茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.636さむしろ2009-01-11 19:39:57.165866
生爪と他のものとで、どちらが先に作られたのか?それはいつ頃だったのか?

このことが解からず難渋しているのだが、伊賀茶陶は1600年代以降、茶会記に登場(慶長6年(1601)1.29「伊賀焼の水指」)の前年(或いは前々年)以後の誕生を想像している。

しかし、利休所持が確かであれば1591年には存在したことになり、大きな意味を持つことになる。
No.637さむしろ2009-01-12 17:31:50.439926
茶碗(和物)の場合、茶会記によると、まず瀬戸茶碗が登場し、次いで今ヤキ茶碗が登場する。いずれも利休時代である。

「へうげもの」茶碗が登場したのが1599年、利休歿後8年。

黒織部、織部黒、志野などはへうげもの登場以降の登場の可能性が高いと考えている。
No.638さむしろ2009-01-13 18:05:29.517632
花入の場合、茶会記によると、1585年には備前筒が登場し1587年にはシカラキツツが登場、その後も頻繁に登場する。

そして利休歿後もこの二つは頻繁に登場する。しかしそれらがどのようなものであったのか、まったくわからない。

慶長7年(1602)1.9 「三角ノ伊賀筒」まで、資料の中から「三角」の登場をみつけることができない。
No.639さむしろ2009-01-14 19:00:21.973712
花入についても、三点展開による造形は、まず長次郎一族が作り、以後、陶工が写しものを作ったのではないかと想像しているが、陶工が新しい形を作り、長次郎一族がそのうちの一部について、三点展開によるものを作った、という可能性がないわけではない。

とりあえず今段階では、名品といわれる花入が作られたのは三角ノ伊賀筒と同じく1600年以降ではないかと思っているが、根拠となるものはない。
No.640さむしろ2009-01-15 18:40:09.012019
強いて根拠としてあげれば、NO638等の古茶会記に登場する「備前筒」「シカラキツツ」について会記の中に特にコメントはないようだ、ということくらいである。

このように年代を示すものがほとんどないことから、生爪形花入の利休所持が正しいかそうでないかについてこだわっているが、利休の花押だけに、後世の別人の手によるものではないかとの疑念が残るのである。

No.641さむしろ2009-01-19 12:04:37.490022
‘09,1月4日付日本経済新聞に「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― として、

「古代、ギリシャ人はポーズを発見した。静止した彫刻で、いかに動きを表現するか。残された貴重なブロンズ像から、独創の精神を探ってみよう。」

との特集があった。
No.642さむしろ2009-01-20 12:30:29.334267
09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。

左の写真は「アルテミーシオンのゼウス」(紀元前460年ごろ、ブロンズ、高209センチ、アテネ国立考古博物館蔵)とある。
No.643さむしろ2009-01-21 12:01:52.717434
09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。

「前からも、後ろからも、一目で全体の動きが見渡せます。紀元前四、五世紀のギリシャ彫刻は完璧でした。」

「後世の彫刻になると、いろいろな角度から眺めないと、動きがつかめない。後の時代の人はどうすれば追いつけるのか、わからなかったほどです」

という、アテネ国立考古博物館の学芸員アレキサンドラ・クリストプールさんの解説を紹介。
No.644さむしろ2009-01-22 10:53:31.893607
09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。

真の実在の追及からおそるべき高みに到達。

ギリシャ人はあらゆることに秩序を見いだそうとした。ギリシャ語のカオス(混沌)、つまり不安定で不透明な状態には不安をいだいた。原理の説明を求め、哲学や科学を生み出し、彫刻家も理想の人体のあり方を数学的に解明していった。
No.645さむしろ2009-01-23 11:51:57.28761
09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。

「数学を駆使して、このゼウスは造られました。この像は縦も横も2・09メートルで、まったく同じ。かかとを上げるポーズで安定させるのは非常に難しい。後世の人には造れません。バランスを計算し尽くしていたはずです。」

と、クリストプールさんは解説。
No.646さむしろ2009-01-24 15:56:57.379778
09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。

