![]() |
No.1139 | さむしろ | 2011-03-10 00:06:13.485897 |
![]() 利休は、 天目茶碗を高麗茶碗、国焼茶碗に。 唐物大名物茶入を瀬戸茶入に。 四畳半を三畳、二畳に。 宗元画、虚堂などの墨蹟であったものを大徳寺古渓の一行で秀吉を招く。 当時の人山上宗二が「西を東といい山を川という、さても利休ならで出来ぬことだ」と驚きの意を書いているのを見ても如何に侘に徹して精進したかを利休に見ることが出来る。 |
No.1140 | さむしろ | 2011-03-11 00:14:26.349342 |
![]() 大阪の茶風と東京のとは何かしら少し食い違いがあるように経験上感じるが、そのうちでも大阪(京都、名古屋、金沢を含めて)では東京ほど釜に苦労しないように思われる。掛物、花器、茶器に比べると釜は大事な地位を占めていないようである。 |
No.1141 | さむしろ | 2011-03-12 00:49:43.445968 |
![]() 「東京ほど釜に苦労しないよう」とは「東京ほど釜に力をいれていないよう」だという意味である。 掛物、花器、茶器に比べると釜は大事な地位を占めていないようである。 小田原の益田さんの茶会に濡烏の釜や、芦屋馬地紋の釜、利休所持の野溝釜を使われ、またこの頃の茶会では紹鴎責紐の釜、信長所持古芦屋瓢釜を使ったりしているのに比べて、藤田家の茶会でも当今の雅俗山荘でも外の道具の立派な割りに・・・・・。少し上方に行って不満に思うことさえある。 |
No.1142 | さむしろ | 2011-03-13 00:22:34.797902 |
![]() 松永安左ェ門著作集を読む。 東京の田中氏の茶会によばれびっくりした釜のことを記してみたい。その釜というのは小田原鈍翁の茶会で一度だけお目にかかったと思う古芦屋霰馬地紋、その地紋五匹馬と思われるが古き釜故剥落して、円窓も馬もクチャクチャに剥げたので何百年も前にすでに「痩せ馬」というわびの名付けがしてあった。 銅蓋も大わびでしっかりしていた。 |
No.1143 | さむしろ | 2011-03-13 23:54:45.634843 |
![]() 教訓といっては角が立つ言葉だが、茶をよく心得てくると、精神上の訓練という「たしなみ」といったのが板についてくる。また「物の取り扱いの要領」が飲み込めるようになる。 一番気がつくのは、「時間の正確」ということが茶に厳守されている。 つぎに上げられるのは清潔ということである。 三には順序を立てるということ。順序ということは準備の別名で、心をあらかじめ整理しておく。 最後に、静寂という働きである。 |
No.1144 | さむしろ | 2011-03-14 23:33:59.969566 |
![]() 静寂についてだが、 思うように行かず怒ったり、水屋の者が気が利かぬと叱ったり、肝心な亭主の気が上がっていては始まる前に落第だ。皆が気が立てば人にあたり、道具にあたる。 私は、お点前が苦手の方で、心静かに横着に構えていればこそどうにか一人前に茶を点てている。 私はよく客となりて茶に呼ばれたとき、よく落ち着いて平心で茶を点てている人と、なにか忙しそうに追い立てるように茶事を遣る二種類のあることを感ずる。原三渓翁や藤原暁雲老の如きは前者で、アノ位な老成茶人大茶人鈍翁の如きさえ遺憾ながら後者に属するように思うた。 |
No.1145 | さむしろ | 2011-03-15 23:46:48.258513 |
![]() 鴻池家の名器拝観の光栄は一に江崎政忠氏に負うところなり。 三時間にもわたり稀代の名器や手鏡を親しく手に取り拝観したのは光栄至極であった。 と、耳庵をしても鴻池家の道具類は感激のものであったらしい。 |
