茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.536さむしろ2008-06-22 16:10:59.858299
慶長15、6年あるいは17年あたり、というのは筒井定次の改易(慶長13年(1608年)6月)後で、藤堂高虎の時代である。
No.537さむしろ2008-06-23 19:33:59.12812
書状の年代が慶長15、6年あるいは17年あたりで正しいとしても、それによって直ちに製作年代がその年代になるとはいえない。

宗箇が懇願したのがいつ頃であったか? つまり織部が長く愛蔵していたものであったか、それとも焼けて間なしであったかということで製作年代に巾がでてくる。
No.538さむしろ2008-06-25 20:19:55.386377
ここでは、織部は「名品茶陶」を戦略的に利用していた、常にある狙いをもって利用した、という風に考えているので、織部は宗箇にそれとなく見せびらかしていたのではないかと考えたい。

No.539さむしろ2008-06-26 22:45:16.628196
経験のある方も多いと思うが、ほしいと思うには長い時間はいらない。惚れてしまえば恥も外聞もない、という気持ちも理解できる。

No.540さむしろ2008-06-27 20:21:28.000419
そのように考えると書状の年代から大きく遡らないのではないか、という思いもしてくる。

No.541さむしろ2008-06-28 23:37:25.816545
筒井伊賀、藤堂伊賀との呼び名があるがいつ頃からそのように呼ばれるようになったのだろうか?

No.542さむしろ2008-06-29 22:35:51.712993
前述したように茶会記に登場しているのは、
慶長6年(1601)1.29  伊賀焼の水指
慶長7年(1602)1.9   三角ノ伊賀筒
慶長7年(1602)5.13  水指伊賀焼
慶長8年(1603)4.29  伊賀焼水指
慶長8年(1603)5.23  伊賀焼ノ筒
慶長16年(1611)9.9  イカヤキ水指
であり、慶長8年(1603)5.23 伊賀焼ノ筒までが筒井氏の時代である。

慶長8年の伊賀焼ノ筒の後伊賀が登場するのは、慶長16年のイカヤキ水指の1回のみである。
茶会に登場する茶会そのものも極端に回数が減ってはいるが、それでもざっと数えて、水指だけで信楽が20回程度、備前が5回程度であるのと比べると異常な少なさといっていいだろう。
No.543さむしろ2008-06-30 22:34:00.365917
古伊賀茶陶が極めて特異な立場にあったということを現してはいないか。

No.544さむしろ2008-07-01 22:11:32.966451
花入も見てみよう。同時期の茶会における備前花入の使用は8回、信楽花入の使用が5回である。
No.545さむしろ2008-07-02 20:33:41.554117
数的に少なかったとは考えにくい。
所持者が茶会記に登場するような立場ではなかった、といえるのではないか。
No.546さむしろ2008-07-04 20:08:26.777966
慶長4年以降の茶会記では、伊賀花生「生爪」の上田宗箇こそ1度亭主として登場しているが、
伊賀水指「破袋」の大野治房、
伊賀花生「からたち」の前田家(但し、いつの時代に前田家に入ったかは定かではない。)、
志野茶碗「峰紅葉」の九鬼家(但し、いつの時代に九鬼家に入ったかは定かではない。)
を亭主とする茶会は見あたらない。
No.547さむしろ2008-07-06 23:24:54.514501
1600〜1615間の茶碗について見てみた。16年間に古茶会記に記録されている茶会が60回、セト茶碗の登場が2回。志野茶碗の登場は、考古学的研究により1600年頃以降とされている。それにしては、それらしい茶碗が見当たらない。
No.548さむしろ2008-07-07 23:06:05.694353
NO547の、16年間に古茶会記に記録されている60回の茶会に登場する亭主は48人である。