クリストプールさんに思わず聞いてみた。

「このゼウスはレオナルド・ダ・ヴィンチの源流かもしれませんね」

古代ローマ時代の建築家ウィトルウィウスはギリシャの知恵にさかのぼって理想の人体を考えた。さらに時代がくだって、イタリア・ルネサンスを生きたレオナルドは素描画でその検証を試みた。
No.647さむしろ2009-01-25 15:10:30.834977
09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。

「そうです。ギリシャ人はポーズをゼロから創造した。レオナルドはそれを土台に進歩させた。ヨーロッパ文化の源にはギリシャがあるのです」
と、クリストプールさん。
No.648さむしろ2009-01-26 09:47:54.56788
09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。

ギリシャで著名な博物館を訪ねると、たいがい時代ごとに展示がされている。神殿の柱像や立像に動きが兆し、やがて明確な動きが現れ、ついにはこのゼウス像のような完全な形にいたる。そのことが実感としてわかる。

おおよそ紀元前500年頃、動きのある人体表現を創始した美術革命が起こったのである。
No.649さむしろ2009-01-27 10:11:43.078212
09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。

国立西洋美術館長は言う。
「静止した像にいかに動きを与えるか。動きの中にどうやって静止した状態を見つけるか。途方もないことをギリシャ人は150年、五世代かけて解決した。すさまじい努力の継承が紀元前四世紀半ばには完成します。後世、創造力が疲弊する時代になると、ギリシャが見直される由縁です」

No.650さむしろ2009-01-28 09:24:37.215199
09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。

「ギリシャにかえれ。」この言葉は西洋に人間中心の芸術や科学をもたらしたルネサンス時代の精神を象徴していた。

その後もギリシャへのあこがれは時代が行き詰るたびに、よみがえるのである。
No.651さむしろ2009-01-29 09:29:25.287135
09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。

ギリシャ人にとって彫刻といえば、まずはブロンズ像を指した。
ギリシャ各地には神にささげるブロンズ像が無数にあった。それらは残念ながら、ほとんど現存しない。
征服者となったローマ人が、根こそぎ持ち去ったからだ。

ローマ人は持ち帰った彫像から、おびただしいコピーを造った。
採寸し、大理石に写したのである。
今日、欧米の美術館で目にするギリシャ・ローマ彫刻の大半はこのローマン・コピー、つまりは模刻である。
No.652さむしろ2009-02-02 15:55:18.168957
09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。

コピーにも第一世代、第二世代(コピーのコピー)、さらにその先の世代とあって、優れたコピーは有力者の庭園などを飾った。オリジナルの像は鋳直されたりして失われた。

ギリシャ美術の真髄に触れるには、オリジナルのブロンズ像を見なければならない。

しかし往時の姿をとどめる人体像は、二十ほどを数えるだけ。
No.653さむしろ2009-02-03 12:41:06.277782
09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。

ブロンズ彫刻の作り方は現代と大差なかった。粘土で原型をつくり、型をとる。型の中に蝋を張り、鋳造土を入れる。焼成して蝋を流し去り、ブロンズをそこに流し込む。すると、中が空洞のブロンズ彫刻ができあがる。できあがったブロンズの各部は溶接され、軽石などで表面を磨かれた。

No.654さむしろ2009-02-04 11:21:50.398769
09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。

現代の彫刻家は形を決めたら、鋳造家に発注する。古代ギリシャでは彫刻家と鋳造家はわかれていなかった。圧倒的な職人技だったのである。
No.655さむしろ2009-02-05 18:52:56.172937
09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。

ヨーロッパの美術館でギリシャ・ローマ室に入ったら、大理石の模刻をつぶさに見てほしい。多くの場合、支柱がつけられているはずだ。そうしないと、ポーズを保てなかった。

ギリシャ人のブロンズ像がいかにすごかったか。そのことを嫌というほど知らされたのは、模倣に明け暮れたローマ人だったであろう。
No.656さむしろ2009-02-07 18:19:36.543644
長々と09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― を引用してきた。
これは、これまで桃山織部様式名品茶陶が、ミロのヴィーナスやミケランジェロなどに代表される中世ヨーロッパ彫刻の造形理論を茶陶に取り入れたものであると考えてきたこと、従って、その原点であるギリシャ彫刻をあらためて紹介して、安倍安人がいう「織部様式」の理解の一助になればという思いからである。

