茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.50さむしろ2011-10-13 00:00:21.104707
馬祖の門下には、ほかにも多くの大人物がキラ星のごとく並ぶ。

この一代の巨匠、馬祖に向かって一人の僧が「祖師西来の意」を問うたのだ。

その問い方は尋常でなく、原文からの直訳は「四句を離れ百非を絶して、請う、師、某甲(それがし)に西来意を直指せよ」となる。
No.51さむしろ2011-10-13 22:35:35.944391
「祖師西来の意」というのは、祖師は達磨のこと、西来の意とは、達磨が西のインドからはるばる中国にやってきた意(目的)ということになる。

「それは禅を中国に伝えるため」といいたいが、それでは祖師はなぜ九年も石壁に向かって坐っていたのか、ということになり、祖師西来の意はおいそれとわかるような、なまやさしい問題ではない。
No.52さむしろ2011-10-15 00:16:04.207277
祖師西来の意を短く「祖意」ともいい、「禅の究極的意義」というほどの一般的意味合いとなる。

ところが、この僧の問いは、単純に禅の究極的意義を問う単純なものでなく、言語を離れ、論理を超えて、禅の真髄を、まわりくどい媒介など抜きにして、端的に示してほしい、と言ったのである。
No.53さむしろ2011-10-15 23:40:17.897563
説明は続く。

何か一言言えば、すでに言語であり論理である。生と言えば死に対し、然りと肯定すれば否という否定に対立する。

このとき馬祖は次のように答えた。

「わたしは今日大変疲れているので、お前のために説明してあげることができない。だからその問題は智蔵のところに行って尋ねるがよい。」
「我今日労倦(ろうけん)す、汝が為に説く能はず、智蔵に問取し去れ」


この答えは、本当につかれているとも、あるいは逃げたともとらえられなくないが、次のように解説している。


すなわち「この回答は、驚くべき重大事をひそめていて、その聲雷のごとし」と。


わからん。
考え込まず、読み流したほうがよさそうだ。
No.54さむしろ2011-10-16 22:51:02.583345
僧は言われるままに智蔵のところに行き、同じことを聞いた。

智蔵は「そんな難しい問題を、どうして馬祖和尚に聞かないのだ」

「和尚があなたに聞けと言われました」

「そうか、しかし私は今日頭痛で、残念だがお前のために説くことができない。海兄(かいひん)に行って尋ねたらどうか」

海兄とは、馬祖門下の高足、百丈懐海だ。百丈は西堂より十五歳ばかり年長。この問答があったのが、馬祖の八十歳前後とすれば、百丈は六十八、九歳、西堂は五十三、四歳で、いずれも円熟期に入る頃だ。
No.55さむしろ2011-10-17 23:41:21.418122
こうまで言われても僧は、なおわからず、のこのこ百丈のところに行って同じことを問うた。

「そのへんのところは、わしにもわからん」
百丈はこう言って、きっぱりはねつけた。「我這裏に到って却って不會」そんなことはかいもくわからない。

そこで僧は、ふたたび馬祖のもとに行き、こうこうしかじかでしたと報告した。すると馬祖は、
「智蔵の頭は白く、懐海の頭は黒いぞ」


話はこれで終わるが、馬祖の最後の言葉で、僧はさとりをひらけたかどうか、何も書いてないのでわからないそうだ。
No.56さむしろ2011-10-19 00:11:59.709573
最後の一句「智蔵の頭は白く、懐海の頭は黒いぞ」が、結局、わかったかわからなかったか。

言葉にして言えば、即四句百非に陥り、言語、論理の相対界に堕ちる。
ぼんくらが、喝をとばせば、喝が百非に堕ちて目もあてられぬことになる。

それでは、この問答は結局、言葉も及ばず思考も不可能で、永久に神秘の闇におくか、思慮も分別も及ばずと、放棄すべきか。

道元禅師は「思考で理解できぬ話というもの」はない、と強く主張しておられる。

宏智は、この馬祖の古則について「薬の病と作る前聖に鑑みよ」と言っている。薬は病気を治す効能をもっているが、どうもこの薬が病気の因になることがある。

釈迦は凡夫の心の病を治癒するために五十年間も教えを説き、大いに病人を治した。

しかし、この教えの言葉や論理に執着して形式主義に陥ると、薬であるはずの教えが、かえって病人をつくり出す。

このように祖師達の一句は後々まで、“教材”となって、解釈・評価が試みられることになる。
No.57さむしろ2011-10-19 23:48:16.330913
大珠慧海は唐時代の人、西堂智蔵や百丈懐海などとともに馬祖の門下で、師事すること六年でその法を継いだ。他にも南泉、大梅など馬祖門下には古今並ぶものなき大英傑が居並ぶ。

