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No.135 | さむしろ | 2007-02-24 13:30:19.935306 |
![]() とある。 |
No.138 | さむしろ | 2007-02-25 19:18:14.270754 |
![]() 織部が唐津に、三條の「イマ焼き」候者どもを行かせて焼いたものの中には「奥高麗」はなかったが、唐人に焼かせた「奥高麗」は一緒に持ち登った可能性があると考える。 |
No.139 | さむしろ | 2007-02-26 19:52:41.700739 |
![]() @唐津で焼かれた。 A a.朝鮮役以前に渡来した唐人によって焼かれた。 b.朝鮮役の折連れ帰った唐人によって焼かれた。 c.朝鮮役の折、高麗の奥地から連れ帰った唐人によって焼かれた。 B「奥高麗」と呼ばれるようになるのは暫く後のことである。 C奥高麗茶碗を、唐人に焼かせたのは古田織部である可能性が高い。「其元へ罷居候唐人やき候かたつき茶わん」、の茶碗は「奥高麗」のことではないかと想像している。 これまで奥高麗がどういうものであるかよくわからぬまま「オクゴウライ」と呼んできましたが、今回改めて資料を見直して、以上に述べた@、Aのabcのいずれか、Bについてはほぼ間違いないと思うところにたどり着きました。 早(古)い資料でも、織部が亡くなって100年近く後の伝聞話のようで確定的なものに欠けていましたが、鍋島勝茂の書状にある織部の言「其元へ罷居候唐人やき候かたつき茶わん」は、「奥高麗」誕生の由来を決定づける有力な資料になりうると考えています。 光禅さん、話の途中に割り込みましたが、随時書き込んで下さい。 |
No.140 | 光禅 | 2007-02-26 21:55:01.063719 |
![]() ご指摘の様に、奥高麗の茶碗は、明らかに桃山調の茶陶として形成されている物の様で、古田織部の指導色が濃厚だと思われます。また、奥高麗の呼び方についても、正確な資料的な裏付けをまだ取っておりませんが、もしかすると小堀遠州あたりからの様な気がしますがいかがでしょうか?遠州七窯と云われる中で、上野、高取あたりの九州系の窯などは、朝鮮唐津の影響そのままですし・・・・。あるいは遠州あたりが、九州系の茶陶を分類して体系付けた際に『奥高麗』と、一種の格付けをした可能性があると思います。有名な茶碗の伝来や箱書き等の見直しをしてみるのも、一つの良い方法かもしれませんネ。 そしてさらには、唐津焼で忘れてはならないことがらに、ほかの国焼に比べて、古来、実に巧妙な贋物が多数存在するという点です。唐津焼は、上記の様に種類も多く、窯数も多く、使用されている土の種類も多いことから、土からでは真贋の判断がまず出来ません。 有名なところでは昔から、『三角屋』というものすごい偽物作りの名人がいたそうです。そして一番間違われるのが、『京唐津』でしょう。元々が「三條之今やき候者共」と云った位ですから、微かな時代の息吹の違い以外には、もしほぼ同時代に製作された物だったとすれば、例えどんな目利きでも、本来、見分けが付く道理が無いと思います。 |
No.141 | さむしろ | 2007-02-27 20:21:43.067712 |
![]() 遠州の茶会記にいつ頃出てくるか、興味あるところです。また「罷居候唐人やき候」ということを知りうる立場にあったことも大変重要な要素ではないでしょうか。 『三角屋』というのはいつ頃の人でしょうか?いわゆる唐津焼(古唐津)は江戸初期で終わっています。 いつ頃か定かではありませんが後世「古唐津」が大層もてはやされ、それこそ「ものはら」から掘り出してきて「掘の手」として大変珍重したというふうに聞いています。 京唐津も確かに判定が難しいものですが、これについても掘の手などが珍重される頃とほぼ同時代ではないかと想像しています。「確かな京唐津」というのをみたことがありますが、ポイントさえつかめば案外判定はできると思います。ここでは「古唐津」の目利きが本論ではありませんのでふれません。目利きについては、いつか一杯やりながら話しましょう。 「唐津」に人気がでたのは一時代経った後ではないかという気もしてきました。 |
