茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.186マスター2007-04-30 19:01:13.236581
NO167で客観性、信頼性を持てるかたちで「安倍安人の備前焼成論の実証」を行うとの予告をしましたが、4月28日にスタートしました。
証人として手伝って下さる三名の方も決まり、同日牛窓のアトリエにお出でいただき正式にお願いしました。

ビデオカメラを用意して、その様子を撮影しました。HP上に載せるにはもう少しかかります。
これから工程ごとに撮影し順次載せていきますが、安倍さんと証人の方の都合をあわせながらの作業のため一年程度かかると思われます。
No.187マスター2007-04-30 19:12:59.668022
夜は、EDOICHIの会議(?)に参加しました。
EDOICHIメンバーの「林(りん)さん」差入れのふぐ刺しとてっちりをご馳走になり大満足でした。

会議の方、いつものように(?)なんの結論もでなかったようです。
No.188マスター2007-05-01 18:43:45.719201
HP上へは3分〜5分程度づつ載せていきますが、2回分を同時に載せることはサーバーの都合で出来ません。
また入れ替えのサイクルについても、テープ(DVD)が届くのが不定期ですので約束が出来ません。見逃しのないようご注意下さい。
No.189さむしろ2007-05-04 20:42:31.80815
「へうげもの」を見た。時は1587年。利休が織部へのお返しに「今ヤキ茶碗」を贈ったという場面でのイメージ画に、楽茶碗「ムキ栗」と思われる四方の茶碗が出てきた。

中央公論社・日本の陶磁1「長次郎 光悦」には、「ムキ栗」の外箱蓋裏に「利休好 長次郎焼 四方黒茶碗」、同蓋表「四角 長次郎作 利休所持」とあるように利休好みであったように思われる。
とある。

宗易形茶碗が茶会記に初めてでてくるのが1586年で、最初に現れる宗易形茶碗は「無一物」のような造形のないものと考えたい。やがて造形を加えだし「俊寛」に至る。四方茶碗が作られたのはもっと後、伊賀焼と同時代頃ではないかと考えている。上述の書付は後世のもので、内容が正しいとはどうも思えない。
あるいは「長次郎焼楽茶碗」を焼いたのは一人と考えていたからそのような書付になったのか?

もちろん「へうげもの」にケチをつけるつもりはない。山田芳裕さんには、いつもガンバレと応援している。
No.190マスター2007-05-07 17:59:54.386939
この連休は、前半後半ともに一泊での出かけとなりました。

後半ですが、高知県は足摺岬のつけ根の「竜串」という所へ行ってきました。
目的地の写真です。
No.191マスター2007-05-07 18:25:03.478421
右手樹木の中を50mほどいくと太平洋です。砂浜、岩場がありすばらしい眺めでした。
隣にキャンプ場、足摺海底館、海洋館、グラスボートもあるようで、水がすばらしくきれいでした。

竜串がこのHPに関係があるわけではありません。しかしまったくないかと問われればそうとも言い切れないので、とりあえず紹介しましたが、何用で行ったかについてはふれません。

しかし、遠かったです。
No.192さむしろ2007-05-11 18:34:36.213194
連休ボケをしていました。

「桃山茶陶の焼成と造形」の再連載をしていますが、その中で「楽茶碗」という言葉が再々出てきます。ここでの「楽茶碗」は、長次郎茶碗のことで長次郎、常慶までのものをいい、のんこう以降のものは含まれませんので誤解のないようにお願いします。

この連載の中で安倍さんは「長次郎楽茶碗と織部様式茶陶は同根」であると語られ、その理論が、わたしの「織部様式茶陶は長次郎一族制作説」の論拠となっています。
安倍さんの解説は、かってなかったほど詳しい解説です。

No.193さむしろ2007-05-12 20:39:36.826236
宗易形茶碗が茶会記に初めてでてくるのが1586年で、最初に現れる宗易形茶碗は「無一物」のような造形を加えていないものと考えたい。(NO189)

