茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.286さむしろ2007-09-10 19:36:07.398084
ひょうげものの茶碗を用い美濃の織部焼を指導したといわれるが、それを裏付ける書状は一通も見出せなかった。ただ一通、細川家御用の上野焼の茶碗を注文したところ、届けられた茶碗の形が気に入らないので焼直してほしいという内容のものがあるが、茶碗の作意についての意見は一言も示されていない。


以上「古田織部の書状 伊藤敏子 毎日新聞社」から興味のある部分を紹介した。

No.287さむしろ2007-09-12 14:10:21.860777
ということで古田織部の書状からは、織部様式茶陶の解明につながるかもしれないと思われるものは上田宗箇宛生爪花入の添え状以外にはなかった。


伊賀水指「破袋」は藤堂家に伝来したところ、関東大震災で箱は焼失したという。その際、水指に添っていた大野主馬宛の古田織部の消息も失われたという。そしてその文面は次のようなものであったという。

「内々御約束之伊賀焼の水指令進入候 今後是程のもなく候間 如此候大ひヽきれ一種候か かんにん可成と存候 猶様子御使に申渡候  恐惶謹言
  霜月二日    古織部
大主馬様 人々御中」

この消息が焼失したことは大変に残念であるが、その文面はこうであるということが伝わっていたことは幸いであった。

つまりこの二つの消息によって、織部から、織部が高く評価した花入と水指が、徳川と豊臣の覇権争いのなかにあって重要な人物二人に送られたことがわかるからである。
No.288マスター2007-09-12 19:52:06.121053
牛窓のアトリエへ行ってきました。

ニューヨーク展への作品発送の準備中でした。
No.289マスター2007-09-12 19:54:24.45074
一部の作品は最後の仕上げが残っているということでした。
No.290マスター2007-09-12 19:58:40.876753
80号のブロンズです。

最後の仕上げは、ニューヨクの展示会場で行うということです。
No.291マスター2007-09-12 20:11:04.582322
80号のブロンズです。

同じくこちらも、最後の仕上げは、ニューヨクの展示会場で行うということです。

迫力のあるブロンズを見ていると、安倍さんが、「陶芸家」を名乗らず「造形作家」あるいは「アーティスト」を名乗られることに合点がいきます。
今回のニューヨーク展は「平面」が中心のようです。
No.292マスター2007-09-23 19:28:18.202311
ニューヨークでのEDOICHI展の案内状が届きました。

10月のニューヨークはとてもよい季節だそうですが、ちょっと行って来るというわけにいかないのが残念です。
No.293マスター2007-09-24 14:15:12.739323
大西ギャラリーにおける安倍安人と内田江美の作品の展示会は、素材の表面の個人的かつ繊細な探求を表現する、異なった手段を駆使する二人のアーティストを結び付ける。両アーティストは伝統技術により芸術的プロセスに着手し、継続的な実験を通し、自らの技術的スキルからオブジェクトの表面に高度な芸術的表現をもたらす個人言語への変換へと到達した。安倍安人は画家及び彫刻家として表面効果の可能性の探求に長いキャリアを持ち、これら作品において、形と表面の最も親密なコンビネーションに命を吹き込む。安倍安人の芸術は、古い備前焼に対する独自の理解に始まり、現代的かつ革命的な創造的緊張を加える。安倍安人は自らの芸術的概念の頂点を作品の表面にもたらすため、炎による偶発的効果に委ねず、窯のコントロールを習得した。彼は偉大な生命力と新鮮さを表現する作品を作り出すために、形と表面の質感とを調和させる。
内田江美は伝統的な長方形の境界内に、親密な視覚的スペースを創り出す。彼女がペイントした美しい表面は、通常ではより現実的な表現形式のみに使われる技術の蒸留を、見る者に突きつける。彼女は自然と幻想とを融合させる環境を創り出す。

評文
ステファン・フェラリー(ニューヨーク)
ザ・グラフィック エクスプレッション 社長

彼はイタリア人で、名車 フェラリー ゆかりの村出身で出版等に美術に関する著書が多い。
彼自身もデザイナーである。
No.294マスター2007-09-25 19:12:39.33977
プロフィール
安倍は1970年に備前で、彼の初めての窯を立て、そして桃山備前の秘密の鍵を開けるためにセラミック・アートの実験を始めた。
彼の絶え間なく繰り返される実験の結果として、彼のモダンな創造感覚と、古備前の比類のない外観が結合したセラミック・アートを作り出した。
安倍は油絵、ミクストメディア、彫刻、そして陶芸と広範囲にわたり、日本の到る所、同じくパリ、ミラノ、そしてニューヨークでも個展、グループ展を開催した。
彼の作品は、沢山のプライベートのそして最近彼のいくつかの作品がメトロポリタン美術館、京都近代美術館に収蔵されたことを含め、パブリックコレクションにより象徴される。
彼は精力的な研究員であり、実験者、先生、創造者(作家)そして師である。

