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No.386さむしろ2008-01-01 22:08:51.749049
「堺鑑」に「志野茶碗 志野宗波風流名匠にて所持せし茶碗也 但し唐物茶碗の由申伝」
また、
天王寺屋会記(宗及他会記)に志野茶碗 ひびきわれらの茶碗よりこまかに覚候、なりそへに有之、あめふくりんふかし、土紫也、茶碗うすく候、われら茶碗より少也
とある。「志野」は所持者で、その名を冠したようである。永らく気になっていたが、これで一応解決した。
No.387さむしろ2008-01-02 18:31:31.73598
NO375で、長次郎茶碗と瀬戸黒は利休時代の同時期ころ相前後して制作されたということになる。
利休の指導の下、長次郎が楽茶碗を完成したその同時期に、同じ造形理論で瀬戸黒も完成されていたことになる。
と書いた。
長次郎茶碗は小振り(杵ヲレ8.1禿9.3〜9.6俊寛10.7)であるが、これは利休の好みと考えていいだろう。また利休所持といわれる瀬戸黒茶碗「小原木」も口径10.2pと小振りである。織部の好みは、織部様式のものをみるとわかるように大振りのものを好む。これは「小原木」の利休所持説の信憑性を高めるといっていいだろう。(その他の瀬戸黒、冬の夜10.0、ワラヤ12.1、小原女13.3、ほかに12.2、10.0、10.5、12.3、12.6など)
No.388さむしろ2008-01-03 12:37:08.311861
「桃山陶の華麗な世界」(愛知県陶磁資料館)に「瀬戸黒の成立と展開」(井上喜久男)と題して次の記述がある。

「瀬戸黒は、・・・引出して、急冷させ・・・、茶碗に限られている。瀬戸黒は大窯V期に出現し、最初に瀬戸黒を開発した窯に多治見市・尼ケ根窯跡があり、以前より瀬戸黒茶碗が採集されていたが、1986年の発掘調査によって同1号窯跡で焼かれていることが確認された(NO378の写真の茶碗)。尼ケ根1号窯跡出土の瀬戸黒茶碗は2個体の陶片があり、半筒形で口縁部が僅かに外反して口辺が少し絞られ、腰が丸く箆削り整形され、台形状に高台が削り出されている。(つづく)
No.389さむしろ2008-01-04 09:42:03.226365
−略−。高台内を除いて高台脇まで総掛け施釉され・・・。従前の採集品は腰張りが強い半筒形でやや薄くなる造りのもので、幅広い台形状の輪高台となり、高台とその周辺部は土見せに残して内外面に施釉されている。その器形は1号窯跡出土品と異なり、後出する半筒形の腰丸茶碗が完成する大窯W期に比定されるものである。

その他、瀬戸黒茶碗とは別に鉄釉半筒茶碗が存在し、胴張りの丸腰に薄造り成形されており、丸く撫で仕上げされた高台が付けられているものがある。

大窯W期(推定1580〜90年)の瀬戸黒茶碗は、尼ケ根窯から採集されている瀬戸黒茶碗を端緒として、器高が低いものや胴に箆目と口部に波状の高低が付けられた形への展開が見られ、半筒茶碗の焼成が本格化している。
No.390さむしろ2008-01-05 11:28:09.430147
「胴に箆目と口部に波状の高低が付けられた形」という造形は、長次郎茶碗におこなわれた造形と同一のものと想像できる。

大窯W期が推定どおり1580〜90年であるとすると、宗易形茶碗が登場した1586年から利休自刃の1592年とほぼ同時期となる。
No.391さむしろ2008-01-06 08:30:43.420444
仮に同時期とすると、長次郎茶碗は、利休の指導によって長次郎が造った、ということで異論はないと思うが、では、瀬戸黒はだれが造ったのか。

さきに紹介した、
「私は、偶然にできた素朴なよさが桃山時代の織部スタイルにあると思う。だから今再現しようと思ってもできないのではないか。」
「茶碗の小さな歪みは作意の過程の偶然の産物。」「偶然の産物の複合体が、たまたま今振り返ると非常によくできているというだけの話のように思える。」
という考え方が成り立つのだろうか。

