茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.236さむしろ2007-07-19 20:18:26.183559
先に、
宗易形茶碗が初めて登場した1586年に相前後して瀬戸茶碗が多くでてくる。

と書いたが、この「瀬戸茶碗」が何を指しているのか? ということであるが、瀬戸黒茶碗や利休所持と伝えられる黄瀬戸茶碗が考えられる。

No.237さむしろ2007-07-20 20:27:10.272232
瀬戸黒茶碗はNO230の写真のようなものが考えられる。

左は利休所持と伝わる黄瀬戸茶碗である。

ともに(織部様式の)造形はなされていないようである。
No.238さむしろ2007-07-21 16:05:06.681873
NO237の写真の黄瀬戸茶碗が長次郎茶碗の原型ではないか?との説がある。大いに可能性のある説だと思う。
この手の茶碗もある程度の数が作られたであろうと思われるが、どの程度の数が現存しているのかさっぱりわからない。
No.239さむしろ2007-07-22 19:53:21.388896
黄瀬戸茶碗が長次郎茶碗より先に造られたとの確証はないようである。
ただ、箱の蓋表に「北向道陳 お好み」とあり、もしこれが正しいのであれば、黄瀬戸茶碗が先であったといってよいであろう。
No.240さむしろ2007-07-23 20:37:24.211183
加藤唐九郎によると、発掘品の中から文禄二年の年起をもつ陶片を採集した。それは完成された油揚手の膚であった。これらの陶片が出土した所より下の層に、やや失透明性の黄釉のかかった茶碗があったという。
それらはNO237の写真の利休所持と伝えられる茶碗と類似したものであったらしい。
No.241さむしろ2007-07-24 20:48:55.796016
文禄二年は1592年で利休自刃の翌年である。
陶片ということで失敗作と考えられるので(たぶん窯跡からの発掘であろう。)、1592年は確かと考えていいのではないか。それよりも古い層であるから、NO237の茶碗が利休の時代には存在したことは確かということかもしれない。
No.242さむしろ2007-07-25 20:42:10.518939
天正黒と呼ばれる茶碗がある。天正時代に焼かれた瀬戸黒茶碗と説明されている。天正年間とは1573〜1591の間である。

瀬戸黒茶碗のうちのどれがはいるのか?
No.243さむしろ2007-07-27 18:33:37.505818
瀬戸黒茶碗「小原木」は利休所持と伝わっているようである。
No.244さむしろ2007-07-28 20:22:23.59982
「素朴な溜塗りの曲物におさまり、蓋表に黄漆で「小原木」と記されているが、利休の筆と伝えている。」

と記されている。それが正しいとすると、利休は小原木を随分大切にしていたように思われる。
ほかの利休所持と伝わる茶碗がどのような仕度になっているのか当ってみる必要がある。
No.245さむしろ2007-07-29 18:57:11.73363
長次郎茶碗がどうなっているのか調べてみた。

黒茶碗「大クロ」:内箱蓋裏 江岑宗左 による朱漆書
黒茶碗「東陽坊」:内箱蓋裏 東陽坊の書付は利休筆と伝えられる。
黒茶碗「俊寛」:内箱蓋裏中央の俊寛の二字をしたためた貼紙は利休筆のものとされ…、 となっている。
黒茶碗「北野黒」:内箱蓋裏に江岑が「利休判在ヲ之覚 今程キエ見不申候 黒茶碗 左(花押)」と書き付けている。
No.246さむしろ2007-07-30 20:39:51.536581
黒茶碗「禿」:内箱蓋裏にそったく斎が「利休所持 禿 件翁(花押)」と利休所持であったことを記している。
赤茶碗「一文字」:一文字の銘は古筆了佐が記しているように茶碗の見込中央に「一(花押)」と利休が「一」の文字と判を朱漆書していることによる。
赤茶碗「無一物」:内箱蓋表に「無一物 宗室(花押)」と仙そう宗室が書付ている。

長次郎茶碗を見る限り以上のような仕度で、小原木の仕度が特別に丁寧であるようにみえる。
No.247さむしろ2007-07-31 20:49:04.034236
であれば、茶会記の中に出てきてもいいのではないか。

ざっとみたところ天正18年9月に「黒茶碗」がでてくる。
No.248さむしろ2007-08-01 18:07:16.960409
天正18年9月に「黒茶碗」は、利休の茶会で宗湛日記に記されている。宗湛日記の中の前後をみてみると、
今ヤキ茶ワン、セト茶碗、黒茶碗、黒碗、今ヤキ碗、黒ヤキ茶碗、ヤキ茶碗
などがあらわれる。
No.249さむしろ2007-08-02 19:28:13.439422
今ヤキ茶ワン と 今ヤキ碗 は同一と考えられるが、黒ヤキ茶碗、ヤキ茶碗 はどうであろうか?

