茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.436さむしろ2008-02-23 17:47:34.985253
NO379で
長次郎茶碗「北野黒」は、利休が北野大茶湯(1587)に用いたことによる。
宗易形茶碗といわれているものではないかと思われる「大クロ」「東陽坊」とは若干雰囲気が変わってきているが、三点展開による造形はされていないようだ。
北野大茶湯での使用が正しいとすると1587年当時の形をみるうえで重要である。

ということを書いた。

ただ、この北野黒をもって、その当時、まだ長次郎茶碗には造形がなされていないと決めつけることはできない。同時に両パターンの茶碗が作られた、あるいはじっくりと熟成させるように一、二年試行を続けた等等、どちらとも断じられない。

No.437さむしろ2008-02-24 10:36:41.683884
いずれにしても造形がなされた長次郎茶碗を(図録で)見て、これは初期のもの、と思えるような稚拙さを感じさせるものはないように思う。

1587年は、前年のセト茶碗14に対し今ヤキ5に続いてセト茶碗23、今ヤキ19と急激に使用頻度が増え、翌1588年はセト0、今ヤキ15と完全に今ヤキの世になつている。

これらの状況から、長次郎茶碗より先に瀬戸黒に造形がなされたと考えるのである。
No.438さむしろ2008-02-25 19:57:14.758142
その後のセト茶碗の使用頻度はNO417、NO418のとおりだが、取り上げた茶会自体が少なく、あまり参考にならないとの考えもあるかと思うが傾向は現われていると思う。

茶会の少なさだが、実際に茶会が行われなかったのか、茶会記を残した茶匠を招く茶会が少なかっただけなのか今のところわからない。
No.439さむしろ2008-02-26 20:20:08.898262
もう少し調べてみた。
1597年 セト茶碗  2
     今ヤキ茶碗 4
1598年 セト茶碗  1
     今ヤキ茶碗 2
1599年 セト茶碗  1「へうげもの」
     今ヤキ茶碗 13
1600年 セト茶碗  0
     今ヤキ茶碗 0
1601年 セト茶碗  0
     黒    1
1602年 セト茶碗  1
     黒ヤキ茶碗 1
1603年 セト茶碗  0
     黒今ヤキ茶碗 1
1604年 セト茶碗  2(黒田筑州:ヒツムツキ候とあり)
     今ヤキ茶碗 0
1605年 セト茶碗  0
     今ヤキ黒茶碗 2
     黒、黒茶碗(京ヤキ也、ヒツム也) 2
1606年 セト茶碗  1
     今ヤキ    1
     黒(亭主織部)、京焼き黒、黒  5
1607年 セト茶碗  0
     今ヤキ   0
1608年 セト茶碗  0
     シュ楽黒茶ワン、今焼黒、クロ、黒  5



No.440さむしろ2008-02-27 20:07:07.55347
1599年のセト茶碗「へうげもの」は特筆すべきものであろう。大きく或いは大胆に変化させたものの初出ではないかと思う。
その後「ヒツム」と書き加えたのが2回あるが、1604、1605の頃になっても「ヒツム」だものが珍しかったのだろうか。

またこの頃の黒茶碗(京ヤキ)、クロがなにを指しているのかはっきりしない。
No.441さむしろ2008-02-28 20:22:59.955252
古茶会記をみる限りでは、ほんのわずか茶会に招かれている程度である。

NO346で、
三條界隈の陶磁器出土の話からの展開であるが、「織部屋敷とせと物や町が身近なものになると、慶長の織部茶会も非常に身近なものになってくる。しかも古田織部は当時、弟子たちを連れてせと物や町へ赴いていたことも文献的にすでに知られている。」

という論文の一部を紹介したが、これをみるかぎり茶会が減ったとは考えにくい。ただ、古茶会記の主役達の登場場面は減ったかもしれない。
No.442さむしろ2008-03-04 19:45:37.32108
「瀬戸黒は茶碗に限られる。すなわち瀬戸の黒茶碗という意味である。」との記述があった。もっともである。成る程と思いながらいると、では「黒茶碗」の中には瀬戸黒もあるのだろうかとの疑問がわいてきた。

