![]() |
No.1089 | さむしろ | 2011-01-14 17:49:25.676106 |
![]() また、同じく古茶会記に「今ヤキ黒茶ワン」が登場するのが1588年である。今ヤキ黒茶ワンは黒楽と思われるが、そうであれば、あめやにもう二歳加える必要がある。 「大クロ」「東陽坊」「ムキ栗」は黒楽茶碗であり本長次郎はあまりにも高齢になることから、黒楽については、可能性は否定しないが少々無理があるとの感想をもっている。 |
No.1090 | さむしろ | 2011-01-15 23:47:45.326007 |
![]() 利休は、長次郎に注文して長次郎が納めた茶碗を、これは「あめや」作です、「長次郎」作ですと区別する必要がなかったため、これが混乱の元であった、とし、 「あめや」作と判断した理由を、 「あめや」作として挙げた一群の茶碗の特徴は、いずれも大振り(口径焼11p以上)で形に動きが無く(左右対称)、全体に均一のものである。 そして、 これらは、「高麗茶碗」をモデルにしている。利休が本長次郎に注文する際、このモデルを貸し与えたのである。 としておられる。 |
No.1091 | さむしろ | 2011-01-16 23:04:32.214129 |
![]() 今挙げたこれらの茶碗は、その後に続く宗易形の茶碗で、大変多くある小ぶりで黒く各線に少し動きのある物とは一線を画しており、しかもある一定の個数の後、二度と出現しないのである! その後の本長次郎作といわれるものは、家族、弟子・職人を使った「長次郎工房」で製作された。 ”シンメトリー”のものから”動き”のあるものへの進化や長次郎工房の存在についてはほぼ同様の考えをしているので理解できる。ただし長次郎工房に弟子や職人がいたとの説については???である。ただ瓦を焼き続けていたのであれば、瓦製作部門についてはそれも有りかなと思う。 |
No.1092 | さむしろ | 2011-01-17 23:25:28.267568 |
![]() 1 大振りの茶碗 1 はさみ跡から左利きのようだ 1 上から見ると口が広がってみえる 等 奥野さん自身の専門の根付の世界の例から話を進めたいとして、 ・日本人は、一般に細かい仕事(写実・具象)を好む。 ・外国人は、一般に仕事は粗くとも感情の出たもの(写意)をより好む。 外国人に好まれる具体的特徴として、 ・表情の良く出ているもの ・動きのあるもの ・凄みのあるもの ・可愛い ・生き生き ・怖いものはより怖く ・幽霊 など等。 これらはその物の持つ特徴の一番良く出た状態、一番優れた状態をいうもので、究極の一瞬である。 |
No.1093 | さむしろ | 2011-01-18 22:59:06.511959 |
![]() これらはその物の持つ特徴の一番良く出た状態、一番優れた状態をいうもので、究極の一瞬である。 つまり赤楽茶碗「無一物」、黒楽茶碗「大黒」を見ていると、勢いよく廻っているコマが一瞬静止しているように見える時があるだろう。 これが究極の一瞬で美の極致なのである。これは静止して止まって見えるのではなく、動いて止まって見えるのである。 生きているわけである。 何か禅問答のようになってきたが、奥野さんは、 「これまで長次郎作とされた茶碗群に対する賛辞は、真の作者である あめや に捧げられるべきものであろう!」 と結んでおられる。 |
No.1094 | さむしろ | 2011-01-19 23:43:31.194382 |
![]() 奥野さんの推理。 利休が長次郎に貸し与えた見本は、高麗茶碗「利休ととや」と瀬戸黒茶碗「小原木」であり、利休ととやを見本としたのがあめや、小原木を見本としたのが長次郎である。 |
No.1095 | さむしろ | 2011-01-20 23:21:37.849491 |
![]() 他の記述部分でも、「ゆるい上下のゆれ」「部分的に3ケ所面取りヘラ」「腰の線も上下に動いて」など興味を引く表現で説明されている。 どうも手癖という見方のようで、安倍さんが言われるルールという捉え方ではないが、造形上の特徴として捉えられているのは間違いないようだ。 |
No.1096 | さむしろ | 2011-01-21 23:32:28.016119 |
![]() 「最も瀬戸黒に近い長次郎作の黒茶碗」として、 長次郎黒茶碗「業平」と昭和初期の売立目録に利休所持とした瀬戸黒茶碗をあげておられる。 そして、 「面白いことに、この瀬戸黒茶碗を長次郎が写したと思われる全く同じ黒茶碗が大正時代の売立目録に出ている。」 として、長次郎茶碗の写真を載せ、紹介しておられる。 |
