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No.85 | 光禅 | 2006-12-20 00:04:21.006574 |
![]() それにしても、元の本文は、色々と面白いですね。 まず、「三條之今やき候者共」は、楽家のことと解釈しても、問題なさそうですね。それに複数です。 「今焼き」の呼称は「聚樂焼き茶碗」と称されるようになり、さらに豊臣秀吉から「樂」の印字を賜わったことによって、後の時代に「樂焼」「樂茶碗」と称されたものです。当時の茶会記などでも「樂焼」を「今やき」と記載されていることもあります。 「唐人やき」も「唐津焼き」ですね。 また、「やかせ候て」ですから、誰かが焼かせてですね。直接、織部とは云っていませんが、如水のほかには古織殿しか登場しませんので、間接的に織部の指揮を示唆しています。 なお、「如水」が敬称なしなのに対して、「古織殿その他の方々へ」と丁寧に記していることから、この時の、伏見桃山城下での古田織部の立場が推察できます。万一、この書状を徳川方に見られても、申し開きが立つようにという、勝茂の配慮が見て取れるようです。 さらに巻頭の、「爰元へ不入候間、馬九疋差下候、とれもわりき馬ニ候条、うらせ候て可然候」は、「私が国許に居ない間に、馬九匹を上方(かみがた)方面から購入したようだが、どれも悪い馬なので、売っぱらってくれ。」でしょうか? これはおそらく、当時の騎馬武者が「一両の具足甲冑と馬一匹」から「一両一匹」と呼ばれていたことから、ここは「自分が国許に居ない間に、騎馬武者を九名新たに召抱えたようだが、何れも徳川方の息がかかった疑いのある者どもなので、早々に解雇せよ。」と、まず書状の巻頭で留守居の国家老に申し付けているのでしょう。 さすがに、後に「鍋島化け猫騒動」のモデルとなった、主家乗っ取りの張本人である家茂だけに、素早い判断と動きを見せているようです。 |
No.86 | 光禅 | 2006-12-20 00:46:38.960386 |
![]() 後の佐賀藩主が、当時の国家老か誰かに送ったものですから、大変信憑性の高いものです。登場人物の如水の没年(慶長9年)と、唐津焼きの茶道具の出現から、慶長7、8年頃と、時代もほぼハッキリと特定できます。 また、当時、佐賀藩等の唐津焼きの窯場では、朝鮮から陶工を呼び寄せるか、拉致して来て制作に当たらせていたのですから、佐賀藩としては、一級の産業秘密の一つだった訳です。あわてて国許に処置を命じている様子が読み取れます。 したがって、「新しい技術を求めた陶工たちが、自らの自由意思で、東西を奔走していた。」などということは、けっしてなかったはずなのです。 いずれにしてもこれらの解釈によって、少なくとも「唐津焼き」については、さむしろさんの仮説は、早くも一つの重要な裏付けが取れてしまったことになりましたね。 言い換えると、もう既に現時点において、この仮説を否定することは、かなり困難なものになってしまいました。学術上の新説のレベルに、着実に近づきつつある手応えすら感じています。(笑) |
No.87 | さむしろ | 2006-12-20 19:57:02.310906 |
![]() 爰元へ不入候間、馬九疋差下候、・・・の部分ですが、私は関係のない話で、当初は削ろうと思ったくらいです。 光禅さんの解釈、さすがと思い反芻していました。その結果閃いた私の解釈です。 「わたしが国許へ入らない間に、(大坂方から)馬九疋を差し下されたが、どれも悪い馬のようだから、売らせてしまってもよろしい。」 豊臣、徳川双方に対しフリーハンドを確保するのが当時の立場かなとも想像しましたが、(書状紛失に備え)徳川に対するゼスチャーとも思えますね。 「差下候」を「さしくだされそうろう」と読み、解釈を、目上から目下への与え物と読みましたがはたしてどうでしょうか。 「其元へ罷居候唐人やき候」は第十一巻欄外の見出し書に「肥前在住唐人の作陶」としていますので、朝鮮人(の陶工)を「唐人」と呼んでいたと理解しました。唐津焼についてのノウハウは産業機密であったとの説は同意見です。 「三條之今やき候者共」も光禅さんと同様の解釈ですが、他に「今やき」を焼く者達がいたかいなかったか、注意しておく必要があるように思います。 古田織部の指図も同じ見解です。 いきなり佳境に入ったようですし、時代背景ともマッチしていますね。その辺りの解説を期待しています。 |
No.88 | マスター | 2006-12-21 17:43:53.918695 |
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No.89 | 光禅 | 2006-12-21 20:44:11.738694 |