内田江美は、1991年女子美術短期大学でデザインを学びファインアートの学位を取得した。2004年までファッション業界でデザイナーとして働いていた。
とても小さいときから、アーティスト安藤峯子氏に絵を習っていた。現実主義の彼女の絵の下に彼女のクリエイティブなパワーと、細部描写のテクニックの両方が見える。
2005年から彼女の作品は安倍安人に近づいていく。
最近彼女は抽象主義の新しい方向を探求している。そして、彼女の新しい作品はアーティスト仲間、ギャラリーのオーナー、そして評論家に十分受け入れられた。彼女の初めての個展は山梨県のギャラリーで2005年に行われた。
No.295さむしろ2007-09-29 15:21:12.979824
向いの喫茶店で昼飯を食べながら、モーニング連載の「へうげもの」を見てきた。

第59席 ときは、1588年1月
「大茶湯以降欲しいものがなくなってしもうた」と気の晴れぬ織部は、上田左太郎(後の宗箇)を誘って大和国・興福寺に仁王像をみるために訪れる。

なにを思ったか織部は腹を抱えて大笑い。いぶかる左太郎に、

「首の青筋といい腰付きといいこの『必死さ』がわからぬのか!? 人の身体はかような形にはなり得ぬ・・・。
それを心得てはいても仏師は凄まじさを醸し出すために・・・。
写実に加えてこれでもかと曲げたりしておるのよ。
像も必死なれば仏師も必死」。
と。

それでも合点のいかぬ左太郎
No.296さむしろ2007-09-30 18:51:21.282111
「織部様式」誕生への序章と感じたがどうであろうか?

NO195を参照。
No.297さむしろ2007-10-02 18:25:23.832582
「千利休とやきもの革命」という本が河出書房新社出版されている。(1998年3月)
副題が「桃山文化の大爆発」とある。

竹内順一氏(五島美術館学芸部長(当時))と渡辺節夫氏(陶芸家)の対談を一冊の本にしたものである。

私の受けた印象だが、竹内順一氏は、桃山茶陶について、このものはらで主張している織部様式論とは最も遠い考え方のようである。対する渡辺節夫氏は織部様式論にたつ立場である。

しばらくの間、この本を覗いてみようと思う。
No.298さむしろ2007-10-03 19:21:21.731338
とはいっても、部分的なつまみ食いならぬつまみ拾いなので、出来れば本書を購入して直接原文を読んでいただきたい。なかなか面白い本である。

本書には、安倍安人さんが「『千利休とやきもの革命』出版に寄せて」との序文を書いておられる。

その部分であるが、「・・・楽代々展において、次々に箱から出される楽の名器をー略ー展示する役を私はやった。長次郎の「俊寛」も常慶の「面影」も手に取ることが出来た。

−略ー「峯紅葉」に出会う以前から、なぜ織部はゆがんでいるのか、問題意識をずっと抱き続けてきたのだが、こうした経験が転機となり、私は長次郎や織部に挑戦し始めた。

桃山の名品のほとんどが、−略ー法則に則って必ず決まった所につけられー略ー。ー略ー、目の行く位置を意識してつけられているのである。
また、挽き上げられた土は、反り上がり、切り下がり、三、三、三というリズムを持っている。

−略ー、桃山の名品には、すみずみにまで考え抜かれ、統一された強い意志の表現が貫かれているのである。−略ー。
No.299さむしろ2007-10-04 20:16:59.237727
『千利休とやきもの革命』河出書房新社から。
京都市内の遺構から出土した桃山時代の茶陶の展覧会を見た渡辺節夫氏は、
「多くのの陶器片を実際に手にしてみることができて、とても勉強になった。」
「これらの織部焼きは全体として、造形的には同じプロセスでつくられていると判断。」
「たまたまできたものではなく、桃山という時代の必然性、かなり明快な裏づけがあってつくられているのではないか。」
「どれも皆、変形する手法が一つの統一性を持っている。」

