茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.35さむしろ2006-11-12 17:09:58.148748
NO33の花入は「生爪」に極めてよく似ている。写真を見る限りでは織部様式の造形がなされているようにみえる。
「生爪」の先駆をなすものか?
あるいは「生爪」を真似たのか?
それとももっと別の経緯で生まれたのか?

利休の花押が正しいとすると、利休の死(1591)から11年後(1602)になって初めて茶会記に「伊賀」の名が出てくることをどう説明するか。
No.36マスター2006-11-13 18:49:31.952848
久しぶりに「師匠」宅を訪ねました。
夜8時過ぎから2時間ほどよもやま話をして帰りました。
いつもの事ですが、床にほこりがしているということはありません。
古備前の掛花入に椿が一輪いけてありました。
No.37さむしろ2006-11-13 19:14:42.035121
NO28の茶会記のうち「松屋会記」は、久政、久好、久重の三代にわたる1530年頃から1650年頃までの茶会記(招かれて行った茶会の記録)です。
他のものもそうですが、信憑性は高いものと考えてよいと思います。

NO28の茶会記に出てくることが絶対ということではないことは勿論ですが、その茶会の時に存在したことの裏付としての意味は大きく、また当時の「はやり」を知るうえで大変貴重な資料であることは間違いないでしょう。
No.38さむしろ2006-11-14 19:52:11.115941
こんな記述を見つけました。

『紀州徳川家旧蔵利休自筆御茶会席』

天正十五年閏正月廿四日
一、伊賀焼、水指置合。一、瀬戸くろちゃわん。
一、姥口のあられ釜、のかつぎ。
一、青螺の台に新瀬戸天目。
一、下の棚に、瀬戸の新しき円壺今織袋。

これについての解説文もありますが明日にします。
No.39さむしろ2006-11-15 18:54:10.293881
NO38の解説(補注となっています)です。

桂又三郎氏が紹介する紀州徳川家旧蔵の『利休自筆御茶会席』で、天正15年(1587)閏正月24日、利休が徳川家康をまねいた茶の席で、伊賀の水指が使われたという。

この資料はいわゆる利休百会記の原本と紹介されるが、利休の茶会記録である『利休百会記』は、利休の流れを汲む人たちによって編纂されたもので、異本が多く、各本が伝える年代も様々で、資料としての信頼度が低い。

桂氏が紹介する本資料も、原本が確認出来ない現在、年代などについては保留すべきと考えられる。

以上古伊賀と桃山の陶芸展図録、伊賀焼関係資料からの引用です。
No.40さむしろ2006-11-16 17:50:21.951899
伊賀壺は、天正年代から頻繁に出てくるようです。
No.41さむしろ2006-11-17 18:26:58.973949
「伊賀壺」は次のように出ています。

『天王寺屋会記 宗及茶湯日記 自台記』
天正九年十月廿七日
同十月廿七日朝 徳雲(誉田) ト意(高石屋) 締九(馬場)
床 蜜(密)庵ノ墨跡 前ニ伊賀壺,(菓子遇テ),蓋しテ,(壺見セ申候),但,手水間ニ,墨跡・壺のけ候,
床 手水間ニかふらなし薄板ニ水仙花生而

解説には、
『天王寺屋会記 宗及茶湯日記 自台記』は、堺の豪商天王寺屋津田氏の宗達・宗及・宗凡三代にわたる16巻からなる茶会記。記録される茶会の年代は、宗達の天文17年(1548)から宗凡の天正18年(1590)にわたる。そのうち『宗及自会記』には、天正9年(1581)10月27日を初めとして天正11年(1582)に至るまでの間に、伊賀壺に関する記事が頻出する。
とあります。
No.42さむしろ2006-11-18 14:30:45.415763
床に置かれた伊賀壺ということは「茶壷」として飾られていたと思われます。蜜庵は蜜庵咸傑(みったんかんけつ)であろうと思いますが、そうであれば超ど級の大物です。

