茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.336さむしろ2007-11-10 18:09:44.095716
『千利休とやきもの革命』河出書房新社

竹内氏「茶碗をつくるのに、どのくらいの時間をかけるのか?」

渡辺氏「ロクロで茶碗を挽く場合は一分でできるが、デフォルメを加えるると、私は一日に一、二個ぐらい。」
「時間をどれだけかけたかは、表面を見ると確実に現れる。手を加えたことをどれだけ見せるか、長次郎の場合、それを出来るだけ見せないように、織部の場合は大胆に見せている。」

と、作り手の側から造形や高台つくりに長時間を費やすことを説明。
No.337さむしろ2007-11-11 18:42:16.131765
『千利休とやきもの革命』河出書房新社

竹内氏の、なぜ織部スタイルは滅びたのか?との問に、

渡辺氏は「滅びたように見えて、滅びていないと思う。」

と述べている。しかし、だれによって、どのように、いつの時代まで伝えられた(伝わった)かについての説明はよくわからない。
No.338さむしろ2007-11-12 12:59:42.654161
『千利休とやきもの革命』河出書房新社

渡辺氏「志野茶碗「峯紅葉」は、どこから見ても非の打ち所がない名碗」

竹内氏「でも桃山時代にはあまり認められず、認められるようになったのは江戸時代になってからだと思う。茶人が手を出したのは瀬戸黒のようなもので、志野は当時まだ人気がなかったが、たまたま焼き上がりがいいので大事にされ、江戸時代になって注目されたという気がしないではない。」

私は、「峯紅葉」は長次郎一族のうちの一人の手によってつくられ、織部のもとに届けられ、ある時期にある意図をもって東西激突のなかでの重要人物に贈られたとの仮説をたてたい。
No.339さむしろ2007-11-12 19:00:33.214442
「峯紅葉」の伝来を調べてみたところ、四日市の九鬼家の伝来だという。(日本の陶磁2、中央公論社)
九鬼家。九鬼守隆は九鬼嘉隆の長男。慶長2年(1597)家督を相続して、志摩鳥羽3万5千石の大名となる。会津征伐に従軍し、そのまま東軍に属して伊勢湾の警備を務めるが、留守中に父・嘉隆が石田三成の「三ヶ国を与える」という勧誘に乗ってしまう。二つに割れて刃を交えた九鬼家だが東軍が勝利すると、2万石の加増と嘉隆の助命を許される。守隆は喜んだが、既に父は妹婿の豊田五郎右衛門の独断で自刃せしめられていた。領内で守隆は善政を行なったといわれる。
以後、守隆は徳川家に忠実に従い、西国大名の安宅船没収と破却・名古屋城築城工事の鉄の海上輸送など水軍の力をもって事業に尽くした。大坂の陣では徳川軍として参戦。鉄甲船6隻、早船50隻、総勢3千5百人の陣営だった。徳川方水軍の主力となり、冬の陣では野田・福島の戦いで豊臣水軍を破るなど大坂湾の封鎖に貢献。夏の陣では大坂の沿海を警備。大坂落城後は家康の命で沿海にて残党狩りを行った。戦後、1千石を加増される。寛永9年(1632)死去。守隆の生前から起っていた御家相続争いの解決策として幕府は、三男・隆季を丹波、五男の久隆を摂津にそれぞれ分けて、九鬼家を解体。「海賊大名」は消滅した。(大坂の陣白書・大坂の陣人物列伝から引用)

今のところ、九鬼家が峯紅葉を織部から直接入手したのか、あるいは他の誰かを経由して入手したのかは不明であるが、織部の茶会に九鬼が招かれていたなどの状況証拠があると説得力をますことになる。
この九鬼家伝来の経緯次第で光禅説を裏付ける重要な傍証となる。

織部茶会記(全72回)300人(名ある者152人)、古織会附(全49回)277人が招かれているという。その中には大工、塗師竹屋その他の商人・職人も多数含まれているようだ。ただ、それがすべてであるかどうかはわからない。

No.340さむしろ2007-11-13 20:22:38.263336
『千利休とやきもの革命』河出書房新社

渡辺氏の「織部が長次郎から変化したとすると、別の方向に変化したのが高麗茶碗系の御本手、また別の方向に変化したのが光悦になるのではないか。」
との考えに対し、
竹内氏は「渡辺さんにとっては、もとは楽、つまり長次郎がすべてだということですね。(渡辺さんは根本はそうだと肯定)遠州の活躍や、光悦の人気、仁清、乾山が出てきたという事実についても造形理論に取り込まなければならのいのでは」