僧あり、あるとき大珠に向かって、
「師は今もなお、いろいろと心の功夫(くふう)をされますか」と問うた。
No.58さむしろ2011-10-20 23:02:00.110567
「もちろん(功夫をつづけている)」

「では、一体どのような功夫をされていますか?」

「腹がへったら飯を食い、疲れたら眠る。これを一所懸命に功夫している」
(原文からの直訳:飢え来たれば飯を喫し、困じ来れば即ち眠る)

僧は腹の中で、「そんなことは当たり前じゃないか。腹が減ったら食らい、疲れたら眠るでは、なんの変哲もない。しょうもない話を聞いてしまった。」

そこで「全ての人々は、師と同じように、毎日飯を食い眠っていますが、彼らも皆、師と同様大いに功夫しているという事になるわけですね。」 この僧は皮肉の一撃を食らわした気分である。

「いや同じではない、まるで違う。」

No.59さむしろ2011-10-22 00:19:04.275959
「他は飯を喫するの時、飯を喫することを不肯なり、百種須索す。睡時に睡を不肯なり、千般計較す。所以に同じからざるなり」

「皆は、飯に集中せず、いろんなことを考える。皆は、ただ眠るだけでなく、いろんなことに思いをはせ、思い悩む。だから同じでない。」

No.60さむしろ2011-10-23 00:27:13.863461
麻谷宝徹(まよくほうてつ)禅師。馬祖の法を受けついだ大哲人で、すべての束縛から解放された自由自在の人で、世の人々は禅師を生き仏さまといって、この上なく敬っている。

その宝徹禅師が、扇を使っておられた。
ああやって、しきりに扇を使っておられるところは、世間普通の迷える凡夫と一向に変わらないようだ。
No.61さむしろ2011-10-23 22:08:00.517779
さいぜんからこの様子を見ていた一人の僧、思うところがあって宝徹禅師の前に進み出て、丁寧に一礼して、それからおもむろに切り出した。

「師よ、風性(ふうしょう:空気の性質)というものは、いつでもどこでも、あまねくあるもので、天地のあいだ、鼠の穴にまで常に存在するといいますが間違いありませんでしょうか?」

「そのとおりだ。風性は常時、且つどこにでも遍満して、ないところはない。」

「風性がそういうものだとすれば、師よ、あなたは、どうしてわざわざ扇をつかわれるのですか」
No.62さむしろ2011-10-24 23:46:40.154769
「ほう、これはこまった」

「何時でもどこでもあるのが風の本性とすると、さらに扇を使って風を起こそうとされるのは、おかしくはありませんか」

「そなたは、風というものが常にあるものだということはわかっているようだが、どこにでも、あまねくあるものだということは、まるでわかっていない」

「さようでしょうか。それなら風性はどこにでもあるという道理をお示し下さい」

このとき宝徹禅師は、黙って、ただ扇を使うだけであった。

この僧は、はっと気がついた。そして、禅師の前にひれ伏して、禅師を礼拝した。

これは千年前の中国での話である。
道元禅師は、この話をかかげて「仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし」と言われている。
この話こそ、本当の仏法の原理を説き明かしたものだと言われたという。
No.63さむしろ2011-10-25 21:29:33.127509
「仏法の証験、正伝の活路」といわれてもさっぱりわからない。

次のように解説している。

―― 真理というものは、この大宇宙に遍満していて、いつでも、どこでも、あまねからざるなしであるから、身を奮い起こして実践すると、どんな時代や環境のもとでも、かならずそれが現れて、涼風が吹いてくるのである。―― 