この当時「伊賀」の名で呼ばれていたことがわかります。このことから、伊賀水指や伊賀花入が別の名で呼ばれあるいは会記に記された可能性は消えたと考えてよいと思います。
No.43さむしろ2006-11-20 19:10:09.248197
NO39の「古伊賀と桃山の陶芸展図録」のなかで紹介された「伊賀焼関係資料」は次のものです。

1.「伊賀筒花生 銘生爪」添状
2. 同上箱書
3.「伊賀耳付水指 銘破袋」
4.「草人木」(1626刊)
5.「古田織部正殿聞書」
6.「宗甫公古織へ御尋書」(1604〜1612)
7.「古織会附」(1610〜1611)
8.「紀州徳川家旧蔵利休自筆御茶会席」
9.「天王寺屋会記 宗及茶湯日記 自台記」(1548〜1590)
10. 「松屋会記 久好茶会記」
11. 「松屋会記 久重茶会記」(久政から3代で1533〜1650)
12. 「三国地誌」巻六十七(藤堂元甫筆1677-1762)
13. 「藤堂家旧蔵記録」
14. 「森田九右衛門日記」(1678〜1679)
15. 「隔みょう記」(1635〜1688)
16. 「槐記」(山科道安筆、1724〜1745)

1と3が何年に書かれた書状かがわかるといいのですが、わからないようです。
No.44さむしろ2006-11-21 19:10:56.100196
4.草人木は筆者不明、1626年に京都誓願寺前の源太郎という版元から刊行。茶の湯の手引き、入門書として編集。伊賀焼きのことは、古田織部による茶室における諸道具の配置を述べる段で記され、伊賀の水指と茶碗が登場する。

ということで伊賀茶陶誕生にまつわることは出ていないようです。
No.45さむしろ2006-11-22 13:05:58.464118
5.「古田織部正殿聞書」10巻は、「古織公聞書」「古織伝」などとも呼ばれる、織部の茶の湯の伝書。そこには、伊賀焼きの花生について、一度水中に入れ、濡色のまま花を生けるのが良い旨記されている。

同じく織部茶陶誕生にまつわるものは記されていないようである。
No.46さむしろ2006-11-22 18:02:59.587141
6.「宗甫公古織へ御尋書」(1604〜1612)は、
慶長9年(1604)から17年(1612)に至る間、小堀遠州が織部に茶の湯について尋ねた事柄、あるいは茶会の様子などを記録したもの。慶長13年(1608)正月と6月の織部の茶会に伊賀の水指が使用された記事を見ることができる。

となっています。この「宗甫公古織へ御尋書」が正しければ1608年には伊賀水指が存在したことになります。
No.47マスター2006-11-23 19:19:59.221738
今日から愛媛・西条の「ギャラリー かわにし」さんで第16回安倍安人展が始りました。
早速、行って来ました。
No.48マスター2006-11-23 19:23:51.91332
かわにしさんからの案内には、「破格というべき作品が生まれました。」とあります。
No.49マスター2006-11-23 19:37:00.231321
何年も前になりますが、安倍さんが「茶道具として作るという意識はありません。」といったことを話されたことがありました。

案内のなかで、かわにしさんも「アート」という言葉を使っておられます。
まさに「アート」でした。安倍安人展の副題のとおり「破格ナリ」です。
No.50マスター2006-11-23 19:45:25.541756
昼飯は、四国山脈の南側高知県いの町、手打そば「時屋」さんで蕎麦をいただきました。伊予西条市から車で3〜40分ですが、山奥のその奥、なんでこんな奥に?と思うほどの山奥でしたが、店内は満員、しばらく待って蕎麦にありつきました。
さすがにここまで来ると冷え込みます。火鉢に火が入っていました。
No.51マスター2006-11-23 19:55:43.241945
座敷からは清流がのぞめます。
すきとおるようにきれいな水が流れています。