まさに、「古代、ギリシャ人はポーズを発見した。静止した彫刻で、いかに動きを表現するか。」

この命題を、「焼き物=茶陶」で表現した者たちがいたのである。

「残された貴重なブロンズ像から、独創の精神を探ってみよう。」

「残された桃山織部様式名品茶陶と安倍理論から、誕生の秘密に迫ってみよう。」

No.657マスター2009-02-10 10:24:28.237474
投稿がありましたので紹介します。

今年に入りギリシャ彫刻の話が出始めたとき、これはと思い嬉しさがこみ上げてきました。

その理由は、安人先生との会話の中で「作品の傾げは、ミロのビーナスを連想する。
この茶垸は、彫の深さや動きがギリシャ彫刻だ。」などと生意気な事を言っていたからなのです。

検証はしていません、先生の作品の形態は造形理論で在る所の「三点展開」が黄金比を成しているのではないかと常々思っています。

安人先生の作品が、備前焼きの陶芸作品としてだけでなく、芸術作品として広い視野を持って、より多くの方々に理解される事願っています。

これからの「茶房ものはら」 益々楽しみです。
                  −ここまで−

投稿、ありがとうございました。
ご意見やご感想がありましたら、喜んでお受けしますので、お寄せ下さい。また、差し支えない範囲で紹介します。
(改行はこちらで入れさせていただきました。)
No.658さむしろ2009-02-10 19:52:20.964094
NO657投稿者さん、投稿を読みました。ミロのビーナスを連想されたとのこと、同じような視点で見ておられる仲間がまた一人増えたようで嬉しく思います。

ただ、織部様式・安倍備前にはいろいろな要素が絡み合っているようで、そのため、いろんな方向から説明をしているということから細かいところになってくると、必ずしも意見が一致しないということもあるかもしれません。もっとも、それはそれで結構なことだろうと思います。

先の引用連載のキーワード部分は、「静止した彫刻で、いかに動きを表現するか」にあると思っています。

本来「静」であるものに「動」きを与え、見る者に「動」を感じさせる。このことを焼物で表現した偉人か才人か天才(かわかりませんが。)が、この日本の桃山という時代にいたということを論じ続けています。

多分、「動」を茶碗、花入、水指などの「茶陶」という、人間や動物以外のもので表現したのは、世界で最初のことではないかと思います。

No.659さむしろ2009-02-11 18:24:31.017963
そしてその表現方法は古田織部の死(1615年)とともに封印され、近年になって、安倍安人によって解明され、そして再現された。

『その「静」であるものに「動」きを与え、見る者に「動」を感じさせる。このことを表現した焼物』が、桃山という短い期間に、京で、美濃で、備前、唐津、伊賀、信楽などで次々と誕生した。このことの不思議は、従来の説明では理解できない。

『「織部の茶碗は、当時、都で大流行していたのでは。」「でありながら、なぜこんな形の茶碗を、といぶかりながらつくったのでは。なぜ焼き続けたのか不思議なくらいだ。」』

という説明もあるが、このようなことで納得できるのであろうか?
No.660さむしろ2009-02-19 12:34:00.404308
ただ、
「織部の茶碗は、当時、都で大流行していた・・・、で、なぜこんな形の茶碗を、といぶかりながらつくった」
というのも、アーティスト物と職人物とに分けて考えると理解できる。

つまり、三点展開によって造形された物と、単に押したり引いたりして似せた物とを分けて考えるということだ。

No.661さむしろ2009-02-20 11:28:01.865346
アーティスト物(ひょうげたるもの)がまず作られ、少し遅れて職人物が、注文を受けてか、あるいは勝手にかわからぬが作られたと考えている。