出典は松屋会記(久好)、宗湛日記、松屋会記(久重)であり代表的な古茶会記である。

その中で、前述のごとくであるということは、伊賀にしても志野にしても広く行き渡っていたということはなかったということがいえるのではないか。
No.549さむしろ2008-07-08 23:00:33.6867
慶長4年(1599)12月に「白ヤキノ茶ワン」が使われている。亭主は甲田法順という人だが、どのような人物なのかわからない。つづいて慶長6年(1601)11月に妙光院という人が「白茶ワン」を使ったとある。
会記はいずれも松屋会記(久好)である。二つの茶碗が同種のものであったかどうかわからない。
No.550さむしろ2008-07-09 20:24:08.140821
志野茶碗はそのほとんどに絵があるが、無地志野が無いわけではない。従って「白ヤキノ茶ワン」「白茶ワン」が志野の可能性も無いわけでない。

白無地でなく、絵のある絵志野の可能性はまずないだろう。もし絵志野であれば、なんらかのコメントがありそうな気がする。
No.551さむしろ2008-07-12 22:40:36.571843
無地志野について、「桃山陶の華麗な世界」(愛知県陶磁資料館)において、桃山陶の変革と創造と題して井上喜久男氏が概略次のように述べておられる。

大坂城における志野の出現年代は、調査地点によっては慶長3年以前の遺構に無地志野皿が認められる・・・。その他、・・天正3年に消失した根来寺坊院跡の焼土層から出土した無地志野皿がある・・・。
No.552さむしろ2008-07-13 23:22:12.896951
ただそれらはいずれも皿であって茶陶ではない。

やはり、大坂城跡の発掘調査による、大坂城三の丸造営の慶長3年以降説を考えたい。
No.553さむしろ2008-07-14 23:05:16.524453
NO552で「慶長3年以降説を考えたい」と書いた途端、次の記述を見つけた。
天正14年3・2、朝 セト白茶碗 亭主 曲音
これまで何度も見たところだが、気にも留めず読み流していた。
セト白茶碗は何???
No.554さむしろ2008-07-15 23:23:19.941392
天正14年は1586年で、同年10月に初めて「宗易形ノ茶ワン」が登場した年でもある。

写真の左の茶碗(志野天目)のようなものがそれにあたるのではないだろうか。これより前に、古茶会記に「志野茶碗」が登場するが、それらは所持者の名をとったとされている。
No.555さむしろ2008-07-17 23:24:59.336338
NO554の写真の内、右側の茶碗は造形がなされている。オリジナル物か陶工によるコピー物か、この写真だけではわからない。
No.556マスター2008-07-24 23:44:38.626957
連日の猛暑で夏休みにはいったようですが、

このHPに「安倍安人のアートを理解してますか?」とのメールがありました。

何をもって理解したとするかという問題もありますが、この質問について考えてみました。

以前、ものはらで、NHK日曜美術館の中で作品を紹介するのに「えもいわれぬ云々」という言い方がなされたことに触れたことがあります。「えもいわれぬ良さ」から「絵にもかけない美しさ」を連想しましたが、「えもいわれぬ」を説明・表現ができないの意味とすると、説明がつかないものが名作足りうるのかという疑問をもったからです。

辞書には、「理解」:物事のすじみちを解き分けること。内容・意味などをのみこむこと。と説明してあります。「理論的に解明し内容・意味などをのみこむこと」と言い換えてもいいでしょう。

そうであるとすると、安倍安人のアートを理解しているのであれば、その「理解」したものを言葉で説明できないといけないのではないか。言葉で説明できるということは、そのアートの良さ、美しさ、魅力等(逆も含め)を他の人に伝えることができるということにほかならない。

そのように考えたときに、安倍安人のアート、すなわち陶芸、平面、コンテンポラリーの良さ、魅力なりを他の人に説明し、伝え、理解させられるかと問われれば、とんでもありませんというしかない。

そんなことで、ご質問への答えは、「とんでもありません」ということになります。
ただし、陶芸については、不完全ですが言葉で説明し伝えることができると思っています。良さを言葉で説明できる作品ということが、安倍安人のすごさでもあると考えています。

もしご見解を投稿いただければ、ものはらで紹介させていただきます。
No.557マスター2008-07-27 17:29:42.409966
久し振りに小倉に行きました。会合後、友人二人と黒崎へ行き「麦」という小料理屋さんへ寄りました。