ちょっとまいりました。
No.52マスター2006-11-24 17:29:52.927693
NO21で、「写真の茶碗は本文の茶碗とは別のものです。」としていましたが、安倍さんに尋ねたところ、本文の茶碗そのものでした。
No.53さむしろ2006-11-25 15:21:43.657925
7.「古織会附」は、織部関係の茶会記録をまとめたもの。
「古織会附」は、慶長15年「1610)11月16日から翌慶長16年(1611)2月11日までの織部主催の茶会49回について記録する。この間、慶長15年霜月18日朝の茶会と同年霜月27日昼の茶会において伊賀の花瓶口の水指が使用されている。

49回の茶会で2度の使用は、ビックリするほど少ないと感じました。
No.54さむしろ2006-11-26 17:55:42.727866
8.「紀州徳川家旧蔵利休自筆御茶会席」、9.「天王寺屋会記 宗及茶湯日記 自台記」はすでに述べたとおりです。

左の写真は伊賀耳付花生です。解説に「珍しい事に底に花押が箆彫りされているが、その花押は1585から1608にかけて伊賀の領主であった筒井定次の花押と極めて類似していて、おそらく定次の花押と認めてよいものと思われる。」また「内箱の蓋裏に、利休所持 神楽(信楽)花入、と随流斎宗佐が書付している…」
とあります。この利休所持についても茶会記のなかで「伊賀花生」が出てこないだけに疑問が残ります。
No.55マスター2006-11-26 18:21:17.032289
古い友人の光禅さんが立ち寄られました。そのおり、NO46の、6.「宗甫公古織へ御尋書」では遠州が織部に尋ねたとなっているが、それは誤りであり、すでにそのことが証明されている、といった話をして帰られました。

光禅さんには、是非ここで話してほしいとお願いしました。織部様式茶陶とその周辺事情についても、まったく別の視点からの疑問をお持ちですので併せて参加をお願いしました。
光禅さん、時間がとれたときには参加下さい。
No.56光禅2006-11-27 02:20:57.921175
 はじめまして。しばらくおじゃま致します。
 「慶長御尋書」あるいは「宗甫公織部へ御尋書」として、従来まで遠州が織部に尋ねた聞書きとされた文書ですが、現在では龍谷大学大宮図書館から「茶道長問織答抄」が発見されたことで、浅野幸長が、上田宗箇を使いとして古田織部に尋ねたものであったことが判明しています。
 内容的には織部らが工夫した、武家における御成(家臣が君主を自邸に招いて饗すこと)の茶事のこと、「織部格」と呼ばれた約束事などです。
 しかし、それより何より興味深いのは、これが、関ヶ原に勝利した3年後の慶長8年に、家康が将軍として江戸幕府を開いてから、慶長19年、元和元年の冬夏の大阪の役に至る前年までの、約10年間の伏見城下での出来事であったということです。
No.57さむしろ2006-11-27 19:14:56.681833
これはまた刺激的な話でワクワクします。

「慶長御尋書」「宗甫公織部へ御尋書」「茶道長問織答抄」の三つは、その内容が同じということでしょうか?

一度定まった古文書の評価を覆するというのはそう簡単なこととは思えません。いくらかの物語でもあれば紹介下さい。
「浅野幸長」「上田宗箇」についても紹介下さい。

「御成りの茶」ということは随分前ですが聞いたことがあります。
慶長8年は1603年、元和元年は1615年。どのような意味あいで興味深いのでしょうか?
当時の時代背景もかかわってくるのでしょうか?

あれこれ尋ねましたが、話の都合でおいおいに紹介して下さい。
No.58さむしろ2006-11-28 21:32:16.814924
関が原から大坂冬夏の陣の間の時代背景のおさらいのため「大坂の陣」で検索しました。
「大坂の陣白書」というサイトがあり、開戦までの軌跡や大坂の陣人物列伝など役立ちそうな記事がありました。
「開戦までの軌跡」を読んでみましたが、いいおさらいになりました。
他にもありましたがチラッと見ただけで、どれが一番役立ちそうかはわかりません。