真理は世の中に満ち溢れていて、この「真理」に気付いた者が悟った者ではないかと思われる。
No.64さむしろ2011-10-26 23:45:05.483144
唐の哲人、趙州(じょうしゅう)の話。

ある日、趙州が大勢の学者を前にして語った。

「天地の大道を手に入れて、これをわがものにするのは、たやすい。その秘訣は、知的に取捨をせず、情的に愛憎しないことである。されば、わたしは天地の大道というものにも、取捨の念を動かさない。ましてや、これを手に入れて、自由自在になろうなどとは、思いもしない、そんなことはみんな取捨であり、選り好みであり、愛憎だ」

このとき、一人の学者が趙州に問うた。
No.65さむしろ2011-10-27 21:29:04.475156
「師は何ものにも取捨の念を動かさず、いかなるものをも愛憎しないといわれますが、そうなると吾らはいったい何を求めたらよいのか、さっぱりわかりません。吾らが大切にすべきものは何か、改めてお示し下さい」

趙州は、
「われもまた知らず」
と答えた。

学者はさらに趙州を追及する。


No.66さむしろ2011-10-28 21:11:11.893069
「何を求むべきか、何を大切にすべきかをも知らずして、大道がどうとか、自由自在がどうだとかいうのは、まったく理に合いません、おかしいではありませんか」

返答に窮しかにみえた趙州は、

「事を問うことは即ち得たり。礼拝し了って退け」

―― 事を問う、つまり事物の理を追求することは、汝すなわち得たり、見事じゃ、よくやった。もう、それ以上いうこともあるまい。型のごとく礼拝をすませて出て行くがよい。―― 

もう少し解りやすく、
おまえは、まったくえらい。堂々たるものだ、理路整然とやった。それだけ弁ずるということは十分に解っているのだろうから、礼拝をして帰っていいぞ。

No.67さむしろ2011-10-29 23:30:20.552137
事を問うことはすなわち得たり、礼拝し了って退け。

問事即得、礼拝了退。これは、実に手痛い。
寸鉄骨をさすとは、このことだ。
このとき、学者は今までの気負った意気もどこへやら、一ぺんに、ぺちゃんこになって、首を垂れたことだろう。


と著者は評している。

僧堂での問答、雰囲気を少しだけでも感じていただけただろうか。
No.68さむしろ2011-10-30 23:33:37.712665
原坦山は曹洞門の英傑。安政から明治にかけての人。

青春時代ある娘と恋におちた。ところがこの娘、ほかにもう一人の恋人をつくった。

これを知った坦山は怒り狂い、大刀を持って女の家に走った。ところが女は不在。仕方なく女の帰りを待った。

待つ間にふと目にとまった書物の一節にハッとし、反省、そのまま逃げ出した。これが出家につながったらしい。
No.69さむしろ2011-11-01 00:06:53.215372
坦山は、弟子の雲水に向かって言った。

「どうだ、お前たち、女を見て淫欲がおこり、困ることがあるだろう。わしにも覚えがある。しかし、困ったのは41歳までで、その後は離脱して微塵もその念がなくなった」

ものごとに打ち込めないと、そのすきに余念が入ってくる。その余念は、すべて浮気である。
異性のことばかりではない。いろいろの余念が湧いてきて、浮気は一生続くことになる。
No.70さむしろ2011-11-01 23:51:20.904307
坦山が仲間の僧と旅をしている途中、川の岸にでた。橋がない。たいして深くないので、歩いて渡ることにした。

ふと見ると、同じ岸に一人の妙齢の娘が困っている様子。仲間の僧は、それには目もくれずさっさと渡ってしまった。

坦山は、
「どれ、わたしが渡してあげよう。さあ、わしの肩につかまって・・・」と女を抱き上げて渡してやった。女は、赤くなりながら礼をいう。

坦山は仲間の僧を追う。仲間の僧はブスッとして口をきかない。はなはだ不機嫌である。小半里も歩いてから、その僧は腹にすえかねという様子で、
「出家の身でありながら、女を・・・・・しかも若い女をだくという法があるか」