古美術が好きな店主で、十数年ぶりに会いました。
No.558マスター2008-07-27 17:33:05.698987
初期伊万里酒器。
シノギとなっていて壽の文字が書かれています。
大変に可愛いものでした。
No.559マスター2008-07-27 17:40:11.669618
食器棚にコレクション(の一部)が並べてあり、お願いをして手にとって見させてもらいました。
斑唐津酒器。
No.560マスター2008-07-27 17:56:30.322627
古唐津、初期伊万里が特に好きなようですが朝鮮ものもありました。左の鶏竜山酒器とは別に鶏竜山高杯もあり、なかなか味わいのあるものでした。
ほかにも古唐津酒器が続々とでてきました。
久し振りの良ちゃんも相変わらずの美貌で、いい笑顔をしておられました。

ただ、安倍安人は「知らない」とのことでガックリ。
No.561マスター2008-07-28 19:21:52.451821
NO556に対して投稿がありましたので掲載します。

はじめまして。
安倍安人先生の良き理解者マスター様

 出口の見えない質問に誠意あるご返事ありがとうございます。私が「理解していますか」と問うたのは、安人先生のホームページを運営されている方から彩色備前の評価(良し悪しは別として)が伝わってきません。今現在、先生は彩色備前をここ数年主流に表現活動を試みていると理解していますがいかがでしょうか。
 理論的に表現しなければならない職業の方は別として言葉で説明、表現できることのみが他の人に伝える手段でしょうか。言葉で表現、伝えることが出来ないものが在るからこそアートと言う世界が在るのではないでしょうか。アートには伝道師入はいりません。各個人が自分なりに理解していれば良いのです。自由なのです。従って答えは「私なりに理解しています」だと思っています。
 陶芸についてお話すれば、古備前、桃山茶陶のフィルターを通してのみ安倍備前を理解しようとしていませんか。作家も購入者(使い手)も古備前、桃山などと言いがちですが、安倍備前が出現したのですから卒業したいものです。私は、自分で紡いで染め上げたフィルターを通して心に伝わってくるもののみを評価しています。
 最近、安人先生をより理解したく思い油絵を手に入れました。油絵具のマチエールと安倍備前の胡麻、彩色のガラスユウ、絵の構図と安倍備前の凛とした造形が重なるのです。安倍備前をアートとして再認識したところです。やはり、安倍安人は造形作家なのです。

 ”ものはら 茶房”織部論 ご健闘お祈りいたします。


以上です。なお、投稿には住所、お名前等記載されていますが、ここでは発言者全員が匿名で発言していますので、投稿者のお名前は掲載せずに紹介します。
ありがとうございました。
No.562マスター2008-08-04 20:40:17.614151
NO561様
ご投稿ありがとうございました。投稿の趣旨に対し十分ではないかもしれませんが、一応まとめましたのでお答え致します。

彩色備前について評価なり見解なりをということですが、ここで発表出来るほどの理解はありません。ある程度の時間を経て世間的評価が出尽くし、やがて定まるのではないでしょうか。
しいて言えば、表現方法が一つ加わったということであって、見た目の驚きほどの変化とは考えない方がいいのではと思っています。

ご期待に答えられず申し訳ありません。

製作者と鑑賞者との関係においては、おっしゃるように鑑賞者が、見たままに、感じたままに感じられれば、それはそれでいいと思います。

陶芸についても色々な視点があっていいと思っています。
NO561さんが「ご自分なりのフィルターを通して心に伝わってくるもののみを評価される」ことに何等の異議もありません。

私は、ここ「ものはら」では、安倍備前=安倍理論を尺度として桃山茶陶が論じられていると理解しています。
そして、その尺度をもって、職人ものの「桃山茶陶」とアーティストものの「桃山名品茶陶」を分別しなければいけないと主張し、桃山名品茶陶を生み出したアーティストがだれであるかを解明しようと試みていると理解しています。