No.1146 | さむしろ | 2011-03-16 23:34:56.660723 |
![]() 梁楷の布袋、玳ひ盞天目、松永井戸、九重井戸、遠州箱「井戸」、御所丸、等等等。 唐津茶碗「中尾」と遠州書付ある名碗は中尾是閑という数寄者所有、 −略― が、今この眼前に横たわる中尾は実に堂々たる名碗である。 −略― 高台は雅正にして底力強く、品格あり、―略― は昔から国焼で唐津が茶碗の第一位にいる理由が首肯せられる。 唐津が第一位というのは初めて見るような気がするが、唐津好きとしては「うんうん」といったところである。 |
No.1147 | さむしろ | 2011-03-17 23:18:39.828256 |
![]() 粉引花入が飾られた瓢形、その古雅幽玄は瓢の心を借りて昔の工芸家が仏祖を象徴したのではないかと思わる、もしこれに名を与えるとならば格に執せざる五祖法演の風姿を偲ばしむる五祖とでもいうべきか、さてこれに花は何と隣に囁けば一大山蓮あるのみといわれる。名言であるが、同時に無花のまま墨蹟に対し用いたいものと思った。 余程の粉引だったと思われる。 |
No.1148 | さむしろ | 2011-03-18 22:45:37.405444 |
![]() 名品はつづく。長次郎赤筒茶碗、長次郎東陽坊、大黒、次郎坊、光悦毘沙門堂等等・・・。別席で休憩、菓子に引かれし名鉢には驚嘆した。 伊部、焦げの輪花で作行き無比の仙品、これを濡らして八寸に用いたなら露滴々の爽やかさは茶懐石に一段の清涼味を加えることに想到される。 伊部鉢は正当な評価を得ていたようだ。 |
No.1149 | さむしろ | 2011-03-19 23:45:58.23253 |
![]() 呉春作の傑作、大幅で松鯉の名作。かっての日清戦役に広島大本営の玉座にも懸かり当時大勝利(大松鯉)の幅として名高くなり、入札の折り呉春好きの逸翁が奮発して入札されたにもかかわらず、春海の三尾君が当時政友会に入り天下取りを企てた久原房之助さんに向くと思い込んでかなり高価に札付けして一応落札したもののやはり無理があったと見え久原さんは受けず、三尾君が投げ出したのをソレ見たことかと慎重堅固な戦略で逸翁の手に帰したという、茶道界の勝利物語のその松鯉であり、―略―。 名品入手の逸話である。 |
No.1150 | さむしろ | 2011-03-20 22:26:52.660458 |
![]() ―略― あまり大家になると茶が丁寧になりすぎたり、重複したり、二度も中立ちしたり、再度の迎付けがあったり、席を三ところも変えたりする冗雑、花と掛物の共飾りやらにて何度も何度も花や花生が席に顔をだしたり、煩雑紛糾の極に達し、合理的な生活道と簡素な茶道を生命とする方から見れば、上方でたびたび私の経験するところで ―略― 。茶の命は簡素につき、美は紛雑ならざるところに生まれる。 東京と大阪では茶風が大分違ったようである。 耳庵は侘茶を志向していたと思われる。 |
No.1151 | さむしろ | 2011-03-21 22:25:34.105432 |
![]() 私(注:耳庵)は遅蒔きながら六十にして茶道の門に入った。そして茶の湯ということは茶器をひねくりお手前に達するばかりでなく、外に知るべく学ぶべきことの多きことも分かった。古い茶道の雑誌を初号から集めたり、入札の目録を整理したり、伝書本、老荘、禅学、能、香、花道、和歌、俳書、史書、何でも読んでみた。 新しい書物に多く啓発されたという。 |
No.1152 | さむしろ | 2011-03-22 23:36:49.181468 |
![]() 耳庵が南方録から書き出したうちから。 ○手水鉢の水は客入て後亭主水を運び入れるべしそれ故にこそ紹鴎以来、鉢の水溜は、小手桶一つの水にてそろりとこぼるる程の大きさに切りたるがよきなり。 ○手水鉢居所不定なり、総て手水鉢珍敷見事なる大石など無用なり。 |