「なに、女?女ってどこにいる」

「だまれ、お前は、さっき川のところで、きれいな女をだいたじゃないか」

「なんだ、あの女か。さては、貴公は、あれからずっと今まで抱いていたのだな。ワッハッハ、おれは、あのとき、すっぽりと、おろしてきたぞ」


ここには痛烈な禅機がひらめいている、という。
かんじてみていただきたい。

No.71マスター2011-11-02 11:20:26.940258
大宰府天満宮・宝物殿(福岡)

「安倍安人展」

 期間 平成24年5月19日〜8月29日


加納美術館(島根・安来市) 加納美術館 特別企画

―古備前から現代へ―  
「 金重陶陽・安倍安人展 」

 期間 平成24年7月1日〜12月24日

No.72さむしろ2011-11-02 23:34:02.291265
昔あるところに、一人の婆さんがいた。朝から晩まで念仏をとなえているので、人々は念仏婆さんと呼んだ。

年月を経て、やがて婆さんも息を引き取った。近所の人たちは、婆さんの極楽往生を信じ、婆さんの念仏生活を語り草にした。
No.73さむしろ2011-11-03 22:37:20.426148
一方、死んだ婆さんは、例にもれず、旅路を進め、やがて閻魔大王の前に立たされる。

大王は一目見るなり大声で「この婆あを地獄へ」と叫んだ。

赤鬼、青鬼が出てきて、婆さんを地獄の門に引っ立てて行く。

婆さんは、必死に抗議した。「わたしは念仏婆さんといわれた者です。この通り、わたしが娑婆でとなえた念仏を、大八車に積んで持ってきました」
No.74マスター2011-11-04 13:45:23.10427
姉妹サイト「EDOICHI」の中の「ツブヤキ」で、安倍安人の、破天荒で、また、甘酸っぱくもほろ苦い青春時代の回顧録を連載中です。

これまで安倍さんとは何百時間も話しましたが、一度も聞いたことのない”新鮮な古い話”を興味深く、また楽しみに読んでいます。

このHPのトップ画面(下の方)から飛ぶことが出来ますが、アドレスは下記です。

http://www.edoichi.org/

No.75さむしろ2011-11-05 08:40:41.564428
「わしの目に狂いはないはずだが、証拠の品々持参とあらば再調査しよう」

そこで、鬼どもが大八車の荷物を片っ端から、“とうみ”でふるいにかけた。ぱっぱっと、ぬかやかすが飛んでいく。

婆さんの念仏はみんなかすばかりで正味が一粒もない。嫁がにくいなむあみだ、今日も損したなみあみだ、あいつが威張ったなみあみだ・・・・・

「お前の念仏はかすばかりだ、やはりば婆あめを地獄・・・」

そのとき赤鬼がいった。
「大王様、一粒だけありました」

No.76さむしろ2011-11-05 23:20:03.448994
「何!一粒残ったと。うむ、まさしく正味だ」

―― そこで、この一粒を調べて見ると、次のことがわかった。
ある夏の日、婆さんがお寺詣りに出かけたところ、途中でいきなり雷雨に見舞われた。婆さんが、雷雨をのがれようと走っていくと、行く手に、雷が、大音響とともに落ちた。
その瞬間、婆さんは「なむあみだぶつ!」と叫んで、そのまま気を失った。

そのときの念仏だけが、正味の一粒として“とうみ”の底に残ったのであった。

「婆さんを極楽へ案内せい」と、えんま大王が叫んだ。

峨山禅師(明治33年没)の法話である。
No.77さむしろ2011-11-06 21:39:39.748473
峨山禅師、天竜寺管長。
百万ベンの念仏のうち、ただ一粒の正味を残しただけであるが、大王はこれを是とした。

正味のひと声、真実の叫びは人の心に響く

No.78さむしろ2011-11-07 23:44:54.499085
風外が放浪生活をやめ、大阪の円通院に住したのが文政元年、四十歳のとき。しかしこの寺は荒れ放題で、まるで化け物屋敷状態であった。それでも風外は頓着しない。

「こんどの坊さんは変人だ」とのうわさに、それを聞いた、風変わりな人間が、ぼつぼつと円通院の門をくぐるようになった。

No.79さむしろ2011-11-08 23:55:06.447272
その風変わりな人間のなかに、豪商川勝太兵衛がいた。川勝がはじめて円通院にやってきた時の話。