渡辺氏はこれに対し「そういわれると、私は一言も無い」と降参の体。


ここら辺の展開がさっぱりわからない。
「ある一時期、織部様式の茶陶が人気をはくした。アーティストが作った一品ものがあり、他に職人が作ったコピーもの(あるいは二・三流品)がある。一品ものがいまにいう大名品である。織部様式には織部が深く関与していたので、織部自刃後、災いが及ぶのを恐れた関係の人々は、人・ものとも一切を闇の中に隠し、また隠れてしまった。光悦、仁清、乾山などはまったく別ものであって、どちらが良い悪いの話ではない。」
と単純化したほうがわかりやすいと思うのだが・・・。
No.341さむしろ2007-11-14 17:47:38.264168
『千利休とやきもの革命』河出書房新社

竹内氏は「わかりやすくするには、同じようなものを比べて示す。そして、その相違を明らかにするといい。違ったもので違うといっても、それは当たり前のことになってしまう。」
「いい理論というのは、子供や何も知らない人でも理解できるものだと思う。ある特定の人あるいは自分しかわからないのは理論ではない。」
と言われている。

まことにもっともであり、わたしも十分に気をつけなければいけない。
No.342さむしろ2007-11-15 18:48:16.868114
『千利休とやきもの革命』河出書房新社

渡辺氏「この時代の茶の湯のやきものを見ると、窯詰めのときの技術とか焼き上がりは、壺甕や擂鉢とは比較にならないほど徹底的に丁寧な工夫と努力がなされている。」

竹内氏「多数つくったうちから、最終的にいいものだけを残したということは考えられませんか?」

この部分の竹内さんの考え方が、桃山名品茶陶についての議論が噛合わない出発点なのかもしれない。
現在連載中の動画のなかで、順次名品茶陶の誕生の過程が紹介されるようなので、是非ともご覧いただいて、どちらの主張が正しいか、あるいはどちらもおかしいということになるか、判断の参考としていただきたい。
No.343マスター2007-11-16 17:55:40.124087
愛媛・西条の「ギャラリーかわにし」さんから、開催中の「安倍安人展」の様子が届きました。

店主さんからのメッセージです。
今回の安倍安人展「彩色備前」の店内風景です。
彩色備前は予想以上に好反応です。彩色備前水指5点のパワーはすばらしいですよ。
アベワールドのすごさに観にこられたお客さんは完全に参っています。魅せられています。
No.344マスター2007-11-16 17:57:33.359265
同じくギャラリーかわにしさんから送られてきた店内風景です。
No.345さむしろ2007-11-16 19:43:57.856979
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
「千家の好みと小堀遠州の好みとは」の項
竹内氏「茶碗「わらや」の高台脇にある漆書きの『わらや』や宗旦が書いたものだが、千家のほうでは美濃物はあまり重要視されていなかった。」
「江戸時代は大名の時代。千家流は町衆の茶なので、武家が取り上げるとは違うと思う。もっとも、代々あちこちの殿様の茶堂はしていたが。」
「ただ、全体の美意識の問題として、千家の好みのものではない美濃焼にはあまり価値をみいださなかった。」

美濃焼は千家の好みではなく、また評価しなかったのだろうか?
NO340で書いたように織部自刃とともに織部にかかわる一切(といっていいほど)のものは表舞台から消えた。千家においても同様に、織部とのかかわりは消していったと考えるほうが自然だ。また、今日天下の名品といわれる「一品物」は織部からしかるべき大名、武将等へ贈られ、千家といえども入手は困難で、織部亡き後は、蔵の奥深く仕舞い込まれたと考えれば、そこら辺の事情を百も承知の千家が美濃物を取り上げないことは容易に想像がつくのではないだろうか?
ただ、美意識の問題であり、あながち否定はできない側面もある。あるいはそのようなことを窺わせる資料でもあるのだろうか。
No.346さむしろ2007-11-17 16:19:22.553614
名古屋学芸大学 教養・学際編・研究紀要 第2号 2006年2月「古田織部とオリベ陶」に、織部について、次のような記述がある。

三條界隈の陶磁器出土の話からの展開であるが、「織部屋敷とせと物や町が身近なものになると、慶長の織部茶会も非常に身近なものになってくる。しかも古田織部は当時、弟子たちを連れてせと物や町へ赴いていたことも文献的にすでに知られている。

茶道望月集(享保8年・1723)には次のような一文がある。
『織部殿時分ハ口切前に三条通瀬戸物町へ織部殿好の焼物何によらず瀬戸より数多持参して有しを織部侘の弟子中を連行目利して茶入茶碗花入水さし香合等迄夫々に取らせ侘の弟子中ハ夫にて銘々口切をせしと也 其時分の焼物茶具鉢皿類迄今に沢山に世上に残りしと也 代物ハ其時大かた弐銭目を限しと也 古風成事也 道具の風ハ面白く古織とて一手の宗匠ぞと也 其後古織なとの先達も不出遠州宗旦にてととめしと也』

@瀬戸より多数の焼き物を仕入れていた。A代金は二銭まで。茶道具といえ高価ではなかった。B織部自刃後100年余り後にも多くのヤキモノ類が残っていた。
織部とは関係なく、多くの茶陶類が安価で流通していたことが想像できる。
No.347さむしろ2007-11-18 18:04:19.046318
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、