といったことを述べておられる。ほぼ同じ考えであるが、私は、現物は見ていないが、発掘された織部焼きはアーティストものとコピー作品が混在していたのではないかと推測している。
No.300さむしろ2007-10-05 18:21:03.847987
『千利休とやきもの革命』河出書房新社。
これに対し竹内順一氏から、
「織部スタイルの焼物があちこちの産地でつくられたとは思えないほど、統一感があるというようなことを言われたが、それは、備前焼茶陶であっても、備前でつくったのではないように思える、ということか。」

と問われ、渡辺氏は、
「そうだ。完全な管理のもと、備前以外の場所でつくられたように思える。」そして「たぶん京都周辺ではないかと思う。ただ、あくまで自分の感覚的なとらえ方である・・・。」

と答えている。この部分のみを捉えると、私も同じ見解である。
No.301さむしろ2007-10-06 19:43:57.420153
『千利休とやきもの革命』河出書房新社。
竹内氏は、
「たしかに、もしかしたら、備前でつくらなかった可能性もあるかもしれないが、茶の湯の陶器はある意味で特殊だ。当時、お茶人が・・・。おそらく五、六百人位、本当の一流茶人は、多くてもだいたい百人位。」
「やきものの産地といっても、・・・四百年もたっている、・・・・痕跡が非常に少ない、ほとんどないのも当然ではないか・・・。」
「むしろ、京の都に・・・特殊なやきものが集中しているが、・・・色、材質が変わっても、ある種の統一感を持っていて、桃山スタイルというか桃山的な存在感があること、これは驚きだ。」
「それも備前と京都だけの関係ではなく、信楽、唐津、美濃でも同様であることの面白さ、不思議さ。」「これがやはり、桃山時代の特徴。」
「渡辺さんのように、各地の人たちがつくったのではなく、どうも中央のほうのどこかでつくられたのではないかと推定しようとする発想も、じつにユニークで面白いとは思うが。」

との考えを述べ、「桃山時代の特徴」であって、渡辺説は「実にユニークで面白い」説だということである。一流茶人はおよそ百人程度というのはなんとなく納得できる数である。各窯のそれぞれの名品茶陶が「三点展開」という独創的手法で作られているという前提がないと理解ができないのかもしれない。

No.302さむしろ2007-10-07 15:31:43.786311
『千利休とやきもの革命』河出書房新社。
渡辺氏は、
「造形作家の安倍安人先生とは、よくやきもの・・・造形的なことを・・・お話させていただきますが、先生は「数人以上の複数の職人集団のようなものが想定されるのではないか。そういう職人集団が備前、唐津、美濃・・・・・と各窯場を移動していき、そこでやきものをつくったのではないか」とおっしゃっています。」

と、安倍さんの見解を紹介。現在も同じ見解のように思う。
No.303さむしろ2007-10-09 11:11:34.69742
『千利休とやきもの革命』河出書房新社。
竹内氏は、
「漆器では、流れ職人のような者がいた事はあり得るが、焼き物では考えられない。」「釉薬をつけたりつけなかったりする焼き物は(漆器の世界と)世界が違うと思う。」
「現存作品を見ると、職人が5、6人と限定できるほどある種の統一感があるとは思う。」
「しかし、これも色々な事が言えて・・・・、」「産地の問題についてはひとまず置いておくとして・・・・、」

と、渡辺説を否定する理由の一つを述べおられる。否定は否定で一つの見識でありそれはそれで結構であるが、あの交通の悪い時代に遠く離れた窯で統一感のある作品ができたことの説明は是非聞きたいところである。この部分で私の考えを一つ書き加えておくと、制作(造形部分)は特定のグループ(長次郎一族を念頭においている。)が行い、釉薬と焼きは、織部の指示のもと各窯の陶工が行ったと考えている。
No.304さむしろ2007-10-09 19:29:13.593835
『千利休とやきもの革命』河出書房新社。
渡辺氏は、
「長次郎の茶碗と織部の茶碗は元の根っこのところでは同じとの確信。」「造形のプロセスを考えると同じ。」
「織部茶碗を見たときの感激よりも、長次郎茶碗を見たときがはるかに大きな感動を受けた。」

