼつ茶が初まった。 |
No.1235 | さむしろ | 2011-06-19 23:39:40.605008 |
![]() 益田家には翁の手記になる碧雲台茶会記がある。 巻頭に明治二十二年十一月十一日、お客は三井各家七人に克徳君了悦のお詰めの一会がある。星岡茶寮の懐石である。 掛物 牧渓 花入 青磁鳳凰耳 水指 瀬戸一重口 茶入 片輪車 釜 宮島(芦屋釜) 茶碗 記入なし 香合 るり雀 当然のことながら、当時は、茶道具は使うものであった。(当世もっぱらガラスケース越しに見る。) |
No.1236 | さむしろ | 2011-06-20 23:25:15.054584 |
![]() 明治二十三年一月十六日、馬越、古筆、伊藤の三客。 掛物 牧渓 花入 古銅 水指 染付 茶入 鈴鹿山 釜 宮島 茶碗 柿の蔕 茶杓 宗甫 香合 呉洲 |
No.1237 | さむしろ | 2011-06-22 00:05:39.00289 |
![]() 明治二十八年十二月六日の夜会で翁の茶風の一端が窺われる。 床 伊賀種壺耳付 花 蝋梅 白玉 釜 芦屋八景地紋 香合 呉洲 茶入 椿の絵 後入床 松花堂 半切文 水指 曲 茶入 瀬戸肩付(不昧銘 鈴鹿山) 茶杓 遠州共筒 左京殿宛 茶碗 御所丸(銘 九重) 薄茶 水指 時代薬罐 茶碗 了入黒 茶杓 象牙(宗編所持) 茶器 原田芳悦作 鶏蒔絵 広間床 山楽 山水双幅 雪舟 福禄寿 香炉 宋胡録六角赤絵蓋 時代春日卓 書院 梅蒔絵硯筥 光信筆 信尹公賛 伊勢物語大色紙 「この一会を見てもすでに堂々たる大家の趣が出ている。」との評をしておられる。 |
No.1238 | さむしろ | 2011-06-23 07:40:29.162276 |
![]() 三十二年の末に幽月亭が初めて茶室らしき茶室として御殿山に出来た。 明治三十三年一月十二日午後四時、 席 新築幽月亭 三畳台目 額 松花堂筆 寄付 三畳向切 釜 遠州所持いたら貝鐶付 床 大燈国師墨蹟横物 明月軒の落款 後席 花生 古銅そろり豊公箱付 花 乙女椿 水差 南蛮〆切 茶入 唐物文琳 茶杓 利休 茶碗 雲鶴青磁尻張宗甫所持書付同人 将監家蔵 香合 青磁角一文字 今日でも明月軒落款大燈墨蹟は大燈中の大燈として日本一の存在である。 翁五十三歳。 |
No.1239 | さむしろ | 2011-06-23 23:54:16.736094 |
![]() 明治三十六年七月十六日朝、非黙庵百ヶ日忌の茶事、碧雲台広間 掛物 一休 初祖達磨ノ一行 平卓 青磁 獅子香炉 後入 花入 緋襷水屋壺 花 蓮花 水指 砂張 風炉 今戸焼 釜 寒雉口なし形 茶入 盛阿彌大棗 茶碗 玄悦作、刷毛目 重ねて 茶杓 空中 共筒 香合 鎌倉彫 |
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