No.1153 | さむしろ | 2011-03-23 23:09:50.198349 |
![]() ○小座敷の花は必ず一色を一枝か二枝かろく生けたるがよし。 ○小座敷の花入は竹の筒、瓢などよし、かねのものは凡四畳半によし、 ○器物などはすすぎてさわやかにするを第一とす、興を催し過候へば雑席の様になり、うとうとし。 |
No.1154 | さむしろ | 2011-03-24 23:17:08.760741 |
![]() ○小座敷の道具は万事足らぬがよし少し損じたりとも嫌ふ人あり一向不得心のことなり。 ○小座敷の料理は汁一つ菜二つ三つ、酒も軽くすすめべし、侘座敷の料理たて不相応なり、勿論取合のこく、うすき事は茶同然の心得なり。 わかりにくいところは避けておいて、とりあえず雰囲気を感じていただきたい。 |
No.1155 | さむしろ | 2011-03-26 00:41:44.792154 |
![]() ○客亭主互の心持如何様に得心可然哉 易の云如何にも互の心に叶ふがよし然れども叶ひたがるは悪し、得道の客亭主なれば自ら心よきもの也 |
No.1156 | さむしろ | 2011-03-26 23:58:14.074351 |
![]() ○侘茶湯は大てい初終の仕廻二た時に過ぐべからず。略。侘亭主濃茶のみか薄茶まで仕廻て亦何事をか致すべき、客も長物語やめて被帰事尤も也。 茶事(正式な茶会)は四時間を超えてはいけない、と言っている。 |
No.1157 | さむしろ | 2011-03-27 23:29:55.587091 |
![]() ○諸芸諸道具ともに定法なし、定法なき故に定法有、其仔細只々一心得道の所作、形の外の業なる故なまじいの茶人かまゑて無用也、天然と取行へき時を知るべし。紹鴎侘茶の湯の心は新古今集中定家朝臣の歌に みわたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮 此歌の心にてこそあれと被申しと也 |
No.1158 | さむしろ | 2011-03-28 23:23:01.101313 |
![]() 花紅葉は則書院台子の結構に喩たり其花紅葉をつくづくと詠み来りて見れば、無一物の境界浦の苫屋也花紅葉を知らぬ人の始めより苫屋には住まれぬなり、詠み詠みてこそ苫屋の侘すましたるところを見立てたれ、是茶の本心なりと云われし 前にも書いたが、美味いものを食べつくさぬうちに「お茶漬けが一番」といっても説得力がない、ということか。 |
No.1159 | さむしろ | 2011-03-29 23:15:29.907963 |
![]() 又宗易今一首見出したり、同集家隆卿の歌に 花をのみまつらむ人に山里の雪間の草の春を見せばや 花も紅葉も無く雪埋め尽したる山里になりて、―略― 、 埋め尽くしたる雪の春になりて処々に、いかにも青やかなる草がほつほつ二葉三葉もえ出す如く「力を加へずして真なる」所の道理を取られしなり。 侘び茶の湯の境地をこの二首にたとえている。 |
No.1160 | さむしろ | 2011-03-30 23:40:41.887714 |
![]() 遠州は門人の誰かが茶杓を削って師に見せたら、これは余りに綺麗に削り過ぎてあるといった。その人は然らばまずく手粗くしたのがいいですかと聞き返した。綺麗に上手に削ってあるのさえゆかぬというのに、初めからまずく削って物になるかと教えたといわるる。 茶の道具についてもこれと同様なことがいわれ得る。 |
No.1161 | さむしろ | 2011-03-31 23:27:36.195693 |