No.1097 | さむしろ | 2011-01-23 02:01:38.71168 |
![]() 「俊寛」について、 あめや作か長次郎作か大いに迷ったが、どうも現在では本長次郎作であると確信した。だからこれは、長次郎の前記二碗に続いて本長次郎の最も早い作の引出黒である。 口辺りもゆるい抑揚があり、腰の線も小丸の面を取ってヘラ目を消した上に、なおも3箇所部分的に面を取って抑揚をつけ波打たせている。 底の外廻りと高台の間にもヘラを入れて、段というか溝をつけている。その為、全体になんとはなしに動きがある。 と、俊寛の特徴を細かく観察しておられる。 そして、この俊寛を作るのに参考としたのが利休所持黄瀬戸茶碗で、小原木と黄瀬戸茶碗をミックスして完成したのが俊寛であるとしておられる。 安倍さんは、この「なんとはなしの動き」の原因である造形が、ルールに則って作られていると主張されているのだが、奥野さんは、そこまでは考えておられないようである。 |
No.1098 | さむしろ | 2011-01-23 23:28:56.133736 |
![]() 「依 豊臣君台命 天下一長治郎作之」の刻銘茶碗 <同茶碗写真> 昭和14年11月、名古屋美術倶楽部に於ける心月庵並びに某家所蔵品売立目録より。 瀬戸黒に近い形の赤茶碗 と刻銘の茶碗が掲載されている。 |
No.1099 | さむしろ | 2011-01-24 23:55:50.265318 |
![]() 「長次郎の茶薬」として、 これも昔から言われている長次郎茶碗の鑑定資料に言われているが、これは置き冷ましが多いためである。 また、「かぶろ」について「置き冷ましの窯変で茶黒のだんだらになったものがある。」 と、置き冷ましについて書いておられる。 |
No.1100 | さむしろ | 2011-01-25 21:10:19.636735 |
![]() 奥野さんの「二代赤楽茶碗についての自画自賛」 うっかりしていた!本書の冒頭で述べた、私の所持する「二代赤茶碗」。 読者はもうお分かりであろう。 「あめや」を初代とするとこれは二代。しかし楽焼としては、初代長次郎。 すなわち、本長次郎の作品である事を! しかもこれは傑作である。各線と面が大変スムーズにつながっている。 全体のバランスがよく取れている。 その上に、この茶碗は窯変となって朱色から黒に至る色彩が微妙に変化して鬼気迫るものがある。 これほどの茶碗は、各種の本を見ても類がないくらいである。 原文のまま転載したが、写真を見る限りではあるが確かに名碗である。 |
No.1101 | さむしろ | 2011-01-27 00:41:02.443059 |
![]() 正直工房の例は、当時の楽焼・長次郎工房の姿も全く同じであって、複数の助手達が下ごしらえその他の作業を行い、肝心な部分についてのみ長次郎が行う。こうして焼きあがった楽茶碗の全てが本長次郎の真作である。 と、長次郎工房の姿を推測しておられる。 長次郎茶碗には手癖から数人の手によるものがあるといわれているが、私はこの説を支持している。今のところ奥野さんの流れ作業説には?マークである。 |
No.1102 | さむしろ | 2011-01-27 23:35:45.964603 |
![]() 長次郎の没年について。 これまで長次郎の没年は天正17年、73歳とするのが主流である。 奥野さんは「しかし、これは間違っている! 今回はそれを検証してみよう。」 天正17年、73歳説は宗入文書がその根拠の一つとなっている。 又、山中道憶書簡の中に「本長次郎は利休最後の二年先に相果被申候由に承り候」とあり、利休の没年は天正19年で、その二年前の天正17年が長次郎の没年ということになる。 |
No.1103 | さむしろ | 2011-01-29 00:16:04.879308 |
![]() 奥野さんは、本の中に長次郎の墓の写真が載っているのを発見。しかし墓の所在地は書いていない。 ところが何回も繰り返し読んでいた書物の中に「長次郎の墓は京都・妙覚寺にある」とあった。 妙覚寺に墓を訪ねて写真を撮って帰る。 墓石には、「文禄元辰」「最勝院長祐日元居士」「九月七日」とある。 楽十三代惺入は、文禄元年辰年、九月七日没享年七十七歳を主張して長次郎350年忌を営んだとのこと。 奥野さんは文禄元年説をとっておられる。 |
No.1104 | さむしろ | 2011-01-29 21:43:22.606474 |
