茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.1マスター2006-10-17 12:45:43.841738
ものはらの模様替えをしました。

先日、安倍備前の発祥の地ともいえる東予地方、西日本一の高さを誇る霊山・石鎚山に登った友人から紅葉便りがとどきました。
想像していなかった早い紅葉にビックリしましたが、とてもきれいで、登山の苦労がなければ行ってみたいと思いました。
No.2マスター2006-10-18 11:04:01.876686
朝のすがすがしさは、一服のお茶をよりおいしくさせてくれます。

No.3マスター2006-10-19 12:02:46.182335
「豚と鯉と窯焚きと・安倍安人」と題する芸術新潮(昭和54年1月号)の記事が届いたので紹介しましょう。

近くを流れる「大明神」という水なし川は一度大雨でも降ろうものなら、たちまち土手いっぱいに水があふれ、満々とした川になる。この川でできた三角州が、わが愛媛県東予市の桑村という奇妙な名の町である。(つづく)
No.4マスター2006-10-19 18:09:30.709027
江戸時代、相撲とりの「大登」という力士がこの川の土手で惨殺され、その墓石が土手にいまも残っている。
この川の川底よりもわが家は十メートル以上も低いところに建っている。このわが家の庭にやきものの窯を築くことになった。(つづく)
No.5マスター2006-10-20 18:19:14.282855
生来油絵を描いていた絵かきの端くれだが、ふとしたことからやきものに魅せられて、ついに本格的な窯がほしくなったのであった。
どうせつくるのなら穴窯がほしいと思い、スコップで穴を掘ること三ヶ月、窯に火を入れるのに五ヶ月を要したのだった。
No.6マスター2006-10-21 18:06:27.084033
初窯の窯づめも終り、祭壇の準備も終え、明日の火入れ式を待つばかり、前祝いの酒盛りを友人とやっていると、なんだか外が騒がしい。
表に出てみると、くらやみに白い大きなものが何匹も走りまわり、それを大勢の人が追いかけている。
聞いてみると、養豚をやっていた青年がノイローゼになって、豚をすてると云って二、三十頭の豚を町に放ったというのである。(つづく)
No.7マスター2006-10-22 14:07:13.430889
われわれも手伝って子牛ほどもある豚をつかまえるのに加勢したが、どうも最後の一頭、とび抜けて大きな妊婦豚がみつからないと云う。みんなが引きあげたのち、ふと思いついて明日火入れの窯を見に行くと、なんと、神々しかるべき大切な窯の上に大豚が鎮座して祭壇を鼻でつついている。
なんとも悪い予感が背筋を走った。(つづく)
No.8マスター2006-10-22 17:28:43.025885
翌朝、近くの氏神様の神主が急用というので急遽知人の天理教信者のYさんに代理をお願いした。ままよ、神は神、天の力に豚のけがれも消えるであろうと。

養豚青年のおやじさんも、昨夜のおわびにと酒をそなえてくれた。この酒のつきるころ、めでたく窯もたきあがった。
さてこれから待望の窯出しである。(つづく)
No.9マスター2006-10-23 12:13:35.921022
あちこちに案内を出したので、友人知人が酒を持って集まってくる。やじ馬の代表者に紅白のテープをつけたハンマーで窯の口を割ってもらう。窯主の私が窯に首を入れる。こはいかに、自然釉のビードロで光るはずの窯の中はまっくろに蒸しあがっているではないか。(つづく)
No.10マスター2006-10-23 17:58:41.832592
うしろではもういっぱい機嫌で「どうした、どうした」。私は窯に首をつっこんだまま涙がとまらなかった。(つづく)
No.11マスター2006-10-24 12:38:57.584339
さんざんな初窯に友人たちも一人、二人と帰ってゆく。
一人残された私の脳裏に残るのはあの大きな妊婦豚の姿であった。(つづく)
No.12マスター2006-10-24 17:35:26.2087
何度かの失敗ののち、やっといくつかの作品もとれ、何回目かの窯たきがはじまった。親しい友人の一人が陣中見舞にと「流し」のギター弾きをつれて訪れてくれた。窯焚きも終りに近く、月も美しい夜である。酒もうまく夜も更けて、「歌謡合戦呑みくらべ」となり、若い助手に窯をまかせていた。(つづく)
No.13マスター2006-10-25 09:39:25.335876
もうこの辺で火を止めるかと、窯の口から中をのぞいて驚いた。(つづく)
No.14マスター2006-10-25 12:11:20.594936
さきほどまであったはずの器物が見あたらないのである。青白くすきとおる窯の中は溶岩の如く熔けて流れ、焚口の方へそれが押し寄せてきている。窯道具も窯床の階段も器物もいっしょくたになってオブジェの大作と化している。
わが身のいたらなさをつくづく反省したのである。(つづく)
No.15マスター2006-10-26 16:45:05.9563
窯焚きとはまことに不思議なもので、気の合った数人でやればまるでキャンプファイヤーをかこむように楽しいし、一度なにかで気にくわぬことでもおこればたちまち無口で敵意さえいだきかねない。浮世ばなれした仕事とその疲れで目は血走り、それでいて頭はやけにさえ、むしょうに性欲が湧く。
窯の火からふと裸電球を見ると電球の中のフィラメントが透けて見え、千二百度を越したことを知る。(つづく)
No.16マスター2006-10-27 12:10:48.326248
よく、「やきものは火の神にまかせる」などというが、とんでもないことである。窯づめから火を知り、火を導き、薪一本にも心をくばり、焚手を自分の分身の如く使い、窯をねじ伏せ、炎が自分の指さきのように器物を愛撫できてはじめて満足のゆくものができるのである。豚をうらんだ己の未熟さを豚にあやまりたいくらいだ。(つづく)
No.17マスター2006-10-28 14:46:00.055698
或る年の秋、数日来の秋雨が降りに降って窯のよごれも流さんばかりであった。やっとのことで窯の中の土盛り、壁の補修もでき、窯の中で一服やっていると、焚口から水が押し寄せてくるではないか。生命からがらに窯から這い出すと、いま修理し終わった窯はたちまち水没してしまった。(つづく)
No.18マスター2006-10-29 13:30:15.976343
なにしろ近くの河床より水位の低いわが家であるから、長雨にどこからか急に水が出てきたのであろう。