![]() 私の解釈だったとしても、「早々に解雇せよ」などといった手ぬるい処置でなく、戦国の九州のことですから、本当に「新規雇用の九名の騎馬武者ども全員を捕縛し、奴婢(奴隷)として朝鮮半島に売り払ってしまえ。」と云う命令だったのかも知れません。 もしそうだとしたら、織部はこの時、彼らの徳川方関係者から、恨みを買ってしまった可能性も有りますね。つまり後になって、徳川方が九名の騎馬武者を佐賀藩に密かに潜入させたという情報を、この時、織部が家茂にリークしてしまったという疑いを持たれた可能性です。潜入させた者どもを処分されたことに対する恨みが、家茂でなく織部に向いてしまったということです。 なおこの書状がすぐに焼かれたり、破棄されること無く、今日まで保存されたのも、おそらく主君からの緊急の厳命を証明するための証拠として、密命を受けた国家老か誰かが、自らの保身の為に大切に保管していたからでしょう。 |
No.90 | 光禅 | 2006-12-21 22:26:22.793646 |
![]() 有来新兵衛については、富岡大二という人の研究があり、社団法人日本陶磁協会発行の『陶説』という月刊誌のNo.378〜387(1984年11月号〜1985年8月号)に連載で掲載されているそうです。 有来新兵衛は、京都三条柳馬場に居を構える当時有数の貿易商(糸割符商人)だったそうです。また茶陶も商いし、有来屋敷跡と思われる場所からは、信楽、美濃のやきものの他、それ以外の各窯業地に焼かせた茶陶類も数多く出てきたそうです。 しかし私は、彼自身で作陶位はしたかもしれませんが、新兵衛本人が、陶工というレベルであった可能性は低いと思います。ましてや織部桃山茶陶の名品にみられる「一定の造形法則による創作技術」などは、とても持っていなかったと思います。 しかしながら、織部指示の特注品創作には、有来新兵衛という人物が深く関わっていたものと想定されます。 有来新兵衛と古田織部との関わりについては、桑田忠親の『古田織部の茶道』(講談社学術文庫)に、「慶長年間に織部が新兵衛という者に命じて作らせた茶入に『さび助』というものがある。これは、備前焼の茶入であり、備前焼における織部好みの進出とみてよかろうと思う。」とあります。『さび助』は、確か南青山の根津美術館で、私も何度か拝見しています。 したがって、「三條之今やき候者共」を有来新兵衛の関係者達だったとみることも出来るかと思います。 |
No.91 | さむしろ | 2006-12-22 20:33:12.207918 |
![]() 陶説の連載は数年前にみました。本を借りたので、ゆっくり読むつもりでコピーをしました。ただ、今現在行方不明です。 有来新兵衛屋敷跡から出土した茶陶類についても、一定の法則に則っているかどうか調べれば面白いですね。 備前物についてですが、会記によると1580年代になると備前筒花入がでてきます。1587年には「備前物の新しき花瓶」がでてきます。 今の感じでは、伊賀・唐津よりも早く「織部様式」茶陶が焼かれはじめたという気がしています。手元の資料でも、よく見てみればまだまだ色々なことが見えてくると思います。 有来新兵衛と古田織部との係わりや作陶も、大きな研究課題です。 |
No.92 | さむしろ | 2006-12-23 17:35:00.235959 |
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No.93 | さむしろ | 2006-12-23 17:46:05.566984 |
![]() 書状は生三宛になっていますが、生三は国家老のようです。 |
No.94 | さむしろ | 2006-12-24 19:58:58.202896 |
![]() インターネット上にも「へうげもの」に関するものが多く、「古田織部」の検索が随分増えているようです。単行本では1.2.3まで出ているようですがよくわかりません。 「へうげもの」の紹介記事の転載です。 古田織部を主人公とし、戦国時代を描いた作品である。この類の作品は合戦などの「武」を描いたものが多い中、へうげものは戦国時代に珍重された茶器などが多く描かれた「美(文化)」に重きを置いた作品である。 |
No.95 | 光禅 | 2006-12-26 00:27:52.405946 |
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No.96 | 光禅 | 2006-12-26 00:39:16.379244 |
![]() 古田織部の京屋敷が「堀川通三条の南」、有来新兵衛の屋敷が「三条柳馬場」、楽家が「油小路下」と、三者の距離は1キロ前後の圏内にあります。(もっとも織部の伏見下屋敷は、伏見、木幡ですが・・・) 藤堂和泉守は藤堂高虎で、慶長13年(1608)に伊予から津・伊賀の領主として移封され、大阪方(豊臣)に対する重要拠点として軍備の町を築きました。 天正12年(1584年)頃に、当時の伊賀領主の筒井定次が古田織部に茶陶を焼かせたとされています。これを「筒井伊賀」ということでよかったでしょうか? また「藤堂伊賀」は、二代藤堂高次の時代なので、寛永12年(1635)頃とやや時代が下りますね? したがって、織部桃山様式の伊賀焼の名品は、この間の時代で織部在命中(慶長13年(1608)〜慶長19年(1614)頃)に制作されたということなのでしょうか? なお三者の距離が近いこと以上に興味深いのは、織部の京屋敷の後を藤堂高虎が、居宅としていたことです。このことは、両者の深い関係を物語っています。 つまり遠方の敵地である九州佐賀藩内の唐津焼きの窯場にさえ陶工たちを派遣して、茶道具を焼かせていた位ですから、高虎が領主である伊賀なら、織部は何でも出来たということでしょう。 また藤堂高虎の娘婿が小堀遠州です。のちに寛永年間(1624〜1644)に小堀遠州が指導して製作したものを「遠州伊賀」といい、古いものよりもかなり瀟洒な造形ですね。 |
