茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.1さむしろ2011-08-29 23:10:55.448836
我々日本人の多くは「禅」「悟り」という言葉を知っていて、そして会話の中で普通に用いることが出来るが、「悟り」について説明できる人は少ない。もちろん私も出来ない。

悟りへの入り口(?)の一つとして座禅とか公案があると思うが、それもよくわからない。というよりほとんどわからない。

禅宗では、釈迦の教えを代々伝えてているが、このことを「法を嗣ぐ」と云うのだと思われる。

我々になじみの「達磨」さんは、釈迦より二十八代目とされている。達磨はインドより中国に入り、禅の教えを伝えたとされる。達磨は中国禅の始祖となった。
No.2さむしろ2011-08-30 22:20:35.785651
達磨は南インドからやってきて、梁の武帝に会ったが、武帝の問いに対し、ケンモホロロの挨拶で、まるでとりつく島がなかった。そして遠く崇山小林寺に去り九年間ただ黙然として坐っていた。

慧可は小林寺へ行き、座禅中の達磨に弟子にしてくれと頼んだが、達磨はふりむいてもくれない。雪が降ってきて膝を没するまで待ったが、達磨は入室を許さぬ。

雪の中で一夜を明かした慧可は、自分の左の肘を切って達磨の前に差し出した。
No.3さむしろ2011-08-31 22:35:39.251774
入門を許された慧可は「私の心は不安でなりません。この心を安心させて下さい。」と願い出た。すると、達磨は、「不安だというお前の心をもってきて、此処に置け。そうすれば、わしが、安心させてやる」と答えた。

慧可は「不安な心」を必死に求めた。しかし見つからない。そこで慧可は「必死に求めましたが見つかりません」と達磨にいった。

言下に達磨は「安んじ終えたぞ」と言った。つまり不安な心はなかったのだからこれから「不安」ということはもうない。

慧可はこの達磨の答えを聞いて大悟した。


座禅中の達磨の後ろから、切り取った腕を差し出す慧可を画いた掛軸(の写真)を見られたことのある方もおられるだろう。
No.4さむしろ2011-09-01 23:04:25.379935
慧可は達磨の法を嗣ぎ第二祖となった。第三祖は僧燦(そうさん、ただし正字は火偏でなく王偏)である。

彼は四十歳を過ぎてから慧可をたずねて、名も名乗らず、いきなり「私の身に風恙(ふうよう)がまつわりついて離れません。どういう罪業か知りませんが、私のために罪を清めて下さい」と願い出た。

風恙というのはどうもライ病だったらしいといわれている。僧燦は、どこの何物ともわからぬ俗人で、身体が腐りかけていたのである。ライは一名を天刑病といい、天刑とは天罰の意味である。
No.5さむしろ2011-09-02 22:25:06.558324
このとき慧可が言った。「罪をもってきて、ここへおきなさい。そうすれば、わしがたちどころに浄化しよう。」

僧燦(ただし燦は当て字)は、しばらく無言、そして「罪をもって行こうとして求めますが、ついに不可得です。」

すると慧可は「それみろ、罪は無いから捉えることができないのだ。さあ、お前には罪は無い、清められた。」

ここに僧燦が禅の悟りに入る機縁ができた。そこで、慧可はこの肉体の腐りかけた男に僧燦という名前を与えた。

「燦」とは、美しい宝の珠玉のことである。これが後の第三祖である。

かれは「罪無し、本来清浄」ということを体得した。すると、いつのまにか、ライという業病は消えて、あとかたもなくなっていた。
No.6さむしろ2011-09-03 23:32:06.804208
やがて二百歳になろうとする弘忍は、破頭山の主として君臨、彼を慕って神仙の術を学びにくる弟子はもとより、この山の草木、けだものも虫も、風水さえもみな彼の支配下にあった。

ところがこの山に一人の仏教の坊さんが来て草庵をむすび、そのまま住み着いた。やがて大勢の学人が坊さんの風を慕って雲のように集まってくるようになった。それもその筈、この坊さんこそ中国禅宗第四祖大医道信その人であった。このときすでに三祖僧燦の法を嗣いでいた。

神通力の道者弘忍は、内心面白くない。坊さんの門が日に日に隆盛となり、それに連れて自分の門がさびれていく。
仏教の坊主になにほどの力量があろうか、ためしてみようと弘忍は道信のもとに出かけていった。
No.7さむしろ2011-09-04 22:15:54.642915
立ちあがって杖を振ると、一陣の風が雲を運んでくる。神通道者は雲に乗り道信の草庵に乗り込む。ところがいざ道信和尚と対座してみると途方も無い大物、とても敵う相手でない。

「わしの面前に座すのは何物か」と道信ににらまれると、弘忍はすくみあがってしまった。白髪の道者は、自分の歳の半分もない坊さんに平身低頭「あなたの説法を聞かしていただけましょうか」と入門を願いでた。

道信は「わしの説法を聞きたいという汝の願いは、許すわけにいかぬ」とはねつける。「汝はもう老いすぎている。これより発心修行し、仮に悟りを開いても、後進に道を伝え広める時間がない。汝の入門は断る」