![]() 宗慶に関する資料。 @昭和30年頃、楽十四代覚入氏によって「宗入文書」が公開され、宗慶の名が出現して関係者は大騒ぎをしたのであった。それまでは、我々も含めて、楽焼の元祖あめや宗慶と思い込んでいたのである。 A現在梅沢美術館蔵品の「三彩獅子香炉」の腹部に「とし六十、田中、天下一宗慶(花押) 文禄四年九月吉日」と彫られている。これが唯一の宗慶確実の年号銘、年齢銘のものである。 B表千家不審庵に伝来する千利休像(長谷川等伯筆)に春屋宗園和尚の讃があり、その中に「利休居士像、常随信男宗慶、照之請讃云々」とあり、利休にいつも従っていた信義に厚い宗慶の求めによって讃をしたと記されている。 |
No.1105 | さむしろ | 2011-01-30 23:07:29.157458 |
![]() 宗入文書の公開後、大河内風船子は、年齢差が14.5歳の為少し無理があると言いつつ、宗慶の利休実子説を発表。 奥野さんは、爆弾発言である、といって、 「田中「宗慶」は「安江道慶」(平野道慶《桂》)の法号・隠居名である。」とし、 西堀一三著「千利休」に、 「寛文年間の人、安江慶順の記によりますと、予父、成安の姓、安江氏道慶は千の宗易利休居士の猶子として、且(旦?)暮カタハラニ侍リ此道不残相伝テ・・・」 とあることから、安江道慶は利休の猶子で、田中宗慶のことである、断じておられる。 |
No.1106 | さむしろ | 2011-01-31 23:25:02.100144 |
![]() 猶子とは、 @兄弟の子。 A兄弟、親戚又は他人の子を養って、自分の子としたもの。名義だけのものと、世継とするものとある。養子。 とある。 大阪河内、平野の郷士安江道慶は利休の猶子であったとすると利休との年齢差は問題ないということになる。 「且暮カタハラニ侍リ・・・」だが、 且暮は旦暮の誤りで、朝夕という事で「明け暮れ」という意味で、一日中という事らしい。 |
No.1107 | さむしろ | 2011-02-01 23:48:07.453669 |
![]() 「茶人系譜大全」によると、 「道桂」一に「道渓」又「宗桂」に作る。姓氏詳ナラズ、河内平野(ヒラノ)の郷士なり。 とある。 別の茶道関係本に、 平野道慶・・・・・安江道慶とも伝えられ、利休の門人でその女婿となったが離縁したとか。和歌山候・浅野長晟の茶道役となったとか、大阪の役には釜を鎧の肩に負って堺の政所に参じたとかの伝説がある。なお検討を要する。 とある。 とある。 「平野」は姓ではなく、出身地を冠して通称として用いた。 とある。 |
No.1108 | さむしろ | 2011-02-02 23:35:04.182594 |
![]() 奥野さんは宗入文書から次のような推測を述べておられる。 昭和30年に発表された宗入文書3通のうち「楽焼系図」・・・・・これは下書きである。これは父一入に聞きながら宗入が書いたもので、宗入文書というより一入文書である。 その中ほど、中央から下の部分に「宗桂倅」と書いて「桂」の文字の右に「慶」と草書で書き直してある。これが利休の猶子となっていた「道慶」すなわち宗桂、この当時はこう呼ばれていたのだろう。その後、利休が没してからは宗慶と名乗ったので、この宗入文書が書かれた元禄元年では宗桂であるが右横に「慶」と書き改めたのである。 このような訳で文禄4年以降出現した「田中宗慶」は、利休の猶子となった元の安江道慶→道渓→宗桂のことであるという結論に達した。 |
No.1109 | さむしろ | 2011-02-03 23:43:29.041418 |
![]() 長次郎工房は。 安江道慶→道渓→宗桂→田中宗慶。 宗慶の子、宗味、常慶が加わり、長次郎焼は隆盛となる。又、人が増え複数の手癖のものが生まれた。 |
No.1110 | さむしろ | 2011-02-05 21:44:32.083798 |
![]() 「道慶、南宗寺集雲庵へ」の項を書き写す。 (利休の切腹後)問題となるのは利休の猶子としてずっと利休に付き従っていた田中道慶(安江道慶)の事である。 それより数年前利休の元より出向してこの楽長次郎工房で仕事をしていた訳だが、この様な状態で追求されるとなると利休に最も近い訳である。 猶子と言うものの子供の内では一番の年長で、実子の道安は飛騨の金森長近を頼って逃れ、宗恩の連れ子少庵は蒲生氏郷を頼って会津に逃れた。 後妻の宗恩、娘も逮捕されたりで、彼、道慶も生きた気がしなかっただろう。この際どう対処したかというと、最善の方法は頭を丸めて僧籍に入り(元々僧なのだが)仏の子として寺に隠退する事であった。 そこで道慶は前にも述べたが頭を丸めて法名を宗慶と改め、自ら昔居た堺の南宗寺集雲庵へ蟄居帰還したのであった。 その時、利休に付き添っていた時に、その教えを書き留めた厖大な量のメモ帳(書き抜き帳)を持って・・・。 以上、奥野さんの推理であるが、大変興味深い推理である。 |