No.97 | さむしろ | 2006-12-26 20:38:41.329054 |
![]() 筒井伊賀、藤堂伊賀のことですが、茶会記の古いところでは茶壷しか出てきません。伊賀花入が出てくるのは慶長年間も大分下るようですから、よく整理してみる必要があります。光禅さんご指摘のように、慶長13年から慶長19年の間ではないかという気がしています。 古田織部と藤堂高虎が非常に近しい関係にあったということは重要な意味がありますね。 |
No.98 | 光禅 | 2006-12-27 03:05:16.36981 |
![]() 遠州は慶長2年(1597)年に、19歳で藤堂高虎の養女(藤堂玄蕃、嘉清の娘)を娶っています。 また、元和元年(1615)に織部が失脚して切腹した直後、織部屋敷は、藤堂高虎が接収しています。 実はこのことは、私はとても大きな意味を含んでいる様に思えるのです。 ここからは全くの推理と私見ですが、藤堂高虎が家康により、慶長13年(1608)に伊予から津・伊賀の領主として移封される以前から、おそらくは、後に江戸幕府での伊賀同心支配役(忍者集団の頭領)で有名な服部半蔵ら徳川方の特殊諜報活動隊との、伏見と京における連携活動の拠点として、この古田織部の木幡屋敷と堀川通三条の南の京屋敷とが位置づけられていたのではないでしょうか? そして藤堂高虎の伊賀移封以後は、さらにその意味合いは加速したと思われます。 つまり当時の織部屋敷は、いわゆる家康配下の伊賀者達(忍者集団)が、常時出入りし、寝起きしていた拠点だったのではないのか?ということです。 すなわち当時、織部屋敷での茶会とは、実はこうゆう意味合いと目的が始めからハッキリあったのではないか?ということなのです。 そして伊賀の里は、伊賀者たちにとっては、その本拠地です。 したがって、この二つの屋敷には、単に茶事を催す為の小間、広間、鎖の間、路地等のみならず、忍者屋敷としての設備とシステムが完備されていたので、その秘密維持のために、高虎がそれぞれの屋敷の後を引き取っていたのだという推理です。 古田織部と藤堂高虎との深い関係とは、実はこういったことだったのではないでしょうか?そしてさらには小堀遠州も、この同一線上にあるわけです。 |
No.99 | さむしろ | 2006-12-27 18:47:24.313231 |
![]() 織部屋敷における茶の湯が、単に好き者のなぐさみや遊びではなく、もっと生々しい虚々実々の駆け引きや取引の場であったかもしれない、というのも納得できるような気がします。 |
No.100 | 光禅 | 2006-12-28 01:22:39.871399 |
![]() 結局、当時において、「織部桃山様式の茶陶の名品」 とは、一体何だったのか? と云う疑問に行き着きます。 もしかするとこれは、この慶長年間という、関ヶ原以降の東西冷戦時代において、東西のグレーゾーンで揺れていた数々の武将や政商達を繋ぎ止め、あるいは調略する目的で、徳川方が秘密裏に特別に制作させた物 (美術芸術作品) だったのではないだろうか?と云う疑問です。 いわばそれは、徳川方における 「文化的特殊兵器」 の一つだった?という事です。 例が悪いかもしれませんが、現代において云うと、北朝鮮における 「喜び組」 などは、かの国においては明らかにこの類の、「文化的特殊兵器」 と位置づけられているもののようですネ・・・(笑) そして当時は家康の使番的存在であった 古田織部 が、家康の密命 (あるいは認可) によって、その制作を担当し、さらにはその使用裁量権を与えられていたのではないか? そこで古田織部は、徳川幕府の権威と権力をバックとして、極数名の選りすぐった陶工・画工のスタッフ達を指揮指導し、伊賀者らの警護を付けて、唐津、美濃、瀬戸、備前、伊賀、信楽、丹波などの窯に、次々と派遣して制作していたのだということなのでしょう。 したがって、もしそうだとすると、現在でも有名で、そして極めて高価な美術的価値を有するこれらの名品が、「どういったルートと経緯で、古田織部から誰に伝来して行ったのか?」を辿って行くことで、その使用目的意義が判って来るかもしれませんね? また織部周辺の人間関係、あるいは織部の茶会記に登場する人物や、時期、連客の客組みや、道具組みなどを、この線で見直してみるのも面白いかもしれません。 きっとまた何か別の、新たなる物語が見えて来そうな予感がしています。 |
No.101 | さむしろ | 2006-12-28 18:24:45.66631 |