渡辺氏は「埋蔵文化財研究所の永田信一先生も、「このなかには名品といわれるものはない。これは打ち捨てられて当然だ」と話しておられた。」と。
また、竹内氏の「打ち捨てられた織部でも、焼き上がりには織部スタイルの造形理論があらわれているわけですね?」との問に「そうです。ですからものすごく勉強になった。」と答えている。

どの程度「織部スタイルの造形理論があらわれている」のか興味あるところである。
つまり、造形理論は学んでいるが下手なのか、あるいは真似てそれらしく作っているだけなのか、ということである。
No.348さむしろ2007-11-19 19:50:53.887717
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、

桃山時代(様式)をどのように見るか。
竹内氏「これまでは桃山時代という80年間を一つの概念で見ていたが、研究が進むにつれ、一つの概念ではくくりきれなくて、はじめと中頃と終わり頃にわけることにしたんです。それを判別する方法論も、とても興味があるところで、それが正しいかどうか、もう一度見直したほうがいいのではないかと最近では思っている。」
「例えば、信長が出てきてこうなった、秀吉が出てきてこうなった、利休が出てきてこうなった、というふうに人で説明する。」
また「桃山という時代全体の流れの中で説明できないかと考えている。たとえば古田織部を全面に出さずに、時代の流行という意味で説明できないか、という視点です。」

なるほど、いろいろ苦心をされてはいるようだ。
No.349さむしろ2007-11-20 20:31:21.077595
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
桃山のゆがみはなぜ生まれたのか、の項

渡辺氏「利休と長次郎がいたからこそ、歪みが現われた。」

竹内氏「たしかに、そういってもいいでしょう。」
利休が唐物を学び取る時代を前半として、「後半の利休の選択基準ともいうべき概念は「そ相」といって、粗末な感じのするものを選ぶ。もう一つは和物。それがあるからこそ、ゆがみに至る。ゆがみは突然変異ではないということです。」

たしかに「そ相」は重要なキーワードになると思う。ただ私は、「ゆがみ」という言い方は、彼らがやろうとしたものを見誤る表現であると言いたい。彼らがやろうとしたものは「動き」と「表情」をもたせることであった、と思っている。
No.350さむしろ2007-11-22 17:42:30.797979
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、

竹内氏「そ相なるものと和物が一体化したものが楽茶碗」

渡辺氏「俊寛は利休の精神的イメージをもっとも特徴的・理想的に具現化している作品」
「利休が求めたものは、単に用をなす(だけの)ものではなかったはず」
また「俊寛が楽茶碗の一つの頂点である」とも。
「ある一方向から見た場合、その裏側もわかる。彫刻の造形で見ていくとそうなる。」

竹内氏「渡辺さんのおっしゃることがだんだんわかってきた」

少しかみ合ってきた・・・。
No.351さむしろ2007-11-22 17:45:41.817133
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、

竹内氏「長次郎が頂点だとしたら、それ以降のものはすべて堕落ですか?」

渡辺氏「堕落というより工芸と美術が元に戻ってしまったんだと思う。」

どうも視点違うようだ。
No.352さむしろ2007-11-23 18:52:44.024981
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、

竹内氏「織部というのは、どういう位置づけで考えるか」

渡辺氏「「織部と長次郎は同根」「織部の後、織部以上のものが発展しないというのは当然のこと」「長次郎の造形が時をおかず、ほぼ同時代に織部に引き継がれたことが、特異中の特異な出来事」「長次郎の造形を理解したからこそ、織部の造形が生まれ、織部の造形がそこで消えてしまったのは、後の人がそれを理解できなかったから」

竹内氏「美濃の陶工は例えば俊寛のようなすぐれた作品は見ていないと思うが、どうか?」(渡辺氏は見ていないだろうと、同意)
「古田織部と美濃焼との関係を考えた場合、利休と長次郎との関係のようにはならない。するとなぜ織部焼が生まれたかを別なことで説明できなければいけない」


ここでの竹内氏の指摘は大変良い指摘だ(織部焼を織部様式茶陶の意に解釈する)。伊賀、信楽もそうだし、遠く離れた備前、唐津についても同様の説明が出来る理論でなくてはならない。
No.353さむしろ2007-11-24 16:26:18.789726
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、

竹内氏「(楽茶碗)一文字とか無一物のように、底部に独特な丸みがある茶碗があるが、これをその後の茶碗の変遷のどの方向に当てはめるかということが、目下の課題。天正14年の茶会記に登場する宗易形の茶碗というのはこのような形をいったのかもしれない。」