No.392さむしろ2008-01-07 12:38:03.573618
つまり、偶然にも美濃の陶工も瀬戸黒茶碗に「ゆがみ」を施すことを思いつき、それがたまたま三点展開の理論と同じだった、といえるのだろうかということである。
No.393さむしろ2008-01-08 17:39:17.515166
長次郎茶碗のうち造形された茶碗の制作年代については、利休所持の伝来から取り合えず推定している。

瀬戸黒茶碗については、
@大窯W期(推定1580〜90)からの出土、という調査結果
A利休所持の伝来
B天正黒というよび方
C長次郎茶碗に通じる小振りな形
から、天正期の制作の可能性が高いのではないかと推測している。
No.394さむしろ2008-01-09 18:04:48.544331
それではどのようにして美濃で瀬戸黒茶碗が誕生したのであろうか?

シナリオはいくつか考えられる。ただし、利休、織部、長次郎のいずれかの関与なしでは考えられない。

その1
利休が指導して美濃の陶工が作った。
No.395さむしろ2008-01-10 12:01:31.334097
その2
利休の意を受けた長次郎が指導して、美濃の陶工が作った。
 
No.396さむしろ2008-01-11 18:20:27.162756
その3
利休の意を受けた織部が指導して、美濃の陶工が作った。

No.397さむしろ2008-01-12 17:18:16.40953
その4
利休の指示を受け長次郎が作り、美濃で陶工が焼いた。

No.398さむしろ2008-01-13 20:04:11.927939
その5
利休の指示を受け長次郎が作り、織部の指示により美濃で陶工が焼いた。

No.399さむしろ2008-01-14 20:46:30.864132
その6
織部が指導して、美濃の陶工が作った。

No.400さむしろ2008-01-15 18:39:48.570219
以上1〜6のようなことが考えられる。
1、3、6、であるためには利休あるいは織部が三点展開を完全に理解していなければならない。

No.401さむしろ2008-01-16 18:00:35.243738
また、1、2、3、6であるとすると、限られたものとは言え、美濃の陶工が、利休あるいは織部の監視を逃れて制作し、あるいはまたその技術が独自に後代に伝わる可能性がある。

No.402さむしろ2008-01-17 20:35:49.573496
可能性としては以上のものなどが考えられるが、利休、織部は三点展開の理論を理解していた可能性が十分あると思うが、美濃の陶工が理論を理解した可能性は極めて低いと思う。

No.403さむしろ2008-01-18 20:34:13.700773
利休や織部が理解していた可能性が十分にあると書いたが、自分で作る技術をもっていたかとなると可能性は低いと思う。

長次郎に理論を教えたのは、利休あるいは利休と織部と考えたいが、その指導によって身につけた技であっても、長次郎は他人には教えないだろうという気がする。また、利休や織部もそれを許さないだろう。
No.404さむしろ2008-01-19 19:23:13.121839
独占こそ力の源泉となるからである。

No.405さむしろ2008-01-20 19:31:12.117732
造形された長次郎茶碗と瀬戸黒茶碗がほぼ同時代に作られたとした場合、どちらが先に作られたのか?

No.406さむしろ2008-01-22 09:48:47.566358
古茶会記をみると、
1572年「瀬戸茶碗」亭主・納や宗久
1579年に「黒茶碗」が登場する。(松屋会記)
以後、1580年「ハタノソリタル茶碗」
1583年「せと茶碗」(天王寺屋会記)亭主・宗栄
1585年「瀬戸茶碗」(天王寺屋会記)亭主・古田佐介
同年 「セト茶碗」(松屋会記)亭主・上院ノ乗春
1586年「瀬度茶碗」亭主・草部屋道設
同年 「瀬戸茶碗」亭主・小西立佐
同年 「瀬戸」  亭主・曲庵
同年 「宗易形ノ茶碗」亭主・中坊源五

これ以後、今ヤキ、セト茶碗が多く使われ出す。
No.407さむしろ2008-01-22 19:54:42.987219
1579年登場の「黒茶碗」がNO378の茶碗のようなものであるとわかりやすい。