![]() ほかにも日本から輸出禁止になった高級時計とかワインとかぜいたく品がそれにあたりますね。 特に伊賀ものが印象深いのですが、会記にほとんど出てきません。そのことは、亭主(茶会の主人)として会記にでることのない人達が「名品(茶陶)」を所持していた、との想像をさせます。 名品たちの伝来のルート、客組みについては大いに興味があります。 |
No.102 | マスター | 2006-12-30 17:36:17.063204 |
![]() その席で、今古田織部の「へうげもの」が話題いになっていると話したところ、会主催者のTさんが「私の友人に古田織部の子孫がいる」と言うのでビックリ。「ものはら」での盛り上がり振りを紹介しておきました。 |
No.103 | マスター | 2007-01-01 00:09:29.694273 |
![]() ことしもよろしくおねがいします。 |
No.104 | マスター | 2007-01-03 18:26:13.617848 |
![]() 先生はのんびりと過ごされていました。 先生は昨年12月にアメリカへ行ってこられました。サンタフェでの個展、ニューヨークでのEDOICHIグループ展の打ち合わせのためだったようですが、それ以外にもいろいろな収穫があったようです。 具体化したものから順次紹介します。 |
No.105 | 光禅 | 2007-01-05 01:58:58.662499 |
![]() 「へうげもの」単行本1・2・3巻、さっそく購読させて頂きました。 さすがに人気漫画だけあって、私ども以上に大胆に「全くの推理と私見」を展開されておられ、とても楽しく読ませて頂きました。 しかしまだ、慶長年間まで至っていないので、 「 織部屋敷 = 忍者屋敷 」 だった、 という我々の卓見については、紙面ではまだ確認できませんでした。(笑) なお、「 織部屋敷 = 忍者屋敷 」の推理は、単に古田織部と藤堂高虎との関係からだけではなく、上田家伝来の古図面にも有る様に、その広大な織部の路地の好みからでもあるのです。 つまり例えば、千家の路地についていえば、外路地から内路地へと小さく狭くなり、さらに小間の茶室の潜り戸へと導く様に設計されており、内路地などは、坪庭的です。 したがって、その路地の手入れや、三炭三露の打水なども、亭主と他一・二名の補佐人がいれば茶事が行なえます。 それに対して、織部の路地は広大なため、亭主の他、少なくとも十数名の慣れた補佐の人数を要することになります。 また「御成り」を意識しているのですから、手入れや打水だけでなく、警護の必要もあったのではないでしょうか。 そうなると、「その任にもっとも相応しいのは伊賀忍者集団ではなろうか?」ということなのですが、いかがなものでしょうか? さらに例えば、 何処方ともなく犬やけものの如く人の気配を察知して、「近づいて行くと、スッート音も無く貴人口が開かれる。」などといった演出も可能になる訳です。 そしてこの「何時の間にか人を引き込んでしまう、何とも心地よい時空間の演出」こそが、百戦練磨の武将達や政商達にとっては、「極限の隙の無さ」として、反面ある種の恐怖と映り、行き着く先、徳川将軍家への脅威と服従へと繋がるという計算なのです。 つまり、 【 ★ 刀槍矢玉に拠らず、「一分の隙の無い茶事への誘い」と云う、極めて平和的手段によって、「全身全霊の文化力を駆使して敵を屈服させてしまう。」というのが、この慶長年間という東西冷戦時代での、織部一流の大戦だったのです。】 もしかすると「水打ち木戸」などの裏方、水屋の工夫なども、元々忍者屋敷の発想から来ているのかもしれませんね。 |
No.106 | 光禅 | 2007-01-05 02:15:22.161606 |
![]() 『目の眼』昭和59年7月号,昭和58年1月号に、有来新兵衛の特集記事があると聞いたのですが、もしかして、さむしろさん お持ちではないでしょうか? |
No.107 | さむしろ | 2007-01-05 12:35:39.714993 |
![]() 光禅さん早いですね。わたしも「へうげもの」を注文していますが、今日届く予定です。 確かに露地の作りも異なりますね。単に好みの違いということより発想の違いが大きいような気がしてきました。 「目の眼」は持っていません。探してみなければいけませんね。 |
No.108 | さむしろ | 2007-01-06 17:13:27.147741 |
![]() 確かに大胆な推理と私見でしたが面白かったですね。今後、慶長期に入り、織部様式茶陶の誕生そして役割と、それらに古田織部がどのように関わったとするか興味津々です。 |
No.109 | 光禅 | 2007-01-09 22:03:11.460664 |