千宗易の1580年(天正8年)12月9日の茶会に「ハタノソリタル茶碗」が現れる。「勾当」「道成寺」あたりかこれに類似のものがハタノソリタル茶碗ではないかと考えている。その後「白鷺」「曲水」風のものになり、「宗易形茶碗」と思われる「一文字」「無一物」「太郎坊」(いずれも赤楽)となったのではないだろうか。「大クロ」「東陽坊」「北野黒」「まこも」なども、写真で見る限り造形は加えられていないようである。
No.194さむしろ2007-05-13 19:32:25.052987
これから、まったくの想像であり「へうげもの」の世界である。

無一物あるいは大クロのような形の茶碗が10碗20碗あるいは30碗と増えてきたとき、何か新しい形を求め思案をしたのではないか。
あるいは織部にも相談したかもしれない。

「宗易形茶碗」を作り続けていくと、すぐに同一の茶碗が何個も出来てしまい、それでは利休の侘茶の心に適わない。どうすれば宗易形茶碗を作り続けることができるか、相当のあいだ悶々と思い悩んだのかもしれない。

ところがあるとき突然大いなる閃きがあった。

No.195さむしろ2007-05-14 19:27:39.201963
それは利休がバテレンと同席していたときである。それは利休の茶会であったのかもしれない。織部が同席していた可能性も大いにある。宗易形茶碗の限界の話が出たか出なかったかわからないが、バテレンが欧州での彫刻の話を始めた。その話を興味深く聞いていた利休は「そうだ!茶碗に「動き=表情」をもたせれば無限になる」と気付いた。

利休は、そのまま茶会を終えると、織部にその考えを話し意見を求めた。さぞかし織部も体中が震えるような感動を覚えたのではないだろうか。(もっとも織部も同じことを感じていたかもしれない。)

早速、長次郎を呼びつけ造形、つまり安倍安人がいうところの「三点展開」を説明し、それによって作るよう指図をした。もっともその間いくらかの試行錯誤はあったと思うが、本質を理解していればそうむつかしいことではない。安倍さんも「初めての人に三点展開を教えた後に茶碗を作らせると楽茶碗(の形)になる」といわれている。

なお以上については最初に断ったように「へうげもの」の世界であるので念のため。
No.196さむしろ2007-05-15 19:32:21.86217
何ゆえにバテレンか?

長次郎茶碗になされた造形は、単に押したり引いたりしたものではなく、一定のルールに則ってなされている。
大きなヒントなしで「三点展開」理論を手中にした可能性は、限りなくゼロに近いと考えている。

HP掲載動画「桃山茶陶の焼成と造形」のなかで安倍さんが詳しく説明をされているので、見ておられる方は理解できると思う。

当時のわが国には、他にそのルールに則って作られたと考えられる造形物はない。
当時、わが国に多くの宣教師が来ていたことはよく知られているし、その宣教師が、欧州における彫刻理論を理解していてもなんの不思議もない。

「一定のルール」については掲載動画「桃山茶陶の焼成と造形」とともに窯辺論談「安倍備前の造形と焼成考」をご覧いただきたい。
No.197さむしろ2007-05-16 18:05:44.861247
利休が、茶の湯の作法のなかにキリスト教の作法を取り入れているということは、いろいろな書物のなかで書かれているので、ある程度深い交流があったと考えていいだろう。

織部の同席云々については、織部と織部様式茶陶の深い関わりを考えると、織部と長次郎、三点展開の関わりも随分早い時期に始ったと考えるからである。
No.198さむしろ2007-05-18 20:03:37.218076
では、織部が主体的に関ったものはいつ頃できたのだろうか?

慶長4年(1599)2月2日茶会、亭主:織部において「セト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也<薄茶>」とある。
No.199さむしろ2007-05-19 19:57:40.401081
NO198は宗湛日記(神谷宗湛・博多の豪商)に出てくる。

他はどうか?