No.408さむしろ2008-01-24 18:12:40.262812
1583年以降登場する「せと茶碗」がどのようなものであったのかについては推測するしかない。
利休所持と伝わるNO237の黄瀬戸茶碗のようなものもあったと思うが、瀬戸黒であった可能性も高いと考えている。
No.409さむしろ2008-01-26 17:09:02.420471
NO406に、
1572年「瀬戸茶碗」亭主・納や宗久
を追加した。
次に瀬戸茶碗が登場するのが1583年であり随分間が開く。数年後、今ヤキ茶碗とともに多くの茶会で使われだす瀬戸茶碗とは別もの(趣の異なるもの)と考えたい。
No.410さむしろ2008-01-26 17:23:31.207936
天王寺屋会記(宗及自会記)をみると、
1579年5月に「せと茶碗(紅花台)」を使っている。
ついで
同年6月「瀬戸茶碗」
同年6月「瀬戸茶碗(紅花台)」とも記されている。

うえの三つは同一の茶碗かもしれない。
No.411さむしろ2008-01-27 19:39:15.001095
早い時期に登場する瀬戸茶碗は写真のような茶碗かもしれない。
No.412さむしろ2008-01-28 19:49:51.131268
あるいは左の写真の茶碗のようなものか。
No.413さむしろ2008-01-28 19:51:19.170242
このような茶碗もあったようである。
No.414さむしろ2008-01-29 18:13:51.150515
紅花台がどういう意味なのかは解からない。
しかし前で紹介したもののうち1579年までのものは、写真三点風のものあるいはNO378風のものだったのではないだろうか。

No.415さむしろ2008-01-30 18:35:33.877229
1586年登場の宗易形茶ワンのあと、今ヤキ茶ワンと競うように使われだしたセト茶碗は前の三碗+一碗とは違うものであると考える。

宗易形茶ワン登場のあとのセト茶碗の使われ方は半端ではない。前の三碗+一碗には、個人的な好みではあるがそれほどの魅力があるとは思えない。また、仮に三碗+一碗のようなものであればもう少し伝世品があってもいいだろう。
No.416さむしろ2008-01-31 20:25:09.458004
「今ヤキ茶ワンと競うように使われだしたセト茶碗」は、古茶会記によると限られた茶人が繰り返し使ったというのではなく、多くの茶人が亭主となって、それぞれ用いている。いっきに広まったようである。

1580年のハタノソリタル茶碗の後最初に登場するのが1583年に宗栄が用いたせと茶碗である。

そして1585年に古田佐介が瀬戸茶碗を用いた茶会を催している。

いずれも宗易形茶碗の登場より早い。
No.417さむしろ2008-02-03 17:13:30.599928
セト茶碗と今ヤキ茶碗の古茶会記への登場回数を調べて見た。

1583年 セト茶碗  1
     今ヤキ茶碗 0
1584年 セト茶碗  0
     今ヤキ茶碗 0
1585年 セト茶碗  2
     今ヤキ茶碗 0
1586年 セト茶碗  14回
     今ヤキ茶碗 5回(注:宗易形茶碗1を含む)
1587年 セト茶碗  23回
     今ヤキ茶碗 19回(但し、ヤキ茶碗を今ヤキ茶碗として数えた、以下同)
1588年 セト茶碗  0回
     今ヤキ茶碗 15回
1589年 セト茶碗  2回
     今ヤキ茶碗 4回
1590年 セト茶碗  3回
     今ヤキ茶碗 21回
No.418さむしろ2008-02-03 17:17:22.247672
1591年 セト茶碗  0
     今ヤキ茶碗 6
1592年 セト茶碗  7
     今ヤキ茶碗 2
1593年 セト茶碗  1
     今ヤキ茶碗 6
1594年 セト茶碗  1
     今ヤキ茶碗 8
1595年 セト茶碗  0
     今ヤキ茶碗 4
1596年 セト茶碗  1
     今ヤキ茶碗 3

No.419さむしろ2008-02-04 19:03:11.19586
NO415で「宗易形茶ワン登場のあとのセト茶碗の使われ方は半端ではない。」と書いたが、落ち着いて調べて見ると上のようになる。