過去に無いまったくの新説ですので、興味ある方にはそれなりに面白く読んでいただけるのではないかと思います。

安倍備前がアートであるとの認識は同感です。
No.563マスター2008-08-05 20:12:07.551353
再度ご返事がありましたので掲載します。


ご丁寧なお返事ありがとうございます。
”桃山名品茶陶”の作者は、不明か判っていても西欧のように当時の作家論が存在しないため逆に悠久の時間を思い馳せることが魅力の一つになっていると思っていますが、その作者を解明する試みは困難を伴うと思われますが非常に楽しみです。期待しています。


今後どのような展開になるかわかりませんが、お楽しみいただければ幸いです。
どうもありがとうございました。
No.564さむしろ2008-08-20 18:35:19.405943
書き尽くしたとの感もあり、暫く夏休みをしています。

先日、知人の喜寿の祝いの席に呼ばれたので行ってきました。その席で隣り合わせになったのが、旧知の画家のKさんでした。(S12生、光風会、日展で活躍中。)凡そ10年振りです。

雑談のなかで、
今、桃山名品茶陶の解明を試みていること。
同時期に、遠隔地でありながら一群のものが同一のルールで造られていること。
楽長次郎の茶碗も同一のルールであること。
各窯跡とも、完成品・過程品のいずれについても陶片が出てこない事。
鍋島藩主が国許へ宛てた書状で、古田織部が今ヤキ候者を唐津に派遣して焼いて持ち帰らせていることを認めていること。
私は、そのようなことから一群の桃山名品茶陶は長次郎によって造られているのではないかと考え、HPで発言していること、
を話しました。

Kさんは大いに興味を示され、まったくありえない話ではないとの印象を受けられたようでした。
Kさんの理解は早く、いったん話題が変わった後からも再度話題にだされるほど熱が入ったように思いました。
少々疲れ気味でしたが元気をもらいました。
No.565さむしろ2008-08-24 22:57:03.935549
以前、小山富士夫がローソクの明かりで長次郎茶碗を見て、その美しさに感動したという話があると書いた。

そのときのもう少し詳しい状況がわかったので紹介しよう。

昭和18年頃のある夜、鳥海育児、今東光の二氏が自宅を訪ねてきて持参の「あやめ」を見てくれという。
当時戦時灯火管制下で電灯がない。仕方がないのでロウソクをつけて見た。
自分は前にこの茶碗は見たことがあり、見事さは知っているつもりだったところ何と灯かりの光に照らされたこの楽茶碗の美しさ「皮のような渋い肌もさることながら、起伏、ひずみの美しさ」に感嘆した。

一夜明けて翌朝日光の光でもう一度見てまた驚いた。昨夜見た美しさは霧のごとく消えてしまっている。
そこで、光について考え、昔の人は今のわれわれの知らない美を見ていたに違いないとの感を深くした。

以上である。
No.566さむしろ2008-08-26 00:08:44.049062
昔から、夜目遠目傘の内ということがある。少し影の中にあるほうが美しく見えるということはどうも真実のようである。
しかしこれを小山富士夫の話と一緒にしてはいけない。影の中におけば駄作が優品になるということではない。

安倍さんの作品には小山富士夫の言が当てはまる。朝晩安倍さんの茶碗でお茶をいただくが、飲みおえた茶碗を台所に置くと、茶碗の裏側から入る光で陰影が生まれ、とてもいい表情になる。

明るさで見なければ分からない美があり、又、明るさに消える美もある、と著してあった。

このHPにある安倍さんの作品は陰影を意識して、その表情を見せてくれている。
No.567さむしろ2008-08-29 23:24:12.701676
武将達にとっての茶はどのような存在であっただろうか。

武士の知らぬは恥ぞ馬茶の湯
はじより外に恥はなきもの

こんな話もある。
ある日、秀吉が黒田如水を茶会に招いた。如水は茶の湯を馬鹿にして習っていなかったので困った。しかし主命、いやいやながら茶室に入った。他に客はおらず、秀吉も茶を点てようとはせず、軍略の話ばかりだった。数刻たって秀吉がほほえみながら言った。「これが茶の一徳だ。もし茶室以外で、長時間の密議をこらしたら、人はいろいろと疑惑を招くだろう」と。