同じく宗湛日記、慶長9(1604)2月8日亭主:黒田筑州の茶会で「茶碗セト也、ヒツムツキ候」とある。

同じく宗湛日記、慶長10(1605)9月26日亭主:覚甫の茶会で「黒茶碗、京ヤキ也、ヒツム也」とある。
No.200さむしろ2007-05-20 18:59:31.297997
花入の場合、「備前筒」「信楽筒」としてでてくるが、古いものは備前筒が1578年津田宗及の茶会にでてくる。
ざっとみたところで、「三角」とか「耳付」とかの語はでてこない。

水指では、備前あるいは信楽は早くからでてくる。それらは、鬼桶、種壺などの取り上げものが多いと思うが、それとは別に「造形」がなされたかもしれないと思われるものに、1587年「備前水サシ 尻フクラシタル」と、同年「土水指備前モノ、共蓋 下フクラニアリ、コブモアリ」というのがある。
これが織部様式に則っているかどうかわからない。しかし興味ある記述であることは間違いない。

今段階では、楽茶碗を除く織部が関った「織部様式茶陶」がいつ頃から作られだしたのか検討がつかない。
No.201マスター2007-05-21 20:28:26.503822
備前焼成論の実証ビデオの予告をしていますが、依頼先から、
ビデオの件、まだ、苦戦しています。読み取りがおかしい感じです。
とのメールが届きました。もう少しお待ち下さい。
No.202さむしろ2007-05-24 20:14:46.778104
『「造形」がなされたかもしれないと思われるものに、1587年「備前水サシ 尻フクラシタル」と、同年「土水指備前モノ、友蓋 下フクラニアリ、コブモアリ」というのがある。』

「尻フクラシ」、「下フクラ」、「コブ」がどのようなものか?
これらが織部様式に則っているものであれば、随分早い気がする。
No.203さむしろ2007-05-26 19:40:07.623141
もう少しさかのぼってみると、

備前、丹波、伊賀、信楽のなかで、最も早く茶の世界に登場するのは信楽と備前で、村田珠光が語った言葉や残した消息のなかに「伊勢物 ひぜん物(備前物)なりとも 面白くたくみ候はば まさり候べく候」、「または当時ひえかるると申して 初心の人体が備前信楽物を持て 云々」とあり(日本の陶磁 備前 P115)、備前や信楽ものが、珠光の時代に使われていたことがわかる。

とあり、唐物茶から侘び茶への移行とともに登場してきたようである。
以後多くの茶会で使われだしたことは古茶会記からあきらかである。
No.204さむしろ2007-05-27 17:19:08.605817
NO202で紹介した「友蓋」に注目したい。この友蓋は信楽、備前では初見である。
「共蓋」(あるいは友)が現れるのは矢筈口が現われるのと同時ではないかと推測したいがどうであろうか。
No.205さむしろ2007-05-29 20:17:14.219469
古茶会記にでてくる「友蓋」について調べてみた。

1587.2.13 亭主:宗及 土水指 備前物也 名ヲクヽリハカマト御申候、友蓋ナリ
1599.3.11 亭主:覚甫 水指 シカラキ、友蓋
1601.11.20 亭主:古織部 信楽トモフタ水指
1601.11.21 亭主:小堀作介 信楽トモフタ水指
1605.9.26 亭主:覚甫 水指ハシカラキ也友蓋、ヘウタンナリ也
1608.2.25 亭主:千宗旦 トモフタカラツ水指

ついでながら、1611.9.9にイカヤキ水指 と初めて伊賀焼の水指が現れる。

1580頃から1615頃まで調べてみたが上記のように「友蓋」が出てくるのは以外に少ない。その間、備前、信楽の水指は随分よく使われているのにである。
No.206さむしろ2007-05-30 20:39:41.122713
勿論、友蓋であったのにも関らず茶会記に書いてない可能性もある。