各年の茶会の回数が異なるので登場回数のみでは意味をなさないが、セト茶碗と今ヤキ茶碗の使用回数を割合で比較すると、セト茶碗はいっきに広まったが、今ヤキ茶碗の登場とともに主役の座を今ヤキ茶碗に奪われ、使用回数は激減している。
No.420さむしろ2008-02-05 18:23:05.414664
これらをみると、長次郎茶碗より”セト茶碗”のほうが先に広く用いられたことがわかる。

では”セト茶碗”とはどのような茶碗なのかということにもどることになるが、どうも瀬戸黒しか考えられない。

No.421さむしろ2008-02-06 18:42:31.841911
これまで三点展開による茶碗制作は、まず長次郎茶碗についておこなわれたと考えていた。

ところが、長次郎茶碗より先に瀬戸黒が作られたとなるとその考えは成り立たない。もちろん瀬戸黒が三点展開によって作られているならばの話ではあるが・・・。
No.422さむしろ2008-02-07 12:42:34.189933
写真でみる限り瀬戸黒は三点展開によって造形されているようにみえる。ただ、このことについては安倍さんによく聞いてみたいと思う。

瀬戸黒が三点展開によって造形されているとして、見た感じではおぼこい、ざつっぽい、未熟といった感じを受ける。

これに対して長次郎茶碗は、手馴れた、完成したとの印象を受ける。

このことが制作年代の前後を物語っているのかもしれない。
No.423さむしろ2008-02-08 18:04:36.79558
つまり瀬戸黒の造形は、造形初期を感じさせ、長次郎茶碗は、造形の完成期を思わせるということである。

三点展開理論による造形が、美濃の陶工によって誕生したとの考え方もあるとは思うが、私はやはり長次郎一族説にこだわりたい。

No.424さむしろ2008-02-09 19:33:05.229875
では、何故長次郎が美濃へ行ったのか。美濃でなければならない理由があるのか?

たまたま光禅さんが、本当に久しぶりにお出でになった。当然のごとく食事をしながら飲んだ。

光禅さんは、もし長次郎が美濃へ行ったのであれば引出し黒の製法の習得が目的ではないか、との見解であった。

成る程。それならあり得る。
No.425さむしろ2008-02-11 18:02:16.505102
本来、よそ者が美濃へ行って技術の習得をするなどということはとんでもないことだが、利休あるいは織部の威光をもってすればそうむつかしいことではなかったのではないか。
No.426さむしろ2008-02-12 12:34:18.236334
技術習得も見ているだけでは芸がない。自分で作って焼いて見よう、というのは自然の成り行きであろう。

ただ、ここでいきなり三点展開の造形か、と言われそうな気がしないでもない。
No.427さむしろ2008-02-13 17:39:18.438064
当初長次郎茶碗での造形が先になされたと考えていた。そのためNO194で「無一物あるいは大クロのような形の茶碗が10碗20碗あるいは30碗と増えてきたとき、何か新しい形を求め思案をしたのではないか。あるいは織部にも相談したかもしれない。」ということを書いた。

また、「宗易形茶碗を作り続けていくと、すぐに同一の茶碗が何個も出来てしまい、それでは利休の侘茶の心に適わない。どうすれば宗易形茶碗を作り続けることができるか、相当のあいだ悶々と思い悩んだのかもしれない。」とも。

しかし、古茶会記に登場する「セト茶碗」は、どうも瀬戸黒茶碗ではないかとの思いが強まってきたので、必然的に瀬戸黒茶碗の造形が長次郎茶碗の造形よりも先でないとおかしくなってきた。
No.428さむしろ2008-02-14 14:48:38.123048
瀬戸黒茶碗が先に出来たとして、では、だれが作ったのか?単純に考えれば美濃の陶工が作ったということになる。

ところがこのものはらで一貫して論じているように瀬戸黒茶碗になされている造形は、思いつきで出来るような単純なものではない。理論を持つ者の指導、あるいはヒントをもとにしての熟慮、試行錯誤を経てのみたどり着く程理に則ったものである。