一文字とか無一物のような茶碗が先に作られたとの見解に私も賛成である。
NO314でも述べたが、一文字とか無一物のような茶碗だけでは、みな同じような形の茶碗になってしまう。そのことが新しい茶碗の形を求めることとなり、ヒントを得て「動き=無限」という造形に至った。そして、その「動き=無限」という造形の必然として「底部に独特な丸み」から張り出した形になっていった、というふうに仮説を立てたい。
No.354さむしろ2007-11-24 19:12:25.519116
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、

竹内氏「もう一つ考えに入れておくべきことは、今、峯紅葉だけが残っていたとしても、他に同じようなものが山ほどあったという可能性もあるわけだから・・・。だから見えない部分も頭に入れておく必要がある」


この部分もご指摘のとおりである。今、このHPで連載中の動画のなかで、安倍さんの「名品解説」があると聞いているが、その中で、名品、例えば峯紅葉(と同形の茶碗)が複数あってその中の特にいいものが現在まで残った、という広く信じられている見解への反証を、特定の名品の制作過程を順を追って説明しながらされるはずである。私は、すでに話として聞いているが、極めて説得力のある説明であったので、見逃しの無いようにおすすめをしておく。
No.355さむしろ2007-11-26 11:28:43.560482
『千利休とやきもの革命』河出書房新社、

渡辺氏「彫刻についてですが、西洋の彫刻の理論が実際に日本に入ったと考えてよいか」

竹内氏「桃山時代を語るということが今回のテーマなわけですから、海外の彫刻理論が入ってきたという仮説だけでは弱いと思う。きちんと証明するためには、裏づけとなることが最低でも三つか四つはないと理論としては弱すぎる。」


この点での材料は今のところ見つかっていない。
No.356さむしろ2007-11-27 19:50:39.053281
しばらく覗いてきた河出書房新社の『千利休とやきもの革命』もおおかた終りに近づいた。
これよりあと「峯紅葉に意味のない線はない」「現代作家はなぜ桃山を超えられないか」などの項があるが、ここでは触れない。

これまで取り上げた発言は部分的であり、必ずしも発言者の真意を表していないかも知れない。もちろん出来るだけ注意は払ったつもりである。

全体として反論を述べた部分が多かったように思う。とはいえ竹内氏が主張される見解が現代の圧倒的多数説であることは間違いない。

しかし今回あらためて読み直して見て、自分の主張への自信を深めた。もちろん大いなる勘違いということも頭の端においておかなければならない。

桃山名品茶陶の解明に興味のある方には、直接『千利休とやきもの革命』河出書房新社にあたっていただきたい。
No.357さむしろ2007-11-28 19:47:04.94724
少し読み返して興味深いところをまとめてみよう。
NO301で「それも備前と京都だけの関係ではなく、信楽、唐津、美濃でも同様であることの面白さ、不思議さ。」「これがやはり、桃山時代の特徴。」
「各地の人たちがつくったのではなく、中央のどこかでつくられたのではないかと推定しようとする発想も、じつにユニークで面白いとは思うが。」

と、不思議さを感じながらも桃山時代の特徴だとして渡辺氏の京都での制作説をユニークと切り捨てている。時代の特徴であんな名品が、京都で、信楽で、伊賀で、美濃で、備前で、唐津で作れるのなら何にも悩む事はない。
No.358さむしろ2007-11-29 17:40:19.055569
NO304で「どちらも同じ範疇にはいるということはわかる。要するに、茶の湯の茶碗にしか使えないという機能限定、用途限定という意味で。」

と述べられているが、
このような限定であれば同じ範疇にはいるものが随分と多くなる。光悦の茶碗だって竹内流の同じ範疇といえるのではないか。現代物にもそのようなものが随分たくさんある。長次郎、織部同根説に対する強い反発が感じられる。
No.359さむしろ2007-11-30 19:21:23.78802
NO305「長次郎は明らかに一人の作家がつくったもの。これに対し、織部は無名の職人たちが当時の流行を受けて勝手につくったもの。」

長次郎ものには数人の手のものがあるといわれている(本書でも他のケ所ではそのように触れられていたと思う。)。また、ここでの「織部」にどれとどれが含まれるのか判然としないが、NO306で書いたように織部茶碗には黒織部、織部黒、緑釉のかかった織部のすべてが含まれているのかもしれない。アーティスト作と職人作ということを含めきちっと区別して話をしないと混乱するだけで話が発展しない。

無名の職人が流行を受けて、美濃はもちろん伊賀、信楽、備前、唐津などでも勝手につくったということになると思うが、どうにもそれは考えられない。
No.360さむしろ2007-12-01 18:11:25.385998
NO307「アブノーマルで、あだ花みたいなもので、そんなに長く続かず、およそ五、六十年で終わっている。」「本当に素晴らしい造形精神であったら、現在でも続いているはず、」