老道者は力なくすごすごと引き下がる。これを見た道信は「もしも汝が生まれ変わって再びここを訪ねてくれば、汝の切なる志なれば、願いを許してもよいぞ」
No.8さむしろ2011-09-05 23:52:36.95109
老道者は、杖を引きずってとぼとぼと山を下りて行く。どれほど歩いただろうか、川で洗い物をしている一人の妙齢の美女に出会う。老道者は娘のそばに歩み寄り、慇懃に一礼して言った。
「寄宿し得てんや否や」

娘は驚きながら「あのう、私の家にですか? 父がいいと言えばよろしいですが」と答える。

「ふむ、父親殿がうんと言えばよろしいのだな」
「はい」娘がうなずくと老道者の姿はかき消すように見えなくなった。
仙術を使って娘の腹のなかにもぐり込んで、そこに寄宿してしまったのである。

娘はキョロキョロし、不思議な思いをしながら家に帰ったが、それから見る見るお腹が大きくなってきた。

女の性は周氏、周氏の末娘であった。いかに可愛い末っ子でもふしだらな娘は家にはおけない。娘は家を追われ、人々の嘲笑のまととなり乞食生活をするしかなかった。
No.9さむしろ2011-09-06 22:39:45.944913
月満ちて男の子が生まれた。女はその子を不吉な呪われた子だと思った。そこで心を鬼にして赤ん坊を濁流のなかに投げ込んだ。岸の浅瀬に流れ着いた赤ん坊は、昼には二羽の鳥がやってきて翼で守護し、夜は犬がこれを守護した。

女が恩愛のきずなにひかれ、川へさがしに行くと、すててから七日もたつのに、子供は岸辺で、まるまると太っていた。女は奇異の念にうたれ、たとえ魔性の子でも自分の手で育てようと決心した。
No.10さむしろ2011-09-07 22:53:13.459791
この子は次第に成長し、母と一緒に家々の軒下に立って乞食をして歩いた。子には姓も名もなく、人々は彼を指差し嘲り笑って無姓児(むしょうに)と呼んだ。

無姓児が七歳になったとき、道を歩いていて四祖道信に出会った。道信はこの子の様子に目を留め、感じるところがあったのか、やさしく少年の頭をなでながら「お前の姓は何というのか」と問うた。

「姓は無くはないけど、ちょっと変わった姓で、仏性といいます」

姿こそ少年だが、老道者の悲願の生まれ変わり、並みの童子ではない。道信は、今度は自分から興味をもって、母を口説いて貰いうけ黄梅山の東山寺で出家させ、弘忍(こうにん)と名づけた。(臨済宗では“ぐにん”と呼ぶ。)

弘忍は道信に師事し、その法嗣になった。
五祖大満弘忍大和尚である。黄梅山は大変な隆盛になり「黄梅七百僧」といわれる。
No.11さむしろ2011-09-08 21:05:54.198191
西暦六三六年唐の時代、慧能(えのう)という男が生まれる。慧能は、三歳のとき百姓であった父を失い、極貧の中に育った。

慧能は、大人になっても背が低く痩せていて、顔も醜かった。「生来、矮小醜ろうなり」と書物にもある。一向にうだつがあがらず、薪を売り歩いて母親を養っていた。

ある日薪売りの途中、「金剛経」を誦む声が聞こえてきた。じっと耳を傾けるうち、しだいに心を惹かれ、病み付きとなってどうにかして道を求めたいと思うようになった。読み書きも出来ない男であるが、心の中に菩提心を起こしたのである。
No.12さむしろ2011-09-09 21:40:28.500321
噂によれば、黄梅山に弘忍というえらい坊さんがいて教えを広めているということを聞き、慧能は矢も盾もたまらず黄梅山に登って弘忍に会いたいと願い出た。

当時弘忍は第一級の大善智識で門弟七百人、とても面会など叶うものではないところたまたま近くにおられたのか、とにかく面会が叶った。

弘忍が慧能をみると、身体のいたって小さい醜男で風采のあがらぬ見かけであったが弟子入りを許した。

弟子入りを許されたとはいえ読み書きもできない醜男、くる日もくる日も米搗き部屋で、終日黙って米を搗いていた。
No.13さむしろ2011-09-10 21:52:10.024105
黙々として米を搗く。師が米を搗けと言ったからには米を搗くのが修行と、くる年もくる年も米を搗き続ける。ただ米を搗き、鐘の音を聞き、読経の声を聴き、食事をして一日を終える日々。

五祖弘忍は、ある日、弟子たちを僧堂に集めて、次のように言った。
「汝ら、おのおの、自己の境地を詩に作って持って来い。そのうち最優秀のものに、わしは、わしの位をゆずるであろう。」

今にいう論文のようなものでなく、三、四句の中に、これまでの自分の修行と生命とを全部注ぎ込まねばならない。だからどうしてもごまかすことは出来ない。
No.14さむしろ2011-09-11 22:21:22.835216
七百人の弟子が、みな躊躇逡巡、すくみあがって、手も足も出ない。

ここに神秀という者がいた。この者、生年は不明ながら706年没、れっきとした祖席の英雄。死後勅命によって謚(おくりな)として大通禅師と呼ばれた。

この神秀が、七百人の弟子のうち、弘忍が最も重んじた高弟で、当時最上座にあって、誰の目にも、弘忍の後を嗣ぐのは神秀と見られていた。

神秀もまた自らその思いであっただろう、大いに推敲を重ね、ついに快心の作が出来上がる。
No.15さむしろ2011-09-12 21:49:44.484314
神秀は清書して、壁にはりつける。名前はわざと書いていない。実に見事である。