また「ちなみに茶の湯の世界では今なお楽茶碗を今焼茶碗と呼んでいる。ただし、慶長年間の記録に記されている「今焼」は、その記事内容から美濃物などが含まれていることを留意する必要がある。」
との記述もあった。
ますます解からなくなる。
No.443さむしろ2008-03-05 19:46:52.271367
そこで記録者ごとの記し方を拾ってみた。
松屋会記(久政)
1586、瀬戸茶碗、宗易形の茶ワン、今ヤキ茶ワン、セト茶ワン、
1587、今ヤキ茶ワン、今ヤキ茶ワン、今焼茶碗、今ヤキ茶ワン、今ヤキ茶ワン、今ヤキ茶ワン、
1588、今ヤキ茶ワン、今ヤキ茶ワン、今ヤキ茶ワン、今ヤキ黒茶ワン、今ヤキ黒茶ワン、
   ヤキ茶ワン、クロヤキ茶ワン、クロヤキ茶ワン、
1589、ヤキ茶ワン、セト茶碗、ヤキ茶碗、
1590、クロヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、黒焼茶碗、クロヤキ茶ワン、セト茶碗
1591、クロヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン
1592、クロ茶ワン、クロ茶ワン
1594、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン
1595、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、

1588年に今ヤキ黒茶ワンが登場する。「黒」を特に書き入れているところをみると、単に「今ヤキ茶ワン」とあるのは「赤」焼であった可能性が高いように思う。
No.444さむしろ2008-03-06 20:19:49.936942
ここでは、セト茶碗については他の呼び方は考えられず、「セト茶碗」で一貫しているようだ。
No.445さむしろ2008-03-07 19:39:32.108989
松屋会記(久好)
1586、瀬度茶碗、瀬度茶碗
1587、ヤキ茶ワン
1588、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、クロヤキ茶ワン
    ヤキ茶ワン
1589、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン
1590、クロヤキ茶ワン、クロ茶ワン、クロ茶ワン、黒茶ワン、黒茶ワン
1591、クロ茶ワン、クロ茶ワン、クロ茶ワン
1593、クロ茶ワン、アカ茶ワン、クロ茶ワン、クロ茶ワン
1594、黒茶ワン、ヤキ茶碗、クロ茶ワン
1595、クロ茶ワン、クロ茶ワン、ヤキ茶ワン
1596、黒茶ワン、セト茶ワン、クロ茶ワン、クロ茶ワン
1598、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、今ヤキ茶ワン、
    ヤキ茶ワン
1602、黒ヤキ茶ワン
1604、セト茶ワン
1606、クロ茶ワン、ヤキ茶ワン
1608、クロ茶ワン
1610、ヤキ茶ワン
1613、クロ茶ワン、
No.446さむしろ2008-03-08 19:53:31.355093
ここでも、セト茶碗と今ヤキ茶碗(赤)と今ヤキ茶碗(黒)をきちっと別けているように思う。
No.447さむしろ2008-03-09 19:07:19.198759
天王寺屋会記(宗及)
1583、せと茶碗
1585、瀬戸茶碗
1586、瀬度茶碗、瀬度茶碗
No.448マスター2008-03-09 20:23:06.271848
「ハワイ・ホノルルのワイキキに安人専門のギャラリー」という話が出ているようです。

「すし」と「日本酒」と「醤油」は今や世界で通用する「食」となった。
中でもハワイでは、一年に一度、日本酒の全ての有名銘柄が一同に集められ、日本酒祭りが行われる。
その日本酒愛飲者は年毎に増加しているという。
なにせアメリカの大金持ちの集まるところ。
常夏のハワイではなんと言っても冷酒。
その冷酒を飲むには”安人の徳利とぐい飲み”と言い始めたのが、ホノルルのマーケットコンサルタント会社と某氏。
彼らの出資でワイキキに展示スペースを用意して、安人の仕事全体と、ワイキキでなければ見られない作品を作らせ展示するという企画。