これに対し竹内氏は、
「どちらも同じ範疇にはいるということはわかる。要するに、茶の湯の茶碗にしか使えないという機能限定、用途限定という意味で。」

渡辺氏
「ゆがみを単なる変形ととらえたのでは、織部や長次郎にはならない。」

竹内氏にとって、「一つの造形理論で作られている」などということは、まったくもって空理空論でしかなく、語りたくも無いといった風情で、渡辺さんの説明は届かない。
No.305さむしろ2007-10-10 19:38:04.253407
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、『千利休がやきものの発展史を変えた』の項
竹内氏は、長次郎茶碗と織部茶碗を比較して、
「長次郎茶碗は、唐物茶碗から次のステップに脱するための役わりを果たした。」
「長次郎茶碗の延長線上に織部茶碗があるという点において共通性あり。」
「唐物茶碗には、天目、青磁があり、薄い、硬い、シンメトリー。長次郎茶碗は、厚作り、軟い、アンシンメトリー。」
「陶芸の技術の発展の面からみると、長次郎はある意味逆行している。発展へのアンチテーゼみたいなことをやらせたのが千利休。」
「長次郎茶碗には精神的な存在感がある。かなり哲学的。」「織部茶碗にはそれを感じない。」
「数も、長次郎は全部で20個位。織部茶碗は100個や200個ではきかない。」
「長次郎と織部はやきものの発展の歴史を破ったというアンチテーゼでは共通するが、茶碗の存在感では、圧倒的に長次郎のほうが意味がある。」
「長次郎は明らかに一人の作家がつくったもの。これに対し、織部は無名の職人たちが当時の流行を受けて勝手につくったもの。面白いけど、深い意味合いは出てこない。」
「美濃の窯からは、織部のゆがんだ系統のものが、何百個、何千、何万とあるかもしれない。大量生産である。」
「京都の遺跡から出たものは、ゴミ捨て場では。良くないというので、破棄し、或いは売れ残ったものでは。」

といった見解を述べておられる。
No.306さむしろ2007-10-11 18:14:38.270785
私は、造形理論に則った織部茶碗はそんなに多い数では無いと考えている。数十を超えた部分は今でいう職人のコピー作と考えたい。一度、安倍さんに、図録等をみながら解説をしていただくつもりだ。

また、安倍さんは、長次郎作というものには数人の手がうかがえると話しておられる。
私見だが、数人として考えられるのは、初代長次郎のほか二代長次郎の存在説、宗慶、常慶、宗味、宗味の娘で二代長次郎の妻といわれる者等である。

今、フッと思ったが竹内さんのいわれる織部茶碗には黒織部、織部黒、緑釉のかかった織部のすべてが含まれているのかもしれない。渡辺さんはこの部分をはっきりと分けて話をすべきであった。

京都の遺構からの出土品は、前にも述べたが織部自刃と関係があると考える。
No.307さむしろ2007-10-12 19:17:52.326829
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、『織部スタイルの流行が長く続かなかったのは?』の項において竹内氏は、
「やきものは非常に合理的な世界」「全て理屈のもとで可能」「全ての条件が整っていること」「窯はもちろん薪も自由に入手できない」「流通ルートも必要」

つまり流れ歩いてやきものを焼くことは困難である。

「結論として、織部の茶碗は、当時、都で大流行していたのでは。」「でありながら、なぜこんな形の茶碗を、といぶかりながらつくったのでは。なぜ焼き続けたのか不思議なくらいだ。」
「おびただしい数の織部スタイルが作られたのは、使い手の注文が強かったことも、もう一つの理由。」「千利休が新しい形を広めていたので、あまり奇異に思わず、急速に広まった。花入、水指もそのスタイルが大流行した。」
「アブノーマルで、あだ花みたいなもので、そんなに長く続かず、およそ五、六十年で終わっている。長くて八十年。」
「本当に素晴らしい造形精神であったら、現在でも続いているはずだが、江戸時代になるとパタッと終わる。」
「そのようにとらえた方が、焼き物発展史、織部の前後の流れなどから説明しやすい。」

流れ歩いて焼くことは困難という意見は同感。光禅さんの説(私も支持している)である「織部様式の名品茶陶は調略物資」という見解にたってみたときに、先の「おそらく五、六百人位、本当の一流茶人は、多くてもだいたい百人位。」という前提に立って、調略の相手がどの位の人数いたのか、徳川方の武将は除かれるだろうから、豊臣方で、影響力があって、茶道具が好きという武将ということになるとそう多人数とはならないと思われる。
光禅さんはこの人数をどのくらいの桁と思われますか?
「織部の茶碗は、当時、都で大流行」というのがどの程度のものであったのか、少々疑問である。

ものはらでいっている織部様式茶陶が表舞台にあった(商品としてどんどん流通したとは考えていない。)のはおよそ30年間、織部自刃と同時に表舞台から蔵の奥深くに仕舞いこまれたのであって、「本当に素晴らしい造形精神」ではなかったので終焉をむかえたとは考えられない。
No.308マスター2007-10-13 08:59:00.854308
現在ニューヨーク展を開催中です。