No.142 | さむしろ | 2007-02-28 20:23:05.46273 |
![]() 丸屋嘉兵衛が主人の茶会記に奥高麗が出てきますが、12月11日とあって年は不明、いつ頃の人かわかりません。 松平不昧の茶会1787、12、23、酒井宗雅の茶会1789、9、20にやっと奥高麗がでてきますが、「奥高麗」は驚くほどでてきません。 伊達綱村の茶会1699、10、3に古唐津遠州所持というのがでてきますので、遠州も唐津を所持したことはあるようです。 ただ遠州は、織部がかかわった道具は遠ざけていたのかもしれません。そんな気がします。 『白鷺洲』(1754〜1760間の記録)とあわせて考えると、奥高麗という呼び名はこの頃から使われだしたのかもしれませんね。 |
No.143 | さむしろ | 2007-03-01 19:58:13.066634 |
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No.144 | さむしろ | 2007-03-03 20:25:52.996669 |
![]() NO100 文化的特殊兵器 織部が調略にかかわったというのは、(関が原の後?)茶道の弟子であった常陸の佐竹義宣を東軍へ調略したとして家康から七千石の加増をうけたという実績があります。 光禅さんの「文化的特殊兵器」説を支持します。 名品がまず誰にわたったのか? ということは極めて重要です。ただ、残念なことに当時は箱書付をするということはなかったようで、添え状でもないとなかなかわからない。 茶会の参会者名の重要性が増してきます。 NO105 「極限の隙の無さ」として、反面ある種の恐怖と映り、・・・。とてもとてものどかに茶の湯を楽しんで・・・、などといった呑気、優雅なものではなかったのでしょうね。 NO109 家康が織部に、新しい権威ある「数寄の御成」の基本様式を工夫し、作成することを命じた。」 茶の湯を楽しみというより「治世の道具」と位置づけていたと考えられるわけですね。 |
No.145 | さむしろ | 2007-03-04 20:11:45.68932 |
![]() 当時の勢力図はNO100の名品のルートとともに真実を明かすカギになるかもしれません。 NO117 矢部良明の著書「上田宗箇」が出版されていますね。 NO119 高台院は反淀君、秀頼で結果として反豊臣だったのですか? 「豆を煮るに、豆の皮を持ってする。」知りませんでした。 浅野幸長や上田宗箇に仕事をさせるようなふりをして実は動向を監視していたということですか。奥が深いですね。 とはいえこの時代の「もし」の多くはその後の日本を大きく変えたかもしれない「もし」であったわけですね。 |
No.146 | さむしろ | 2007-03-06 20:06:34.828352 |
![]() 「生爪」「破れ袋」が織部から出ていること、二つが極め付きの名品でありその目利きを行っていることは、織部が「織部様式茶陶」のすべてを取り仕切っていたことを示しているのではないでしょうか。 「破れ袋」の添え状には、「内々御約束の伊賀焼水指・・・」、「如此侯大ひゞきれ」であるが「今後是程のものなく候間・・・」とあり、内々の約束ができる立場であったことや、その水指が二度と出てこない程の名品であると断じられるほど精通していたことが推測できるのが、そう思う理由の一つです。 大野和馬(治房)へ送られた「破れ袋」に込められたメッセージはなんであったか? 「破れ袋」は調略ではなく主戦論への誘導のための兵器となった、というお考えですね。 とすると、NO124の絵唐津花入もある狙いをもって宗箇に送られたかもしれませんね。 |
No.147 | マスター | 2007-03-09 17:49:15.08285 |
![]() 下記から見ることができます。 http://www4.ocn.ne.jp/%%7egalleria/page2.html |
No.148 | さむしろ | 2007-03-09 18:23:10.777962 |