宗易形茶碗の登場(1586)から利休自刃(1591)の間に長次郎の造形は完成していると考えられるので(俊寛の命名が利休によるとの説による)、織部自刃(1615)までの24年〜29年間に名品茶陶はつくられた(自説では長次郎一族の手による)。
また、名品茶陶は、徳川と豊臣の覇権争いのなか、家康の意を受けた織部が、徳川方につくか豊臣方につくかによって勝ち負けに大きな影響を与える武将の調略のために贈ったもの(光禅説)と考えられる。現に花入「生爪」は上田宗箇へ、水指「破袋」は大野主馬へ、そして志野茶碗「峯紅葉」が九鬼家に伝わっていたことがわかった。他の名品茶陶もそうであると想像するが、これについては今後調べてみたい。これらの人たちは古茶会記を残していない(発見されていない、あるいは私が知らないだけ)ので、どの程度茶会を行ったかわからないが、当時の有名茶の湯者達がその名品に出会う機会は案外少なかったのではないかと思う。そして徳川の世となり、織部の役割も終り、そして織部自刃によって織部様式名品茶陶はこの世から完全に消し去られてしまった。

このように考えるので、上の竹内さんの見解に同意できない。
No.361さむしろ2007-12-03 09:35:30.124588
NO312「私はただ単にそういう形になっているに過ぎないと思う。」
「たまたま渡辺さんの目にとまったものがそうなっているのかもしれない。そうでないものもあると私は考えている。」

このところの出発点が間違っている。ある一定のルールで造形されているということの理解がないと、どうしても話がかみ合わない。
No.362さむしろ2007-12-03 18:46:24.530912
NO313「要するに変化に富む形といってもいい。」「峯紅葉は、そういうもののなかではとりわけすぐれたもの。」「すぐれたものをたどっていけば、そういう説明ができるかもしれない」「ただ、何万という織部のかけらがあるわけだから」「そうじゃないものもいっぱいあって、人々の目にとまらずになくなったものもたくさんあるのでは」

NO314「私は、偶然にできた素朴なよさが桃山時代の織部スタイルにあると思う。だから今再現しようと思ってもできないのではないか。」
「茶碗の小さな歪みは作意の過程の偶然の産物。」「偶然の産物の複合体が、たまたま今振り返ると非常によくできているというだけの話のように思える。」
「だから、歪み、造形の一つひとつの意味にとらわれないほうが桃山時代の素晴らしさをうまく説明出来、また現在、なぜ再現できないかも説明しやすい、と思う。」

この部分もNO361と同じく、出発点が間違っているというしかない。偶然とか素朴などということは、こと桃山名品茶陶についてはありえないことである。(一点ごとに設計図があり、完成までとことん追及していくという作り方をしている。安人説)
「今再現しようと思ってもできないのではないか。」というご意見だけれども、安倍さんの「三点展開」による作品は、桃山名品茶陶(織部様式茶陶)と同一の「調子」で出来上がっている。ただ、安倍さんは、同一、直写しのものは一点も作っていないといわれているように、全てが違う作品に仕上がっているので桃山とは違うといわれるかもしれないが、素直に、無心になって安倍作品をご覧になれば「調子」の同一感を感じてもらえるのではないだろうか。
ただ、どうしても「同一理論」を認めたくない御仁は、「仮に同一理論で出来上がっている」と仮定して、ここでの話に耳を(目を?)傾けていただきたい。そうすれば「話としてわかりやすい」ということになるはずである。
No.363さむしろ2007-12-04 18:10:54.661409
NO315「桃山時代、はたしてこれらが本当に人気があったのか?」「今わかっているのは、江戸中頃以降になって人気が出たような気がする。」「検討課題ではあるが同時代の人たちは否定したかもわからない。」
「江戸時代はじめくらい、ぱたっとつくられなくなる。ゆがんだものだけは少し残るが・・・。」
「峯紅葉はある面で、一時期に咲いた特殊な花。」

茶好き武将、大名にとっては垂涎の的であったと思う。上田宗箇が伊賀花入「生爪」熱望したことや、水指「破袋」は大野主馬がかねてより伊賀焼水指を所望していたことが、織部の書状から明らかとなっている。また「峯紅葉」は九鬼家に伝来したことがわかった。

また、
「古田織部は当時、弟子たちを連れて、せと物や町へ赴いていたことも文献的にすでに知られている。茶道望月集(享保8年・1723)には次のような一文がある。『織部殿時分ハ口切前に三条通瀬戸物町へ織部殿好の焼物何によらず瀬戸より数多持参して有しを織部侘の弟子中を連行目利して茶入茶碗花入水さし香合等迄夫々に取らせ侘の弟子中ハ夫にて銘々口切をせしと也 其時分の焼物茶具鉢皿類迄今に沢山に世上に残りしと也 代物ハ其時大かた弐銭目を限しと也」