English → New York(USA) 展から展示風景写真をご覧いただけます。
No.309さむしろ2007-10-13 17:57:37.737227
『千利休とやきもの革命』河出書房新社
竹内氏は「茶碗における渡辺理論みたいな考えは、自分の原点とするのはよい。」
ただ「長次郎茶碗のよさを説明するにあたって、造形的な力というものをもって説明するのであれば、仁清、乾山、伊万里のそれぞれの素晴らしさもすべて、同じ論理で説明できなくてはいけない。」
というふうにいわれている。

そのやり方で説明できなくてはいけないという意味がわからない。長次郎、仁清、乾山、伊万里はそれぞれ別ものであるということではいけないのだろうか?
私の考えでは、「長次郎や織部様式はこのようにできています。好きか嫌いか、素晴らしいと思うか思わないかはご自由です。他の仁清、乾山、伊万里の評価をどうこうというものではありません。」というしかない。
No.310さむしろ2007-10-14 18:50:31.152337
『千利休とやきもの革命』河出書房新社
本阿弥光悦の茶碗をどう思うかとの問に、渡辺氏は、「文人趣味のようだ」、長次郎より劣ると思うかとの問に、渡辺氏は「ある意味そうだ」と答えている。

竹内氏の見方は「造形的には優れている。」「長次郎の茶碗は国宝になっていないが、光悦は国宝になっている。」

と、光悦のほうを高く評価されているようである。安倍さんは「アーティストでなくアマチュア」といった見方をされていたように記憶している。私は安倍さんの「アーティストでなくアマチュア」という見方の方が受け入れやすい。

また、箱書きなり鑑定なりがしっかりしていての光悦茶碗であって、光悦茶碗といえども、もしはだかで出てきたのであれば、だれも高い評価をしない。そのことは茶碗そのものが評価されているのではなく、「光悦作」であるということが尊くて、高い評価になっているということになるのではないか。長次郎茶碗の場合も同じ事がいえるかもしれないが、他の織部様式茶陶はすべて作者の名はない。ただ長次郎茶碗は造形から長次郎作と断定できる可能性が高いと思う。

No.311さむしろ2007-10-15 12:53:40.746656
『千利休とやきもの革命』河出書房新社
渡辺氏が一生懸命に「三点展開」の説明を試みるが、竹内氏には理解してもらえない。
竹内氏「その説が弱いのは、造形には手づくねだけでなく、ロクロもあれば、型づくりもある。」
「やきものの発展はロクロから型づくりになり、現代に至っている。」
「その発展段階を否定するような造形理論というのは、成り立たなくなってしまう。」

なぜ竹内氏の「発展段階を否定」するという考えにいたるのかわからない。
No.312さむしろ2007-10-16 19:04:20.145958
『千利休とやきもの革命』河出書房新社
話題が峯紅葉に移り、竹内氏は、
「峯紅葉は、渡辺さんのいう造形理論で説明しやすい形だと思う。」
「私はただ単にそういう形になっているに過ぎないと思う。」
「たまたま渡辺さんの目にとまったものがそうなっているのかもしれない。そうでないものもあると私は考えている。」

竹内さんは、(ここでいう)織部様式、三点展開によって造形されたものは、たまたまの偶然の産物との考えのようだ。
No.313さむしろ2007-10-17 18:39:42.6134
『千利休とやきもの革命』河出書房新社
ゆがみの茶碗が使われなくなったことについて、竹内氏は、
「江戸時代になると、個性の強い茶碗が飽きられるんです。」渡辺氏は、飽きられる理由として「織部スタイルをただ単に真似してしまったから」といっておられる。

渡辺さんが、志野茶碗「峯紅葉」の造形について、図に書いて解説。

竹内氏「要するに変化に富む形といってもいい。」「峯紅葉は、そういうもののなかではとりわけすぐれたもの。」「すぐれたものをたどっていけば、そういう説明ができるかもしれない」「ただ、何万という織部のかけらがあるわけだから」「そうじゃないものもいっぱいあって、人々の目にとまらずになくなったものもたくさんあるのでは」