セト茶碗はどんな茶碗がふくまれるのか?

特に黒茶碗、黒碗がどちらにはいるのか、あるいは黒ヤキ茶碗と同一の茶碗をさしているのだろうか?
No.250さむしろ2007-08-03 19:58:04.36741
瀬戸黒茶碗「小原木」の利休所持という伝来が正しいとすれば、小原木が黒茶碗にあたる可能性もある。

小原木は写真でみる限り織部様式の造形なされている。
No.251さむしろ2007-08-04 20:09:18.923964
小原木の造形が確かな造形であるとすると、「美濃へ注文して焼かせた」といったような簡単なシロモノではなくなる。

私は、安倍安人のいうところの三点展開による造形(織部様式)は、指図書で職人(例え名人といえども)が焼ける(作れる)ほど単純ではないと理解している。

ただ、安倍さんがいうように、素人に粘土を持たせて、ああして、こうしてと教えるとみな楽茶碗風になる、というのは理解できる。
No.252さむしろ2007-08-05 20:30:18.648271
利休が「俊寛」と名づけたとの言い伝えが正しければ、そのときには三点展開は完成されていた。
小原木は俊寛と比較すると荒いつくりである。

わたしには、三点展開によって作ることができるのは長次郎(長次郎一族)しか考えられない。なぜなら三点展開理論を我がものとした長次郎が、他に教えることは考えられないからである。

ただ、別の可能性が無いわけではない。
No.253さむしろ2007-08-06 19:54:42.50381
利休あるいは織部が、三点展開を完全に理解していたならば、美濃の職人を指導して作らせることはできたかもしれない。

しかしその可能性は極めて小さいと考える。
No.254さむしろ2007-08-07 20:28:30.940421
秘中の秘であったはずであり、美濃の職人といえども、利休や以後の織部の独占が不可能となる。

それに長次郎茶碗でさへ作れてしまうし、理論が後世に伝わっていても不思議でない。
美濃へ伝わっていれば、備前も、信楽も、伊賀も、唐津だって、ということになるのではないか。
No.255さむしろ2007-08-08 20:34:46.921025
京都・三条界隈から発掘された桃山期茶陶のなかに楽茶碗風のものも出土しているようである。なかには「京焼黒茶碗」と品名書きされたものもある。

ニーズがあれば作り手も現れる、というのは今も昔も同じようである。
No.256さむしろ2007-08-09 22:00:48.527041
備前、信楽、伊賀、美濃、唐津の各窯で織部様式茶陶が作られていることは紛れも無い事実である。

安倍さんに言わせると、各窯で茶陶が多く焼かれているが、織部様式茶陶といえる作品はわずかであって、ほとんどが職人ものである、ということになる。(伊賀の場合は状況が異なるようである。)

古田織部自刃以後、長次郎楽茶碗を除いて織部様式茶陶は表舞台から消えてしまった。京都・三条界隈のヤキモノや跡などから発掘されたおびただしい数の茶陶群は、隠すために井戸のなかに棄てたものではないかとの説もある。(写真でみる限りでは、その多くが職人ものではないかと思われる。)

各窯に三点展開の理論を身につけた職人がいたのであれば、もっと多くの織部様式茶陶が現存していても不思議でないし、窯跡からは陶片もでてくるはずである。

今のところ、小原木に代表される瀬戸黒茶碗が美濃の職人によって作られた可能性は極めて低いというのがわたしの結論である。
No.257さむしろ2007-08-10 20:42:13.229474
「長次郎楽茶碗を除いて」と書いたが、三代のんこうの作品には三点展開により作られたものはないようである。

長次郎楽茶碗においても、織部自刃後三点展開による制作は止まったと考えられる。
No.258さむしろ2007-08-11 19:22:32.14516
ものはらT部NO1200、NO1201で、