つまり美濃の陶工が作ったというのであれば、その陶工はまさに名人ということであり、以後の作品への展開も必要となる。つまりセト茶碗は今ヤキ茶碗の登場により主役の座を追われ、ときたま顔をのぞかせる程度となって、次の美濃ものの登場は1599年のへうげもので、13〜4年の空白が生じると思われるので、その間の説明が出来ないといけない。

また、他の窯への伝播、つまり楽、備前、信楽、伊賀、唐津等での造形との関係も説明できないといけない。
No.429さむしろ2008-02-15 15:48:48.038469
やはり新しい作意をほどこす事を日夜考えていた(と思われる)利休、織部とその指導下にいた長次郎によって、美濃において初めて三点展開による造形がなされ、出来上がったのが瀬戸黒であつたと想像したほうが、話としては筋が通るように思われる。
No.430さむしろ2008-02-16 18:05:48.272927
「新しい作意をほどこす事を日夜考えていた」ことについて、以前次のような空想を述べた。

「あるとき突然大いなる閃きがあった。それは利休がバテレンと同席していたときである。それは利休の茶会であったのかもしれない。織部が同席していた可能性も大いにある。宗易形茶碗の限界の話が出たか出なかったかわからないが、バテレンが欧州での彫刻の話を始めた。その話を興味深く聞いていた利休は「そうだ!茶碗に「動き=表情」をもたせれば無限になる」と気付いた。利休は、そのまま茶会を終えると、織部にその考えを話し意見を求めた。さぞかし織部も体中が震えるような感動を覚えたのではないだろうか。(もっとも織部も同じことを感じていたかもしれない。)早速、長次郎を呼びつけ、造形、つまり安倍安人がいうところの「三点展開」を説明し、それによって作るよう指図をした。もっともその間いくらかの試行錯誤はあったと思うが、本質を理解してしまえばそうむつかしいことではない。安倍さんも「初めての人に三点展開を教えた後に茶碗を作らせると楽茶碗(の形)になる」といわれている。
なお以上については最初に断ったように「へうげもの」の世界であるので念のため。

と。
No.431さむしろ2008-02-17 15:06:32.815752
なぜここでバテレンが登場するのか?
三点展開による造形は、作者の単なる感覚で押したり引いたりしたものではなく、一定のルールに則ってなされている。
大きなヒントなしで「三点展開」理論を手中にした可能性は、限りなくゼロに近いと考えるからである。
No.432さむしろ2008-02-18 17:58:45.596395
バテレンとの出会いは京あるいは堺を考えていたが美濃も考えられるようである。
「美濃焼」奥磯栄麓著、奥磯太覚写、平成14年3月9日改訂、に次の記述があった。
美濃においては、信長以来吉利支丹が非常に盛んであった。資料によると、
厚見郡  全村数 51  吉利支丹村数 47
可児郡  全村数 49  吉利支丹村数 33
武儀郡  全村数 78  吉利支丹村数 36
各務郡  全村数 29  吉利支丹村数 12

吉利支丹村数というのがどのような数字なのか定かでないが、相当広まっていたであろうことは想像できる。
No.433さむしろ2008-02-19 18:54:58.497309
となると、閃きの舞台が京あるいは堺でなければならない訳ではないので、閃きの場が美濃であった可能性も大いにある。

美濃には、宣教師たちが滞在していた可能性が十分にあるからである。
No.434さむしろ2008-02-20 18:42:51.211527
当時のわが国には、他に三点展開のルールに則って作られたと考えられる造形物はない。

宣教師が、欧州における彫刻理論を理解していてもなんの不思議もない。

逆に言えば、そこにのみその可能性があるといってもいいのではないか。
No.435さむしろ2008-02-21 15:53:56.689511
利休又は(又は及び)織部と長次郎が関わったとして、かねてから思い巡らしていたことを美濃で試してみたのか、いきなり美濃で閃いたので試したのかについても想像するしかない。

利休好みの小さめな茶碗の数の少なさから、利休よりも織部の影響の方が大きかったのではないかという気がしてきた。

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