No.1111 | さむしろ | 2011-02-06 22:42:47.975817 |
![]() 「利休と南坊録」 南坊録は千利休に常随していた南坊宗啓が常日頃、利休の言う事、教えをメモして袖中に入れ、それを書き留めてまとめていた物で、覚書・会・棚・書院・台子・墨引・威後の全体で7巻にもなり、後の2巻は利休没後に書かれたものである。 しかし後年、これは偽書である、という説が起き、だんだんそれは大きくなり現今では、ほぼ100%偽書であるという事になっているものである。 |
No.1112 | さむしろ | 2011-02-07 23:02:34.621107 |
![]() 何ゆえ偽書といわれるようになったのか? 文禄二年(1593)二月二十八日利休三回忌に仏前に香草を手向け、「南方録」を供えて一ヵ月後、三月二十八日に立ち去り後、行方知れずという。 その後全く南方宗慶なる人物の名が出てこないので謎の人物として「南方録」の真偽が問題視されているのである。 |
No.1113 | さむしろ | 2011-02-08 20:41:31.529907 |
![]() それから百年後、九州黒田藩の武士立花実山が参勤交代の道すがら藻刈舟に投宿していると、或る人が「南方録」という利休の伝書があり書き写すなら骨を折るといってきた。 当時実山にはどの程度値打のあるものかさっぱりわからなかったのである。そこで同伴の者に相談、これが大変なものであることがわかり、必死で書き写させてもらったらしい。 その後、そのときには無かった6巻7巻をも南坊宗慶の子孫を尋ねて書き写させてもらい七巻が完成した。 それも長い間秘本としていたのだが徐々に世間に知られ、南坊流として一派をなすに至ったのである。 こういった「南坊録」の出現が、いかにも劇的であり長く世にでなかったので偽書説が出てきたのである。 とある。 |
No.1114 | さむしろ | 2011-02-09 23:40:31.705809 |
![]() 「南方録」を偽書とする書物。 @ 茶と利休 小宮豊隆 S31年 角川新書刊 同書には、 「これまで私は長々と「南坊録」の真偽を問題にしてきた。そうして今私は「南坊録」は信用するに足りない本であると断定しなければならない立場におかれている。・・・然し私は躊躇すある。・・・」 「私がさまざま南坊録の校合を重ねているうちに、その真偽が段々深刻な問題になって来たので、どうにかして結論に達したいと思って、検討に検討を重ねてみたにも拘わらず、結局どっちとも決定することができないと言うことになってしまった。・・・」 |
No.1115 | さむしろ | 2011-02-11 00:08:56.277062 |
![]() 「南方録」を偽書とする書物。 @ 茶の美 桑田忠親 S40年 秋田書店刊 桑田先生が、さまざまな考証から「南方録」偽書説を大々的にだされ、「南方録を玉石に例えると、これは石である。」とまで極論。 それ以降の研究家達はその偽書説の元に立って全ての論考を行い継承している。 としておられる。 |
No.1116 | さむしろ | 2011-02-12 01:03:57.764292 |
![]() 「南方録の著者」奥野説 「南方録」の著者、南坊宗啓はだれか? 南坊宗啓は後の田中宗慶である。 この田中宗慶自体も、これまで史料の少なさから謎の人物とされていたのである。 田中宗慶の史料は、かの有名な利休画像の春屋宗園の讃の中に名前が出ているのと、同時に作られた向獅子香炉の腹部に田中宗慶銘があるのと、楽茶碗の数個に宗慶印とされる楽の印があるのみであった。 古くからたしかに同一人物ではという意見が、かすかにあったのだが、それが取り上げられる毎に、その都度打ち消された。 |
No.1117 | さむしろ | 2011-02-12 22:04:20.124092 |
![]() 平野道桂、平野宗桂、通称五郎左衛門、安江道慶、慶蔵主、南宗寺集雲庵の慶首座と多くの名を名乗ったことについて、例をあげて説明。 秀吉もそうだったが、多くの例があり特に珍しいことではないようだ。 (号) (実名) (字) (通称) 林羅山 忠・信勝 子信 又三郎 佐久間象山 啓 子明 修理 |