![]() 八月十五日 四、五種焼かせ、遠路上って届けられ過分に存じます。 焼きごろは良いのですが、形、大きさは良くないと当地 の衆(茶人たち)は申しています。 重ねて様子を申し入れますので、焼かせてお届け下さい。 慶長15年と推測されているようです。松井佐渡守は、細川三斎、忠興に仕える。関が原では東軍。上野焼ではないかとの解説があります。 形紙・指図書の類により焼かせていたこと、ただ思うようには焼けなかったことがわかります。 |
No.149 | マスター | 2007-03-11 17:42:53.149043 |
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No.150 | マスター | 2007-03-11 17:51:01.053255 |
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No.151 | マスター | 2007-03-11 17:53:10.350907 |
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No.152 | さむしろ | 2007-03-12 20:24:00.124808 |
![]() そうすると、古田織部、三條の今ヤキ候者共(NO84参照)、絵唐津花入、上田宗箇が繋がってきます。 わたしは、絵唐津花入れは上田宗箇の時代に上田家に入ったと考えていますが、光禅さんはどう考えられますか? 今NO84を見直して気付いたのですが、三條の今ヤキ候者共は唐津へ複数回行っているように読めますね。 |
No.153 | 光禅 | 2007-03-14 00:29:21.297316 |
![]() 「此中も罷下、やかせ候て持のぼりたる由候間」ですので、恒常的に往来させていたと考えるのが自然な解釈だと思います。 絵唐津の花入れが、織部から宗箇に渡った記録の様なものが有ればいいのですが・・・・ あるいは宗箇が、絵唐津の花入れを使用した会記でもあれば少しは推測出来ますが・・・・ 宗箇展等の図録から造形上の推定が付くものは他にも御座いますか? |
No.154 | さむしろ | 2007-03-14 19:44:03.253279 |
![]() 記憶では大変な名品であったように思います。 歴代の中で茶の湯に相当夢中になられた方がおられますか? あの手の絵唐津花入れは他にも1点ありますが(NO125)、それ以外はほとんど無いように思っています。 10点、20点とあればもう少し本とか美術館とかで見ることができそうに思いますし、茶会記にもほとんど出てきません。 相当夢中になって探すか、あるいはよほどのご縁がないと手に入らないように思います。 手持ち資料(松屋会記・久好)で慶長16年9月に「カラツヤキツツ」が一回出てきます。亭主は舟越五郎右衛門です。 |
No.155 | さむしろ | 2007-03-18 17:50:42.860911 |
![]() 『白鷺洲』が書かれた年代を誤っていたので書き直したものです。 その内容は、 (薩摩藩の御用絵師木村静隠(探元)と島津久峰との話を録したもの。久峯は宝暦4年(1754)12月から同10年(1760)7月までの間、足しげく静隠の許に通い、茶の湯、絵画などに関する話を聞いたが、その談話記録が『白鷺洲』である。) |
No.156 | マスター | 2007-03-18 20:42:47.999872 |
![]() わずかの手持ち品に、Kさんにも応援をお願いして数を揃え、ご覧頂くことができました。 また光禅さんもこられ、4人で安倍備前を語りました。 来客(Gさん)の感想は、「焼き」は想像をはるかに超えるものでした、というものでした。 社交辞令でなく本音であったと受け取ることにしました。 遠方を無事に帰られたでしょうか? |
No.157 | マスター | 2007-03-20 20:48:08.436052 |
![]() たつのの皆さんにも「造形作家・安倍安人」の一端に触れていただくことが出来たものと思っています。 また、わたしの知る範囲でも愛媛、香川、山口、広島、島根、岡山、大坂、奈良からお出でいただいた方がいらっしゃいます。遠路大変ありがとうございました。 当初HPからの印象では、ガレリア アーツ&ティーさんは少し堅苦しいお店かなと想像していましたが、大変気さくであり、また、昭和初期のハイカラのなかでコーヒーを飲みながらボーとしていられる、そんなお店でした。 |