http://www.geocities.jp/senryusai/
No.59マスター2006-11-29 19:35:50.083392
今朝の一服。
No.60さむしろ2006-11-29 20:13:33.769567
安倍安人と上田宗箇が同じ記事に載っていました。
「ギャラリー かわにし」さんのホームページ中「ぎゃらかわBOX」11月28日の項です。
アドレスは下記です。「ギャラリーかわにし」での検索のほうが早いです。

http://ww8.tiki.ne.jp/~g-kawanishi/index.html
No.61光禅2006-11-30 01:26:14.369642
 少々風邪を引き込んでしまい、物を書く気力を失っておりました。少し回復して来ましたので、追々に記してみます。
 まず、「慶長御尋書」「宗甫公織部へ御尋書」「茶道長問織答抄」の三つは、その内容が同じかという件ですが、内容は全く同じで、龍谷大学大宮図書館の「茶道長問織答抄」の見返しに、「是より幸長古織殿へ御尋覚」と記されていることから判明したものです。また別本から幸長の自筆本まであり、その写本を遠州が作り前田利常へ献呈したことが明らかになっています。
 このように一度定まった歴史的評価であっても、当初は「宗ケは宗箇でないと変だろう?」等との素朴な直感的疑問だったものから、裏付け資料の発見や見直しから覆っていくという一つの好例です。
 したがって、安倍安人先生の提唱されている「織部の取り上げた桃山茶陶の名品は、一定の造形法則によって創作されている。」といった指摘や、あるいは、さむしろさんの「それならば、これらの名品は、ある限られた一部の陶工たちによって、はじめから天下の名器として特別に制作されたものだったのではないか?」といった仮説も、いつか従来の資料の見直しや新発見から、日本中世美術史の通説となっているかもしれませんネ(笑)
 実は私も、さむしろさんの仮説も、大いに有り得ることだなと思っています。しかし私は、造形の共通性からではなく、この慶長年間という時代背景に対する認識と、伏見桃山城下での古田織部という人物や、それを巡る人々の役割認識などから、従来の美術史での見方に疑問があるからです。 
No.62さむしろ2006-11-30 19:22:14.236495
成る程。間違いのないもののようですね。

「慶長年間という時代背景」とのこと、NO58で紹介したサイトで歴史の「おさらい」をしました。

徳川が江戸幕府を開いた後、徐々に平穏となり、そのまま元禄の太平にいたったような気がしていましたが、関が原の後も豊臣家が存在し、豊臣家と秀頼を支援する勢力があり、また潜在的支援勢力や徳川に臣従といいながらも家康が心底安心出来ない勢力もあったでしょうから、大坂冬・夏の陣で決着がつくまでの間はうかがい知れない権力間の緊張の中にあったのだろうと理解しました。(理解が違う場合はご指摘下さい。)

確かにNO28で書いたように1600から1615までの間、茶会の数がが減っています。
No.63光禅2006-11-30 22:43:31.841514
 まず、時代背景や従来の資料の解釈の見直しという点から、きっと将来、さむしろさんの仮説を裏付ける有力な資料の一つに成りそうなものとして、後の佐賀藩初代藩主、鍋島勝茂が領国に送った書状があります。
 これは『佐賀県資料集成』第九巻に収録されているもので、その文面の概要は、鍋島勝茂が黒田如水(官兵衛)とともに古田織部の茶会に招かれた折に、国許の唐津焼の肩衝茶入や茶碗が座を飾ったことを記し、その上で、その席中の話として「この唐津焼は、京都三条の陶工たちが肥前に赴いて焼いたものである。」と聞いて驚き、勝茂が国許に対して「むざとやき候ハぬ様可申付候(勝手に焼かさぬように申し付ける)」と厳命したという内容のものです。
 黒田如水は慶長九年に伏見の藩邸で59歳で死去しているので、おそらく慶長七、八年頃のことと推測されています。
 この手紙に登場する京都三条の陶工らが誰なのかは分りませんが、現在の楽家の所在地である油小路下から三条通りまで近いことからも、彼らが楽一族であった可能性も多分に有ります。少なくとも京焼きの陶工です。
 またおそらく彼らは、古田織部の指揮に従って、佐賀の唐津だけでなく、美濃、瀬戸、備前、伊賀、信楽、丹波など、この慶長年間に主役となったそれぞれの窯に、同様に出かけて行って制作していたものと想像できます。
No.64さむしろ2006-12-01 18:25:37.368975
「むざとやき候ハぬ様・・・」については、以前ここで紹介したことがありますが、古田織部、黒田如水、鍋島勝茂については、私がみた資料には出ていなかったように思います(唐津藩主との記憶ですが、確かではありません)。