「常慶以前の楽焼には、宗味の娘も作陶したとすれば、六人あるいは五人の人々が茶碗などを作っていたことになる。長次郎の茶碗にさまざまの作行きのものがあるのも当然のことであろう。ところが、こうした楽家の消息をすべて知っていたと思われる千宗旦が、その箱書などにも、また手紙にもいっさいふれていないのであり、また江岑や仙叟もその箱書には単に「長次郎」または「長次郎焼」と書しているのみである。楽家とはあれほど密接であった宗旦やその子供が、常慶以前の楽焼をすべて「長次郎焼」としているのはおそらく単なる無頓着ではなく、なんらかの理由があってのことと思えてならない。」

「それは後世楽焼の系図を長次郎、常慶、道入としてしまうことと無関係とはいえないようである。すなわち楽家を取りまく社会情勢に大きな変動があり、故意に宗慶や宗味が系図の上から後退させられる現象が起きたものと推測されるのである。」

との記述を、日本の陶磁1(中央公論社)から紹介した。
千宗旦は1578生、1658没であり、上の記述のとおり全てを知っていたはずである。にもかかわらずそのことに一切ふれることがなかったことが、逆に長次郎一族の秘密性、つまり織部様式茶陶は、織部と長次郎一族による秘密組織によって制作されたのではないか、ということをこの面からも推測させるのである。
No.259マスター2007-08-13 11:42:35.40732
昨日、牛窓のアトリエへ行ってきました。

10月のNY展の制作風景です。NY展はやきもの以外にも安倍安人の仕事すべてを見せる予定です。
No.260マスター2007-08-13 11:44:49.502049
同。
No.261マスター2007-08-14 10:49:05.672145
サンタフェから数日前に帰られたところでした。
サンタフェには、展示を行うためオープン前に行かれましたが、早めに発送した作品が届かず、手荷物で持って行った作品のみによるオープンとなってしまったそうです。
税関での抜き打ち検査に引っ掛かったためのようです。
No.262マスター2007-08-14 10:52:28.738195
現地を発った後に作品は届いたそうです。

現地の新聞にも展示会開催を知らせる広告を載せてくれていました。
No.263マスター2007-08-15 17:24:22.544633
弟子達と海に貝取りに行ったとき、52センチのひらめを安倍先生が網ですくいました。とてもうれしそうです。
No.264マスター2007-08-15 17:25:00.134254
同。
No.265さむしろ2007-08-19 16:36:35.712223
当時の茶の湯の世界において、古田織部がどのような立場にいて、どのような役わりを担っていたか?について、古田織部自筆書状のなかから覗いてみようと思う。(古田織部の書状  伊藤敏子 毎日新聞社から)

奈良の茶匠、松屋久好宛織部書状から。
部分要旨。
昨日は御茶を賜り本望に存じます。殊に御一種拝見しまして畏悦に存じます。御一軸は古人たちが褒められていますので私がとかく申すには及びませんが、確と御秘蔵されますように。
4月19日

年号は記してないが、茶会記から慶長6年というのがわかる。
茶会のなかで久好は、織部に掛軸についてお墨付きを求めたものと思われる。
No.266マスター2007-08-20 19:17:33.770462
2007.4.1に、
安倍先生は以前より、備前焼は@土は関係ない。A窯の形態も関係ない。B薪も関係ない。C焼成時間も関係ない。乱暴にいえばなんでもよい、とこれまでいろいろな機会に発言してこられたし、また文章に書かれています。ところが、少々オーバーかもしれませんが誰も信用しない、ということで、土掘りから粘土造り、造形、窯詰め、焼成、窯出し、窯詰め、2回目焼成、同窯出し、3回目同、4回目同、(あるいは5回目もあるかもしれません)と焼き上がりまでを、制作過程を追ってビデオに撮り、順次このHPに載せて安倍安人の備前焼成論を実証しようという話になりました。

という紹介をしました。ビデオ取りは早めに始りましたが、編集ソフトのトラブルで大変に遅れてしまいました。ほぼ準備が調いましたので近日中に開始します。

強い異論さえなければ、

  公開!The備前 −安倍備前の全貌ー

として開始します。
1年あるいはそれ以上の長丁場となりますので、再掲載のお約束はできません。どうかお見逃しのないようにご注意下さい。(およそ1週間程度で入替えになると思われます。)