No.207さむしろ2007-05-31 23:09:55.500552
モーニング「ヘウゲモノ」を見ました。
場面は1587年、筑前国、箱崎。

利休が野点席で秀吉を迎える。京では聚楽第の完成が間近い。

秀吉は利休に「長次郎を工房ごと聚楽第に移し、今後は『聚楽焼』と称するがよい。」と申し付けます。
聚楽焼の名を許す場面は想定したことがなかった。
このような場面にもってくるとは、さすが山田芳裕。

ただ、その場面でイメージ画として「俊寛」風の長次郎茶碗が出てくるが、宗易形茶碗が初めて現れたのが前年(1586)であったことを考えると、造形はもう少し後と考えたい。

この場面で「無一物」風の茶碗が出てきておれば唸るところであったのだが。
No.208マスター2007-06-02 20:27:30.089758
今日は、隣県からKさんが遊びにこられました。
安人作備前掛花入を持って来られ、拝見しました。写真で見ていましたが、期待に違わず良い出来でした。

同時に、最近こういう物ににも魅かれる、といって、絵唐津努力賞ものの向付(少し大振りで深さもある)を持参されました。
もともと古唐津が好きでしたから、気持ちがわからないではありません。
(もとは骨董から入っておられるようなので、眠っていたものが起きてきたといったところでしょうか。)
No.209さむしろ2007-06-05 20:44:20.131415
古茶会記にある水指、花入をみていますが、「備前筒」「信楽筒」はありますが、織部様式を思わせる記述はありません。

100年程下った1701年ころ伊達綱村の茶会で、古信楽異風(桑山左近殿所持)、伊賀焼異風、瀬戸異風、備前異風、信楽異風耳付と「異風」という記載が出てきます。異風がなにを指しているのか今のところ不明です。

1723年鴻池善右衛門の茶会に「伊賀四角耳付下丸シ」というのが出てきます。
No.210さむしろ2007-06-06 12:35:59.555035
「異風」が「異様な風体」を指しているのであれば、織部様式茶陶を指していると考える事も出来ます。


No.211さむしろ2007-06-07 19:45:40.052261
織部様式茶陶を異風といったのであれば、制作後100年後であるに関らず「異様な風体」にみえたということで、それは100年ものあいだ馴染みの無いものであったということになりそうです。

茶道具としてよく用いられたり、また普通に流通していたということではないのではないか、ということが考えられるということになるのかもしれません。
No.212マスター2007-06-07 20:15:17.856324
米国・サンタフェでの安倍安人アート展の会場であるギャラリーSHIBUIのホームページです。

http://shibui.com/
No.213さむしろ2007-06-09 20:20:38.018396
ここらでいちど、このものはらでなにをやっているのか少しまとめてみたい。

一応、話題に制限はないことになっているが、最も興味のある織部様式茶陶が中心になっている。
その織部様式茶陶とは、安倍安人がいうところの三点展開によって造形され、設計図にある焼ナリとなるまで焼き続け、茶陶とされた名品群で、備前、信楽、伊賀、志野、瀬戸、織部、唐津などがある。

また、安倍安人は長次郎から常慶までの楽茶碗も、初期のものを除き同じ三点展開によって造形されている(ここではこれらを長次郎楽茶碗という。)と主張している。

安倍安人の三点展開論を、いろいろな角度からいろいろな表現で繰り返し聞く機会を得て、まがりなりにも理解し、その説が正しいと思っている。
従って、ここでは織部様式茶陶と長次郎楽茶碗は同一の理論で造形された同根説を前提に話を進めている。(もちろん同根論に異論を述べることはかまわないことになっている。)

No.214さむしろ2007-06-10 18:08:47.40046
「三点展開」による造形にもとづく茶陶を最初に作ったのが長次郎であるということについては一致している。
「三点展開」という理論がどこからきたのか、あるいは生まれたのか、について主張がわかれている。