身は是れ菩提の樹、心は明鏡の台の如し。

時時に払拭して、塵埃を惹かしむる勿れ。


幾千万言を費やしても言い足りない程なのに、それを全部カットして、己のせい一ぱいのところは、ぎりぎりこの通りです、とひと口に言いきる。ここに禅修業の特徴の一つがある。

これを読みくだくと、
身は是れ菩提樹にして清浄身、心は是れ明鏡台の如く一点のくもりもけがれもない。人間の心身とは、本来こういうものである。

しかしながら、その一点のくもりも汚れもない本来清浄の仏性も、なまけて停滞していると、いつのまにか我執のさびが出るし、因襲の埃が積もる。されば、時時刻々に払拭して、塵埃を惹かせないようにしなければならない。

No.16さむしろ2011-09-13 21:49:44.006734
大勢の雲水は、壁に貼った無署名の偈を見て、やがて愛唱するほどになった。
そして、これほどの傑作を成し得る者は神秀上座よりほかにはないと噂しあった。

米搗き男の慧能は、文字は読めないが、雲水の愛唱する偈を聴いて言った。

「そういうものなら、私にもつくれます。どうか、私の言うとおりに書いて下さい。」
「冗談をいうものじゃない。あれはな、お前などの考え及ばぬ深い深い哲理をあらわしたものなんだぞ。」

誰も相手にしてくれるものがいないので、慧能は夜になって一人の小僧をつかまえて、やっとのこと書いてもらい、それを神秀の偈の隣りに並べて貼りつけた。

No.17マスター2011-09-14 13:57:18.626869
ながらく工事中でしたが、姉妹サイト「EDOICHI」の第一期工事が終わり、スタートしました。

http://www.edoichi.org/  

ですのでこのホームページ同様、よろしくお願いします。
リンクについても工事人に依頼していますので、少しお待ち下さい。


No.18さむしろ2011-09-14 23:51:42.610477
米搗き慧能が小僧に頼んで清書してもらい貼りだした偈は、次のようなものであった。


菩提は本樹に非ず、明鏡は亦台に非ず。

本来の無一物、何ぞ塵埃を払うを假らん。

No.19さむしろ2011-09-15 23:14:42.386907
慧能が貼りだした偈を見るや、師の弘忍は驚いた。
それもそのはずで、この偈は、神秀の偈の根本をふまえながら大きく乗り越えて、格段の新境地をひらいたものであった。

心身のことを、菩提樹だ、明鏡台だというけれど樹や台などあるはずもない。なにをとらわれているのだ、台がなければ塵埃もない、どうして払うなどということがあるだろうか。

弘忍は、これぞわが法を嗣ぐ男だと決するところがあったが、米搗き男にいきなり法を嗣がすといえば混乱が予想されたので、その日は宣言をしなかった。

No.20マスター2011-09-16 15:43:30.571027
東北、福島県二本松市にある“大七酒造”のウェブサイトを覗いて見て下さい。

4月に私(安倍安人)が訪れた際の写真と“大七”の名前入りの特注瓢徳利の写真を載せていただきました。

http://www.daishichi.com/


大七酒造は1752年(宝暦二年)創業の歴史ある酒造会社です。

現在の当主 太田英晴さんは十代目になります。

3月11日の東日本大震災の後、福島は大変な状況に見舞われましたが、

来月初旬からは、また酒造りが始まり、お米の出来も良く、心配された放射線汚染も不検出の地域がほとんどだったとの事。一安心です。

また美味しいお酒が出来上がるのが楽しみです。  (安倍)


震災、原発に負けずに頑張って頂きたいですね。 (マスター)
No.21さむしろ2011-09-16 23:54:08.226676
夜になり、弘忍は米搗き部屋に出向く。慧能は、一心に米を搗いている。

弘忍は問うた。「米熟するや否や」 これは最後のテストである。

「米は十分にしらけたのか?」という質問だが、「お前は、しきりに米を搗いているようだが、どんな米を搗いているのか? 十分に搗いたのか? まだ不足なのか?」深い、広い、鋭い質問だ。

これに対して慧能は間髪を入れず

「米熟すること久し、猶お篩を欠くことあり」

米はとっくの昔にしらけています。ただ、篩(ふるい)が残っていて、今丁寧にやっています。と答えた。

身とか心とか、樹とか台とか、そんなものにとらわれることは無い、本来無一物である。塵などが着くはずがない。ましてや払拭など余計なことだ。というのが慧能の偈の意味である。

「悟る」というには、久遠の昔から悟っているのでなくてはならない。気がつかないだけの話だ。だから篩にかけなければいけないのだ。
No.22マスター2011-09-17 18:56:36.497334
師問う
「大七の酒は既に飲すや」

答えて曰く
「買い求めましたが まだ口を切っていません」


(ということで、これより飲んでみます。)
No.23さむしろ2011-09-17 22:06:44.769175
弘忍の、念のための試験は終わった。

深夜、慧能はひそかに師の部屋に入室して衣鉢を受ける。衣は袈裟、鉢は鉢孟(ほう)、ともに嗣法の際に師が弟子に授ける佛佛祖祖の威儀である。これで米搗き男は、一躍佛祖第六番の位に登った。