![]() 「慶長御尋書」、「宗甫公織部へ御尋書」あるいは「茶道長問織答抄」についてです。 家康がなぜ、「浅野幸長に対して、『数寄の御成』の作成を命じたのか?」ですが、まずその前提として、「そもそも家康という人は、茶の湯に関心があったのか?」について考察します。 家康については、例えば「へうげもの」(古田織部を主人公とした『週刊モーニング』の連載漫画)などでも、「質実剛健、倹約家の実戦派で、茶の湯などと言った贅沢華美なものは性に合わない三河の無骨な古武士」といったイメージで描かれています。 しかしこれは、後の江戸幕府が次第に財政難となり、倹約令を発布するような事態となった時、「質実剛健で倹約家の東照大権現様」といった威光を借りる為に、まったく時の権力によって都合良く作り上げられた神君家康の偽の人物像です。 実際の家康は、まったく違います。 第一に、今川義元の駿府での人質生活時代の家康(幼名:竹千代)ですが、「人質生活の辛酸を舐めた」などと云ったことなどでは全くありません。当時の駿府では、京都を脱出した公家や文化人が多く、各地から集められた人質同士の交流も盛んで、現代で云えば、全寮制のエリート学校への留学のようなもので、むしろ超一流の文化サロンでの文人的な優雅な生活だったのです。 また伏見城天守閣の屋根裏に茶壷を格納し、口切りまでの茶の越夏法について講じていたりしています。さらには自筆の名物茶壷目録まで編纂しています。そして実質的に天下人として君臨していた、慶長5年(1600)〜崩御した元和2年(1616)の16年間には、相当数の唐物名物を収集していました。後の柳営御物のかなりの物を収集していた訳です。 この様に家康の実像は、むしろ軟弱な文人派のエリート御曹司だったのです。三方が原の合戦の折の敗走、命からがらの神君伊賀越え、関ヶ原での島津軍の中央突破、大阪夏の陣での旗印を捨ててのまさかの敗走etc.家康には最後まで脱糞して敗走するイメージすらあります。 反面、家康の本当の強さとは、その生来の引込み事案な慎重さと疑り深さだったのです。そして広く深い教養から思慮された、様々な政策の企画構築力と、その実行力にあったのだと云えます。 「温室育ちの臆病で慎重な官僚的な文化人。」がその実像です。 したがって、茶の湯には暗く、嫌っていたなどと云うことなどでは全く無く、むしろ極めて精通していたと考えられます。そしてその恩賞としての価値については、誰よりも理解して使いこなしていたのです。 ですから、家康が、「浅野幸長に対して、徳川将軍としての、新しい権威ある「数寄の御成」の基本様式を工夫し、作成することを命じた。」という推理は、十分妥当性をもって成立します。 因に、家康が古田織部とは本質的に反りが合わなかったと云うのも嘘です。 むしろ家康と織部は、年齢的にも、性格的にも、本質的に馬が合ったものと考えられます。 |
No.110 | マスター | 2007-01-10 19:22:47.367297 |
![]() |
No.111 | マスター | 2007-01-10 19:24:16.235473 |
![]() うっそうとしています。 |
No.112 | マスター | 2007-01-10 19:30:19.874612 |
![]() 露地と山が一体になっているように見えます。 これらをもとに織部屋敷を推測すると、光禅さんの言われるように広大なものであったと思われますね。 |
No.113 | さむしろ | 2007-01-10 20:10:29.976711 |
![]() 続きを待ちます。 |
No.114 | 光禅 | 2007-01-11 21:39:04.87122 |
![]() 話の反れついでに、織部自身も「へうげもの」(古田織部を主人公とした『週刊モーニング』の連載漫画)などの記載では、「時の権力にも媚びない反骨漢の変人」と云ったイメージで描かれていますが、そんなことはなかったと思います。むしろ、この慶長年間には、有る意味、織部は、忠実な家康側近の一人だったと云うべきだと思います。 あるいは見方を変えると、大御所 家康の天下とは、西の豊臣家や豊臣恩顧の諸大名たちと、東の二代将軍 秀忠の江戸幕府との間にあって、その絶妙なバランスの渦中においてこそ初めて、その存在価値が成立していたのだということなのです。 この時代は、まだまだ実質的には時として兄弟はもとより、子が親を、親が子を、家臣が主家を討ち取る様な、下克上の戦国だったのです。 当然、天下の権力の中枢にいた家康と云えども、決してその例外であるはずがありません。 また、関ヶ原以後の大名配置を見ると、京都から江戸との間だけは、親藩・譜代で固めています。関八州、駿府、遠江、三河、甲斐、信濃の旧領、濃尾、越前、近江からは織田・豊臣系の大名を追い出して西国に移しています。これを見ると、せめて東国だけでも確保したいという、いたって防衛的な意図が見えます。とてもまだまだ、徳川家による全国制覇などでは無かったのです。 したがって私の「全くの推理と私見」では、後に起きた織部 更迭による詰腹も、確かに家康の名の下で挙行されたのですが、実はこの事件は、大阪城落城を前にして、二代将軍 秀忠の江戸幕府の力が勝ってきて、反面、家康の実力が衰え、その存在価値を無くしつつあったことを如実に示しているのだと思います。つまり、時代が移り変わったと云うことなのです。 織部は最後まで家康と共に生きていたのであり、そして共に滅んで行ったのです。したがって、「織部の処分を本当に命じたのは、秀忠とその周辺の側近達だった。」ということになります。 そして家康は家名と子孫の繁栄を残し、織部は一世を風靡した天下一の茶の宗匠としての名声と、「織部桃山様式の茶陶の名品」等の美術品を世に残したのでした。 |