書状の詳細を知りたいと永らく思っていましたが、ここで知る事ができて大変喜んでいます。

三人の当事者名とともに「京都三条の陶工」も大変重要な内容です。
唐津以外、瀬戸、美濃、備前、伊賀などにも出向いた可能性についても同感です。

茶会記から年月日がわかる可能性もありますね。
いきなりの重量爆弾連発ですね。
No.65さむしろ2006-12-03 20:15:01.713085
その頃の織部の茶会ですが、
慶長4年2月28日、同年10月17日、慶長6年11月20日、慶長9年2月1日があります。
今、手元にある資料では使用された茶碗はわかりません。別の資料を調べてみます。
No.66さむしろ2006-12-04 10:07:36.897476
使用茶碗です。

慶長4年2月28日  高ライ茶ワン、セト茶ワン ヒツミ候、ヘウケモノ也(宗湛日記)
同年10月17日   高ライ茶ワン(松屋会記・久好)
慶長6年11月20日 今高ライ(松屋会記・久好)
慶長9年2月1日   セト茶ワン(松屋会記・久好)

慶長10年5月の茶会に「唐津ヤキ茶碗」がでてきます。(宗湛日記)
同年8月27日には「カラツ茶ワン」(松屋会記・久好)
としてでてきます。
黒田如水の没年迄ではでてきませんでしたが、翌年には「唐津茶碗」が有り、「からつちゃわん」と呼ばれていたことがわかります。

No.67光禅2006-12-05 01:30:49.075725
そもそも唐津焼は文禄・慶長の役(朝鮮侵攻1592-98)を契機に発展した窯であり、茶会記などに唐津焼が登場するのは、慶長7,8年ころからです。
 織部が唐津焼を初めて使用したのは、慶長7年12月14日となっています。
 したがって慶長7,8年頃でほぼ間違いないと思います。なお、これから先は、全くの推理と私見となりますが、おそらく正式な茶事として招いたものなどでは無かった様な気がします。
 それは、この当時の黒田如水といえば、家康の膝元の伏見城下にあったといえども、島津、毛利、あるいは長曾我部の残党や、加藤清正、福島正則など西方の勢力を結集し、あわよくば東に攻め上ろうと虎視眈々と狙っている西方勢力の中心人物として、徳川方からは危険視されていたからです。
 一方、古田織部という人物ですが、信長、秀吉、家康に仕えた武将ですが、ほとんど武功らしき武功もありません。しかし織部の本領は使番としての敵方の説得交渉工作の才能と技術にあったのです。関ヶ原以後は徳川方として与し、大和井戸堂を領地として一万石の小大名となっていました。つまりこの頃の織部は、家康の使番がその本職としての役割分担だったのです。
 つまり織部は、たとえば当時の織田有楽斎の様に、毒でも薬でもない様な、純粋な芸術的茶事三昧に耽っていたのではなく、むしろ日夜、家康の使番としての本業に真剣に取り組んでいたのだと私は思います。云わば、兵法指南役の柳生宗矩や、伊賀の服部半蔵のごとく、徳川家における特殊部隊の長だったのです。また大和井戸堂を領地として宛がわれたのも、柳生や伊賀との協調、連携への配慮と考えられます。
 したがって私は、このときの織部と如水らとの出会いの真の目的は、徳川方の意を受けた織部の、如水らへの牽制、ブラフであったのだと想像します。
 つまり「あなた方の領地には、もう既に充分な徳川方の間者達を奥深く潜りこませてあり、どの様な工作も可能な状況にあるのですぞ。」というメッセージを、織部一流の垢抜けた手法で、かつ着実にその現実を、まざまざと見せ付けた一場面だった訳です。
No.68さむしろ2006-12-05 19:06:13.6832
慶長7年の織部の茶会で唐津がでていましたか。その頃が唐津が茶席に登場する最初であろうとのお考え、同感です。