No.267さむしろ2007-08-21 12:36:11.311497
松井佐渡守(細川家の家老)宛、部分要旨。

霰釜を持たせられ受け取りました。底の修理を申付けます。昨日はご丁寧に使者を使わされ忝く存じます。
  3月23日

本状は松井佐渡守の使者が霰釜を届けてきたので、即刻に受け取った旨を認め、使者に持ち帰らせたものである。
目利きのほか補修の取次ぎも行っていることがわかる。
No.268さむしろ2007-08-22 16:40:10.202737
松井佐渡守宛、部分要旨。

肩付二つ請取りました。蓋の受張を申付けておきます。もう一つの茶入は繕いも出来ました。蓋をそちらへお取りになって、持ち帰られたことと思います。もし御入用であればこちらへお持ち下さい。受張を申付けます。
なければ結構です。当方で取合せます。
 3月27日

佐渡守から茶入の蓋、袋、繕いなどについて尋ねてきたので、早速に応えた返書である。
No.269マスター2007-08-23 14:08:32.497013
お知らせです。

公開!The備前 −安倍備前の全貌ー

をスタートしました。
窯辺論談からはいれます。
No.270マスター2007-08-24 18:48:48.769965
撮影余話。

掲載中の第1回、第2回分の撮影はわたしですが、この企画のために準備したカメラを使った最初の撮影で、ぶっつけ本番でした。

企画段階で相談した、したり尾さんから、

撮影は、ロングはロング、アップはアップとメリハリをつけると観やすくなるはずです。
また一つの場面を撮影するのに長い時間がかかります。三脚など据えてじっくり撮影してください。

とのアドバイスをもらいましたが、ロング、アップがなかなかスムーズにいきません。今後についても素人カメラマンですので、画像の良し悪しは大目に見て下さるようお願いしておきます。
No.271マスター2007-08-25 17:10:19.814801
撮影余話。

この企画のスタートにあたり、立会人として協力をお願いする会賀真志郎、大澤恒夫、斎藤洋一の三氏に対し、趣旨説明及びお願いをするところから撮影をスタートしました。
三人一緒のところでお願いをする予定でしたが、会賀真志郎、斎藤洋一の両氏が先に来られ、都合で大澤恒夫さんが遅れて来られることになり、別々にお話をしました。
従って、会賀真志郎、斎藤洋一に説明するところが先に登場しています。お二人への話が終わったあと大澤恒夫さんが登場します。
No.272さむしろ2007-08-26 18:20:14.08398
『公開!The備前 −安倍備前の全貌ー』が始まり、どこまでがオープンになるのか、楽しみと明かしすぎを心配する気持ちが交錯しています。
ノウハウは墓場まで持っていくと言っておられた安倍さんが、制作過程を明かすということは画期的決断です。

ときどき登場していただくKさんも同じような心配を話しておられました。
No.273さむしろ2007-08-27 19:02:40.15658
松井佐渡守宛、部分要旨。

先日御誂の掛物の表具が出来ました。仕上がりの様子は良いと思います。
  卯月4日

松井佐渡守について。
細川幽斎に仕える。後、細川忠興(三斎)に仕える。松井佐渡守は、細川三斎に代わって尋ね事、相談事をしていたと思われる。利休七哲の一人でもある細川三斎でさえ、何事につけ織部に相談をしないと茶の湯ができなかったと想像される。

No.274さむしろ2007-08-28 18:34:13.738239
松井佐渡守宛、部分要旨。

国師墨蹟の表具は申付け、箱も作って御使者へ渡しました。表具の出来はよいと存じます。
  8月5日

No.275さむしろ2007-08-29 16:59:37.623904
松井佐渡守宛、部分要旨。

御茶入蓋、袋などお気に入りました由、珍重に存じます。今回の御茶入のこと、忠興公がお尋ねに成られたので、お考えよりは良いと申上げました。弥御秘蔵されると良いでしょう。

芝霊石の墨蹟は物が良いと存じますので、表具を申付け、箱もすべて作らせ、緒をつけ封をして御使者へ渡しました。

御茶入の盆の事、今新しいのを御茶入に似合うのを需めては如何でしょうか。唐物の朱盆の小さいのがあれば、取合せると良いでしょう。当方でも探してみましょう。

…、しかも毎々御懇意にあずかり御礼の言葉もありません。この瀬戸茶碗は様子が面白いので、貴殿に進上します。これにて茶をたてて下されば畏悦に存じます。
  6月3日
No.276さむしろ2007-08-30 15:33:04.113439
松井佐渡守宛、部分要旨。