No.115 | さむしろ | 2007-01-13 20:00:23.939113 |
![]() しかし、わたしには「一分の隙のない茶事」(NO105)という発想はありませんでした。でも、それも肯けます。 |
No.116 | 光禅 | 2007-01-15 21:09:44.816014 |
![]() この時代の大名の条件について、少し考察して見ます。 第一に、一万石以上の石高の所領地の領主であることですが、それだけでは十分条件とは云えません。従五位下以上の位階、従五位下以上相当の官職を朝廷から拝賜し、殿上人の貴族に列するというのが次の条件でしょう。 さらには、威力が誰にでも分るのは城です。次には、名馬、飾り太刀、甲冑等の武具でしょう。また、印判の使用などもあります。 戦国乱世には文武両道などとはまだ云いませんが、文化や教養も一つの大きな戦力でした。 そこで茶の湯や連歌の素養となりました。 したがって、唐物や名器を所持することや、主家から名刀を拝領することなどが、一つの権力と権威の象徴だった訳です。 |
No.117 | 光禅 | 2007-01-16 23:57:25.302532 |
![]() このことは、No.85においても少し記しましたが、「一両の具足甲冑と馬一匹」のひとかどの騎馬武者のことを指します。 そしてようやくNo.78に続くのですが・・・・ ここに上田宗箇(上田佐太郎、重安 関ヶ原以後浪々の身となり、剃髪して法諱 宗箇を名乗る)という武将がいます。武将茶人として知る人ぞ知るといった存在で、広島の茶道上田宗箇流の流祖です。 しかし、この上田宗箇という人物は、古田織部などとは正反対に、一番槍の名手として、戦国の世においては、大変な名声を博していました。 一番槍、一番乗り、一番首、先駆けの功名などと云ったものは、まさに矢玉の集中攻撃の中を、命を的に一揆に駆け抜けて行って功名を上げるのですから、命がいくつあっても足らない様な所業です。 上田宗箇という武士は、それを何度も実行し、功名を上げてきた歴戦の士だったのです。 つまり戦国乱世の当時においては、本人自身が、矢玉の集中砲火の中を、疾風の如く駆け抜ける鬼神の様な馬術、一騎打ちに打勝つ槍術や剣術、また組討にも優れた古武道、あるいは鎧通しの扱いに至るまでの、実践的武道における達人、つまり手だれの実戦的な兵法者だと云うことです。「宗箇老」と称されるのも「古参の老兵」と云う賞賛の意がこめられている訳です。 つまり例えば、戦国時代後期においての、個人としてのK1的な格闘界でのスタープレーヤー、あるいはヒーロー的な有名武将だったのです。 したがってこの上田宗箇などは、当時の若人達のみならず武将達にとっては、それは憧れや尊敬、畏敬の念を通り越して、軍神としての信仰と云ってもいいものでした。 例によって例えが悪いかもしれませんが、いわば唐獅子牡丹を背に咲かせ、白の晒しに長ドス引提げて鉄火場に出入りする高倉健といった類のカッコ良さなのです。(笑) そしてこの慶長9年当時には、浅野幸長に招かれ、紀州で客分家老として一万石を給されていました。 |
No.118 | 光禅 | 2007-01-17 22:31:45.7863 |
![]() 幸長の父である長政は、尾張の浅野長勝の養子として婿入りしたのですが、その妻の姉が木下藤吉郎(のちの太閤豊臣秀吉)に嫁いだ「ねね」(のちの秀吉の正室北政所、さらにのちの高台院)です。 そしてこの姉妹は、長勝がその妻の姉の娘を、浅野家の養女として貰い受けて養ったのでした。さらにその長政の妻姉妹の実家である杉原家の娘(ねねの従姉妹)が、上田宗箇に嫁いでいるといった具合です。 つまり「ねね」から見ると、浅野幸長は甥であり、上田宗箇は姪の夫に当たります。 また「ねね」は子が無かったので、加藤清正、福島正則らを養子として養育したのでした。 ご承知のことと存知ますが、関ヶ原において、豊臣恩顧の大名達のうち、これら浅野幸長、加藤清正、福島正則らが、家康の東軍に属したのは、「ねね」の威光であったとも云われています。 そう云う意味からすると、「ねね」すなわち「高台院」は、この慶長年間の影の立役者として、家康も一目置く、隠然たる権力を持っていたことが分ります。 |
No.119 | 光禅 | 2007-01-18 21:22:51.252372 |
![]() つまり、淀君と秀頼の籠る大阪城への第一陣の備えとして、「高台院」系の縁者である浅野幸長、上田宗箇を配備したという訳です。「豆を煮るに、豆の皮を持ってする。」と云うセオリーを踏襲しているのでしょう。 したがって家康は、反面、彼らの情勢なり動向を常時監視しておく必要があると考えたことが、「浅野幸長に対して、『数寄の御成』の基本様式を工夫し、作成することを命じた。」真の目的だったのだ、と私は思うのです。 この慶長年間、我々は過去の歴史の一頁として史実を知っているので、不思議に感じないだけだと思うのです。 この時代、大きな戦こそありませんが、もし淀君が先に死んでいたら?もし家康が死んで如水が生きていたら?もし高台院が早く死んでいたら?などと仮定を変えてみると、歴史は簡単に大きく塗り変わりそうです。正に、一寸先は闇の、緊張したサバイバルゲームをしていたのでした。 上田宗箇と古田織部は、文禄元年の文禄の役において、肥前名古屋城において同行しています。また文禄2年には、徳川家康、古田織部、上田宗箇は、明使饗応の場に揃って参列しています。さらに伏見城下の各屋敷での茶の湯を通じた交流も元々盛んでした。 さらには、宗箇と織部は、慶長4年7月に、大徳寺三玄院の春屋国師からそれぞれ「宗箇」、「金甫」号を授かっています。 この様に、宗箇と織部は、その性格と生き様においては、かなり異なっているのですが、極めて親しかったことが推察できます。 |