黒田如水、鍋島勝茂について少し調べて、そして読み返してみます。
No.69さむしろ2006-12-06 13:16:00.269913
黒田如水
秀吉が最も恐れ、また頼りとした。
三成挙兵の報を受け、まず加藤清正を味方につけ、小早川秀秋、吉川広家らと連絡を取り、九州制圧の準備をした。また、徳川家康にも音信を通じ、失敗したときの保険とした。などなど、稀代の策略家であったようです。

鍋島勝茂
関が原の戦いでは西軍に与して伏見城攻撃などに参陣したが、西軍敗退後、いち早く謝罪し、また筑後柳川の立花宗茂、同久留米の小早川秀包を攻撃したことから本領安堵を認められた。

などの記述からみると、要注意の外様として監視下に置かれたしても不思議ではないようですね。

織部が特殊部隊の長というのも解かりよいですね。
「全くの推理と私見」の続きが楽しみです。
No.70光禅2006-12-06 23:04:37.471895
 最初に誤解の無いように断っておきますが、私は古田織部という人は、個人的には好きな人物の一人です。
 それは、戦国武将として、遂には大名にまで列せられるのですが、敵将の生首を斬り取って功名を揚げるとか、手柄を立てるとか云われた、おぞましい戦国乱世の只中にあっても、「もしかしたらこの人は自らの手で人を殺めたことが無かったのではないのだろうか?」と、つい思ってしまうような、類稀なる温厚な平和主義者に思えるからです。
 ましてや、現代においても、より一層高く評価され、多くの人々を魅了する、その普遍的な芸術性や、卓越した審美眼については疑う余地もありません。
 ただ、近年の美学史家達が提唱される織部像として、「利休無き後に、太閤秀吉の認知によって天下一の茶の宗匠となり、自由な創造性に満ち溢れた桃山の気風の中で、各地の窯において自発的に工夫された茶陶等を、その芸術的実力において当時の茶人達から篤い支持を受けた織部が、茶の湯における社会的権威の第一人者として、その独自の審美眼で選択していったものが、織部様式の名品の数々である。」といった見方に、若干の疑問があると云うことです。
 どうも私には、古田織部という人の持つ、「多くの人々を魅了する、その普遍的な芸術性や、卓越した審美眼」と、信長、秀吉、家康ら天下人の使番としての「敵方の説得交渉工作の才能と技術」とが、同一の表裏一体のものだと感じられます。
 共にどちらも、心底から平和的解決を切望する温厚な人柄から発し、困難な時代の中で命がけで練成せられた、希代の「人の心を魅惑する技、スキル」に違いありません。
 つまり、もし戦国における評価が、主として武力による戦闘成果でなされていたとすれば、それに対して織部は、例外的に平和的文化力による成果という評価で、戦国武将として小大名にまで成り上がった訳です。
 そこで織部の、この慶長年間という時代、伏見城下という場所等においての、その織部の手法とその軌跡の一端を大胆な私見として推理し、一部の資料から、その検証を探ってみたいと云うだけなのです。
No.71マスター2006-12-07 18:53:19.579428
安倍安人展が始ります。

場所 備前焼ギャラリー青山
    東京都港区南青山5−16−3
期間 2006年12月9日〜23日
No.72さむしろ2006-12-07 20:07:38.672425
成る程、そのような役回りも有り得ますね。
No.73マスター2006-12-08 09:48:12.374439
たつの市の「ガレリア アーツ&ティー」で、安倍安人ポスター展を開催しています。

寅さんファンの安倍先生が寅さんの舞台となった「たつの」を訪れ、一目で「たつの」を気に入り、今回の展覧会を開催することになったそうです。
作品は、アート、陶芸全般です。