No.1118 | さむしろ | 2011-02-13 22:38:01.415408 |
![]() 平野郷の史料を探訪していたところ、土地の旧家、奥野清順十八代所蔵に道慶の書状その子慶順の秘伝書があるのを知った。この秘伝書は十代清順に宛てたもので、 「上略・・・予父成安の姓、安江氏道慶は千の宗易利休居士の猶子として且暮かたわらに侍り此道不残相伝て趣を袖中に書留置申候。 尤秘て門戸を出し申さず候へども其方熱望之処幸に祖父奥野氏清純は家父の氏族として憩ふかく略伝置申候そう・旁々遁れがたく伝受申候通目録控渡候、努々他見有間敷者矢、・・・ 寛文十一年辛亥四月 日 安江慶順、可謙斎、花押 奥野清順老 とある。 |
No.1119 | さむしろ | 2011-02-14 23:33:13.183106 |
![]() ・・・略・・・、私の父である安江道慶(奥野説の田中宗慶)は、千利休の猶子として朝から日が暮れるまで(且は旦の誤りか?)利休に付き随い、茶の湯を残さず学び、その趣意を書き留めてきた。 これらは秘中の秘で門外不出のものであるが、貴殿が熱心に望み、又幸いなことに貴殿の祖父奥野清純殿は、父の一族であるのでここに略系譜を書置き、伝授の目録控えをお渡しする。なお、他人には決して見せることが無いように申し添えます。 安江慶順(道慶=田中宗慶の子) 奥野清順老(宗慶の父の弟の孫の夫)殿 |
No.1120 | さむしろ | 2011-02-16 21:29:42.492899 |
![]() 同書から。 唐木順三「千利休」P200より。堀口捨己氏は、その「利休と茶」の中で種々の理由を実証的にあげて「南方録」は、その六巻以下の追加分が疑わしいばかりでなく、「恐らく総てに渡って疑わしいもののやうに思う。それ故に、この中から利休の言葉として依れるものは極めて少ないであろう。」といっている。 同書P204。 私にとって南坊宗啓という人物は、不可解である。利休と同格として自ら示したり、又、無二の高弟として書きしるしているところがある。然しそれを傍証する資料はない。・・・以下略・・・ |
No.1121 | さむしろ | 2011-02-17 21:39:45.018997 |
![]() 「天正元年に宗啓=道慶が利休の身内、親族で居た証拠」 いろいろな利休に関する書物に、天正元年発酉9月15日「古渓和尚入寺の奉加帳」に道慶の名前が利休家族の名前と共に出てきている・・・。 奉加之納帳。 百貫文・・・宗易 五十貫文・・・宗及 三十貫文・・・紹佐 四貫文・・・宗旬 十貫文・・・千宗把 二十貫文・・・宗易内儀(本文では利休先妻とあるが私(筆者)は後妻宗恩だと解釈。) 二十貫文・・・竹野宗瓦 五百文・・・慶首座(道慶=南坊宗啓のこと) 百文銀・・・宗易代官、善兵衛(以下略) 以上から、天正元年の時点で慶首座つまり田中道慶はまだ利休のまわりに居たのである。 |
No.1122 | さむしろ | 2011-02-19 23:10:48.108976 |
![]() 奥野さんは、堀口捨己、大河内風船子説の二代目長次郎の存在については否定的なようである。 |
No.1123 | さむしろ | 2011-02-20 22:24:26.675129 |
![]() 「南坊宗啓に関する資料紹介」 「長次郎工房へ古田織部の介入」 「宗慶の会津行き」(常慶が行ったとされているが、奥野さんはあえて宗慶だと思うとしておられる。) 「四人の二代目長次郎について」 「変り黄瀬戸茶碗について」 などの項で自説が展開されている。 読み込み不足で、十分にその意が転載できなかったので、可能であれば原書に当たってもらいたい。 |
No.1124 | さむしろ | 2011-02-21 23:44:01.291079 |
![]() この、楽「長次郎」研究、and「利休」と「南方録」も大長編、大論文になってしまった。40年来の研究を、この様な形でインターネット、ホームページへ流したのは2000年12月29日であった。それから順次発表して、そのDまでになり、そのEは長編、そのFも息子に渡してあるが彼は仕事が忙しいとか、なかなか流してくれない。私はそこでストップする訳にもいかず、2004年始め「南方録」の部分を一気に書き上げた。これも大長編で原稿100枚程になる。これを3編くらいに分けるか、まとめて一遍として流すか今悩んでいるところである。 始め、私が偶然入手した「二代赤茶碗」の研究から「あめや」の事。これの作品。 本長次郎の作品、長次郎工房の姿。 長次郎の没年の訂正と確定。墓石の発表。 