初対面の挨拶ののち、川勝は仏道修行について、いろいろ質問をした。どれほどの力量か探るつもりである。

風外は、川勝の質問に対して、至極淡々と答える。しかし、どうも和尚の応答には、一向に身がはいっていない。どうも和尚は、何かほかのことに気を取られているようだ。

ふと見れば、方丈に舞い込んだ一匹の虻が、外に出ようともがいている。障子にぶつかって、ばたばたしている。

No.80さむしろ2011-11-09 23:05:48.284161
「和尚さんは、さいぜんから虻を見て、なにかお考えごとのようですが、何か意味でもございますか」

川勝は、かねていささか禅機にふれたことがあるらしく、普通では出てこないような質問をした。

すると、風外はその声で我に返ったようなふうで、話し出した。

「つい虻に気をとられていました。あなたはどう思われますか。この虻は、うしろにひいてから飛びさえすれば、どこへでも逃げ道はある。このような荒れ寺で、戸の隙間も、障子の破れ目もいくらでもある。なのにこの虻は一ヶ所に執着してぶつかり続ける・・・。よくよく考えてみると、これは虻だけの話ではない・・・。我々もどうかすると、虻のまねをする。・・・」

ほとんど独り言のような風外の言葉であった。

No.81さむしろ2011-11-10 23:39:22.756597
「かたくなに一処に執して、どこまでもとばかりに突き進んで、われとわが心身を動きのとれぬように、縛り上げてしまうものである」

この風外の話は、一代の豪商川勝太兵衛の魂にしみ通った。

それからというもの、川勝は暇さえあれば風外の門をたたいて、教えを受けた。

文政二年の春、ある日のこと、突然円通寺に槌やのみの音が響き渡った。

No.82さむしろ2011-11-11 20:31:34.69058
人々が何事かと来てみれば、おびただしい材木が次々と運ばれて来る。

檀信徒が驚いてかけつけて聞けば、これは和尚も弟子も知らず、川勝が自分の一存で大々的な修理の起工にかかったのだった。

No.83マスター2011-11-11 22:36:37.128793
東日本大震災から8か月

がんばれ東北、がんばれ東日本

福島・大七酒造 本醸造「生もと」

を飲んで、東日本を応援します。
No.84さむしろ2011-11-13 00:10:43.131625
道元禅師は、鎌倉仏教を代表する一人で、日本曹洞禅の始祖。

晩年、禅師が弟子の義介(ぎかい)に向かって言われたのが「老婆心」ということであった。

No.85さむしろ2011-11-13 22:44:18.265498
道元は、病気療養のため永平寺を下り、京都へ行くこととなった。

このとき、えじょう(第一番の高弟で、後の永平寺第二祖。日夜道元につかえ、師の話を聞き、書き留めたものを「正法眼蔵随聞記」という。)がお供をした。

この、えじょうが道元について山を下りるとすれば、後事を托すものを定めておかなければならない。
No.86さむしろ2011-11-14 23:50:59.549214
道元は弟子の義介(ぎかい)を側近く呼び「二人がいない間のことは、お前にたのんだぞ」と後事を托した。

「お前は一山の先達である。わたしがいなくなってもこの寺に住み、衆僧と力をあわせて仏法を守るように」

道元は死期の近いことを感じていた。生きて再び山に帰ることは、ほとんどない旅たちである。義介は、師の教えを守ることを誓い、別れを悲しんだ。

「それで安心した。お前の道を求める志気は抜群である。それは万人の見るとおりである。ただ惜しむらくは・・・・・、なんじ、いまだ老婆心あらず。されど、修行をおこたらず歳月を重ねれば、やがて老婆心も身につくだろう」

No.87さむしろ2011-11-15 22:19:17.791303
「なんじ、いまだ老婆心あらず」の師の一語に、義介は涙を抑えて、かしこまるのみと、自ら記している。

道元は義介を愛し、義介に道の全てを伝えたいけれども、「志気あって、いまだ老婆心なきものを、全面的に許すわけにはゆかない」といって涙をおとした。

No.88さむしろ2011-11-16 23:26:26.928751
義介が「老婆心なし」と戒めを受けたのはこれが三度目である。義介は、この問題を考え抜いたが、なお一点わからないところが残った。