如水も「なるほど」と答え、それ以後茶の湯を学んだという。
No.568さむしろ2008-08-30 23:48:43.076001
豊後の大友宗麟の弟晴英(後改名して義長と名乗る。)は瓢箪の茶入を所持していた。

弘治三年、毛利元就は大内の家督を継いだ大内義長を長門に攻めた。そのとき、元就は大友宗麟に貴弟の義長を助けようか、どうしようかといってやった。すると宗麟は、弟はどうなってもよいが瓢箪の茶入だけは譲ってもらいたい、と返答したので、元就はそのとおりにしたという。

ここでの瓢箪茶入は、天下六瓢箪の一つで、茶入の随一といわれたものだという。
No.569さむしろ2008-08-31 23:14:11.990928
ある茶入の履歴

初花肩衝は、新田、初花、楢柴とならび称された天下の三名物の一つである。

足利義政(東山御物)−鳥居引拙−大文字屋宗観−信長−信忠(信長長子)−松平念誓−
家康−秀吉−宇喜田秀家−家康−松平忠直−松平正信−徳川綱吉(柳営御物)−徳川宗家

戦国の動乱、本能寺の変、夏の陣、明暦の大火などなどをたくみにくぐりぬけた。

この間名物狩り、政治的意図によって進上され、また恩賞として、また権威を誇示するものとして役割をもはたした。
No.570さむしろ2008-09-01 23:07:28.477305
初花肩衝の話は、初花のみのことではなく、他の名物も同様であった。

秋月種実は、楢柴肩衝を秀吉に献上して首をつないだとの話だし、武将の意地で平蜘蛛の釜をあの世へ連れていった松永久秀の話もからも、武将たちの名物への思い入れが想像できる。
No.571さむしろ2008-09-02 21:36:51.187383
信長は名物を秘蔵するだけでなく、戦功のいちじるしかった者に褒美として与えた。名物を与えるとともに茶の湯を許された。

秀吉は「御茶湯御政道といえども」これを許されたとき、その有難さは「今生後世忘れ難く」夜昼涙を流して喜んだという。

武将達にとって茶の湯を許されることは、一かどの武将として認められることであり、地位の向上、権威の象徴であったいう。
No.572さむしろ2008-09-04 00:03:16.065069
上井覚兼日記

上井覚兼は島津の武将で、宮崎城主であるが、茶の湯日記の天正10年11月12日からの一ヵ年をみると70回の茶会を催している。かなりの回数である。

また道具を誇示した様子も察せられるという。
そして覚兼の茶の湯には、盤上の遊びと、風呂と、酒宴が結びついていたという。

地方にまで行き渡り、慰みとなっていたようである。

なかには次のようなものもある。

佐久間甚九郎は余りに茶の湯をやりすぎた。もしその百分の一でも武道に心がけていたならば、父信盛の失敗もそれ程多くあるまいものを、無益の数寄に・・・・。

と茶の湯に溺れた例もあげている。
No.573さむしろ2008-09-04 23:56:34.267924
利休により侘茶が確立されるとともに道具の好みもかわり、

『山上宗二記』に「惣テ茶碗ハ唐茶碗スタリ、当世ハ高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼ノ茶碗迄也、形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」
とあるように、高麗茶碗が多く使われるようになり、形さえよければ「数寄道具」となるといっている。

このことは名物道具を持たなくても数寄道具を持てば茶の湯が出来るようになったともいえる。茶の湯が、特権階級のものから大衆化とまではいわなくとも、裾野を広げたことは間違いない。
No.574さむしろ2008-09-06 01:07:06.351359
利休は、御成りの茶においても一切の虚飾を排して「侘び」の茶を主張したが、古田織部は利休の茶を学びながらも自らの茶の湯に対する考えを積極的に打ち出した。