まず歪んだものが作られ、やがて各地に広がり、それぞれの地で名人が歪みを完成させた作品を作った、とは思っていない。

No.662さむしろ2009-02-21 14:29:43.93297
歪んだ茶碗は、朝鮮ものの茶碗、特に鶏竜山のように薄手のものによく見られるが、火の力で歪んだものである。それがヒントの一つとなったといえるかどうか。

それを考えるうえでは、鶏竜山など朝鮮茶碗がいつ渡来したかが大きく関わってくる。秀吉の朝鮮出兵の際持ち帰ったとの説が有力かと思うが、朝鮮出兵は1592年(文禄の役)と1597年(慶長の役)である。

造形された長次郎茶碗はその前にできているとすれば、その説は消えるだろう。(長次郎の没年は1589年)
No.663さむしろ2009-02-22 15:44:11.81689
織部のひょうげたる茶碗と、長次郎茶碗のうち俊寛のような動き(歪み)を持った茶碗は同じ造形理論で作られているので、「俊寛」の名が伝来どうり利休(1591没)の命名によるものであれば利休時代に動き(歪み)は作られたことになる。

従って朝鮮茶碗の歪みがヒントになった可能性は低くなる。
No.664さむしろ2009-02-23 15:14:42.799648
すでに述べてきたように、黒織部、織部黒、志野茶碗は1590年代の終わり以降に作られたというのが現在の説である(大阪城の発掘結果による)。

これもすでに述べたように瀬戸黒茶碗がいつ頃作られたのか、もうひとつよくわからない。別名天正黒と呼ばれていることを考えると、天正時代まで遡るのではないかとも思えるが、天正黒という呼び名がいつ頃から言われだしたのかもよくわからない。
No.665さむしろ2009-02-24 19:21:38.401295
しかし間違いなくこの日本の桃山という時代に、本来「静」であるものに「動」を与え、見る者に「動」を感じさせる焼物が作られた。

長次郎茶碗が先か、瀬戸黒茶碗が先か、今のところどちらが先かわからないが、とにかく作られたのである。

No.666さむしろ2009-02-25 17:04:01.832021
安倍さんは、桃山名品茶陶(ここでいう「静」であるものに「動」を与えた作品)は一品ものであるという。

同一のものを数点作り、その内の出来のよいものを残した、あるいは残った、ということではないということである。

前者がアーティストもので、後者が職人ものという分けかたをしている。
No.667さむしろ2009-02-26 12:06:22.077939
そうすると、アーティスト物の誕生はどういうことからであったのか?

古代ギリシャの「アルテミーシオンのゼウス」(これが最初かどうかはわからないが)は紀元前460年ごろ、いきなり表情を持つ像として誕生した。

これがヒントとして日本の桃山時代に伝わったのではないか。
No.668さむしろ2009-02-27 12:38:13.078181
ギリシャで動き(表情)をもたせて作られた像は、やがてローマで模造されルネサンスへと引き継がれていく。

1549年以降渡来した宣教師によって、利休あるいは織部にその造形思想が伝えられたのではないか。

利休か織部が茶碗に動き(表情)をもたせることを思いついた、との仮説である。そして実際に形にしたのが長次郎ということになる。
No.669さむしろ2009-03-01 15:37:00.24243
では、宣教師達は茶の湯をどのようにみていたのか?
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

「この国の優雅な習慣の中でも、主要で、日本人が最も尊重し全力を傾倒するのは茶を飲むことに招待することであろうが、それと同じく、彼らはまた、客人に茶を出す場所を造るについても、特殊な建物、その建物への通路や入口、またこれらの場所の目的に適したその他さまざまなことに丹精をこらすのである。」

日本人は茶の湯についてこのように考えていると理解していたようだ。
No.670さむしろ2009-03-02 12:15:58.201303
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

「その建物なり、そこに置いてあって使われる道具類なりを静かに眺めるとともに、一種隠遁の気分を味わい、またその場所に適しない雑談はいっさいやめて、そこに見られる僻地のあらゆるものの形態、調和、種類についても観照するためのものである。」
No.671さむしろ2009-03-03 12:14:58.083873
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