No.158 | マスター | 2007-03-21 11:44:59.619672 |
![]() 「初めて、火だすきを美しいと感じました。」 とのメールが届きました。 また、熱がでたとのことでした。長距離ドライブの疲れもあったのでしょうか。 インフルエンザであれば注射をしてしばらく安静にしていればなおります。 安倍備前にアタッタのであればつける薬はないので、同病相哀れむしかありません。 そうであれば時々来店下さい。 |
No.159 | マスター | 2007-03-22 12:31:58.551234 |
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No.160 | マスター | 2007-03-22 12:47:48.218499 |
![]() 難解との意見もありますが、窯辺論談の「安倍備前の造形と焼成考」「アトリエ訪問」などを読み返したり、また繰り返しみることで理解が早まるのではないかと思っています。 |
No.161 | 光禅 | 2007-03-25 10:03:41.888633 |
![]() アートにおける造形理論といえば、「対象を自由に分析し、解体し、それを画面に再構成することによって新しい美学を創りだす。」と云う、まるで陶芸的、あるいは彫刻的な絵画理論であった、パブロフ・ピカソのキュービズム運動を、つい想起してしまいます。 また、そのピカソの語った有名な、 「日本の文化はみな海外から到来したものだけれど、縄文土器と織部・志野だけは日本の独自文化である。」 と云う言葉を思い出します。 つまり「織部桃山茶陶の造形理論の解明と再現」は、世界美術史上での一大快挙として、日本発の重大な歴史的発信情報としての重みと価値を持つものだからです。 |
No.162 | さむしろ | 2007-03-25 18:18:03.165608 |
![]() 安倍安人は広義の織部・志野等の桃山茶陶を「三点展開による織部様式茶陶」と、陶工によるいわば「倣織部様式茶陶」を区別しています。そして前者と長次郎楽茶碗は同一の造形理論によって造られていると断じています。 なお、光悦茶碗はそのいずれにも属さないとしています。「素人仕事」との考えと理解しています。 ピカソが、広義の織部・志野等の桃山茶陶を安倍安人のように二つに別けて考えていたかどうかについては疑問がありますが、「アート」として見た可能性は大いにあるように思いますがいかがでしょうか? 安倍さんがよく言われることに、陶芸は文科省所管でなく経産省の所管である、というのがあります。芸術作品としての捉え方ではなく産業製品であるとの捉え方しかされていない、といっておられるのです。 「三点展開による織部様式茶陶」が、「アート」である理由と、「倣織部様式茶陶」との違いについて詳しく述べられているのが、近々再掲載されるという「桃山茶陶の焼成と造形」です。 じっくり見ていただけば、大いに理解が深まるでしょう。 |
No.163 | さむしろ | 2007-03-27 19:51:17.667152 |
![]() 残念なことに、現在この考え方を理解している者は少数です。出版物等でこの説を紹介あるいは主張している者も皆無といっていいでしょう。 理解者が増え、声も大きくなれば文科省の扱いも変わるかもしれません。 (ただここでは文科省の考えを変えてもらいたいなどということは全く考えていませんので、かりに文科省の方がご覧になっていても気にしないで下さい。) |
No.164 | マスター | 2007-03-28 09:42:54.300361 |
![]() 「桃山茶陶の焼成と造形」 〜備前〜 安倍安人に聞く がスタートしました。 およそ一週間程度で入れ替わりますので、お気をつけ下さい。 |
No.165 | さむしろ | 2007-03-28 19:02:16.096023 |
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No.166 | さむしろ | 2007-03-29 20:45:33.223903 |