『論理が鋭いだけではだめだ。老婆の愚痴とも見えるほどの親切心がないと、道を得た人とはいえない。自らの向上のみではだめだ。自分は渡らずして、まず他を渡してやるほどでなくては、菩薩の道とはいえない。』

これくらいのことは、義介が平生心にかけて実践してきた。しかしなお「なんじ、老婆心なし」といわれる。いくら考えても、義介にはどうしてもわからなかった。

No.89さむしろ2011-11-17 23:49:42.425076
老婆心についての詳しい解説はない。辞書によれば、「必要以上の親切心」「おせっかい」とある。

義介、後の永平寺第三祖徹通義介禅師が、もがき苦しんだものはそんな単純な意味ではないということはわかる。

「老婆心」を公案として工夫してみることは、禅の薫りに少しだけでもふれることになるかもしれない。

No.90さむしろ2011-11-20 00:18:28.223663
長々と禅にかかわる逸話の要旨を転載してきたが、禅のなんたるかをご理解いただけただろうか?

「解った」とおっしゃる御仁もおられるかもしれないが、普通、「解った」といえば「まだ解っていない」と警策が飛ぶらしい。

いろいろと想像しているのだが、「月を指差してあれが月だよ」という、「月」が禅で、長々と紹介した、老師が、逸話の中でいわんとしたもの、言葉が「指差し」にあたるのではないかなどと愚考した。

No.91マスター2011-11-21 00:17:13.604718
こんな話を聞いた。

その先生が五年生の担任になった時、一人、服装が不潔でだらしなく、どうも好きになれない児童がいた。

先生は、児童の記録に、その子の悪いところばかりを記入していた。

ある日、児童の一年生からの記録が目にとまった。
「朗らかで、人にも親切。勉強もよく出来る」とある。

違う。ほかの子と間違えている。と先生は思った。(つづく)
No.92マスター2011-11-21 23:52:47.734346
二年生になると、
「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻」
と書かれている。

三年生では、
「母親の病気が悪くなり、看病疲れか、授業中居眠り多い」
とあり、

四年生には、
「母親が死亡。希望を失い、悲しみに沈んでいる」
とある。
No.93マスター2011-11-22 21:45:52.799057
四年生

「父親は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子供にも暴力をふるう」

先生の胸は激しい痛みにおそわれた。

だめときめつけていた子が突然、深い悲しみの淵のなかで生きている生身の人間として、自分の前に現れたのだ。

先生が知った事実はあまりに衝撃的であった。

放課後、先生は、その少年に声をかけた。
No.94マスター2011-11-23 22:42:00.475692
「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?
わからないところは教えてあげるから」

少年は初めて笑顔を見せた。

それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。

No.95マスター2011-11-24 22:50:46.061126
授業で、少年が初めて手をあげた時、

先生に大きな喜びがわき起こった。

少年は、自信を取り戻しつつあった。

No.96マスター2011-11-25 22:56:15.860724
クリスマスの日の午後、
少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。
あとで開いてみると、香水の瓶だった。
亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。

先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。
雑然とした部屋で、ひとり本を読んでいた少年は、
気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。

「ああ、お母さんの匂い!
きょうは最高のクリスマスだ!」

No.97マスター2011-11-26 22:02:18.922021
六年生になると先生は少年の担任ではなくなった。
卒業の時、少年から手紙が届いた。

「先生は僕のお母さんのようです。そして、
今までに出会った中で一番で最高の先生です」

No.98マスター2011-11-27 22:34:06.118589
それから六年。少年から手紙が届いた。

「明日は高校の卒業式です。
僕は五年生で先生が担任となってとても幸いでした。
おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができました」

No.99マスター2011-11-28 22:15:35.153372
十年が経って、また手紙が届いた。

そこには先生と出会えたことへの感謝と、
父親に叩かれた体験があるから
患者の痛みがわかる医者になれると記され、
こう締めくられていた。

「僕はよく五年生の時の先生を思い出します。
あのままだめになってしまう僕を
救ってくださった先生は、神さまのように思えます。
今、医者になった僕にとって最高の先生は、
五年生の時に担任してくださった先生です」


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