これでは一部の弟子連中が怒って何をしだすかわからない。そこで弘忍は慧能を連れて九江まで送って行き、そこで舟に乗せて渡してやった。

別れるに際して、慧能に南方に向かうことをすすめ、南方に行ってもすぐに説法をせず、しばらく雌伏すべきことをもさとした。
No.24さむしろ2011-09-18 22:02:25.880019
六祖慧能の話は何度読んでも面白い。本によって詳しいもの、そうでもないものと少しずつ異なる。「瑞雲院法話のページ」
http://www3.ocn.ne.jp/~zuiun/131rokuso.html  の六祖大師の話が適度に詳しく、読み物としても面白いので、慧能の話に興味を持たれた方は、こちらを読まれることをお勧めする。次のその本文を貼り付けて置く。

六祖大師の話

六祖(ろくそ)大師というのは、大鑑慧能(たいかん・えのう)禅師のことである。
菩提達磨(ぼだいだるま)大師から数えて六番目の祖師にあたるので六祖と呼ばれており、中国唐の時代、西暦六三八年から七一三年の生涯とされる。
六祖に関することは、六祖大師法宝壇経(ほうぼうだんぎょう)という一冊の本にまとめられている。そしてその第一章の行由(ぎょうゆう。行状由来)は六祖の伝記になっている。
この伝記部分は物語形式で書かれており、六祖の生涯を興味深く読み進めるうちに、禅の知識も自然と身に付くようになっている。この伝記を元にして六祖の生涯をご紹介したい。
六祖壇経は六祖語録と呼ぶべき性格の本である。にもかかわらず書名が「経」となっているのは、六祖に対する尊敬が並はずれて大きかったことが理由ではないかと思う。
書名に「壇」の字が入っている理由はよく分からない。壇は戒壇(かいだん。戒を授ける場所)を意味すると思われるので、六祖の教えは大乗戒の如きものと見なされていたのかも知れない。
この書物には後世に加筆された部分が多く含まれていると言われ、「ひいきの引き倒し」になっているような部分も目につく。そのためかなり省略した部分がある。

     仏性に南北なし

六祖の父は范陽(はんよう)の人であった。しかし左遷されて嶺南(れいなん)の新州に流され、六祖が幼いときその地で亡くなった。そのため六祖は母と二人で薪を売って生活していた。
ある日のこと、客の依頼でその人の店まで薪を運びお金を受けとった。たまたまその店で一人の客が経を読んでいた。その読経を聞いたとき六祖はたちどころに悟りを開いた。

何を読んでいるのかと尋ねると、金剛経だという。その客が言った。

「我れは黄梅(おうばい)県の東禅寺から来た。そこでは五祖弘忍(ごそ・ぐにん)大師が衆生を教化しており、門人は千人をこえる。大師は常に僧俗に金剛経を読むことを勧め、見性成仏の教えを説いている。この経はそこで聴受した」
六祖は過去世の宿縁により、彼が老母を残して黄梅へ行くことができるように、老母の衣食の費用として銀十両を出してくれる人に恵まれた。
彼は母を安住させるとすぐに出発し、三十日余りで黄梅に着くとすぐに五祖を礼拝した。五祖が問うて言った。

「汝はいずれの人ぞ。何をか求む」

「弟子は嶺南新州の百姓なり。遠く来たって師を礼す。ただ作仏を求めて、余物を求めず」

「汝はこれ嶺南の人、辺境の蛮人いずくんぞ作仏するに堪えん」

「人に南北ありといえども、仏性に南北なし。蛮人の身と和尚と同じからず。仏性何の差別かあらん」

五祖は六祖が大機(だいき)の人であることを見抜いたが、まわりに弟子が大勢いたので、とりあえず作務を言いつけた。
こうして六祖は行者(あんじゃ。出家せずに寺に住んで仕事をする人)となり、作業小屋で八ヶ月間、薪を割ったり、踏み臼で米をついたりした。

     身はこれ菩提樹

ある日、五祖が大衆を集めて言った。

「生死事大(しょうじじだい)なり。汝らはただ福田を求めて、生死の苦海を出離することを求めず。自性不明ならば、福なんぞ救うべき。
汝ら、自らの本心である般若の智慧により、それぞれ一偈(げ)を作りて我れに見せよ。もし仏法の大意(たいい。奥義)を悟らば、衣法(えほう)を授けて六番目の祖師となさん」

大衆は退いて相談した。そして「我ら偈を作って和尚に呈するも何の益かあらん。教授師たる神秀上座(じんしゅう・じょうざ)が必ず六祖となるべし。上座に任せ、我らは偈を作ることをもちいざれ」ということになった。
神秀上座は偈を作ったが、気後れしてどうしても五祖に見せることができなかった。そこで深夜、人に知られることなく、五祖の住む堂の前廊下に偈を書きつけた。

 身はこれ菩提樹

 心は明鏡の台の如し

 時々に勤めて払拭(ほっしき)せよ

 塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむることなかれ

神秀上座は思った。
「五祖大師がこの偈を見て歓喜せば、すなわち我れは法と縁あり。もし堪えずと言わば、迷いと業障(ごっしょう)の深重なるがゆえに法を得べからず」

翌朝その偈を見ると、五祖は言った。

「この偈をとどめて人に与え唱えさせん。この偈によって修せば悪道に堕することを免れん。この偈によって修せば大利益あらん。この偈を読めばすなわち見性を得ん」
門人たちは偈を誦し善哉(ぜんざい。善きかな)と賛嘆した。その日の深夜、五祖は神秀上座を呼んで問うた。