No.120 | 光禅 | 2007-01-21 22:22:21.060341 |
![]() 宗箇が織部に愛蔵の花入れを所望し、そこで織部は、生爪を剥すほどの思いで、これを宗箇に贈答したという添状があるものです。 No.100に記した我々の推理によると、 これはここで、「徳川方における 『文化的特殊兵器』 の一つとして使用された。」と云うことに成ります。 添状からは、これが織部から宗箇に送られた年については、ハッキリ特定できない様です。 私は、もしかしたら「 慶長18年に浅野幸長が没した直後頃ではないか?」と云う気がするのですが、いかがでしょうか? それは当時、徐々に大阪攻めに向かって動き始めていた頃であり、宗箇を何としても、紀州に繋ぎ止めておく必要があったからです。 たまたま縁があって、この『生爪』と云われる花入れを、22・3年前に、拝見したことがありました。それは如何にも戦国のヒーロー戦士が好みそうな、艶めかしさと潔さを感じさせる物でした。 |
No.121 | 光禅 | 2007-01-24 23:50:18.6579 |
![]() 古田織部が、大野主馬(治房)に宛てた添状に「内々御約束之伊賀焼ノ水指令進入候 今後是程のもなく候間 如此侯大ひゞきれ一種侯か かんにん可成と存候」とあることから、おそらく織部が指導して創作させた伊賀焼の水指を、古田織部から大野治房に進呈したものと考えられます。 大野治房は大野修理治長の弟で、淀君の乳母である大蔵卿局の子であったことから、兄弟で豊臣秀頼に仕えた、当時は大阪方の中心的人物の一人です。 これも添状からは、進呈された年については、ハッキリとは特定できませんが、もしかしたら大阪冬・夏の陣の起こる前年、やはり慶長18年頃ではなかったのでしょうか? 例によって「全くの推理と私見」を逞しくしますが、どうも私には、進呈されたのがこの時期だったのだとすれば、「この作品には何かのメッセージが籠められているのではないか?」と云う気がするのです。 この頃の徳川幕府方は、もう明らかに大阪攻めと、豊臣家の覆滅を意図して準備していました。そこで大野兄弟を主戦論へと誘導しようとしていたのです。 そうだとしたらメッセージは、「決別。と、堪忍袋の尾は切れた。」でしょうか? あるいは「大城塞、大阪城の壊滅。」を暗示したのでしょうか? なお、古田織部の四男の九郎八 重行も、大阪城にあって豊臣秀頼の家臣でした。 またこの他にも、家康の近習で、後に京都所司代となった板倉重宗に瀬戸黒茶碗を贈った添状などがあります。 いずれにしても、このように桃山茶陶の名品は、織部から諸大名に贈られて行ったのでした。 「誰ゆえに 然(さ)のみ身を 尽くすらん。」 「船つなげ 雪の夕べの 渡し守。」 織部が宗箇との話しのついでに(「慶長御尋書」にて)、その心中を吐露した引用歌です。 |
No.122 | マスター | 2007-01-31 14:15:56.141698 |
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No.123 | さむしろ | 2007-02-03 17:53:43.334356 |
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No.125 | さむしろ | 2007-02-06 12:50:46.623449 |
![]() 「筒形の胴は四方に矯めて方形をなし」と説明があります。 伊賀にある四方形との共通性を感じます。 長次郎楽茶碗にも四方形があります。(ムキ栗) |
No.126 | さむしろ | 2007-02-06 12:58:32.797834 |
![]() 新五郎が何者なのかわかりません。唐津の陶工あるいは京都・三條のいま焼き工人のなかに新五郎なるものがいれば大変わかりよいのですが。「依頼主の注文によって彫り込んだのではないか」との解説がありました。 |
No.127 | 光禅 | 2007-02-08 00:23:33.026726 |