一つは長次郎の創案であるとの説。
もう一つはヨーロッパの造形理論がヒントとなり、長次郎に造形を指導した。

後のほうがわたしの主張であるが、指導したのは千利休または千利休と古田織部であると考えている。
わたしは、限られた資料ではあるが、それらを参考にいろいろな仮説をたて、また意見を聞き、そして反論をしているうちに大胆にも織部様式茶陶を作ったのは長次郎一族であるとの仮説をたてるに至った。
No.215さむしろ2007-06-11 20:37:58.401154
その後、光禅さんから「後の佐賀藩初代藩主、鍋島勝茂が領国に送った書状」があるとの情報をいただく。

おおざっぱな内容は別の書物で読んで知っていたが、「これは『佐賀県資料集成』第九巻に収録されている」と具体的な出典を示すものであった。

早速収録されている原文の読み下しをみると、「織部が、京都・三条で今やきをしている者達を唐津に行かせ、焼かせて持ち登っているので、軽々に焼かせないように」と申し付ける内容であった。
No.216さむしろ2007-06-12 19:20:40.382283
「京都・三条で今やきをしている者達」は長次郎一族の可能性を示すものである。長次郎には、初代長次郎、二代長次郎があり、二代常慶までに宗慶、宗味、宗味の娘で二代長次郎の妻などが作陶に関わったとの説がある。

私が知る範囲では、絵唐津花入二点が図録に紹介されている。この二点は明らかに織部様式によって作られている。茶碗においても、彫唐津など何点かの名品が、京都・三条で今やきをしている者達によって、唐津で焼かせて持ち登られたものではないかと想像している。

この書状は織部様式茶陶を作ったのは長次郎一族であるとの仮説を裏付ける重要な資料である。
No.217さむしろ2007-06-13 19:51:01.350794
同様のことが備前、信楽、伊賀、志野、瀬戸、織部などでも行われたと考えても不思議ではない。

ただ直接各窯場へ行ったかどうかについては判断がつかない。

というのも、わたしは、織部が土を織部屋敷に取り寄せて、長次郎一族のだれかを屋敷に呼び作陶をさせ、素焼きの後、ヤキを指示して各窯場へ送ったのではないかとの仮説もたてているからである。
No.218さむしろ2007-06-14 18:24:03.027052
黒楽茶碗「俊寛」の命名が利休によるものとの説が正しいとすると、利休自刃の1591年までに三点展開理論は完成されていたことになる。

古茶会記に初めて唐津がでてくるのが1603年(カラツ水サシ)、イカヤキ水指が1611年である。この二つが作られた年代はおおよそその年代であろうと推測している。

備前筒、信楽筒は早くからでてくるが、どのようなものか推測する材料がない。

従って備前、信楽、志野、瀬戸、織部などの織部様式茶陶がそれぞれいつ頃から作られだしたのか大きな研究課題である。
No.219さむしろ2007-06-15 20:34:56.999775
光禅さんの織部様式茶陶「特殊兵器説」は、非常に大きな指針となった。

これは関が原以降(あるいはその前も含まれるか?)徳川方と豊臣方が勢力拡大のせめぎあいのさなか、家康の指示を受けた織部が、調略のため「茶陶名品群」を利用した、という説である。

この説は、伊賀生爪花入が上田宗箇に譲られ、伊賀水指破れ袋が大野治房に譲られていることなどから、大いに可能性のある見解であると思う。上田宗箇家には、先に書いた絵唐津花入二つのうちの一つが伝わっている。

わたしは歴史に疎いのでよくわからなかったが、上田宗箇、大野治房はともに徳川軍、豊臣軍のせめぎあいのなかで重要な役回りを演じていたようである。
No.220さむしろ2007-06-16 13:17:05.299364
このような事情から「織部様式茶陶名品群」は、必ずしも茶人として高名な武将、商人ということで渡ったのではなく、主に特殊な地位・立場にいる武将達のもとに調略のために贈られ、古茶会記に現われようがなかった可能性考えられる。

No.221さむしろ2007-06-17 19:00:45.762581
そうすると備前、信楽、志野、瀬戸、織部についても制作年代を下げる必要が出てくる。
もっとも志野については制作年代が下って1598年以降との説が主流のようである。