田中宗慶の解明・・・利休の猶子、安江道慶。 利休の人相。利休死の原因。 その内に「南方録」を表わしたのが、利休の元に猶子に入った安江道慶、つまりこの人が南坊宗啓であり後の田中宗慶である事がだんだんわかってきて、どうしても「南方録」にまで踏み込まねばならなくなって来たのである。そこで、これまでの「南方録」を研究してみると、南坊宗啓の事が文禄2年3月集雲庵を出てからの消息が全くわからなかった。これをも解明して、後の田中宗慶であるとの結論に達したのであった。これによって「南方録」の事から、長次郎工房の事まで総て明瞭にわかってきたのである。 これまで偽書だ。偽書だといわれていたのが真書だとわかって、これからの「南方録」の研究が大いに進むものと思っている。 この辺で一応(完)として、これからは第二編として、これまでの取材の裏話とか、関係各所への紀行文等を順次発表していきたいと思っている。お楽しみに。 H20年、2008年7月 以上で奥野秀和著「楽長次郎研究&利休と南坊録」からを終わる。 長次郎茶碗の注意深い観察が印象的であったし、新説の内、安江道慶=南坊宗啓=田中宗慶説が特に参考になった。 |
No.1125 | さむしろ | 2011-02-23 23:36:01.980944 |
![]() 耳庵とは、六十にして耳に入るところみなこれに順(したが)うーーという「論語」の一句からつけたもので、翁が六十歳を転機として茶の道に入門されたためであるという。 松永安左ェ門著作集というのがあって、 @第一巻 人生篇1 A第二巻 人生篇2 B第三巻 経営篇1 C第四巻 経営篇2 D第五巻 茶道篇 E第六巻 紀行篇 の六巻からなっている。 これより暫くの間、第五巻「茶道篇」を読んでみることにする。これは大分前であるが一度読んだことがある。しかし内容についてはほとんど記憶がない。 印象に残る部分を紹介しようと思う。 |
No.1126 | さむしろ | 2011-02-24 23:45:32.814899 |
![]() 私の茶道観 お茶は「楽しみ」に外ならない。六ヶしい理屈や肩の凝るお談義を並べる手間暇で釜をたぎらせ、花を挿し、ただ茶を飲むことである。心友相会し、書画を賞し、陶磁を鑑し、一碗を傾けするその人生の楽しみが、即ち茶なのである。 |
No.1127 | さむしろ | 2011-02-25 23:33:29.839294 |
![]() 少なくとも茶は余り趣味にこだわり、環境に執着しては寂かな茶は出来ないではないか、私は理屈を云い過ぎる、自分の好不好を人前に出し過ぎる・・・ 白隠より良寛に戻る、この戻ることは至難で、耳庵がそう易々と戻れるかどうかは自信はありませんが、・・・ 「白隠より良寛に戻る」のは把住底から放下底に一転機するのであって、・・・ 難解な言い回しが続く。理解するというより雰囲気に触れるというくらいにしておくほうが、読んでいて楽しい。 禅語に「放下着」というのがあるが放下底はそのような意味に考えていいのではないかと思う。 放下着とは下着を放り投げるという意味にとらえてはいけない。着することを放下する、執着心を捨てる、というように理解すれば当たらずとも遠からずであると捉えている。 把住底は解説をみたことがないが、把は、たばねたもの(を数える言葉)。住は、すみか、そこに住み着くといったことを思わせる。従って把住底から放下底に一転機とは、執着する、こだわる境地から解き放つ境地への転機をいっているのであろう。 |
No.1128 | さむしろ | 2011-02-26 23:33:38.865201 |
![]() いつの間にやら茶道といっている間に変に固くなり、窮屈になっています。私は一切のゴタゴタを省略して清濁併呑、駄馬来らば駄馬を渡す趙州の土橋の如く閑々たる茶人境に達すべきだ。 少し長くなるが「趙州の土(石)橋」の解説を転載して置く。 或る時、一人の坊さんが身の程も知らず、天下の大和尚老趙州に向って、「久しく趙州の石橋と嚮う。到来すれば、只だ掠?子を見るのみ」とチョッカイを掛けて来た。表面の意味は、「趙州の石橋は天下の三大石橋の一つだと有名なので、前々から是非一度は見たいものだとあこがれていた。しかし実際に来てみれば、何のこったい、丸木橋同然の貧弱な橋にすぎんではないか」ということである。これは、石橋にことよせて、 趙州和尚こそは、天下の大和尚だと長年慕いあこがれていたが、実際にお目にかかって 見れば、なーんだ、平凡極まる只だの皺くちゃ爺さんにすぎぬじゃないか。【来て見ればさほどでもなし富士の山】じゃわい。 