一休の墨蹟は、様子がよくありません。表具をしても数奇屋へ掛けられるものではないと思います。
  霜月12日

No.277マスター2007-08-31 19:43:46.528593
安倍さんは、安倍備前の焼成法を確立するために計り知れない試行錯誤を重ねてこられた。今回その積み重ねの結晶を公開実証されるという。

第1回、第2回、第3回の話を聞いていると、そうとう本気だ。備前焼に限らず、他の焼締陶、釉薬ものの陶芸家にとっても、興味深いあるいは参考となる情報満載の企画となりそうだ。

全てがオープンになるとは思わないが、全編注意深くみていけば相当程度解かると思う。応援団としてはちょっと心配である。
No.278さむしろ2007-09-01 19:03:49.137706
松井佐渡守宛、部分要旨。

瀬戸の古い肩衝を掘り出され、形、大きさなど良いと思います。よい袋(仕覆)を覚甫と相談して誂えましたところ、出来上がりましたので覚甫に渡しました。委細は覚甫方より意見申し述べます。

四、五種焼かせ、遠路を上って届けられ、過分に存じます。焼きごろは良いのですが、形、大きさは良くないと、当地の衆は申しています。重ねて様子を申入れますので、焼かせてお届け下さい。

忠興様より花入の筒を仰付かりましたが、充分なものがなく、大略なるのを取出して繕いを申付けました。出来次第伏見の御宿の留守番へお渡しします。
  8月15日
No.279さむしろ2007-09-02 15:48:10.06041
小堀作介(遠州)宛、部分要旨。

御書状拝見いたしました。
一、石燈籠は今朝から十介が来て切りました。
一、来18日昼は羽柴長吉様へ行く約束を致しましたが、これを朝にして、あなたの方へ昼に参りましょうか。
一、鎖はまだ来ません。

No.280さむしろ2007-09-04 09:43:15.749978
浅野弾正宛、部分要旨。

一、文琳はよく藤元に見せました。形はてくら物(にせもの)ではないとのことです。薬の事も心配ないということです。ほしく思召されるならば、お取りになられたらよいでしょう。代金のことは、お使者に申しておきます。

一、蓋と袋のことは書状にて御申越下さい。茶入れは当方にとどめておきます。出来ましたら、こちらからお知らせします。
  正月27日
No.281さむしろ2007-09-04 19:02:43.658803
上田宗箇宛、部分要旨。

花筒、爪をはなすような思いです。宗是にことづけて進上します。
拙子より差上げた茶入を宗是にお渡し下さい。来春、お目にかかり、万々御意を得たいと存じますので詳しくは記しません。
  大晦日

No.282さむしろ2007-09-05 20:02:58.607073
宛名不明、部分要旨。

昨日は御自筆の御書状を頂戴仕りました。この頃は御意を得ることなく迷惑致しております。御句は金隆に申上げました。これらの旨を然るべきように、御披露して下さい。尚、内澁の灰器は見ました。面白いものです。
  極月29日

宛名が中途で切れているため、宛名は不明であるが、「御自筆の書状」に対する返書で、しかも家人から主人へ披露を頼む形式がとられているので、高貴な人の家司に宛てたものである。
No.283マスター2007-09-06 17:37:20.260954
今日、「公開!The備前 −安倍備前の全貌ー」の映像(DVD)第二弾が届きました。

土の採取と粘土造りの様子です。続きも順調に撮影が進んでいるそうです。

順次、分割して掲載します。
No.284さむしろ2007-09-07 18:50:08.255221
以上「古田織部の書状 伊藤敏子 毎日新聞社」から古田織部の書状をのぞいてみた。

織部の書状は、利休や遠州ほど多くは残っていないようである。

この資料には68通が収録されている。内18通が特に親しい間柄であった松井佐渡守宛であることもあって、取り上げた書状の大部分が松井佐渡守宛となっている。
No.285さむしろ2007-09-09 18:39:08.275679
以上、書状の内容は、用件を簡潔に書いたものが多く、活動実体が窺えるものは少ない。

茶道具の鑑定や墨蹟の表具を引受けたものや、茶碗作りを、依頼したものがある。

道具の鑑識は、さすがにきっぱりと述べられていて自信のほどが窺われる。


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