1622年に秀忠の尾張屋敷御成りが行われた。
そのときの道具は、東山御物の堆朱布袋香合、秀吉旧蔵の南蛮芋頭水指、名物梶釜など、いわゆる名物茶道具ばかりであった。

利休自刃後30年ばかり経ており必ずしもふさわしい記録ではないが、名物は完全に見捨てられたということではなく、最高位クラスの蔵に納まったままとなり、中低位の茶の湯者とは無縁のものとなっていたと考えたい。
No.575さむしろ2008-09-07 23:18:41.586925
秀吉が茶の湯を許されたとき、その有難さは「今生後世忘れ難く」夜昼涙を流して喜んだという話や、武将達にとって茶の湯を許されることは、一かどの武将として認められることであり、地位の向上、権威の象徴であったいう時代は、

秀吉が北野の大茶会で、

茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜一つ、釣瓶一つ、呑物一つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること。
と触れをだした1587年頃には、若党、町人、百姓を問わず茶湯を楽しむことは自由となっていたと思われる。

秀吉が秀次に家督を継がすため四ヶ条の教訓状を与えたというが、その中で、「茶の湯は慰みごと」だから、時には茶会を開き、人を招待することはよろしい、と書いている。

茶の湯は、信長の時代の「政道の手段」から秀吉の時代には「慰み」にその役割が変わった。
No.576さむしろ2008-09-09 09:51:55.839924
若党、町人、百姓を問わず茶湯を楽しむことは自由となっていた、といっても茶の湯を楽しんだのは極一部一握りの権力者、富裕層とそれらに連なる人々であったと想像したい。

織部の時代になっても大筋において変わらなかったものと思われる。
織部の書状を見ると、茶入の蓋と袋の誂えの世話、
墨蹟の目利きと表具の仕立ての世話、
釜底の修理の手配、
茶入の目利、茶入用唐物朱盆の世話、
等々を織部が行っていたことがわかる。

名だたる武将あるいは商人であればあるほど、茶会を催して恥をかきたくない。立派な茶の湯者振りであったといわれたい、という思いが強かったのではないかと思う。

細川三斎でさえそうである。再々伺いをたてていることが書状からわかっている。
細川幽斎、三斎に仕えた松井佐渡守は、主君に代わって尋ね事、相談事をしていたと思われる。(NO273)

利休七哲の一人といわれる細川三斎でさえ、道具について織部に相談をしないと茶の湯ができなかったと想像させる。
No.577さむしろ2008-09-10 00:03:57.532676
名だたる武将、商人が、織部を頼りとすればするほど、織部の茶の湯者としての地位と名声は高まる。

NO573で、『山上宗二記』に「惣テ茶碗ハ唐茶碗スタリ、当世ハ高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼ノ茶碗迄也、形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」
とあるのを紹介した。

特に注目したいのは、「形さえよければ数寄道具となる」といっている部分である。

私は、瀬戸茶碗は瀬戸黒茶碗ではないかと考えている。今焼茶碗は長次郎茶碗である。

山上宗二記が著されたとき、長次郎茶碗に造形がなされていたかどうかは不明である。1587頃であれば、あるいはなされていたかもしれないしまたなされていなかったかもしれない。

しかし瀬戸黒茶碗は造形がなされていた。しかも長次郎茶碗より先に誕生している可能性が高い。

宗二は瀬戸黒茶碗に出会っていたはずである。しかし造形には触れず「形さえよければ」といっている。このことから、宗二は「造形」について聞いておらず、また気付いていなかったのではないだろうか。
No.578さむしろ2008-09-11 23:44:12.164698
「形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」

頃合いさえよければ数寄道具であって、造形、景色については基準には入っていなかったとも読める。利休の作意だからこそ「成る程!」と茶の湯者達を唸らせたのかもしれない。

瀬戸黒のおだやかな造形、長次郎茶碗の気付かないほど静かな造形には、微かな波があることはわかってもその本質、意図に気付かないまま「これは利休殿のお目を通った茶碗」ということのみに気をとられ、造形から感じられる心地よさはそれとは気付かぬまま大事にしていた。