アメリカ東海岸、西海岸に今度のハワイとギャラリー三店が揃うとすると、これからどんな仕事をするか、
「Artist 安倍安人」のこれからが楽しみになってきました。
No.449さむしろ2008-03-11 19:21:33.048926
永らく”やきもの”に集中していた安倍さんですが、近年、徐々にアート活動を再開していました。
軽い”肩慣らし”から本格的活動へ移りつつあるということでしょうか?
No.450さむしろ2008-03-13 18:19:38.582485
宗湛日記1(神谷宗湛)
1586、茶碗今ヤキ、今ヤキノ茶碗、セト碗、セト茶碗3、今ヤキノ茶碗、セト茶碗6
1587、セト茶碗5、ヤキ茶碗4、セト茶碗2、ヤキ茶碗、セト茶碗、ヤキ茶碗、
    セト茶碗6、ヤキ茶碗、セト茶碗2、ヤキ茶碗5、セト茶碗6
1589、セト茶碗
1590、黒茶碗、セト茶ワン、黒茶碗2、黒碗、セト茶碗、黒茶碗2、
1592、セト茶碗、今ヤキ碗、セト茶碗6
(セト茶碗3、はセト茶碗が3回出現したことを表す)
つづく
No.451さむしろ2008-03-14 18:57:37.361158
宗湛日記2
1593、赤セキ茶碗(赤ヤキ茶碗か?)、セト茶碗
1594、今ヤキ茶碗、黒ヤキ茶碗、ヤキ茶碗2、セト茶碗
1597、ヤキ茶碗3、今ヤキ茶碗、セト茶碗2
1598、セト茶碗、今ヤキ茶碗、ヤキ茶碗
1599、今ヤキ茶碗3、セト茶碗(ヒツミ候ヘウガモノ也)、今ヤキ茶碗3
1601、黒茶碗
1602、セト茶碗、碗黒今ヤキ
1605、今ヤキ碗、黒茶碗、今ヤキ茶碗、黒茶碗 京ヤキ也
1606、黒茶碗、黒茶碗 京ヤキ、黒茶碗2、セト茶碗
No.452さむしろ2008-03-17 20:19:56.935223
1586年に「宗易形の茶ワン」を用いたのは中坊源五であり、また、
1588年に「今ヤキ黒茶ワン」を用いたのも中坊源五である。
「宗易形」「黒茶ワン」のいずれも茶会記の上で初めて登場したのが中坊源五が開いた茶会においてである。

利休とは相当近しかったと思われる。
No.453さむしろ2008-03-18 19:59:24.44631
ウィキペディアに、

・・・。天正14年10月、豊臣秀吉の代官中坊源五は、旧来奈良で使われていた升の使用を一切禁止し、新たな升の使用を義務づけた。この新たな枡は、京都を中心に使われていた升であったことから京枡(きょうます)と呼ばれた。後の新京枡と区別するために古京枡ともいう。・・・(部分)

と中坊源五を紹介した部分があった。代官であったらしい。
No.454さむしろ2008-03-19 20:20:05.275445
長次郎茶碗「北野黒」は北野大茶会に用いられたことによって銘がつけられた、と言い伝わっているということはすでに書いた。
北野大茶会は1587年10月1日に催されたとある。中坊源五の茶会に登場する1年前である。
No.455さむしろ2008-03-20 20:27:37.703487
1583、1585年に登場するセト茶碗が瀬戸黒茶碗であるとすると、今ヤキ黒茶碗が登場する1588年まで5年あるいは3年(北野黒を1587年とすると4年あるいは2年)という年数があることになる。