飽きられたかどうかについてだが、我々がに入手できる古茶会記をみると、これは織部様式の茶碗と解かる(推測できる)のは、記憶では「ひょうげたるもの也」とある一点だけである。もう一度その気で見直してみるつもりだが、どの程度使われていたのかよくわからない。
光禅説の調略物資であるとすると(その可能性が高いと考えている)、茶人達に飽きられるほで広く茶会に現われたかどうか疑わしい。なお、織部様式茶陶とコピーものはきっちり分けて考えたり、また話したりしないと話が混線して出口に向かわない。
No.314さむしろ2007-10-18 19:55:15.582016
『千利休とやきもの革命』河出書房新社
竹内氏からの「利休は、長次郎に対し、どのように茶碗作りの指示をしたか?」との問に、
渡辺氏は「利休は自身のお茶の世界観をとくとくと語って聞かせ、長次郎は利休の精神を大変よく理解していたと思う。ゆがみは、はじめにゆがみが生じたのではなく、初めに精神ありき、だと思う。」と、精神が極めて重要な要素であったとの認識。

対して竹内氏は「私は、偶然にできた素朴なよさが桃山時代の織部スタイルにあると思う。だから今再現しようと思ってもできないのではないか。」
「茶碗の小さな歪みは作意の過程の偶然の産物。」「偶然の産物の複合体が、たまたま今振り返ると非常によくできているというだけの話のように思える。」
「だから、歪み、造形の一つひとつの意味にとらわれないほうが桃山時代の素晴らしさをうまく説明出来、また現在、なぜ再現できないかも説明しやすい、と思う。」


渡辺さんの「精神」の意味がまったくといっていいほどわからない。わたしは、利休が釣瓶を水指としたり、竹を切って花入にしたりした感覚と同じものではないかと考えたい。ところが「無一物」のようにシンメトリーな茶碗を、赤黒はあるとしても3個、4個、5個と何個もつくっていくことの限界(同じものをつくるような物足りなさ)から悶々としていたところに、バテレンからのヒントを得て、動きをもたせる、表情をもたせることを考えた、との仮説をたてている(前述)。
No.315さむしろ2007-10-20 12:29:28.662143
『千利休とやきもの革命』河出書房新社
竹内氏、
「桃山時代、はたしてこれらが本当に人気があったのか?」「今わかっているのは、江戸中頃以降になって人気が出たような気がする。」「検討課題ではあるが同時代の人たちは否定したかもわからない。」
「江戸時代はじめくらい、ぱたっとつくられなくなる。ゆがんだものだけは少し残るが・・・。」
「峯紅葉はある面で、一時期に咲いた特殊な花。」
No.316さむしろ2007-10-22 11:29:22.508436
『千利休とやきもの革命』河出書房新社
また、竹内氏は、
「黒織部「わらや」のような茶碗は、うんと数が多い。窯跡にいくと、茶碗の破片がたくさんころがっている。」

といっておられる。「わらや」がアーティストものの一品ものなのか、あるいは職人ものなのか、手元の写真では判然としない。
この手は職人ものが多く作られたかもしれないとの気もしている。
No.317さむしろ2007-10-22 20:23:03.986183
『千利休とやきもの革命』河出書房新社
渡辺さんは、造形の伝承について、
「造形はどこかで、誰かによって継続してきた」との考えを述べておられる。
No.318さむしろ2007-10-23 20:23:54.743583
『千利休とやきもの革命』河出書房新社
竹内さんの、
「渡辺さんの目から見ると、渡辺さんの法則にかなったものは桃山期以降のものにはないわけですね。」
との問に、
渡辺さんは、「非常に少ないと思う。」答えておられる。

さきの「誰かによって継続してきた」と「非常に少ない」から、わずかではあるが作り続けた可能性があると考えておられるようである。
このことについては、今のところ同意できない。(物的な証拠がでてこない限り考えられない。)
No.319さむしろ2007-10-24 19:46:55.879408
『千利休とやきもの革命』河出書房新社

竹内氏「桃山時代しか説明できない理論というのは、やはり一般化しづらいのではないか。」
「渡辺理論が正しいとすれば、桃山時代を説明するのに陰、陽、三角の理論は非常に明快」
「ただ、かなり恣意的で、又曖昧な尺度でしかない。立体である以上、そういう側面というのはみんな持っている。」
「追体験、追試ができなければダメということ。」

この部分の竹内さんの話は、恣意的、曖昧な尺度の部分を除き理解できる。しかし追体験できるまで詳しく指導することは「企業秘密」を公開することになり、渡辺さんにしても、もちろん安倍さんにしても出来ない相談ということになる。
No.320さむしろ2007-10-26 11:44:30.565472
とはいっても安倍さんは、繰り返し再現を続けておられるといっていいと思う。渡辺さんについては、作品に接する機会がないのではっきりした事は言えない。ただ、写真で見たいくつかの作品については、それとわかるものがある。