「この建物なり、その場所で飲食その他すべてのことに使う道具なりは、宮廷にあるものと同じような、優美で、完全で、形がよくて、光沢があるものを甚だしく嫌い、また山中や僻地のものを使うのでもなくて、無造作に自然らしく造られた、粗末でゆがんだものなどが使われる。」
No.672さむしろ2009-03-04 20:16:12.568514
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

「日本人は、客人がいつ来ても接待できるように、一定の場所にいつも湯を沸かして用意して置く。 ―略― 

日本人はこの茶に招待する普通の方法の他に、別の方法を持っているが、それらについては一般的に、また個別的に述べることにする。

日本人は茶に大きな価値を認めた。そして、茶を最高度のものと考えるので、客人がたとえ高貴な人であっても、また、天下殿自身であっても、茶で客人に敬意を表し、歓待する。

そして、そのことをあまりにも重視し、評価するので、その茶に自分の主な財宝、貴重な宝物を使い、金、銀、宝石のために使うことはしなかった。」
No.673さむしろ2009-03-07 11:46:03.188527
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

茶会への招待は、たがいに茶を勧め合うことだけを目的としたものであり、その宴会や食事も茶のための準備として出される。

その宴会は多すぎて過度にわたることなく、節制し控え目であって、各自が欲しいだけつつましく食べたり飲んだりして、誰にも強いることをせず、また客は食事中たがいに話すこともなく、ただ必要なことだけを低い声でいう。
No.674さむしろ2009-03-08 17:04:00.301267
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

彼らは万事について非常に謙虚で静寂にふるまう。従って、この饗応と礼法の仕方は、普通一般の儀礼とは違っていて、むしろそれとは反対の別の形式による交際や話合いのものである。

それは、華美壮麗なところがなく、隠遁的孤独的で、世俗的儀礼的交際から遠ざかって茅屋の中に閉じこもり、自然の事象の観照に耽る僻地の隠者を真似た孤独の様式なのである。

従って、この茶を勧め、会話を交わす招待は、たがいに長い話をするためではなく、大いに静寂と謙虚さを保ち、その座で目にする事物を家の主人に向かって讃めることをせず、心の中で黙考し、その中に蔵された神秘さを自身で悟るためである。

そのことからして、この儀礼に用いられる物はすべて、野趣を帯び、素朴であって、なんら人工を加えることなく、自然がそれを創った通りにただ自然のままであって寂寥、孤独、野趣にふさわしい。
No.675さむしろ2009-03-09 12:32:10.177536
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

この招待には、儀礼的で一般的な招待にみられるような、豪華に飾り立てた広々とした座敷や広間を使うことはせず、またりっぱな陶器など高価な食器類なり、その他すばらしく豪奢な花器なりも用いない。

このもてなしに用いられる器物や陶器は、金製でも銀製でもなく、その他贅沢に磨き上げて造られた貴重で高価な材料を用いたものでもなく、まったく光沢も装飾もない粗末な陶土と鉄のものであって、また光沢や美しさのために、自然にそれが欲しくなるような欲望をそそる物でもない。
No.676さむしろ2009-03-10 18:46:22.612845
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

日本人は、茶にこのような方法で招待することをたいそう喜び、重視しているので、前述のようにあるがままで人工を加えない家を造ることや、茶にこのような方法で人を招くのに必要な品物を買い求めることに大金を費やす。
そのために、とるに足りない陶土でできているにもかかわらず、一万、二万、三万クルザード、さらにそれ以上の価格に達するものもある。

(イルマン、R・D・アルメイダは1565年10.25付福田発の書翰で、堺の日比屋了珪所有の茶の湯道具のことを述べた後に、都の一領主が三万クルザードの茶碗を持っていて、それが彼らのいうほどの価値を持っているにしても自分はほしいと思わないが、一万クルザードならばそれを買う王侯は多数いるだろう、としたためている。)
No.677さむしろ2009-03-11 17:35:37.623312
記述内容から侘び茶になってからのものだとわかるが、ジョアン・ロドリーゲスは、茶について随分と詳しくまた深く理解していたようである。