やっと雨も止み、数日して窯を見ると、水没した窯の水は青く澄み、水面から二メートルも下の焚口が水底に不気味に口をあけている。もうすでに水面にはボーフラが伸びたりちじんだりしている。(つづく)
No.19マスター2006-10-29 20:30:16.976123
これは俺の大切な窯なんだ。ボーフラごときにのさばられてたまるか、と庭の池から鯉を四、五匹すくい入れてやると、鯉はすぐ水中に沈んだ。窯のなかで魚を飼ったなどというのは日本の陶工で私くらいのものではなかろうか。(つづく)
No.20マスター2006-10-31 09:10:21.441446
ポンプで水を汲み出し、出水の日から四十日目にやっと水をくみ出すことができた。丸々と太っていた鯉も、やせて杉板のようになっていたのは意外であり、あわれであった。
現在、私の窯では「ひだすき」の作品が比較的評判がよいが、これはこの時の緋鯉の魂がのり移ったためよ、など口の悪い友人が言うが、豚事件同様、これはあまりアテにならない。(つづく)
No.21マスター2006-11-01 11:18:01.419782
或る年の二月、小山富士夫先生を訪ねたことがあった。大雪で難渋し、深夜、やっと花の木窯に着くと先生は書斎で待っていて下さり、持参した私の信楽土の茶碗を長い時間かけて見て下さった。隅からすみまで、なめるようにして見て下さるその時間の長く感じられたこと。(つづく)

写真の茶碗は本文の茶碗とは別のものです。
No.22マスター2006-11-02 09:44:59.396983
「君の窯の図を」「窯の焚きかたは?」「私も火度のあがる信楽の窯をつくってみたいよ」などと云われた日のことを昨日のようにおぼえている。
何ヶ月かたって、突然の先生の死に私は体から力の抜けるような気であった。畑の小石に地蔵を刻み、四十九日間、線香と酒と茶を供えたが、考えてみれば、先生はクリスチャンである。(つづく)
No.23マスター2006-11-02 19:47:59.404818
途中ですがここらで一服していただきましょう。
さいたま市の山辺陽之さんからメールがありました。

「先生が1973年34歳の時の絵(麦ふみ)を当時東京の日動画廊、彩壷堂か忘れましたが買い求め30数年応接間に飾っています。何か当時の美術誌の表紙になつたと記憶しています。その後陶芸家として成功されNYの美術館に収蔵されたとのこと、数年前メトロポリタンには行きましたがこのことを知らず残念です。」