![]() 場面は1587年、九州征伐です。茶会記に「宗易形ノ茶ワン」が出てきた年(1586)の翌年です。 美濃茶碗という言い方をしていますが、「美濃」をつかうのは、なにか考えがあってのことかもしれませんが、艶消しと感じました。当時は美濃茶碗という言い方はしていないようです。(会記ではセト茶碗です。) |
No.167 | マスター | 2007-04-01 20:23:58.079269 |
![]() 動画「桃山茶陶の焼成と造形」の再掲載を始めたことの報告をしたところ、瓢箪から駒、次のような話になりました。 安倍先生は以前より、備前焼は@土は関係ない。A窯の形態も関係ない。B薪も関係ない。C焼成時間も関係ない。乱暴にいえばなんでもよい、とこれまでいろいろな機会に発言してこられたし、また文章に書かれています。ところが、少々オーバーかもしれませんが誰も信用しない、ということで、 土掘りから粘土造り、造形、窯詰め、焼成、窯出し、窯詰め、2回目焼成、同窯出し、3回目同、4回目同、(あるいは5回目もあるかもしれません)と焼き上がりまでを、制作過程を追ってビデオに撮り、順次このHPに載せて安倍安人の備前焼成論を実証しようという話になりました。 急な話で台本もなにもありません。どのように進んでいくのかわかりませんが、山にある土の塊が水指にあるいは徳利になるまでを追ってみたいと思います。 スタートがいつかは決まっていませんが、遠い話ではありません。 思いがけず「秘密」を覗けることとなりワクワクしています。 |
No.168 | マスター | 2007-04-03 20:02:14.608066 |
![]() 素人だけでは「ごまかしている」などと思わせる懸念もありますので、安倍さんとあまり近くない(安倍グループでない)人で、しかるべき方にも加わっていただこうということです。 |
No.169 | マスター | 2007-04-04 22:12:53.33619 |
![]() 実証は1年程度かかるかもしれませんが、その中で、安倍さんがよく言われる桃山織部様式茶陶は「何でも有り」についても、解説あるいは実際にやってみようというアイデァが出ています。 |
No.170 | マスター | 2007-04-05 20:39:37.164732 |
![]() アップはアップ、ロングはロングとメリハリをつけた撮影が良い、などの撮影へのアドバイスも届いています。十分に参考にしたいと思います。 |
No.171 | さむしろ | 2007-04-10 20:28:14.361943 |
![]() NO165で織部様式茶陶と長次郎楽茶碗は同一の造形理論によって造られており、その二つは同一人物によって造られている、との仮説をたて、いろいろな資料からその可能性を探るというか立証を試みるというか、そんな作業を続けているところですが、 当代楽さんは「楽茶碗」についてどのような見方をされているのかについて目をやってみたいと思います。 本の名は忘れたが、T章 楽茶碗ってなんだろう U章 楽焼のルーツを見る V章 楽家歴代 の三章からなる記事の中で詳しく触れられているので興味ある部分を紹介しようと思う。 特に断らない限り同書に記された楽さんの見解である。 『楽焼をはじめたのは長次郎であり、陶工とも装飾瓦を制作する工人とも伝えられている。』 |
No.172 | さむしろ | 2007-04-11 12:40:19.190339 |
![]() 「あやめ倅 長次郎 辰の年まで百年ニ成」とある。 「あめや倅」長次郎の父にあたる「あめや」は人の名前であるが、飴を商う人という意味ではない。おそらく中国からの渡来人で、楽焼の技術をもった工人であろう。』 といっている。 |
No.173 | さむしろ | 2007-04-12 17:49:36.538612 |
![]() とある。手持ちの資料でも確認出来た。 1649当時に「コピーもの」があったようであるが、それより前の時代はどうであったか? |
No.174 | さむしろ | 2007-04-14 13:46:19.796127 |
![]() |