との記述が正しいとすると、(職人もの、コピーものが)街中で売られていたこととなり、それなりの需要があったことを推測させる。ただ特殊な役割を背負わされた、生爪、破袋、峯紅葉などの名品茶陶は、極限られた人々以外の目には触れることはなかったと想像する。
そういう意味において「特殊な花」といえるかもしれないが、決して「あだ花」ではない。
また、江戸中頃以降になって「人気が出た」のではなく、太平の世となり、織部自刃の忌まわしい記憶も薄れて、わずかではあるがいろいろな形で表舞台に登場するようになったと考えたい。
No.364さむしろ2007-12-05 19:34:46.51399
NO317渡辺さんは、造形の伝承について、
「造形はどこかで、誰かによって継続してきた」との考えを述べておられる。

この説には同意できない。私の考えでは、ここでいう造形理論、造形技術を完全にマスターしていたのは長次郎一族だけである。伝わるとすれば楽家ということになるが、のんこう以降の楽代々の茶碗にはここでいう「造形」の片鱗も現われていないと思う。

また、美濃で焼かれていたということでさえ、昭和になって初めて明らかになったことの意味も考えなければいけない。つまり織部自刃後、美濃窯は歴史から完全に消しさられたのではないかとの仮説である。

またここで想定している古田織部の役回りを考えると、小堀遠州にも伝わっていないと考える。遠州の茶会記や遠州蔵帳にもそれらしきものは登場してこない。
No.365さむしろ2007-12-06 17:13:17.071239
NO324山上宗二記の「惣別茶碗のこと、唐茶碗捨りたる也。当世は高麗茶碗、今焼茶碗、瀬戸茶碗、以下迄也。」との記述から、

山上宗二は「今焼茶碗」と「瀬戸茶碗」を別のものとしていることがわかる。これは当時の茶の湯界一般の使い分けであったと考えていいだろう。
今焼茶碗が楽茶碗を指していることはほぼ間違いないようだが、瀬戸茶碗にはどの手の茶碗が入っているのかわからない。茶会記の原本にあたってみれば、茶碗の図や様子が記されているかもしれない。
No.366さむしろ2007-12-07 18:49:04.692629
志野茶碗が焼かれだしたのは慶長3年以降との説が有力のようである。(ものはら1部NO1019)
「へうげもの」が初めて茶会記に現われたのが慶長4年。
これらが正しいとすると、「瀬戸茶碗」には志野は含まれず、また慶長4年までの間に使われた瀬戸茶碗には少なくとも激しい造形の茶碗はなかったと考える事ができる。

楽茶碗のモデルとの説もある黄瀬戸茶碗(NO237)風のものや黒茶碗(NO230)風のものであったのか?

瀬戸黒がいつ頃現れるのか?天正黒とはどのようなもので、本当に天正時代(1573〜1591)に焼かれたのか?

瀬戸黒茶碗「小原木」は利休所持と伝わっているが、正しいとすれば、長次郎茶碗と瀬戸黒茶碗は同時期あるいは相前後して作られたということになる。
No.367さむしろ2007-12-08 19:29:27.075094
NO329「光悦が楽家に出した手紙には『近くに来ているから、この前焼いた茶碗があったら持ってきてください。それから土も持ってきなさい、こちらでつくります。』と、偉かったこともあるが随分ぶしつけな手紙をかいている。」

光悦の、上の手紙がいつ頃のものか大いに興味がある。つまり織部健在のときに、光悦が楽家を自由に使うことができたのであろうか?という疑問である。
NO330光悦は織部の茶の湯の弟子であったようである。

光悦の作陶を伝える資料では、光悦が元和元年に家康から鷹が峯を拝領してからのようである。つまり織部の自刃後である。また、先の楽家宛書状も、鷹が峯以降のものと思われる。

本阿弥光悦行状記によると常慶、吉兵衛ノンコウの指導や協力によるものであった、とあるようである。

ノンコウ作の茶碗には長次郎と同じ造形はなされておらず、また、光悦の茶碗もなされていない。ノンコウには伝わっていたが封印したということなのか、あるいはまったく伝わっていなかったのかわからない。ただ、織部自刃のとき、ノンコウは16才程度だったようだ。
No.368さむしろ2007-12-09 20:17:49.253494
常慶(1560生)は1635に没しているようである。光悦との接点もあったようであり、ノンコウも指導を受けたと考えられる。伝えようと思えば伝えられなくはなかった。
No.369さむしろ2007-12-10 20:26:22.119216
NO331「都での流行を各地の窯場が察して作り、それらのうち茶人の目にとまったものが取り上げられたのではないか。」
「信楽、備前にゆがみのあるものがあるが、利休や織部が備前などに行ったわけではないので、やはり時代の流行を察知して各窯で作ったと思う。」

上の見解が正しいとするためには、「名品茶陶」は偶然の産物であり、また偶然にできるものである。遠い唐津でも流行を察することができたし、唐津でも偶然にできた。ということが言えなければいけない。

そしていずれの窯場においても失敗作の陶片がなぜ出てこないかの説明が要る。
仮に偶然に出来るとしても、普通に考えれば、一つの名品が偶然できるのには数百あるいは数千という数、同じものを作らないと難しいように思う。陶片が出てこない事はどう考えても不思議だ。