![]() 古田織部は、美濃の生まれと云われています。しかし美濃のどこなのかは、どうもはっきりしない様です。いずれにしても、織部は美濃が生国であり、元々かなりの地縁があった様です。 美濃で、いわゆる織部焼が焼き始められたのは、慶長10年(1605)頃と云われています。 また志野は天正13年(1585)頃からとされています。なお黄瀬戸はそれよりも以前から焼かれ始めた様です。 この黄瀬戸の後に灰志野が現れ、鉄絵を描いて高温で焼いても、模様が流れて消えてしまうことが無くなったことから、我が国最初の絵付けされた焼物が、この美濃で生み出されたとされています。 この当時の、絵付けの新技術が、やがてさらに進化して志野、織部として、様々な文様が描かれる様になっていったのでした。 しかしこれら志野、織部ら美濃の桃山古陶に描かれた多種多様な文様は、それまでの灰志野などの頃とは、慶長10年頃を境として全く一変しています。 つまりこのことは、京都から画工が新たに参画していたものと考えられます。それまでの美濃の絵付けが、指導によって一挙に上手になったのではなく、全く基礎の違った上級の絵付師が参画したからです。 そしてこれらの焼物は、元和元年の古田織部の切腹を境として、突然パッタリと途絶えています。これは明らかに、織部が主体的に強力な主導権を持って、その制作を指導していたことを物語っています。 なお、これらの窯は、その後、尾張徳川家のお庭焼である御深井焼の生産拠点となって行った様です。 そしてこれらの美濃の絵付けは、同時代の絵唐津にも共通して、例えば網干文様等の同じ手の文様が多数存在します。 つまり、美濃 ⇔ 京都 ⇔ 唐津 の関係がそこにみられる訳です。 |
No.128 | さむしろ | 2007-02-18 19:05:53.15083 |
![]() 以前より奥高麗茶碗はだれが作ったのかという疑問があります。窯跡から失敗作どころか陶片さえも出てきていないと記憶しています。古来よりいろいろな説があるようです。主なものを記すれば以下のとおりです。 |
No.129 | さむしろ | 2007-02-18 19:06:35.960697 |
![]() ほぼ同意できる。 |
No.130 | さむしろ | 2007-02-18 19:09:33.171534 |
![]() 「文明より、天正年間」について疑念がある。唐津筒茶碗銘「ねのこ餅」が利休所持と伝えられてるが、もし利休所持が正しければ、利休自刃の1591年前にすでにあったこととなるが、唐津焼が茶会記に登場するのは慶長8年(1603)古田織部の茶会が最初のようである。 加えて「ねのこ餅」は日常雑器の取り上げではなく茶陶として作られたと思われる「作り」であると考えられている。茶会記にある「イマヤキ茶碗」に楽茶碗だけでなく唐津茶碗も含まれているとすれば納得できるが、すでに十数年経っているのであるからNO84の鍋島勝茂の書状にある「唐人 焼きし 茶碗」のごとく古田織部が改めて説明する必要もなかったろうにとも思える。 |
No.131 | さむしろ | 2007-02-19 12:31:05.2114 |
![]() 4、奥高麗と称するものは朝鮮忠清道の西北に唐津監あり、唐の船付にて、この地の焼物なり。・・・・。古唐津は似て違へり。『陶器孝』 3、4、は論外。 |
No.132 | さむしろ | 2007-02-19 19:29:25.684295 |
![]() 古ければ奥高麗というのには異論があるが、その部分を除けばすなおにうなずける、と思ったが、読み返してみると、「唐津の奥に竃」あり、から奥高麗の奥がきているようにも読める。そうであればうなずけない。 鍋島勝茂の書状NO84にある、織部が説明したという「其元へ罷居候唐人やき候かたつき茶わん座に出候」とは一致する。 |
No.133 | さむしろ | 2007-02-21 18:39:49.085016 |
![]() 『白鷺洲』(薩摩藩の御用絵師木村静隠(探元)と島津久峰との話を録したもの。久峯は宝暦4年(1754)12月から同10年(1760)7月までの間、足しげく静隠の許に通い、茶の湯、絵画などに関する話を聞いたが、その談話記録が『白鷺洲』である。) この部分いまいち理解しづらいが、 「奥高麗というのはどのようなものかと申しますと、奥の奥高麗といって井戸茶碗のたぐいです。(朝鮮の)都の方で焼いていたのを熊川茶碗と申しまして、総て都で作られたものは見事で、古帖佐などの茶碗茶入は熊川の釉薬を使っています。井戸は田舎細工のため粗末です。唐津はその奥高麗の陶工を寺澤殿が連れ帰られ、唐津にて焼かせたもので、上方ではたいそう賞玩されているようです。」 というように読んだがどうだろうか? 確かに「深山路」などは井戸茶碗の系統といわれればそうである。なお熊川形の奥高麗もある。 |
No.134 | さむしろ | 2007-02-22 18:41:25.935884 |
![]() 「文禄・慶長の役に出征した初代唐津城主志州公が高麗より連れ帰った陶工活動の動静が記されているが、前文の『佐志山道北方に焼物やき候云々』の記事は年代こそ記されていないが、前後の文意より察して、朝鮮役以前、唐人(高麗人を意味する)によって陶器が焼かれたような意味に解される。」 と解説している。 朝鮮役より前に渡来した唐人による唐津焼もある可能性があるかもしれない。 |
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