No.579さむしろ2008-09-12 19:29:09.294716
利休の今ヤキ茶碗ということで、「利休」がついていることが大切であったのかもしれない。

そういえば現代でも家元の書付がないと茶会で使えないといったことがある。ものの良し悪しの判断がつかないから書付の有る無しで判断する、そんなことがあったのかもしれない。

利休の亡き後、そうした利休の役割を織部が引き継いだ。

No.580さむしろ2008-09-16 20:25:20.270185
慶長期になると、茶会記に登場する茶会の数が激減する。
 年  回
1592・・21   1600・・1   1608・・7
1593・・19   1601・・4   1609・・4
1594・・21   1602・・3   1610・・0
1595・・4    1603・・4   1611・・3
1596・・4    1604・・4   1612・・3
1597・・14   1605・・8   1613・・3
1598・・4    1606・・13   1614・・1
1599・・23   1607・・2   1615・・0

これをもって茶会が開かれなくなったとはいえない。
古茶会記の記録者が招かれた茶会が減ったというふうに考えたほうがいいだろう。

秀吉亡き(1598)後の豊臣と徳川との覇権争いが大坂冬・夏の陣で決着するまでの間、織部は、茶の湯を利用して、中間派、大坂方武将に対して大いに調略を行ったと思われる。
その手段としての、客組み、道具のやり取りが行われたと想像したい。
秀吉が行ったような、権力を誇示する茶会は皆無といってもいいのではないか。

疑心暗鬼のなかでは、自由に行き来する茶会はそんなに多くはなかったのではないだろうか。
No.581さむしろ2008-09-17 23:55:19.923081
OLIBE 古田織部のすべて 久野治著 鳥影社に次の記述がある。

=関が原の合戦=

最後まで戦った三成の本体も午後には算(軍の誤りか?)を乱して敗走する。天下を二分して戦われた関ヶ原の合戦もあっけない幕切れであった。
これは戦前、家康が小早川秀秋等に内応をとりつけていた結果といわれる。家康は老獪であった。織部は隠居の身であったが、茶道の弟子にあたる常陸の佐竹義宣を東軍へ、調略したとして七千石加増をうける。

この記述の元となる出典はわからないが、多分そうであろうと思いながら読んだ。


No.582さむしろ2008-09-19 11:51:31.421728
1600年代初頭、おびただしい数の美濃焼が焼かれたという事実もあるようなので、幅広い層で茶の湯が楽しまれたのも事実だろうと思われる。

織部も、大いに招き招かれ、道具の目利き、世話等等行ったことは間違いない。
しかし、その実体は闇の中でほとんどわからない。
No.583さむしろ2008-10-29 19:27:36.33586
話題を変えよう。

以前、安倍さんに「先生の作品には力がありすぎるためお茶の先生たちは使いにくいのではないか」といったことを話したことがある。これに対して安倍さんは「茶道具として(使ってもらおうと思って)作ったことはない。」と話された。茶道具を作っているとの感覚はなく、水指という造形物、花入という造形物を作るとの感覚なのだと理解した。
No.584さむしろ2008-10-30 09:34:43.99371
これまでを振り返ってみると、私は、一貫して茶道具としての水指、花入として見てきたように思う。勿論、このことを間違っていたというのではない。
いつか安倍さんの水指を茶席に据えて、あるいは花入を向う掛として又、床に置いて茶会をやってみたいと思っていた。

そのためにはそれにふさわしい茶席が必要であった。

No.585さむしろ2008-10-31 12:09:31.314082
奥出雲に櫻井家という旧家がある。田部家、絲原家とともに出雲地方の御三家と言われている。

櫻井家には、松江藩主の御来駕のために、藩お抱えの棟梁によって築造された書院がある。吟味された材料と名工の手によった瀟洒ながら重厚な書院である。

また、代々伝えられてきた美術品、調度品、家業のたたら関係資料等を展示公開するための可部屋集成館があるが、それらとともに本邸と庭園が有料で公開されている。

幸い何度か訪問の機会を得て、書院をその内側から拝見した。

過去分へ 新しい分へ


クリックすると日本語トップページに戻ります。