「偈は汝の作なりや」

「神秀が作なり。決して祖位を求めて作ったものにあらず。和尚、慈悲を垂れて、弟子に少智慧あるか否かを看たまえ」

「汝、この偈を作らば、いまだ本性を見ず。ただ門外に到って、いまだ門内に入らず。かくの如き見解(けんげ)をもって無上菩提を求むとも、ついに得べからず。
無上菩提は、自の本心を知り、自の本性を見、不生不滅なることを得べし。念々自ら見て万法滞ることなく、一真一切真、万境自ずから如々なり。如々の心すなわちこれ真実、もしかくの如く見ば、すなわちこれ無上菩提の自性なり。
汝さらに一偈を作って持ち来たれ。もし門に入ることを得ば、汝に衣法を付せん」
神秀上座は作礼して帰ったが、何日たっても偈を作ることはできなかった。

     本来無一物

数日後、一人の童子(どうじ。出家前の修行者)が作業小屋の前を通りながら神秀上座の偈を唱えた。六祖はこの偈がまだ本性を見ていないことを見て取り、童子にたずねた。

「それは何の偈ぞ」

「汝、大師の言うことを知らずや。生死事大なり、衣法を伝付せんと欲す。偈を作り我れに看せしめよ。もし大意を悟らば六祖となさんと。神秀上座が堂前の壁上にこの無相の偈を書き、大師はこの偈をみなに読誦せしむ」

「上人、我れはここで臼を踏むこと八ヶ月、いまだかって堂前に到らず。望むらくは我を引いて偈前に行き礼拝せしめよ」
童子は偈前に六祖を引いて行き礼拝させた。六祖が言った。
「慧能、字を知らず。請う上人、我がために読め」
時に江州の役人で張日用(ちょう・にちよう)という者がおり、偈を声高に読み上げた。聞き終わって六祖が言った。
「我れもまた一偈あり。望むらくはお役人、我がために書せよ」
「汝もまた偈を作る。まことに希有なことなり」
「無上菩提を学ばんと欲すれば、初学を軽んずるなかれ。下々の人に上々の智あることあり、上々の人に智なきことあり。もし人を軽んぜば無量無辺の罪あらん」
「偈を唱えよ。汝がために書かん。もし法を得ばまず我れを度すべし。この言を忘るるなかれ」

六祖は偈を唱えた。

 菩提もと樹なし

 明鏡もまた台に非ず

 本来無一物(ほんらいむいちもつ)

 いずれの所にか塵埃を惹かん

この偈を書き終わると、人々は大いに驚き怪しんで言った。
「奇なるかな。姿かたちをもって人を判断することを得ざれ。何と長いあいだ、肉身の菩薩に米つきをさせてしまったことか」
五祖は大衆が驚き怪しむのを見て六祖の身を案じ、靴で偈をこすり消して言った。

「未だ見性せず」

大衆はうなずいた。

     応無所住而生其心

次の日、五祖はひそかに作業小屋へ行った。小屋の中で六祖は腰に石を下げて臼を踏んでいた。体が軽かったからである。それを見た五祖が言った。

「求道の人、法のために身を忘ること、まさにかくの如くなるべきか。行者、米は熟すや未だしや」

「米熟すること久し。なお篩(ふるい)を欠くことあり」

五祖は杖で臼を三打して帰った。六祖はその意味を理解し、三更(さんこう。午後十一時から午前一時)に五祖の部屋へ行った。
五祖は六祖のために金剛経を説き、応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん。まさに住する所なくしてその心を生ずべし)という箇所で、六祖は一切万法は自性を離れざることを大悟して言った。

「何ぞ期せん。自性もと清浄なることを。自性もと不生不滅なることを。自性もと自ずから具足することを。自性もと動揺なきことを。自性よく万法を生ずることを」

六祖が大悟徹底したことを知ると、五祖は言った。

「本心を知らざれば仏法を学ぶとも益なし。本心本性を徹見すれば、すなわち丈夫、天人師、仏と名づく。汝を第六代の祖となす。よく自ら護念し、ひろく有情を度し、将来に流布して断絶せしむること無かるべし」

こうして五祖は頓教(とんぎょう。頓悟の教え)と衣鉢(えはつ)を六祖に伝えた。五祖はまた言った。
「昔、達磨大師この国に来たるとき、人いまだこの教えを信ぜず。故にこの衣(え)を証しとして伝え、代々相承(そうじょう)す。
法はすなわち以心伝心、みな自悟自解(じごじげ)すべきものなり。仏々ただ本体を伝え、師々は密に本心を付す。衣は争いの元なり、汝に衣をとどめて、伝えることなかれ。もしこの衣を伝えなば仏祖の命脈は滅びん。

汝すみやかに去るべし。人の汝を害せんことを恐る。以後、仏法は汝によって大いに行われん。努めて南へ向かえ。すぐに教えを説くべからず。説けば難起こらん」
こうして六祖は南へ向かった。
No.25さむしろ2011-09-18 22:04:28.581971
密は汝にあり