と、よく有る問答の型のままに、趙州をからかったのである。これに対して趙州些しも騒がず「汝 只だ掠しゃく子を見て、趙州の石橋を見ず」と、これ亦問答の型通りに応じた。表面の意味は「お主の目玉が豆粒のように小さく、その視野が狭く、その識見が低いものだから、この大きな石橋が目に入らず、丸木橋にしか見えぬのじゃ」ということである。西洋の諺に【奴隷の眼中に英雄無し】というのがあるが、実際、人間は自分の教養や見識の程度にしか他人の偉さや大きさが見えないものです。「お主の境涯が低いものだから、本当の趙州が拝めないのじゃ」ということを裏にこめていることは、諸士にも察しがつくだろう。 趙州から「汝 只だ掠しゃく子を見て、趙州の石橋を見ず」とピシャリとたしなめられて、この僧「如何なるか是れ石橋?」と問わされる破目になった。こう問わせておいて、趙州やおら「驢を渡し馬を渡す」と、すまして応えられた。まさに「口唇皮子上に光を放つ」と称された老趙州の面目躍如たる扱いで、全く脱帽するほかはない。それにしても「渡驢渡馬」とは、どういうことであろうか。 この「驢を渡し、馬を渡す」という一語は、「お主、趙州の石橋の真面目を拝みたいというか、それならトックリ拝ませてやろう」という肚から、些しもたくまずコロコロと流れ出て来たもので、それを敢えて敷衍すれば 石橋の実際を見て御覧! 橋は往来する者を選り好みせず、王侯貴人であろうと乞食泥棒であろうと、こやし桶を載せた車であれ、馬であろうと驢馬であろうと、何でも渡している。 汚され踏みつけられながらも不平も言わず、「縁の下の力持ち」然と黙って皆を渡 している。お主のような未熟な坊主も渡してござる。 |
No.1129 | さむしろ | 2011-02-27 22:45:58.95377 |
![]() 「趙州の土(石)橋」が大変好きで、知人が「ああだったこうだった」と言ったときに「それがいいよ」とよく言っていたが、最後に感じが良くないと小言をいわれたことを思い出す。その後ほとんど使うことも無かったが、昨年であったかその前年か、赤塚不二夫氏が亡くなりタモリ氏が弔辞を読んだが、その一節を転載すると、 「(略) 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。(略) この弔辞をテレビで見て驚いた。『あの二人は単なるギャグではなかったのか!!』 |
No.1130 | さむしろ | 2011-02-28 23:28:50.917345 |
![]() 「趙州の土(石)橋」の如く閑々たる茶人境に達したところ、これを第二の段階に行き着いたところとして・・・・・(ただし、そんな心境が容易に得られようか。それは虚明の茶というものでなく自暴自棄であり、左右の解決をつけないまま家出したノラ息子に過ぎない。) 第三の段階は倫理の茶でなく、享楽本位の茶でなく、また自楽的虚明の茶でもなく、三転して草庵小間の利休の侘び茶に戻るのである。 「草庵小間の利休の侘び茶」とは随分と遠いところにあるようである。 |
No.1131 | さむしろ | 2011-03-01 23:59:08.706366 |
![]() 主客互に心に叶ふが能し、然れども叶ひたがるは悪敷く得道の客主人なれば自ら心好きものなり。 小座敷の道具は万事たたらわぬがよし、少しの損じも嫌ふ人あり、一向不心得の事なり、唐の茶人など然るべき道具は漆付けしても一段用い来りしなり、扨又道具の取合せと申は今焼茶碗と唐の茶入如く心得べし。 |
No.1132 | さむしろ | 2011-03-02 23:27:19.585124 |
![]() 昔では二刻といった茶会のきまりは今では四時間、そのときの客の「同心さ」に心を打たれ、また雪の朝、落葉の夕べに心を動かし、心入れの取り持ち、席内外の掃除、清き灰や炭、つつましく落ち着いた点茶、夏は涼しきよう、冬は暖かに茶は挽きたてのおいしいのを一碗に盛りて一座で飲む。 床の間の祖師、先哲の一幅、あるいは夏はほととぎす、秋は鳴く鹿の歌切れ、一枝かるがると露しどろの野花、いずれは自然のまことから湧き出た楽しみは感謝をふくむ楽しみであって、いわゆる道楽と反対なもので賓主を忘れ、各自の心を清くした一座建立の共楽となるのである。 |
No.1133 | さむしろ | 2011-03-03 23:11:56.02803 |