(NO1019から:「大坂城の遺跡調査で、慶長2年(1597)以前の層から志野が出土していないという調査結果が発表されたことで、その後考古学者の間で志野の発生年代が大幅に修正された。という記述があります。」)
No.222さむしろ2007-06-18 18:05:06.114672
NO626で「1600/7/20 織部の茶会記に三角筒(備前花入)」と書いているが、出典は今思い出せない。この三角筒というのは織部様式による花入と考えたい。

そうであるとすると、織部様式茶陶としては、備前が唐津、伊賀よりも先に作られた。遅くとも1600年には存在したということができることになる。
No.223さむしろ2007-06-23 20:45:02.670449
「へうけもの」が初めて登場するのが慶長4年(1599)2月28日の茶会である。
亭主:古田織部
セト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也(薄茶)

茶会記は『宗湛日記』である。
No.224さむしろ2007-06-24 19:37:20.090974
NO222の備前三角筒は「宗久茶湯書抜」にあるようである。

利休歿(1591)後、織部様式と推定できる唐津花入が使用された1603年、同じく伊賀が使用された1607年までの間に、備前、信楽、瀬戸、志野のうち
何が、いつ頃作られたのか?
それは茶碗?
花入?
水指?

この点について確かな資料をみつけられずにいる。
そしてこの点の解明がものはらでの中心テーマである。
引き続き限られた資料のなかから、可能性のある記述を拾い出し、仮説につなげていこうと考えている。

なにか参考となりそうな資料をお持ちの方、あるいは見かけられた方から情報をいただければ大変ありがたい。
No.225さむしろ2007-06-25 20:13:28.428157
1587年1月17日亭主曲音の茶会「備前水サシ 尻フクラシタル」
同年同月19日亭主圭音の茶会「土水指備前モノ、友蓋 下フクラニアリ、コブモアリ」

というのがある。
「尻フクラシ」「下フクラニアリ、コブモアリ」から造形されたものではないかと想像をするがどうであろうか。
また、友蓋からは矢筈口を想像してみた。

No.226さむしろ2007-06-26 23:11:35.812048
へうけもの。

博多の豪商神屋宗湛が織部の茶会に招かれたときの様子を記したものである。宗湛とへうけものとの初めての出会いであったと考えてもいいと思う。宗湛日記の記録から随分多くの茶会に招かれており、単に出会う機会がなかっただけとは考えにくい。

宗湛が「へうけもの」と記した茶碗は、織部茶碗の中で歪みの造形の代表ともいえる織部黒の沓形茶碗であったのではないか。
No.227さむしろ2007-06-28 23:02:06.868631
宗易形茶碗が初めて登場した1586年に相前後して瀬戸茶碗が多くでてくる。
1585〜1586にかけて瀬戸茶碗を使っているのが、乗春、曲音、草部屋道設、小西立佐、荒木道薫、曲庵、最福院、本住坊、大和屋立佐、新屋了心など十数人。
(馴染みのない名前ばかりである。)

1586以降瀬戸茶碗の使用が急増する。桃山時代から江戸前期頃までに美濃で焼かれた茶碗であることは明らかである。

江戸前期頃までに美濃で焼かれた茶碗は、瀬戸黒、黄瀬戸、志野、織部などである。しかしながら1585頃から多く登場する瀬戸茶碗がどのようなものであったか、茶会記からは具体的に断定できない。
(茶の湯の名碗 −和物茶碗− 茶道資料館から抜粋)
No.228さむしろ2007-06-29 20:26:09.74188
それでは宗易形茶碗がどのようなものであったかということになる。茶会記に赤茶碗が記されている時期と1586年まで四年間以上の隔たりがある。長次郎の茶碗は、−略− かなり目立つ存在であったと思われる。

しかしながらその間、長次郎の茶碗らしき記載は見られない。そして天正14年(1586)に突然「宗易形ノ茶ワン」という記載があり、また続いて今焼茶碗という茶碗が登場して大いに使われることになるのである。ちなみに瀬戸茶碗の使用が急増するのもこの時期である。