六祖に衣鉢が伝えられたことを知った大衆は、衣鉢を取りもどそうと後を追った。
その中に陳慧明(ちん・えみょう)という軍人あがりの性格粗暴な僧がいた。彼は一心不乱になって追いかけたので、大ゆ嶺(だいゆれい)でただひとり六祖に追いつくことができた。

六祖は衣鉢を石上に置いて言った。

「この衣は信をあらわす。力をもって争うべきものにあらず」

慧明は衣鉢を取ろうとしたが、山のように重く動かすことさえできなかった。驚きのあまり慧明は本心にたち帰り、白紙になって尋ねた。

「行者。我は法のために来たる。衣のためにあらず。望むらくは、我がために法を説きたまえ」

「汝、法のために来たらば諸縁を放下すべし。一念も生ずることなかれ。我れ汝がために説かん。

不思善不思悪(ふしぜん・ふしあく)、正与麼(しょうよも)の時、那箇(なこ)か是れ明上座、本来の面目(めんもく)」

慧明は言下に大悟し、全身に汗が流れ下った。彼は泣きながら礼拝し、また尋ねた。

「上来の密語密意のほかに、さらにまた密意ありや」

「汝に説くものは密にあらず。汝もし本来の面目を返照(へんしょう)せば、密はすべて汝が辺にあり」

「慧明は黄梅に在りといえど、実に自己の面目を知らず。いま教えをこうむり、人の水を飲んで冷暖自知するが如し。今、行者はすなわち慧明が師なり」

「汝と我と同じく黄梅を師とせん。善くみずから護持せよ」

慧明は拝辞して道を引き返し、後から追いかけてきた大衆に出合うと言った。
「ずっと先まで行ったが、通った跡がない。別の道を探すべし」
大衆はそれにしたがった。慧明はのちに道明(どうみょう)と名を改めた。六祖の名にある慧の字を避けたのである。

     ただ肉辺の菜を食うのみ

それから十五年間、六祖は世に現れなかった。それは彼の悟後の修行の期間となった。六祖はこの間に世の辛苦を受け尽くし、命の危険にもさらされた。
時には悪人の探索から逃れるため、猟師の仲間に入って難を避けたこともあった。猟師は六祖に網を見張らせたが、獲物が網にかかると六祖はみんな逃がしてしまった。
飯時には野菜を肉鍋の片すみに入れ、ただ肉辺の菜を食うのみであった。
十五年後、六祖は法を広める時がきたことを見て取り、印宗法師(いんしゅうほうし)が涅槃経(ねはんぎょう)を講じている広州の法性寺(ほっしょうじ)にやってきた。

時に二僧あって、風で動く旗を見ながら議論していた。一人は風が動くと言い、一人は旗が動くと主張していた。それを見た六祖が言った。

「これ風動くにあらず、旗動くにあらず。仁者(にんじゃ。汝)が心動くなり」

この言葉を聞いて人々は驚愕した。印宗法師が上席へ招いて質問したところ、六祖の返事は簡潔にして文字に依らず、しかも奥義を極めていた。印宗法師は言った。
「行者は定んで常人にあらず。久しく聞く、黄梅の衣法、南に来たると。これ行者なりや」
六祖がそれを認めると、印宗法師は六祖を礼拝し、皆に伝来の衣鉢を見せてほしいと頼んだ。そして、また問うた。
「五祖は何をいかように伝えしや」
「伝えられたものは何もない。ただ見性を論じて、禅定・解脱を論ぜず」
「何ぞ、禅定・解脱を論ぜざる」
「二つあるは仏法にあらず。仏法は不二の法門なり」
印宗法師はさらに多くの質問を発し、ことごとく疑問を解決することができた。法師は歓喜合掌して言った。

「それがしの講経はなお瓦礫の如し。仁者の論議はなお真金の如し」

印宗法師は六祖の髪を下ろして具足戒を授け、そして自ら六祖の弟子となった。六祖は法性寺の菩提樹下において、ついに五祖伝来の法門を開いた。
西暦六七六年一月一五日、三十九歳の時であった。

     遷化

六祖大師は七一三年八月三日の三更、端坐したまま遷化(せんげ。死去)した。末期の言葉は「我れ行かん」であった。六祖壇経は次の言葉で終わっている。

「師は春秋七十有六、二十四にして伝衣、三十九にして祝髪、説法利生(りしょう。衆生を利すること)三十七年、嗣法四十三人、悟道超凡の者その数を知ることなし
No.26さむしろ2011-09-20 23:55:16.241027
唐の時代、雲巌(うんがん)、道吾(どうご)、徳誠(とくじょう)という三人の英傑は、師の薬山のもとを離れて、おのおの薬山の仏法を護持した。
No.27さむしろ2011-09-21 22:43:18.971681
当時は仏教大弾圧の時代で、雲巌は、はるか山奥に隠れ、道吾は、ちまたを遊行し、徳誠は秀州の華亭江に逃れ、渡し舟の舟頭になった。
このことから古来、舟子徳誠(せんすとくじょう)と呼ばれた。