![]() この頃上野で園城寺の利休竹花筒を見た。どうしたことか、てかてか艶があり光が浮かんでいたのは園城寺ともいわれる名竹としては「さび」がないと感じたことである。竹筒の保存は脂手や布帛で拭かず、箱にも仕舞いこまず、そっと外気に放置して年々の古色を増すのみにせねばならぬと人に聞いたことがある。この点茶碗の拭き洒ぎ、掛物の表具、何から何まで一貫している。茶室茶庭を愛するのも、茶道具を愛するのもこの侘心の発露であり、茶道をつらぬく簡素静寂のひと筋にかかっている。 |
No.1162 | さむしろ | 2011-04-02 00:18:44.90812 |
![]() 私は初めから濃茶一方で薄茶をやりませんでした。濃茶ほど甘美味くなく、東京大家の茶会で第三席ともいわれるお薄茶が余りに御書院式の粧付けの仰山なのが気に喰わなかったせいでもありましょうか。今少し振り返って私の薄茶観を考えてみたいと思います。 |
No.1163 | さむしろ | 2011-04-02 23:41:09.096501 |
![]() 東京での茶湯の一会は小間濃茶の前席後席と定め、それが終わった後更に東山寝殿風にて相阿彌同朋でも粧付けやしたらんかと思わるる飾り付けが広間で行われた。 井上候、松浦伯家、馬越藤田家、野村さん、益田さん、根津さん、・・・・・目のあたりにして肝を潰した次第である。 私はこれを真似する力はなく、広間お披きの薄茶は遣らぬと決心し・・・、 したがって自分の客をする時濃茶以外に薄茶は出しませんでした。夏など「披き」に動座する場合は釜は懸けずに番茶を出して雑談して客を送り出しておった。 |
No.1164 | さむしろ | 2011-04-03 22:11:49.781271 |
![]() 広間の薄茶には余程興味を持たれた益田さんは、私共からみれば豪華にみえたが、本人は別な意味があったようである。いつも私に濃茶というものは珠、紹、利休の定めがあり、小間草庵は禅定しているようなもので、懐石の給仕も点茶も主人が一々注意を配らねばならぬ。その上、炭、香、花、祖師墨蹟、 −略− 、いわばこの窮屈な座禅堂から俗世間に開放して伸び伸びとお客を楽しませたい。それで別な広間に動座を請い −略− 薄茶や水菓子、番茶を出し、世間話をしてわれも人を放楽するのです。 これが極意ですよといわれた九十翁の慈顔を今も思い出す。 |
No.1165 | さむしろ | 2011-04-04 23:39:56.076098 |
![]() 利休、宗旦時代には濃茶が終わりて、いろいろお茶の話が出れば茶水がほしくなる。葉茶の残りを小服の茶碗に立てて各服点てて客にも自分にも飲む。水指が片付いていれば別な水指を持ち出し茶杓は水屋の象牙でだし、−略− 、というのが原則で「披き」の薄茶ということはなかった。濃茶後の薄茶はかくありてこそ上々なるのでなかろうか。大方の教えを請う。 |
No.1166 | さむしろ | 2011-04-05 23:46:26.187978 |
![]() 故人山際宗澄などは薄茶の会というのを独立して創めるがよい、今の濃茶式と異なるのは小服数箇の各服点てとして、 −略(道具類)− 、いずれも時節と環境と催しの目的にもよるが軽々と加減すればきっと面白いものが出来る、私は一度率先して試みたいといっていた。 |
No.1167 | さむしろ | 2011-04-06 23:36:16.75537 |
![]() 茶の標語は清に尽き寂に尽きる。一点の「むさい事」「みにくい事」を許さず、玉壺に白雪を盛るが如くあるべしである。黒田如水の水屋の訓に、 茶碗以下垢付き不申様に度々洗い可申事 とありまた利休は露地の水打ち、手水鉢の水張り、懐石、茶の湯の清浄について南坊録にも茶の湯百首にも繰り返し説いているが、それはむしろ内面清浄観が外面的誇?的綺麗観とは違ったものがあるのではあるまいか。 |