昭和以降も多くの人間国宝や名人といわれた人々が、沢山の名品を写真で見たりガラスの外からあるいは直接手にとって見ながら、桃山名品茶陶に挑戦しながらその域にたどり着けぬまま終えてしまった。それが桃山では、流行を察したくらいでいともたやすくできたということになる。


繰り返しになるがこの部分の考え方の違いが、全体としてちぐはぐな議論に終始させてしまっている。
No.370さむしろ2007-12-11 13:00:02.583625
NO124、NO125で絵唐津耳付花入を紹介した。大変な名品であり、あの手の花入は私が知る限り2点のみである。

発掘陶片を多く載せた図録などをみても、それらしき陶片はない。

あの花入が「時代の流行を察知」して「偶然」に出来たものとは到底考えられない。

もし唐津の陶工が作ったのであれば、あの域に達するまでにどれだけの数をこなしたのだろうか。
そして伝世品ももういくつかあってもいいだろうし、それらの陶片が一つも無いということも考えられないことである。

織部が派遣した今ヤキ候もの共によって作られ、そして持ち帰られたと考えたほうが納得し易いと考える。
No.371さむしろ2007-12-13 12:56:19.930543
NO124の絵唐津耳付花入であるが、以前この花入は瀬戸と考えられていたようである。昭和8年の売立目録には「絵瀬戸掛花生」となっている。

いつ頃から絵瀬戸となったのか大変興味のあるところである。
織部から宗箇に譲られたものと推測しているが、そうであれば唐津ということは双方共わかっていたはずである。そして後代になって、唐津ということがわからず、間違って書付をしたと想像できる。もう一つの可能性は、後代になって入手した場合である。
No.372さむしろ2007-12-14 18:54:29.958255
NO333で、・・・最初につくられたのが赤茶碗「道成寺」のようなハタノソリタル茶碗や赤茶碗「白鷺」のような茶碗であったとすれば、あえてロクロを避けたとの考えはとりにくいと思う。
利休は、侘びを求めてあえてロクロをつかわない瓦職人・獅子瓦職人である長次郎につくらせたと考えたいがどうだろうか。

と書いたが、「道成寺」「白鷺」は決して上手いとはいえない。仮にロクロ技術を持っていたとしたら、そのロクロ技術を封印してまで作るとの発想は生まれないのではないか。長次郎が茶碗作りに入る前にロクロを使っていたか、いなかったかはわからない。伝えられるように瓦職人であったのであれば、細工物には長けていたと思われるがロクロを覚える必要はなかったのではないか。

長次郎作「二彩瓜文平鉢」というのがある(東京国立博物館)。この鉢について、日本陶磁1長次郎、光悦に「轆轤を用いず手捏ねで成形したことは、高台内に残っている指後などからうかがわれる。」と記されている。口径33pの大きいものである。ロクロが使えるのであれば、ロクロで作ったほうが早くきれいにできると思うのだがどうだろうか。
No.373さむしろ2007-12-16 19:33:30.377824
ここまで『千利休とやきもの革命』河出書房新社、から、竹内さん、渡辺さんの考え方をのぞいてみた。多分、竹内さんの意見が大方の専門家の方々の意見であると思う。多数説といっても大がつく大多数説あるいは「ほとんどの人説」といってもいいだろう。

しかし、今回、本書を読み返して見て、多数説には多くの疑問、多くの無理があって、ほとんど成り立たないとの思いを強くした。

2ヵ月半の間お付合いただいた皆さんには、私がこれまで、又、今回主張したことについての理解を深めていただいた(同調するしないは別として)事と思う。

今後、どのような事実、あるいは資料がでてくれば解明が進むといったことも理解されたことと思う。
なにか参考となる資料をお持ちの方は、どちらの説にそったものでも結構なのでご一報いただきたい。
No.374さむしろ2007-12-17 20:06:19.269389
私は、長次郎茶碗は利休の時代に完成したとの前提で話を進めている。
その根拠は、
「東陽坊」 内箱蓋表 東陽坊の書付は利休筆と伝えられる
「俊寛」  内箱蓋表中央の俊寛の二字をしたためた張紙は利休筆とされる
「北野黒」 内箱蓋裏に江岑が「利休判在…」と書付
「禿」   内箱蓋裏にそっ啄斎が「利休所持禿件翁」
などによって、利休所持とされていることによる。ただ、これらからわかるように利休所持を証明したとまではいえない。
No.375さむしろ2007-12-18 21:48:44.619984
「長次郎茶碗は利休の時代に完成」というのは、反証がでるまでは仮に正しいとして話を進める、ということと思っていただきたい。