![]() −略−。 隙きもないといえば宗旦が裏に隠居して一畳半の小間を作った、隙きのない精神活動で懈怠之比丘不期明日、明日を当てにせずに今日ただ今即刻が人生であり、茶であることから今日庵という茶席の名前は出た。 いかに茶をする人が真剣であったかが推測さるるのである。 『今日庵』のいわれについては不勉強であった。 当時、茶の湯に対する姿勢が想像以上に真剣であったということは、他書からも強く感じている。 |
No.1134 | さむしろ | 2011-03-04 23:33:27.118581 |
![]() 「露地のこころ」 利休の若かった時である。一日師の紹鴎の茶席の外露地を丹念に掃除をしていた。正午のお茶には十分に間に合う時間なので、待合腰掛を拭きあげ、外雪隠の砂を取り替えたり、塵穴をすっきりと清めて青葉と枯葉の一枚を入れたり鋭い神経を働かして打ち水も打ちつくし手水鉢になみなみと清水を溢らして「これで充分であろう」と師匠の見廻るのを待っていた。 見分けにきた紹鴎は弟子の期待に反して褒める代わりに「今すこし気をつけてよくよく掃除することじゃ」と言い捨てて勝手の方へ引き返してしまった。あっけにとられた利休は、露地の面の掃除のあとを見渡していた、とその脳底に「よく掃除せよ」の言葉に含まるるひびきを直覚した。そこで手頃の露地木の枝をゆさぶってみた。すると数枚の枯葉が散り落ちた。 よく出来た話なのでご存知の方も多いかもしれない。 |
No.1135 | さむしろ | 2011-03-06 00:33:56.146051 |
![]() 利休、二三人同伴ありて去方へ朝茶の湯に行きしが、木立物さびたる露地の面に、朝風に散りし椋樹の葉つもりて、さながら山路の如く、利休、さても面白き事かな、されども亭主無功者なれば、掃き捨るにぞあらんと云う、案の如く後の入りに一葉も置かず掃き捨たり、利休左あればこそなれ、序でに教え申さん、朝の客ならば宵にはかせ、昼客ならば朝清め、其の後、落葉のつもれるも、其儘置くべしとなん。 このことは、茶の湯のなかでは当てはまることが多いように思う。 |
No.1136 | さむしろ | 2011-03-06 22:20:41.373144 |
![]() −略− これが点茶作法の基本原理でございますといって、正直に綺麗にと、金閣や銀閣の敷砂のように節目ばかり美しかったって温か味も潤いも味も寂もない白砂を噛むようなものでは茶の湯とはいえない。だが法も型もない。ただ湯を沸かして呑むばかりの無茶でよいというものではない。 行き渡った訓練を経た上の落葉かつ散る二ひら三ひら・・・・・、その寂を享受するまで身につけた実践の行業が肝心なのである。 遠州が「上手過ぎてさえいかぬのに下手でどうする」といったのもここの境地である。すべからく己の心を虚にして行に励む者のみが達し得る真境といわなくてはならない。 |
No.1137 | さむしろ | 2011-03-07 23:43:39.445676 |
![]() 墨蹟が利休時代から仰望し来って、よく一座を建立したことは、もとよりその書体の優れていること、字の配置、余白など相当正しいことを条件とはするが、それだけでこと済んでいるかというと、なかなかそう容易でない。老いた老僧、尊宿の風格の力から出て来る崇高と、その清潔とに引きつけられるところがある。その内容の奥行きの深みに、寂に、琴線が打たれるからである。 また高麗茶碗はゆがんだり手荒であったりするからいいのでなく、清寂なる心持ち、簡素なる姿がにじみ出ているからである。無心の工人たちが、口造りに高台にいとも自然に現れているのと、窯中の天○(○は竹かんむりに頼)的な発露がまた巧まざる焼成を見せるといったところに茶人の眼が働いたのである。 なかなか難解で、分かったような分からないような文章だが、雰囲気に触れるだけにして置く。 |
No.1138 | さむしろ | 2011-03-08 23:39:11.881496 |
![]() 利休は臨時の茶は心を真にせよ、目上の方に濃茶を上げるには道具は名物を使っても心は草にせよと、茶の作略の真諦を説いておる。 「真・行・草」は「楷書・行書・草書」あるいは「正装・平服・普段着」の違いと思えばいいだろう。 不意の客のときは正式の客のときの心持でもてなすように。目上の客のときは普段の心持でもてなすように。これは、目上の客の場合は丁寧が過ぎることが多いので、くだけたくらいの心持のほうが丁度良い、といっている。 「上は麁相に、下は律儀に」と言うこともある。下は律儀にとは、「茶に呼んでやっている」というような見下した心が現れやすいので、丁重なくらいの心持が丁度良い、ということをいっている。 |
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