No.175 | さむしろ | 2007-04-14 16:03:47.830248 |
![]() |
No.176 | さむしろ | 2007-04-15 18:42:33.943168 |
![]() 古田織部宛「焼茶碗今日相尋申候間 紹二 ニ渡進之候(織部から依頼されていた焼茶碗ができあがってきたので千紹二にもたせて進呈する)」 瀬田掃部宛「赤茶碗之事長次ニ内々焼セ申者殊に見事候(長次郎に焼かせた赤の茶碗がみごとな出来ばえであった)」 など、長次郎と利休の関係がうかがわれる。ただし「焼茶碗」は必ずしも「楽茶碗」とは確定できない。』 |
No.177 | さむしろ | 2007-04-16 12:42:26.541251 |
![]() 楽さんは「織部様式茶陶」と「長次郎茶碗」を対極に置いておられるようである。 |
No.178 | さむしろ | 2007-04-17 19:20:21.232894 |
![]() |
No.179 | さむしろ | 2007-04-18 18:46:50.114488 |
![]() 志野の制作年代が若干下るというはなしを「ものはらT部」NO1109あたりで行っています。 |
No.180 | さむしろ | 2007-04-19 18:42:43.557464 |
![]() 「注目すべき破片」がどのようなものか、だれの手によるものか大いに興味がある。 |
No.181 | さむしろ | 2007-04-20 20:41:34.351784 |
![]() 「此暁三人御出、きとくにて候、とかく思安候ニ色々申し被下候而も、下調候、我等物を切候、大墨を紹安にとらせ可申候、はや舟を八松賀嶋殿へ参度候、又々とかく越中サマ御心へ行候ハてハいやにて候、此里を古織と御談合候て今日中に御済あるへく候、明日松殿ハ下向にて候」』 焼きあがってきた(?)長次郎茶碗をだれに譲るか、悩み、迷い、思案をしていたことがわかる。 いろいろな思惑を込めて、利休から次の所持者に渡ったということだろう。 |
No.182 | さむしろ | 2007-04-21 21:17:01.74431 |
![]() 常慶はいち早くその気風をくみ取り、作品に取り入れている。口部を一段張り出し、大きく沓形に変形した常慶の黒楽茶碗、織部茶碗と通じる造形。まさに動きをともなった造形、常慶のバロックである。』 「常慶はいち早くその気風をくみ取り、作品に取り入れ」に注目したい。 |
No.183 | さむしろ | 2007-04-23 09:40:54.714662 |
![]() さらにじっくり見れば大きなゆがみを加えているにもかかわらず、織部茶碗ほど強い動きを感じさせない。静かである。 常慶のなかで長次郎様式と織部様式が同居している。』 楽さんは「常慶のなかで長次郎様式と織部様式が同居している」ことをどのようにみておられるのだろうか。大変興味深い。 以上で楽さんが述べられた見解の紹介は終りです。 |
No.184 | さむしろ | 2007-04-24 12:46:27.667746 |
![]() 『桃山・・・の美を代表する美濃茶碗や備前、伊賀や信楽の焼物があらわす美意識とは徹底して異なる長次郎茶碗』 このような見かたをされているという認識はありました。 『桃山時代の地層から発掘された陶片のなかには、・・・、あきらかに長次郎茶碗を模倣した黒茶碗も出土している。』 『常慶のなかで長次郎様式と織部様式が同居している』 この二つに気をとめていませんでした。 |
No.185 | さむしろ | 2007-04-25 20:22:48.686776 |
![]() の部分は、 NO87で書いた「三條之今やき候者共」も光禅さんと同様の解釈ですが、他に「今やき」を焼く者達がいたかいなかったか、注意しておく必要があるように思います。 の、他に「今やき」を焼く者達がいたかどうかとの意味においてです。 『常慶のなかで長次郎様式と織部様式が同居している』 の部分は、 「織部様式茶陶を作ったのは長次郎一族」である、との仮説をたてている立場からいえば「織部様式の同居」は当然で、仮説にそったものといえます。 |
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