そこで、絵の写真をお願いしたところ、早速送っていただきました。連載中の随筆が1979年1月号掲載ですから、左の絵を制作した数年のちに豚を追っかけたということになるのでしょうか。
山辺さん、買い求められたこともそうですが、30数年間かけ続けられたということは、なにか惹きつけるものがあったのでしょうね?
No.24マスター2006-11-03 16:57:06.672178
しかしこの私の窯の名が先生の命名であってみれば、先生は天上からきっと見守って下さるだろう。
「木の花窯」は先生の「花の木窯」の兄弟のような窯名だが、木の花とは梅の古名、私が結婚した神社も「コノハナサクヤヒメ」の宇賀神社、やきものをはじめた頃に住んでいたのが此花町という町であった。先生の「花の木」より、私の「木の花」のほうが苦難の歴史は古いかもしれぬ。(つづく)
No.25マスター2006-11-04 11:45:35.961183
やきもの、この不思議な工芸の魅力にとりつかれた一陶工の、これはたわいもない愚痴の一文である。(完)
No.26マスター2006-11-05 20:27:53.344355
今朝の一服。
No.27マスター2006-11-06 20:50:47.019886
今日の夕刊に出ていました。
伊賀水指が手元の茶会記資料にでてくるのは随分遅いです。
伊賀花入れがいつ頃からでてくるかについてはまた調べてみたいと思います。
No.28さむしろ2006-11-07 13:53:30.263492
茶会記(松屋会記(久政・久好・久重)、宗達他会記、宗達自会記、宗及他会記、宗及自会記、宗風他会記、宗湛日記、今井宗久茶湯書抜に現われた使用水指。
○→備前、×→信楽、セ→瀬戸、△→伊賀
1580 ×××
1581 ○×
1582 ○○×
1583 ○○×××
1584 ○××××
1585 ○○
1586 ○○×××
1587 ○○○○○×××
1588 ○○○○○××××××××
1589 ○○○○×××××セセセセセ
1590 ×××××セセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセセ
1591 ××セセセ
1592 ○×セセセセセセセ
1593 ×セセセセセセセセセ
1594 ○×セセセセセセセセセセセセセ
1595 ○×セ
1596 セセセセ
1597 ××セセセセセセ
1598 ×セセ
1599 ○○○○××××××××セセセセセセセ
1600 ×
1601 ×××
1602 ×セ
1603 ×
1604 ○○
1605 ○×セセ
1606 ○○××××××××
1607 ××
1608
1609 ×セ
1610 
1611 △○
1612
1613 ×
1614
1615
No.29さむしろ2006-11-08 19:10:41.076381
伊賀水指が1611年になって初めて出たのには驚きました。

しかし、他の資料に、「『古織茶会記』によると、慶長6年(1601)から慶長8年(1603)にいたる間に七回使用している伊賀の水指(五回)や花生(二回、うち一回は三角筒花生)は、・・・」とありました。

「古織茶会記」を是非とも見てみたいですね。
No.30さむしろ2006-11-09 18:15:58.791794
同じ「他の資料」からの抜粋。

伊賀焼の花生が茶会記に初めて登場するのは慶長七年(1602)正月九日で、古田織部の自会記に記されている。 ー略ー 。
慶長七年正月九日に古田織部が用いた「伊賀三角筒花生」(古織茶会記)が最も早い記録である。
No.31さむしろ2006-11-10 18:54:42.613233
同じく「他の資料」からの抜粋。

ー略ー、天正年間にすでに茶陶伊賀焼の焼造が始っていたらしく、それを裏付けるように天正十九年に歿した利休が所持した花生が伝わっている。その器形は、織部好みと伝えられている一連の花生のように作為的ではなく単純な筒形で、あるいは利休好みかと推察させるものがある。
−略ー類例を求めると、「生爪」「羅生門のような器形である。
No.32さむしろ2006-11-10 19:08:28.665777
NO31の写真は「生爪」。

左は「羅生門」。

利休が所持していた伊賀花生が、生爪や羅生門のようなものであったというのであれば、わたしは、今段階ではその所持していたということに疑問を感じます。
勿論その所持が事実と判明すれば大いに喜ばしいことではありますが・・・。
No.33さむしろ2006-11-11 14:06:04.701667
利休が所持していたとされる伊賀花入れです。
解説に、
この花入れは背面裾に利休の花押があるもので、これまで古田織部とのつながりが強調されてきた伊賀焼きのなかで特に注目される作品である。かって古田織部所持と伝える「生爪」花入と同じ姿の花入であるが、−略ー、「生爪」とは対照的に侘びた趣きに焼きあがっている。ー略ー
伊賀焼きの花入を考察する上で重要な作品である。
No.34さむしろ2006-11-11 19:37:05.357378
NO32で疑問を感じているとしたことについて。
同じ「他の資料」に、
『南坊録巻七 滅後之巻』に「伊賀焼ノ置花入ニ水仙ノ初咲ヲ入レタル斗ニテ云々」と、武野紹鴎を招いての茶会に、利休が伊賀焼の花入を用いたことが記されている。とすれば紹鴎の歿した弘治元年(1555)以前のことになるが、『南坊録』は第一資料としては認め難いものであり、他の主要な茶会記にはまったく伊賀焼の名がうかがわれないので、−略ーその記述をそのまま認めるわけにはいかない。ー略ー

利休が用いたとの記録も今のところないようである。(NO30慶長七年1602といっている。)南坊録がまゆつばものであることは前々から云われていた事で驚く事ではないが、花押、箱書き付についても決定的なものではない。
かすかな手がかりを求めながら、わずかな疑問も無視できない。

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