No.321さむしろ2007-10-26 19:13:27.558582
竹内さんがいわれる「追体験」に、同一人による「再現」も含まれるのであれば、竹内さんが求めておられる条件は十分に満たされているといえるだろう。

No.322さむしろ2007-10-27 17:50:58.990959
『千利休とやきもの革命』河出書房新社
「ゆがみの美は日本独特に感性」の項で、竹内氏は、
茶碗のゆがみが生まれてくる基盤が何であったか知りたい。なぜなら「造形理論のなかでゆがんだものがいいとするのは、世界中でも日本だけ」だから、
といっておられる。
No.323さむしろ2007-10-28 18:24:26.284015
「ゆがみ」があって、その「ゆがみ」が美であるとの見方は正しくない。

唐物茶碗を直立不動の肖像写真に例えると、「ゆがみ茶碗」はスナップ写真に例えることができる。スナップ写真では、動きや表情をみることができる。

動きや表情を表現するためには、その造形が理にかなっていなければならない。決して偶然にできるものではない。
No.324さむしろ2007-10-29 20:30:55.843213
『千利休とやきもの革命』河出書房新社

山上宗二記から「惣別茶碗のこと、唐茶碗捨りたる也。当世は高麗茶碗、今焼茶碗、瀬戸茶碗、以下迄也。」との記述を紹介している。

山上宗二は「今焼茶碗」と「瀬戸茶碗」を別のものとしていることがわかる。
今焼茶碗が楽茶碗を指していることはほぼ間違いないようである。しかし、瀬戸茶碗にはどの手の茶碗が入っているのかわからない。
ただ「今焼茶碗」が、少し時代が下ってからも楽茶碗のみを表しているのかどうか定かではない。
No.325さむしろ2007-10-30 22:24:49.365129
志野茶碗が焼かれだしたのは慶長3年以降との説が有力のようである。(ものはら1部NO1019)
「へうげもの」が初めて茶会記に現われたのが慶長4年。

これらが正しいとすると、「瀬戸茶碗」には志野は含まれず、また慶長4年までの間に使われた瀬戸茶碗には少なくとも激しい造形の茶碗はなかったと考える事ができる。
No.326さむしろ2007-10-31 18:30:17.296186
「へうげもの」といわれた茶碗は、黒織部あるいは織部黒ではないかと考えたい。

No.327さむしろ2007-11-01 19:44:37.435023
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、楽焼の発祥と楽家の盛衰の項、
竹内氏は、「今の機内の遺跡からは、楽家以外でつくった楽茶碗がたくさん出てくる」「楽焼はかなり広がっていて、かならずしも楽家ばかりが焼いていたわけではない」「楽焼というネーミングが適切かどうかという提案もあるくらい」

と、「楽焼」の広がりを紹介しておられる。ただ、それらが楽家以外でつくられたのがいつ頃であったのかについては触れられていない。
No.328さむしろ2007-11-02 20:23:47.786438
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、

渡辺氏「埋蔵文化財研究所の永田先生も、点数は少ないが三彩のような色がついている、薄づくりで、上手の感じがする破片が出ていると話しておられる。」
「楽焼は、ある日突然、世にあらわれたのではなく、どこかにモデルとなるものがあったのではないか?」

竹内氏「それはわたしも考えていた。古い文献に押小路焼という名前が出てくる。」

No.329さむしろ2007-11-03 18:14:47.303764
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、

竹内氏「楽家は、秀吉から『楽』の字をもらっていたことで徳川政権下で生き延びるには大変であった。楽家そのものは二つに別れ、楽の窯印を持った方は絶えた。」「生き延びた楽家と家康を取り持ったのが本阿弥光悦である。」
「光悦が楽家に出した手紙には『近くに来ているから、この前焼いた茶碗があったら持ってきてください。それから土も持ってきなさい、こちらでつくります。』と、偉かったこともあるが随分ぶしつけな手紙をかいている。」

光悦の、上の手紙がいつ頃のものか大いに興味がある。つまり織部健在のときに、光悦が楽家を自由に使うことができたのであろうか?という疑問である。
No.330さむしろ2007-11-03 18:38:24.887698
光悦は織部の茶の湯の弟子であったようである。

光悦の作陶を伝える資料では、光悦が元和元年に家康から鷹が峯を拝領してからのようである。つまり織部の自刃後である。また、先の楽家宛書状も、鷹が峯以降のものと思われる。