これよりさき、三人の英傑が別れるに際し、徳誠は、雲巌と道吾に「もしこれぞという人物が見つかったら、どうか華亭江の私のところによこしてもらいたい」と頼んでおいた。
No.28さむしろ2011-09-22 23:47:02.313721
道吾に夾山(かつさん)という優れた弟子ができた。よくよくみていると、夾山はその風が、自分より徳誠の法を継ぐほうがよいように思えた。

そこで、道吾は約束を果たすべく、この大事な愛弟子を、徳誠のもとにやった。

No.29さむしろ2011-09-23 23:39:08.327521
夾山は日を重ねてようやく華江亭に舟を浮かべた舟子徳誠に出会う。出会うや否や、舟子徳誠の峻烈な試験が始まる。

No.30マスター2011-09-24 20:11:01.137911
ギャラリーかわにし(愛媛・西条市)で開催中の「安倍安人展 −絵画と陶−」に行って来ました。
画中にマンガっぽい画が入って、実物はどんなだろうと思いながら店内に入りました。
さすがで「マンガっぽい画」が、軽からずかといって重からず調和して、しばし見入っていました。
実物と写真では大分印象が違いました。特に今回は初めて見るシリーズのため、自分の中の修正機能がまったく働かなかったためと思われます。
No.31さむしろ2011-09-24 22:05:45.785624
いくつかの問の最後に、夾山が徳誠の問に答えて何か言おうとしたら、徳誠はいきなり手にもつ櫂で夾山を河のなかにたたきこんでしまった。

夾山は打たれながら舟にのぼると、徳誠はなおも「言え、言え」と迫る。そこで、夾山が何か言おうとすると、間髪をいれず、ふたたび河にたたき込む。

夾山はいうべき意欲も尽き果てて、舟べりに手をかけ、「点頭三下」・・・三度うなずいて見せた。

この瞬間、夾山は大悟徹底した。

徳誠は、夾山の手をとって引き揚げてやった。
No.32さむしろ2011-09-25 21:40:47.286161
かくして仏仏祖祖の大法は、夾山に伝えられた。進歩に非ず、退歩に非ず、不増不減、ただ先人の法を継ぐ。

仏教大弾圧の時代、師弟が一緒にいては危ない。徳誠は舟を岸につけて、夾山を去らせた。

夾山は幾度も、師を振り返って見ながら、なかなか去らない。
このとき舟子徳誠は言った。

No.33マスター2011-09-26 19:08:57.099632
加納美術館(島根・安来市)で、安倍安人の新作展示を開催中。

http://www.tmblog.jp/1050.html
No.34さむしろ2011-09-26 23:22:56.049929
「夾山よ、お前は、まだわたしに未練があるのか。幾度も振り返るが、お前はまだわたしに不伝の法が残っているとでも思うのか。もう全て伝えて、わたしには何一つも残っていない。」

こういうや否や、舟子徳誠はみずから舟を引っくり返して、溺れ死んだ。

伝えること、継ぐということは、かくも凄まじいものであったという。
No.35さむしろ2011-09-27 23:29:04.831419
雲居禅師(1659年77歳没)が一宙に参じたとき、同じ座下に鐡牛(てつぎゅう)がいた。

鐡牛という坊さんは、俗名の方が有名で、塙團右衛門直之のことだ。

塙團右衛門は主君の加藤嘉明と意見が合わず、主君を見限って「天下の浪人」となり、諸方を遊歴した。
No.36さむしろ2011-09-28 22:29:58.618625
豪快無双の武勇伝は、大部分はその頃の彼の足跡に尾ひれをつけたものである。
(マンガでこの豪傑に親しんだ方もあるかもしれない。)

しかし本当は、彼は世を捨てて仏門に入り、一宙に参じて参禅し、相当深いところまでいった人である。

鐡牛という名前は、しかし、やはり豪傑、塙團右衛門の面影を残しているように思われる。
No.37さむしろ2011-09-29 22:15:26.371926
鐡牛は、青年僧、雲居を親身になって激励し、金を出してやって修行のため諸方を廻らせた。

雲居は鐡牛のおかげで、当時の俊傑、愚堂、大愚などと親しく交わり、自らを磨くことが出来た。

ところが慶長19年、豊臣と徳川とが断絶するや、鐡牛は再び塙團右衛門に戻り、大坂城に入った。
No.38さむしろ2011-09-30 22:01:14.276206
真田幸村、後藤又兵衛などという豪傑に伍して一方の大将になった。

旅の途中、これを耳にした雲居は大坂城にかけつけ、塙團右衛門に会って共に戦いたいと申し出た。

しかし、さすがに塙團右衛門は鐡牛だ。お前の道はこんな修羅のの場ではないと、雲居の申し出を許さない。
No.39さむしろ2011-10-01 22:38:16.325949
冬の陣、夏の陣と続き1615年、大坂城は落城。雲居は戦場に潜入し、戦死した塙團右衛門の遺骸を探し出し、厚く葬った。雲居33歳の頃であった。