古茶会記には、セト茶碗、瀬度茶碗が多く現れるが、これがどのような茶碗であるか、瀬戸黒を天正黒といったりするが、はたして天正時代に焼かれたのか、もしそうであれば、瀬戸黒も造形的に完成されているので長次郎茶碗と瀬戸黒は利休時代の同時期ころ制作されたということになる。
利休の指導の下、長次郎が楽茶碗を完成したその同時期に、同じ造形理論で瀬戸黒も完成されていたことになる。
No.376さむしろ2007-12-19 21:58:15.148119
「長次郎茶碗と瀬戸黒は利休時代の同時期ころ制作された」ということは、
瀬戸黒茶碗「小原木」は利休所持と伝えられていることにもあらわれている。

ただこれも「伝えられている」ということであって確かなものとはいえない。
No.377さむしろ2007-12-21 19:08:24.240767
宗湛日記の天正18.10.20(1590)に利休が黒茶碗を用いたとの記載がある。古会記をみていると、今ヤキ茶碗と黒茶碗は区別されているような気がする。
宗湛日記だけをみても、セト茶碗、黒茶碗、今ヤキ茶碗、というふうに三種の茶碗を別ものとしているようにしかみえない。

そうだとすると、黒茶碗が瀬戸黒の可能性がある。
No.378さむしろ2007-12-22 20:22:25.922884
黒茶碗が瀬戸黒であったとしてどのようなものであったのか?

初めは写真のようなものであったと思うが、いつごろから小原木のような造形をされたものになったのか?楽茶碗とどちらが先であったのか?

会記をみる限り黒茶碗より今ヤキ茶碗の方が、登場が早く(宗易形が1586)、セト茶碗と競うように使われている。
1588にクロヤキ茶碗が登場するが、「今ヤキ黒茶ワン」というのもあり、クロヤキ茶碗がどちらを指すのかわからないが、記録者の松屋久政の書き癖をみると、今ヤキとクロヤキ茶碗、黒焼茶碗は別ものと考えたほうがよいのかもしれない。以後黒焼茶碗、黒茶碗、クロ茶ワンが多く使われている。
No.379さむしろ2007-12-23 19:08:27.933512
長次郎茶碗「北野黒」は、利休が北野大茶湯(1587)に用いたことによると伝えられているという。

宗易形茶碗といわれているものではないかと思われる「大クロ」「東陽坊」とは若干雰囲気が変わってきているが、三点展開による造形はされていないようである。

北野大茶湯での使用が正しいとすると1587当時の形をみるうえで重要である。
No.380さむしろ2007-12-25 20:16:55.949819
瀬戸黒茶碗の造形が利休健在の頃に作られたのであれば、長次郎茶碗は利休⇔長次郎は成り立つが、瀬戸黒の利休⇔美濃窯は成り立ちにくい。利休⇔織部⇔美濃窯、と、織部が深く関与したと考えたい。つまり織部は当初から深く関与していたと想像できることになる。

ここでの仮説では、美濃窯はヤキ担当であって、制作は長次郎一族のだれかということになる。
(あくまでも名品茶陶についてのことであるので、念のためお断りしておく。)
No.381さむしろ2007-12-26 19:38:37.438122
日本の陶磁1、長次郎・光悦に、
「常慶印の捺されているものに、一連の織部好みの茶碗と共通した沓形茶碗が作られていることは興味深く、あるいは黒織部となっているもののなかに、宗慶や宗味、常慶の作品が紛れていることもありえないことではない。有名な「島筋黒」などはその一例であり、かつて古田織部の贈箱に収まった黒沓茶碗を見たことがあるが、それも楽焼に近いものであった。」
という記述がある。

一方(楽茶碗)は長次郎、他方(楽以外)は地方の陶工ものという分け方をすれば、「紛れていることもありえないことではない」ということで終わってしまうのも止むを得ない。

桃山名品茶陶が、たまたま出来たものの内、特別に良いものという考え方でなく、造形理論において根っ子の部分は一つであるとの理解があれば、「すごく当然のこと」ということになる。

No.382さむしろ2007-12-28 18:07:59.588039
「島筋黒」なる茶碗を是非とも見てみたいが、手元の図録には見あたらない。
No.383さむしろ2007-12-31 23:08:13.304676
南方録に「島筋黒茶碗、コレハ休公ヨリ玉ワル、天正元年口切ノ時出来ナリ、アタラシキ物ナレドモ、休コトノ外出気ヨシトテ玉ワリ、度々お茶ヲモ上ゲ、其冬春、大方日々コノ茶碗ニテタテラレシ、秘蔵ナリシ也、コレヨリ大ブリノハ古田織部ニ被遣之也」
とある。
No.384マスター2008-01-01 00:02:00.910056
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。
No.385さむしろ2008-01-01 09:30:04.881548
天王寺屋会記(宗達他会記)に志野茶碗が出てくる(1553年)。志野については、大阪城の遺構発掘により、考古学者間において慶長2年を遡らないとの統一見解がなされたという。それでは天王寺屋会記の志野茶碗はなにかという疑問がでてくる。


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