No.1168 | さむしろ | 2011-04-07 23:31:11.063383 |
![]() 「違った谷に住む」 谷が違う、出来不出来の実績論でない高下でもない、心の持ち方、美に対するねらいどころ、どうもあちらの御方と私の方では谷が違いますという。 |
No.1169 | さむしろ | 2011-04-08 23:39:59.772325 |
![]() 東都茶会記とか茶会漫録とかを読んで見ても、茶会の風にも同じ東京で茶風がひどく違うのが発見される。 メ貫風な竹内寒翠の茶と松浦心月、益田鈍翁の茶との間には大きな距りがあり、全然趣味と趣向を別にしている。その極端の辺を押さえなくとも、石黒況翁、安田松翁はどちらかといえば「侘」の谷であり、益田鈍翁、馬越化生翁は他の谷に住する茶人でむしろ心月伯に近い。名物道具で茶をやらねば気が済まぬ茶格の人であった。 |
No.1170 | さむしろ | 2011-04-09 23:01:53.28164 |
![]() 藤原、岩原、根津といった人々は益田、馬越の谷の人であり、横浜原三渓先生の如き物持ちでありながら、仰木魯堂あたりと共に八田円斎を加えてやはり竹内ヘチカンの谷の人であるように見受ける。これは名物道具のあるとなきとにかかわらず皆なその持ち味が違うので甲の谷がいいとか悪いというよりも、志の赴くところを根本に異にしている。 同じ谷の人であれば比較論評することも出来るが、谷が違えば高低深浅の茶事の批評は相当でない。 |
No.1171 | さむしろ | 2011-04-10 22:42:33.130029 |
![]() 私の茶友に丸岡がある。耕圃という号の如く植木屋の出身であるが、今は郷里や三鷹町で農作にいそしみ朝夕鍬を取って働いている。先年突然同好三人の者が尋ねて行った。夕方近くで主人は裏の畑を手入れしていた。来意を告げしばらく待っていると、主人は鍬を洗い手を洗い挨拶しながら軒先の腰掛に渋茶を奥さんに出させているうち、ソコの自在に吊るした手取釜に枯葉をパッと焚し湯がすぐに沸いたと思ったら、意外にもその湯で笟饂飩が出た。秋もうら寒い夕方に明るい火と暖かい丼の一食で満身の暖かさを感ずると、いつ用意されたかつるし柿が木皿に出され、濃茶がその同じ手取釜の湯で濃くもなく淡くもなく、楽茶碗の使い馴らされたものに出された三人回し飲み、あまりおいしいので主人の分まで飲みつくしたので・・・。 |
No.1172 | さむしろ | 2011-04-11 23:39:30.423769 |
![]() (この)当人この頃私に金沢から手紙をよこし、東京もこの頃ではノ貫風な即興茶が飲めるようになりましたか、どうか。茶会記に順序正しく道具組や献立が書いてないような名物で頭の叩かれずに済むようなお茶によばれたいものですが、それはこちらの谷に住む者の願いで、そうは相成らぬものでしょうか、私は今のところ一切の物欲を避けて、ひたすら一つの茶碗一つの茶入に満足し日夕愛撫して、この谷の趣に秋葉春花の代わる代わる訪れくるを相手に楽しんでいますといって来た、世にはそういう谷に住んでいる人もある。 |
No.1173 | さむしろ | 2011-04-12 23:24:09.372424 |
![]() 信楽の茶碗に二ツ名物がある。一つは宗旦が名づけた「水の子」であり、一つは小堀遠州が「花橘」の香りをぞすると新古今の歌から銘を付けた茶碗である。どちらも姿こそ違え同じ信楽窯であって、こんなにまでわびたのと品よきものとを選択し来るところに、徳川初期の茶人に「別々の谷」に住んだ偉い人があったことを物語っている。 |
No.1174 | さむしろ | 2011-04-13 23:29:26.076291 |