彼は再び旅を続けた。旅の途中、雲居は、師の一宙和尚が関東方に捕えられたという噂を聞いた。

その理由は、一宙が塙團右衛門をかくまったことがあるからだという。しかし本当の理由は雲居を捕えたいがためであった。一宙を縛れば必ず雲居が出て来るとみたからだ。

果たして雲居は自首して出た。
No.40さむしろ2011-10-02 23:02:15.534348
雲居はすでに相当深く道を得ていた。

雲居は断固として一宙和尚の釈放を要求した。雲居の態度は、天地を動かし、鬼神を哭なかしめるほどのものだったという。

ついに徳川家康の耳に入り、家康が直々に裁定した。「たとえ出家の身でも、義はあるだろう。塙團右衛門の遺骸を葬ったからといって関東への敵意とみることはできない。」

雲居と師の一宙はともに許され、再び妙心寺に帰り、妙心寺第一座となった。
No.41さむしろ2011-10-03 22:53:09.605018
前歴がながくなったが、雲居という坊さんはそこかしこにいる坊さんとはわけが違った。

雲居は、また旅に出た。若狭・小濱で雲居のために寺を建立する者あり、雲居は留まって禅を説いた。

やがて、ぼそぼそと不平・悪口を言うものがあり、やがて雲居の耳に入る。すると、ある夜、雲居はさっさと出て行ってしまった。
No.42さむしろ2011-10-04 23:11:35.000873
旅姿の雲居、一つの笠、一つの杖だけの雲水だが、各地で大いに禅を説いてまわった。

やがて耳にした後水尾上皇も雲居を召して、禅要を問うた。

伊達政宗が雲居にぞっこん惚れ込んだ。政宗は最大の礼を尽くして雲居を松島瑞巌寺へ招いた。しかし雲居はウンと言わない。政宗はよほど無念だったらしく、死の前、わが子忠宗に、和尚を瑞巌寺に招くことを託して、七十二歳で没した。

やがて伊達家からの特使、父子二代にわたる懇望に、ついに雲居は招きに応じた。
No.43さむしろ2011-10-05 21:08:08.972552
行くと決めたら早い。奥州に向けて乞食、野宿の旅である。
野原の一軒家を見つけて一宿を頼んだところが、なんということか、山賊の棲家であった。

「身ぐるみそっくりぬいでゆけ。」

「金は持たぬが・・・、おっそうじゃ。仙台からもろうたものがあった。ほれっ、これで全部だ。」

雲居はこう言うと隅の方に枯れ草を集めてその上に座る。

山賊たちが、「有り金」の入った皮袋を開けてみるた、なんとピカピカと光り輝く小判が百両。

「あの坊さん、狸ではないか、狸ならこの小判も明日の朝には木の葉になってしまうぞ。」

「それにしてもあの坊さん、まるでほとけさんみたいだな。」

ああだこうだの話は、やがて、俺たちは悪いことばかりやってきたから地獄へ落ちてしまうんだろうか、という話になった。
No.44さむしろ2011-10-06 22:35:26.065866
山賊どもの話しはボソボソと夜明けまで続く。

山賊は、坊さんの座っているところに近づき、
「もし、坊さん、さっき仙台からもらったと言いなすったが、もしかして殿さんに呼ばれて仙台にいかれる偉い坊さんですかい?」

「そうだ、それがどうした」

「三人で話したんですが、あっしらのように悪行を重ねた者はどうでも地獄にいくしかないんでしょうね・・・。」

「そんなことはない、懺悔さえすればよい」

山賊どもは弟子入りを願い出る。

「本気でたのむのであれば許すぞ、わしについて仙台に来い」
No.45さむしろ2011-10-08 07:28:32.204319
仙台候は、いよいよ雲居大和尚が着くということで城下外まで出迎えた。

先発隊が、よれよれ黒衣に破れ笠の乞食坊主と、見るからに山賊三人と出会い、怪しいやつと、捕え、詮議したところ、これぞ雲居と三人の弟子であった。

瑞巌寺に入り開堂するや、大衆きたり参じ、威儀ととのい、僧堂の規矩粛然、名声とどろきわたった。
No.46さむしろ2011-10-09 00:28:37.902298
「青年僧、雲居を親身になって激励し、金を出してやって諸方を廻らせた」のが鐡牛こと塙團右衛門。鐡牛のおかげで、自らを磨くことが出来た。

冬の陣、夏の陣と続き1615年、大坂城は落城。雲居は戦場に潜入し、戦死した塙團右衛門の遺骸を探し出し、厚く葬った。

塙團右衛門の男子三人。嫡男は、母方の姓「櫻井」を名のり広島・福島家に仕え、他の二人は、伊賀上野、遠江へそれぞれ身をかくした。

嫡男は、福島家の改易で武士を捨て、広島の北・可部、県北・高野、を経て、やがて奥出雲・上阿井内谷の地でのたたら業(砂鉄による製鉄)が隆盛となる。
No.47さむしろ2011-10-09 21:56:27.911159
櫻井家。右手に御成り門が見える。
No.48さむしろ2011-10-11 10:03:29.769175
松平不昧公をお迎えするため、御成り書院が築造され今に伝わっているが、御成り時の飾付で茶会が催された。

安倍先生と友人のミラーさんも、遠路参加され、別室で、櫻井家当主としばし歓談。(2008.11.3)
No.49さむしろ2011-10-12 00:07:24.421755
僧堂で行われた「問答」を覗いて見よう。


一僧あり、馬祖に請うていわく「すべての言語を離れ論理を超えて、師よ、私に、祖師西来の意を端的にお示しください」


馬祖とは馬祖道一のこと、唐時代の巨匠。
慧能 − 南獄 − 馬祖 と続いて、馬祖の弟子が西堂智蔵と百丈懐海である。

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