No.456さむしろ2008-03-21 20:34:55.473216
京・三条あたりの屋内で黒茶碗を焼くには、いろいろと試行錯誤が必要であったのであろうか。

No.457さむしろ2008-03-22 20:37:38.857631
屋内では温度を上げるのが一番大変かもしれない。
No.458さむしろ2008-03-24 22:07:06.058832
安倍さんに聞いてみた。1200度程度であれば、ふいごを使えばむつかしいことではない、とのことであった。
No.459さむしろ2008-03-26 20:36:26.778645
釉薬は、瀬戸黒と長次郎黒茶碗では違うものを用いているということであった。
No.460さむしろ2008-03-29 16:25:40.981582
瀬戸黒は1300度以上、長次郎黒茶碗は1200度程度ということで納得。
どういうものを用いた釉薬がいいのか、またその調合はどうか、この点は色々試してみる必要があったと考えられる。
No.461さむしろ2008-03-31 20:37:24.565779
これまで、見たことがあるがなんとも思わず見過ごしていた。
No.462さむしろ2008-03-31 20:39:30.572919
同じくこれも。
No.463さむしろ2008-03-31 20:40:14.164367
同じく。
No.464さむしろ2008-04-01 19:58:52.976291
同じく。
No.465さむしろ2008-04-01 19:59:25.098698
同じく。
No.466さむしろ2008-04-01 19:59:54.241588
同じく。
No.467さむしろ2008-04-02 12:39:26.46599
いずれの茶碗も「瀬戸黒」を思わせる。

ところが、この中に長次郎時代の楽茶碗がある。
どれが長次郎時代の楽茶碗か当てていただきたい。

なお、瀬戸黒、長次郎時代の楽茶碗は共に時代は良い。
No.468さむしろ2008-04-03 19:56:43.58206
NO461の茶碗について、

黒茶碗 銘枯樽  仙叟書付
長次郎焼のなかでも、古来道安黒と呼ばれる類の作行で、瀬戸黒に極めて類似、高台畳付は広く平ら

と紹介している。
No.469さむしろ2008-04-04 19:36:38.368826
NO462の茶碗については、

黒茶碗 銘力足  箱蓋裏に道安黒茶碗 力足ト云  と如心斎の書付

と紹介している。
No.470さむしろ2008-04-05 18:47:55.833054
NO463の茶碗について、

黒茶碗 銘槙垣 箱蓋裏に 宗味やき茶わん 槙垣 と書付

ほぼ同じ作行の三碗を、長次郎、道安黒、宗味と別々の呼び方をしているのは、後世の古楽に対する認識や判断が極めて曖昧であったことを物語っている。

と書いている。
No.471さむしろ2008-04-06 19:03:28.275478
NO464、NO465、NO466の三碗は瀬戸黒。

思ったとおりだと納得される御仁もおられるかもしれないが、私はNO461、NO462、NO463のような瀬戸黒風の長次郎黒茶碗がその図録にあるとの認識がなかった。以前から見続けている図録の中にあったのに、見落としていたのか、無意識に見過ごしていたのかわからないが、今回見つけて”お!あるじゃないか!!”と少し興奮した。以前から(写真を)探している「島筋黒」なる茶碗も同じようなもののようである。
No.472さむしろ2008-04-07 19:44:41.725748
瀬戸黒茶碗と今ヤキ黒茶碗(造形したもの)は、どのようにして生まれたのか?

最初に瀬戸の陶工が瀬戸黒を作り、長次郎(一族)がその瀬戸黒を真似て今ヤキにその手法を取り入れて作った、というのが大方の見方かもしれない。
No.473さむしろ2008-04-08 19:27:24.869157
日本の陶磁1 長次郎 光悦 (中央公論社)の解説に「常慶印の捺されているものに、一連の織部好みの茶碗と共通した沓形茶碗が作られていることは興味深い。あるいは黒織部となっているものの中に、宗慶、宗味、常慶の作品が紛れているかもしれない。「島筋黒」はその一例。かって古田織部の贈箱に収まった黒沓茶碗を見たことがあるが、それも楽焼に近いものだった。