相当深く茶の湯を学んだ者たちとの交流があったものと思われる。

宣教師たちが日本に深く入り込もうとすると、上級階級とのかかわりが必要となり、茶の湯の作法や理念をも学ぶ必要があったのかもしれない。

これまでのところどのような茶人達と交流があったのかについて触れたところはない。
No.678さむしろ2009-03-12 14:49:22.580002
宣教師たちは、茶の湯者たちから(もちろんそれら以外からも)多くのことを学んだ。

それは単なる雑談レベルのものではなく、使命を帯びた調査官による、日本の風俗、習慣、嗜好、礼儀、文化、価値観等々の多岐にわたる情報収集であったように思われる。
No.679さむしろ2009-03-14 19:47:39.793459
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

「その後、時がたち、また、全国にわたり、特に都や堺では、この道に丹精をこめて、その習練に専心していた人が多くおり、従って彼らは世間の意向に応えてこの芸道に傑出し、そういう人として認められ重んじられた。

これらの人はあまり重要でないことを取り除き、また、都合のよいと思われる事を新しくつけ加えることで、東山殿の古い様式を部分的に改めて、茶の湯の様式をますます完成してゆき、その結果、現在流行している数寄と呼ばれる別の様式を作り上げた。」

このようにジョアン・ロドリーゲスは、書院茶から侘び茶への移行をきっちりと見届けていた。このことは、茶の湯とのかかわりが永い期間続き、また深かったことを現していると思われる。
No.680さむしろ2009-03-15 19:15:23.23002
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

この(侘び)数寄は模倣の上に成立つもの故に、必然的に自然の事物の貧弱さと不十分さということもまた模倣せざるを得なくなったが、その貧弱さと不十分さはその本質上、それ自体きれいでなくて、人々の考えでは軽蔑されざるを得ないものなので、これを避けるために、東山殿が茶の湯においても、彼の権威と体面について配慮したと同様に、この人たちは数寄には二つのことを求めた。

第一は極度の清浄さである。

第二は、各自がそれぞれの資力に応じて、外国製と日本製の立派な器物をいくつか、その値段を問わないで、そのためには借金しても、少なくとも一個は手に入れることである。

なぜかといえば、強く求めているものを手に入れようとして、独力で、全力をつくして困難に打ち勝つ事をしなければ、真実に数寄の人、すなわち、ある事物の愛好者、またはある芸道を本職とする人だということはできないといわれるからである。
No.682さむしろ2009-03-16 19:39:47.36597
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

その結果として、数寄が始まってから、有名な器物は、値段が以前よりもはるかに高くなってきた。そして、今も日ごとに高騰しつつある。
No.683さむしろ2009-03-17 13:07:01.857095
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

そこからまた、数寄に専念する人は、それを行うのに果断な勇気を持った人であり、礼法と節度を身につけることに志操堅固であるということになるのであるが、数寄以外でも、物事に無節操で決断力が乏しいこと、また彼らの望む価格に合わせて器物の価格を値切る事は、その人々にとって著しく恥ずべき行為と考えられるからである。
No.684さむしろ2009-03-18 13:38:24.373036
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

数寄者たちは、あの茶の家で使う物について、次のことを守ろうと努めている。

すなわち、それらは常に外面に現れる外観よりも、実質においてすぐれており、あるいは少なくともそれらが持っている優秀さを表面に見せようとせず、また光沢、光彩、技巧をも示さないようにし、ただ単純で素朴な自然の純粋さを示そうとする。
No.685さむしろ2009-03-19 11:51:39.893332
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

それ自身に金がかかったものであればあるほど、外観にはあまり表さないのが、いっそう適しているといえる。
数寄ではあらゆる種類の人工的なもの、華麗なもの、すべての見せかけ、偽善、および外面的装飾を大いに嫌うようになる。
No.686さむしろ2009-03-20 11:15:06.219791
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。

それらを「軽薄」といい、たとえば、挨拶に口数の多い偽りの言葉、阿諛、賛辞、目上の人に対する追従、知ったかぶりをし、事をするに当って、自分の力量や技倆で出来る以上のことを見せたがる欲望、その他この類のことをいうのである。

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