(茶の湯の名碗 −和物茶碗−茶道資料館から抜粋)
No.229さむしろ2007-07-02 20:04:21.093549
宗易形茶碗がどのようなものであったかということについては、

黒楽茶碗「大クロ」のような造形の加えられていないものであったのではないかと想像したい。
No.230さむしろ2007-07-04 20:02:05.921073
1579.6.11 亭主:筒井順慶  黒茶碗(薄茶)
1579.10.17 亭主:山上宗二  赤色之茶碗
1580.12.9 亭主:千宗易   ハタノソリタル茶碗
1585.2.13 亭主:古田佐介  瀬戸茶碗
1585.3.13 亭主:上院ノ乗春 セト茶ワン(薄茶)
1586.2.16 亭主:曲音    セト白茶碗
1586.4.19 亭主:草部屋道設 瀬度茶碗
1586.4.20 亭主:小西立佐  瀬度茶碗
1586.9.28 亭主:曲庵    瀬戸茶碗
1586.10.13 亭主:中坊源五  宗易形ノ茶ワン

宗易形茶碗が登場するまでの赤楽茶碗(と思われるもの)あるいは瀬戸茶碗の登場順に書き出してみた。他のほとんどが、唐物茶碗、高麗茶碗である。瀬戸のうちの天目茶碗と備前茶碗は書き出していない。

土岐市立陶磁器試験場の研究成果資料の中に、黒茶碗の焼成時代順が記されていたのでここで紹介する。

@天目茶碗のテストピース(大窯時代)
A瀬戸黒(大窯時代)
B織部黒(大窯・登り窯重複期)
C黒織部(登り窯時代)

左の茶碗は、初期の瀬戸黒茶碗ではないか推測している茶碗。
No.231さむしろ2007-07-05 19:58:46.398694
1579.6.11 亭主:筒井順慶  黒茶碗(薄茶)、がどのような茶碗であったか。

写真のような(初期?)の瀬戸黒である可能性もあると考えている。
No.232さむしろ2007-07-07 18:54:08.635556
NO205(以前にも)で「ついでながら、1611.9.9にイカヤキ水指 と初めて伊賀焼の水指が現れる。」と書いたが、そうではない記述を見つけた。

天正15年(1587)1.24 「伊賀焼、水指置合」(利休百会記)
慶長6年(1601)1.29 「伊賀焼の水指」
慶長7年(1602)1.9 「三角ノ伊賀筒」
慶長7年(1602)5.13 「水指伊賀焼」
慶長8年(1603)4.29 「伊賀焼水指」
慶長8年(1603)5.23 「伊賀ノ筒」(古田織部自会記)

手元の資料の1611年の初見では、筒井氏が伊賀にいた時代には焼かれていなかった可能性を想像させられ、???の思いがあった。

手元資料とは、松屋会記(久政、久好、久重)天王寺屋会記(宗達他会記)、天王寺屋会記(宗及他会記)、天王寺屋会記(宗凡他会記)、宗湛日記である。

No.233さむしろ2007-07-08 18:55:50.070017
天正15年(1587)1.24に利休が用いたという伊賀焼水指がどのようなものであったかわからないが、織部様式に造形されたものとは考えにくい。
No.234さむしろ2007-07-09 18:38:06.808012
慶長7年(1602)1.9「三角ノ伊賀筒」は織部様式に造形されたものである可能性が極めて高いと思われる。

また、慶長6年(1601)1.29「伊賀焼の水指」、慶長7年(1602)5.13「水指伊賀焼」、慶長8年(1603)4.29「伊賀焼水指」、慶長8年(1603)5.23「伊賀ノ筒」についても織部様式に造形されたものである可能性が十分にあると考える。

No.235さむしろ2007-07-10 20:33:12.378247
NO222で『NO626で「1600/7/20 織部の茶会記に三角筒(備前花入)」』と書いているが、1602年の三角ノ伊賀筒をあわせ考えると、あるいはこの頃に三角花入れが作られ出したのか?


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