実際の安倍安人展は3月8日から20日まで。
10日(土)夜には軽く飲食しながらのトークショーがあります。
No.74マスター2006-12-10 16:03:12.399927
光禅さんが寄られました。「こうめん」で一杯やりながら、慶長年間における人間関係・人物像を含めた時代背景からの織部様式茶陶論を伺い、大いに盛り上がりました。
こうめんさんにお願いして、安人作備前平皿に「みそ漬け牛ロース」を盛ってもらいました。みそ味とほどよい脂の甘味に少しワサビをつけて食べますが、旨いです。
お造りは忙しい時間帯のため、お決まりの器でいただきました。
No.75マスター2006-12-12 09:44:49.495184
慶長御聞書の写しを入手しました。
(NO56参照)
No.76マスター2006-12-12 18:22:38.384177
慶長御聞書を開くと、左のように書かれています。
左から4行目
「水指伊賀焼いつものごとく・・・」と読める。
No.77マスター2006-12-13 20:01:06.661003
NO75の聞書が、従来、遠州が織部に尋ねた聞書きであるとされていたことに、(多分)最初に「それは違う。聞者は上田宗箇でないとおかしい。」と言い出したのは光禅さんだったようです。
そして聞者が遠州でなく上田宗箇であることが認められるまで、およそ15年を要したそうです。

光禅さん、理解が違うところがあれば訂正して下さい。
No.78光禅2006-12-14 01:09:53.220847
 かならずしも私たちだけが云っていたのでも、おそらく最初でもないのだと思います。

 頻繁に「宗ケ」が登場するのが、上田宗箇のことだろうとの推論はあったと思います。しかし24・5年前当時は、確かに「宗ケ」は、「宗家」で、小堀遠州のことだというのが通説でした。

 そして因みに、私が現在、問題にしていることは、「それならば、なぜ、当時は紀州の国主であった浅野幸長がこれを編纂し、かつ自筆本まで作ったのか?」という理由のことです。