本阿弥光悦行状記によると常慶、吉兵衛ノンコウの指導や協力によるものであった、とあるようである。
No.331さむしろ2007-11-05 20:06:19.435599
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、

渡辺氏の「利休は高麗茶碗についても、特別に焼かせている。それが後の長次郎への楽茶碗注文にたどりついたのでは。そのあたりにについては?」との問に、

竹内氏は「利休の注文によるのは楽だけではないか。他に利休好みといえるものがあったとしても、都での流行を各地の窯場が察して作り、それらのうち茶人の目にとまったものが取り上げられたのではないか。」
「信楽、備前にゆがみのあるものがあるが、利休や織部が備前などに行ったわけではないので、やはり時代の流行を察知して各窯で作ったと思う。」と答えておられる。

利休がいる間に信楽、備前で「ゆがみ」のあるものが存在したとの資料は見ていない。古茶会記(製本された市販されているもの)では、今段階見つけられないでいる。古茶会記の原典にあたれば、あるいは絵図のようなものがあるのかもしれないが・・・。
No.332さむしろ2007-11-07 19:13:11.778262
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
話は、何故楽焼は手づくねでつくったのか、という話に進む。
竹内氏「窯業の発展史では、一品制作から大量生産へ、不整形からシンメトリーへと、技術革新の歴史がやきものの歴史。楽はその例外である。」「ロクロでなく手づくね、というのも逆行。」

渡辺氏「ロクロでしなかった理由はなにであったか? それは、長次郎に利休との接点があって、あえて時代の流れに逆行する形でつくっていった。俊寛には、それがよく表現されていると思う」

と、ロクロが使えることは当然との前提にたっておられるようである。

はたして長次郎はロクロをつかった仕事をしていたのだろうか?
つまり茶碗をつくる前の本業はなにであったかということである。長次郎作という獅子瓦が図録には紹介されている。また、長次郎作として二彩瓜文平鉢も紹介されている。解説文には、高台内に残っている指跡などから、ロクロを用いず手づくねで成形したことがわかる、と記されている。

No.333さむしろ2007-11-08 17:56:55.126831
最初につくられたのが、赤茶碗「無一物」や黒茶碗「大クロ」のような茶碗であったのであれば、あえてロクロを用いず手づくねによった、との論が成りたち易いと思うが、最初につくられたのが赤茶碗「道成寺」のようなハタノソリタル茶碗や赤茶碗「白鷺」のような茶碗であったとすれば、あえてロクロを避けたとの考えはとりにくいと思う。

利休は、侘びを求めてあえてロクロをつかわない瓦職人・獅子瓦職人である長次郎につくらせたと考えたいがどうだろうか。
No.334さむしろ2007-11-09 23:42:30.392902
『千利休とやきもの革命』河出書房新社

渡辺氏「織部と楽には共通性がある。」

竹内氏「織部と楽は造形的には近くても、使う側からすれば違うように思う。」
「使い勝手からすると、こんな機能的でない器はない。」
「一時期の流行で終ってもしかるべきだが、ものすごく数が多い。」
「ものすごく流行したと考えられる。なぜ、アブノーマルなものがおびただしい数焼かれたのか、その背景がわからない。」


平家にあらずんば人にあらず。織部にあらずんば茶の湯にあらず、というほどの織部の権勢か。またこれだけの人気が「特種兵器」としての威力を大いに発揮したのではないか。

No.335さむしろ2007-11-09 23:52:23.038233
『千利休とやきもの革命』河出書房新社

渡辺氏「非日常の空間での茶の湯において茶碗には相当な思い入れがあった。思い入れとは、お茶のなかに精神的なものを求めるような凝縮された形での茶碗のイメージではないか」
「今までにあった形を全て否定しながら、自分の理想とするイメージを長次郎に伝え、まったく新しい形の茶碗をつくらせたのではないか」
「利休の精神性とは、一個の茶碗のなかに永遠性、無限性を表現するため、こういう形でなくてはならないというところに行き着いた。」

竹内氏「織部というのはたくさんあるけれど、また逆に急に滅びてしまう。」「一挙にぱっと咲いたけれどもある面ではあだ花のようなもので定着しなかった。多少、ゆがみは残るがこの時代が最後で織部焼というのは終わってしまう。」


やはり織部の自刃が、織部との関わりのすべてを隠しあるいは世の中から消し去ってしまったと考えたい。織部自刃の理由がわからないが、反逆あるいはそれに近い許しがたい行為があったとみなされ、織部との関わりを疑われれば即わが身にかかわる状況にあったことは容易に想像がつく。

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