![]() 当時遠州の茶の湯が利休正伝のわびに背くかどが多いのに憤慨して宗旦から故障を申し入れたことがあり、遠州も宗旦の申し出は一応尤もであるが、将軍家指南番の立場から必ずしも宗旦のいう通りに計りするわけに行かぬと人に語ったということである。 大名でも「侘」に徹する人がある。石州片桐貞昌は侘茶に徹した。井伊掃頭も侘茶に徹した。この両人は宗旦の谷の人であるが、松平不昧公となるとどう考えても遠州谷の人である。 |
No.1175 | さむしろ | 2011-04-14 23:27:31.772765 |
![]() 明治・大正になって、今遠州といわれる人は大阪の高谷宗範やら浜松の某氏が浜松遠州、東京には何々遠州といわれる人は五指を屈する程あるが、今宗旦といわれる人も、今石州といわれる人も出て来ていない。あってもそういわないところに、明治の末年大正期の茶風が幾分豪奢華美繊細といった遠州谷に近かったことを示すものである。 |
No.1176 | さむしろ | 2011-04-15 23:31:31.130319 |
![]() 茶はむずかしい。自分の天分にもよるのであろうが、むずかしい理屈をいうていると茶はいつのまにかおさらばを食らわして逃げてゆく、その逃げたのを捕らえて誤って本来の茶情を楽しまんとすれば空虚な独りよがりに陥る。 そこで段階的に茶の湯人のあり方を考えて見たいと思う。これにより幾分にても茶の真髄に触れることができれば幸いである。 |
No.1178 | さむしろ | 2011-04-19 00:22:16.882432 |
![]() 道具、花、懐石等等をどうするかで苦心する。その苦心は苦即楽でなかなか面白くなる。和敬静寂もわかる。手前も一通りやれる。だんだん茶の湯も凝ってくる。 この段階を「お茶をする」段階と称したい。 |
No.1179 | さむしろ | 2011-04-19 23:48:38.871375 |
![]() 二段階として、清濁併呑、駄馬来らば駄馬を渡し、人来らば人を渡す趙州の土橋の如く黙々閑々たる茶人境。 第三の段階として、論理でなく、享楽でなく、虚明自楽でもなく、三転して草庵小間の利休の茶に戻るのである。 |
No.1180 | さむしろ | 2011-04-20 23:42:10.23206 |
![]() 利休の茶。 克く敬し、克く和し、克く清く、克く寂に、家は雨のもらぬよう、冬は暖かく、夏は涼しきように、茶は湯相火相が大事で、仏に供え、人にも我にもおいしく飲むものと知るべしである。・・・・・。 私はこんなことを考えてみた。考えただけではだめである。労作し実践して一歩なりとも進んで見たい。それが私の念願である。 |
No.1181 | さむしろ | 2011-04-22 00:02:36.539869 |
![]() 茶道具屋 茶道具屋の先達、大阪の戸田露吟老が子孫に遺した目利き秘伝の書を見ると、その見所見所に約束などが細かに書き分けられていて、例えば染付の香合で叭々鳥の手は松平家のものは枯木の枝が一本多いから珍しいとか、伯庵の茶碗は約束の香台に飛び釉がありその他何々と七誓の見所等を書き込んでいる。 |
No.1182 | さむしろ | 2011-04-22 23:15:59.946621 |
![]() 「ゴシック」とはローマ人がこの方の建築すなわち彼らから見れば野蛮人の建築を指してゴシックといったのに始まるが、ゴシックは粗野、単純、不完全を表現する。 茶道はこの粗野性と総合的の道徳性を有する内観によりその好尚として善美感を「静寂」の極致に体得せんことを庶幾している。 どうも難解で、よくわからないまま転載しているので、BGMのように聞き流しながら観じていただければと思う。 |