 まず、

 慶長8年(1603)2月に征夷大将軍の宣下を受けた家康は、わずか2年後の慶長10年4月には将軍職を秀忠に世襲しました。

 そこで記録によると家康は、慶長9年4月に浅野幸長邸への御成を手始めに、結城秀康、池田輝政、金森長近、伊達政宗、藤堂高虎の各邸を訪問しています。

 「慶長御聞書」は、慶長9年5月13日朝から始まっています。

 したがって私は、この家康の浅野幸長邸への御成が関係しているものと思うのです。

 つまり、この時、家康が、浅野幸長に対して、徳川将軍としての、新しい権威ある「数寄の御成」の基本様式を工夫し、作成することを命じたのだという推理です。

 そして、二代秀忠が将軍としての御成を催したのが、家康崩御後の翌年、元和3年(1617)5月13日に前田利常邸においてでした。

 この時の御成が「数寄の御成」であったことは記録にあります。

 そして「慶長御聞書」は、遠州を通じて前田利常へ献上されたことが明らかになっています。

 このように、これはまだ今は、全くの推論ですが、ストーリーの流れと時代は一致します。

 次に、家康は、「なぜ浅野幸長に対して、『数寄の御成』の作成を命じたのか?」という疑問です。

 ここでいよいよ、上田宗箇の登場となるのですが、長くなるので今夜はこれで筆を置きます。
No.79さむしろ2006-12-17 15:10:53.52643
NO63で紹介された「佐賀県史料集成」第九巻を探しました。古書をインターネットで探しました。三十巻セットで60万円程度、第九巻を含む十巻セットで十六、七万円。とても手が出ず、またバラもありません。出版元の佐賀県立図書館の蔵書検索でも出てきません。検索の結果、国会図書館、福岡県立図書館にあることがわかりました。しかし、両方とも私方から随分遠いんです。
ところが、急にふって湧いたように北九州に用事ができたので、急遽、福岡県立図書館へ行ってきました。インターネットで調べた書誌詳細表示に史料番号、請求記号等がでていましたので、すぐに出してもらうことができました。閲覧場所jは1階でも2階でも空いている席でどうぞということでしたので2階へ上がることにしました。途中、張り紙(?)があり「職員に声をかけていただければお調べのお手伝いができるかもしれません」といった意味のことが書いてありました。
No.80さむしろ2006-12-17 17:28:54.661999
午後1時前から調べ始めました。九巻というのがわかっていましたから、そんなに時間はかからないだろうと思いながら、ほかにも参考になる書状があるかもしれないと思いながらゆっくり調べました。ところが全ページが終わりそうになっても出てきません。そしてとうとう最後まで出てきませんでした。そんなはずはないと、それから3回ほどでしたか最初から見直しました。勿論スピードを速めてです。それでも見つかりません。
待てよ、と思いつき序文を読み直してみました。そうすると、元々の史料は一旦整理され、一巻、ニ巻、三巻とあり第九巻もありました。あ、そうか、元の史料第九巻が収蔵されている十巻を出してもらおう。最初1階のカウンターで借りたのですが、張り紙の「手伝い」の言葉が思い浮かび、2階のカウンターで相談しました。するとすぐに十巻が出てきました。
No.81光禅2006-12-17 21:35:36.959655
さむしろさん北九州にご出張でしたか。随分苦労して探されたのですね。私も云い出した手前、もう一度資料の記載を確認して見ましたところ、やはり「佐賀県史料集成」第九巻に収蔵となっていました。
 それで結局、鍋島勝茂の「むざとやき候ハぬ様可申付候」の消息文は見つかったのでしょうか?
No.82さむしろ2006-12-18 09:52:55.631862
今度は大丈夫だと、手馴れたこともあってスピードをあげて1ページから繰っていく。おかしい、そんなはずはない、これにもない。
そんなはずはない、と二度三度繰り返してみても出てこない。時計をみると4時をだいぶ過ぎている。ほとんどあきらめ状態ながら、また一度二度と繰って、4時20分ごろになってとうとう諦めて帰ることにした。(つづく)
No.83さむしろ2006-12-18 18:09:56.212889
先ほど相談したカウンターの方、年配の女性だが、にこやかに「いかがでしたか?」と声をかけられ、ダメでしたと答える。しかしその方の表情が「話してごらんなさい、お手伝いができるかもしれませんよ。」と言っているように見えた。
「多久家文書でいいのですね?」
「はい」
「だれの書状ですか?」
「勝茂だったと思いますが、直茂だったかも・・」「慶長7,8年9年までのものです」
他の巻も出してみましょう、と出してもらった十一巻をペラペラとめくってみるとなにか雰囲気がよいがありそうにない。「多久家文書ですから、多久市郷土資料館に尋ねればわかるかもしれませんよ」と住所、電話番号を調べてくださる。目次をみると年代ごとになっている。時計をみると4時40分。思い当たる年代を、それこそ斜めに読んでいると「古織」の文字が目に飛び込んできた。「あれ」、前後をさがすと「むさとやき」があるではないか。「あ!これです。」
該当部分のコピーをお願いし、心からの感謝の気持ちを申し述べ、5時前に図書館を出た。

福岡県立図書館と、お手伝いをしてくださった年配の女性の方に重ねてお礼を申し上げる。
No.84さむしろ2006-12-19 09:29:49.931054
少々前置きがながくなりましたが本文を紹介しましょう。

爰元へ不入候間、馬九疋差下候、とれもわりき馬ニ候条、うらせ候て可然候、
将亦、此比如水同前ニ古織殿其外方ゞへすきニ参候處ニ、其元へ罷居候唐人やき候かたつき茶わん座に出候、其ニ付而、三條之今やき候者共、其地へ可罷下様承候、此中も罷下、やかせ候て持のぼりたる由候間、むさとやき候ハぬ様可申付候、恐々謹言、
  二月十日    信守 勝茂(花押)
 生三まいる 

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