また、宗味作と伝えられている茶碗が幾碗も残っているが、後世、長次郎でも常慶でもないものを宗味としたようで、極めて曖昧であるよう思われ・・・、

と記している。
No.474さむしろ2008-04-09 19:00:12.361959
わたしはこの”ものはら”で、桃山名品茶陶は長次郎一族によって制作されたとの仮説をたて、その検証を試みている。

三点展開による造形については、利休(或いは利休と織部)の指導により、まず長次郎茶碗において試みられたのではないかと考えていた。

ところが、茶会記に登場する「セト茶碗」をながめていると、セト茶碗はどうも瀬戸黒を指しているのではないかと思えるようになった。

そうすると長次郎茶碗より瀬戸黒が先に誕生した可能性が高いことになる。
No.475さむしろ2008-04-10 18:21:20.535621
では瀬戸の陶工が偶然作ったものが「三点展開理論」に合致していたのか。
それとも最初から「三点展開理論」に則って作ったのか。
(ただし、瀬戸黒茶碗といわれているものすべてが三点展開理論に則ってつくられているということではない。図録等を見る限りだが、未だ完成前との趣きのものが多く、あるいは陶工物が混ざっている可能性も十分にある。)
No.476さむしろ2008-04-12 00:17:30.293074
瀬戸の陶工が偶然作ったものが「三点展開理論」に合致していたとして、その後長次郎(一族)が学び或いは真似て、遂に完成させた、との考えが成り立たないわけではない。
No.477さむしろ2008-04-12 18:39:18.555409
天正年代の後、1590年代になると茶会記への「セト茶碗」の登場が極端に少なくなる。後世「天正黒」と呼ばれることとも併せ考えると1590年代には瀬戸黒の焼成は止んでいたのではないだろうか。

No.478さむしろ2008-04-13 19:16:57.257491
1599年の「へうげもの」茶碗、黒織部、織部黒や同時期(1600年代初頭)と思われる志野茶碗の完成をどう説明するか?つまり、仮にではあるが瀬戸黒の作り手である陶工が1590年代に「三点展開理論」による焼成を休んだとして、1600年頃になっていきなり美濃の陶工の手によって「織部菊文茶碗」「峰紅葉」「卯花垣」などといった大名品が誕生するのだろうか?という疑問である。

ただ、同時期に突然ということには限らず、数年間という時間がある、との反論もあるだろう。
No.479さむしろ2008-04-14 20:36:20.532476
また、安倍さんは織部菊文茶碗の絵付けを見て、これは職人に描ける絵ではないと言っておられた。
このことは織部菊文茶碗に限らず黒織部、志野の名品といわれるものについてもいえることのようである。
No.480さむしろ2008-04-15 19:58:22.430861
このことについては、絵師が茶碗を作ったというより絵付けを絵師に行わせたと考えたい。
これも美濃の一職人の仕事ではないと考える理由の一つである。

No.481さむしろ2008-04-17 18:54:29.212735
あのようなあか抜けたあるいは手馴れた絵の描けるのはやはり京の絵師ではないか、と光禅さんも以前から言っていた。

No.482さむしろ2008-04-22 20:26:10.628632
推測だが「織部菊文茶碗」も、その動向が東西対決の勝敗にかかわる戦国武将の手に渡ったと考えたい。

伝わっているのは、平瀬家、藤田家伝来である。
No.483さむしろ2008-04-23 20:46:02.58069
ついでだが伊賀耳付花生、銘「からたち」は前田家伝来となっている。この花生にも織部からの添え状が添っていたのではないかと想像したい。
No.484さむしろ2008-04-24 20:48:36.103135
なぜかというと、伊賀花生「生爪」に添え状が添っている事はよく知られているが、同じく上田家に伝わった古芦屋桐地紋釜にも織部の添え状がついていたようである。
No.485さむしろ2008-04-25 20:48:13.339042
残念ながら写真の写りが悪く添え状の内容はわからないが、いつかどこかで読めるものが見つかるのではないかと期待している。
(鮮明でない図録の写しを見たため読めなかった。)

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