No.1183 | さむしろ | 2011-04-23 23:46:31.137432 |
![]() この体得こそ茶道の生活であり発露である。すなわちこれを器物に移し、茶庭室にうつし、汎般の形態美術にうつす時その器物は、「見るより味わう」器物となり得る。「茶に使える」と俗にいわれるのはこの気持ちが多分に持ち込まれているからである。 |
No.1184 | さむしろ | 2011-04-24 23:39:13.794169 |
![]() 松永安左ェ門著作集を読む。 宗旦伝授聞書において、 1、茶の湯は何のこしゃくもなく、素直に理に叶いたるがよし(下略) 1、茶の湯はさし向ふ理を当座当座にさばき、時々刻々に移り替り、四季転変するを習ふこそ面白けれ、(中略)正道の茶の湯には誠を行ふを本として理に従ふを所作とす、故につとめ難し、正直は稀にて邪行のみ多し。 1、(前略)茶の湯の一体は諸事尤もさわやかに、心いさぎよく物毎其物に心をつけて何事も執着なく、心のあとへもどらぬ様に先へ先へとすべし。 |
No.1185 | さむしろ | 2011-04-25 23:27:24.86888 |
![]() 子夏曰く、小道といえども必ず見るべきものあり、遠きを致すには恐らくは泥まん。これをもって君子はなさざるなり。 法師になろうとしたものが檀家から迎えの馬をよこした時、乗れなくては不都合だとて馬術を学び、法事の後に酒が出て隠し芸の一つも知らねば恥だとて小唄を稽古したところ、それがだんだん面白くなり肝心のお経を学ぶ時がなくなったという徒然草の一くさりを思い出す。 茶の湯の道もひと通りの点前・作法を習得すれば、余り途中の小さなところに道草とらず茶道本来の面目に参入すべきである。 |
No.1186 | さむしろ | 2011-04-27 00:18:39.186694 |
![]() 子曰く、これを知るものはこれを好むものに如かず、これを好むものはこれを楽しむものに如かず。 |
No.1187 | さむしろ | 2011-04-27 23:48:58.737063 |
![]() 「今日より茶の道繁昌してわが道かえって亡ぶ」 と利休が言ったそうである。 |
No.1188 | さむしろ | 2011-04-29 09:36:39.386417 |
![]() 故高橋梅園の著書に「権兵衛の茶碗」はやかましいものだが、なかなか数がない。『大正名器鑑』編纂の時も入れることは出来なんだ。権兵衛は倉橋といって、萩の高麗左衛門といった格で名人ではあったが多く物は焼かぬ、焼いて気にいらねば割って捨てる。品が残っていないのはそのためであろう。不昧公は度々彼を松江に呼び出しをかけたが毛利家で許してくれぬ。熱心な公のことである。毛利家と婚姻を結び、親戚関係を作ることによって始めて権兵衛連れ出しの目的を達した。 権兵衛が出雲へ入国する時は藩の家老が国境に出迎え、この一陶工に感激を与えたということである。 |
No.1189 | さむしろ | 2011-04-30 09:48:43.644141 |
![]() 昔浅野総一郎が一万円儲けたときは非常にうれしかったが、百万円儲けたときはこれでは足らんといって不平だったといった。すべて足るとか足らんとかいうことは自分の心にある。それだから茶のほんとうのわびという心は、不完全な中に満足することなんだ。人は美や善を求める。求めてもなお求め尽くすことはできないから、その求めたものの中に満足することが大切だ。 家賃三十円の家に入れば三十円のところとして満足する。その家をきれいに掃除して住み心地よくする。そうして三十円の家を楽しむ。それが茶の精神だ。 そして三十円の家をきれいにして花の一つも飾って楽しもうじゃないかということにわびがある。 |
過去分へ | 新しい分へ |