茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.100マスター2011-11-30 00:13:08.976174
そして一年。

届いたのは結婚式の招待状であった。

「母の席に座って下さい」と書き添えられていた。(おわり)


最後に、「わずか一年間の、先生との縁に、光を見出し、それを拠りどころにそれからの人生を生きたところに、この少年のすばらしさがある」と結んである。


わたしは違うことを感じた。

先生は、不潔でだらしないその少年が好きになれなかった。
ところが偶然に少年の実像、境遇を知った。
その後は書かれているとおりである。

もし、少年の境遇を知らないままであったら、先生の少年に対して接する態度は、境遇を知るまえと変わらないものであっただろう。以後の少年の人生は、みなくても想像できる。
先生は、見かけ、外見で「好きになれなかった」という恥ずかしい思い、もし気付かなかった場合の少年の将来を思うとゾッとしたのではないか。
少年は、先生にきっかけをもらった。
先生は、少年に助けられた。

そんなことを感じた。
No.101マスター2011-12-02 19:26:24.214519
今日(12/2)、明日(12/3)の二日間、所属の団体で、NHKの歳末助け合いのチャリティーバザーに協力。

脱・農薬で、脱・化学肥料の有機栽培の美味しい野菜の提供を受けて販売。寒風の中、朝から立ちどうし売り子を務めました。
No.111マスター2011-12-18 21:05:27.929177
伊勢神宮の参拝をして来た。初めての参拝だった。

朝日が、内宮入口の鳥居・宇治橋の真ん中から昇る。冬至の前後に見られるという。
写真の日出を見るためだったが、今年一年と云拾云年間の無事の感謝をして来た。
No.1122011-12-18 21:05:28.875387
No.113マスター2011-12-18 21:11:00.618102
鳥居前には二十人余の善男善女が集まり、カメラをむけている。
No.125マスター2011-12-31 23:27:25.173946
波乱の2011年も間もなく終わります。このいち年、多くの皆様にご訪問をいただきありがとうございました。

数年前、「年の初め、初日の出に向かって願い事をする人は多いが、大晦日の沈む夕日に向かって感謝をする者を聞いたことがない」と書いてあるのを見た。

それ以後、毎年、大晦日の沈む夕日に向かって感謝を捧げることにしている。

ところが、今年は、知人から”おせち”を用意しておくから今日の午後4時頃取りに来るようにとの話があった。

大切な「感謝の礼の儀」があることはわかっていたが、無形のものより有形の食べ物を優先して、戴きに参上した。

先日、伊勢神宮の日の出に向かって、この一年の無事の感謝を捧げたので、こらえてもらうことにした。
No.126マスター2011-12-31 23:44:48.116774
2012年には、福岡・大宰府での作品展、島根・加納美術館での金重陶陽との二人展と、楽しみな催しがほぼ一年間にわたって開催される。

残念ながら世間的には明る予想はないが、このようなときはバタバタしないほうが良いというふうに思っている。安倍備前を愛でながら気を落ち着かせ、一歩一歩堅実に歩みたいと思う。

来る年が、穏やかで、僅かづつでも希望が見える年になりますように。
No.127マスター2012-01-05 19:27:16.718302
新年、あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

No.128さむしろ2012-01-09 00:36:51.850125
正月休みに「ものはらT・U」を読み返した。
2005年3月からもう少しで丸7年となる。先を見通しての書き込みでないため、話があっちへ行ったりこっちへきたりで、まさしく”ものはら”となっていた。(つづく)
No.129さむしろ2012-01-09 17:31:32.905843
所どころ、書いた本人にも難解なところもあっが、概して言いたいことは、ほぼそのまま書いてあるように思った。

ここでいうところの、「仮説:織部様式茶陶は長次郎一族の手による」であるが、今日、当地の同好の仲間の初釜茶会を覗いたところ、友人の茶道具商のO−さんがいたのでしばらく話し込んだが、その中でわが”仮説”を語ったところ、O−さんは即の否定どころか「それもあり」との反応で少々拍子抜けした。何度目かの話であることも影響しているのかもしれない。
写真は露地風景。
No.130さむしろ2012-01-09 17:43:57.502531
元もと古美術好きの集まりであったが、茶の湯へ傾倒し、今は茶方の方々がほとんどである。今回は、会の実質オーナーが道具を担当、誤解を恐れずにいえば力を込めた道具組であった。
一部を記せば、
本席床:古渓宗陳
釜:古天明甑口筋アリ
茶碗:呉器
写真は薄茶席。
No.131さむしろ2012-01-10 23:14:02.649547
「織部様式茶陶は長次郎一族の手による」とともに「織部様式茶陶は、徳川VS豊臣の存亡をかけた争いの中で、古田織部が、決定的な影響力のある大名達の調略の道具の一つとした」という新説を展開しているが、大いに可能性があると思っている。しかし説得力をもたせるには、まだまだ裏付け材料がほしい。

いまひとつ、瀬戸黒茶碗がいつ頃作られたのかわからない。「天正黒」という呼び方があるが、いつ頃から呼ばれだしたのか? はたして天正期につくられたのか?
No.132さむしろ2012-01-11 23:31:41.360928
古茶会記に「セト茶碗」「黒茶碗」があるが、この両方あるいはいずれかと瀬戸黒茶碗を結びつけるものがない。

今注目しているのが南方録にでてくる「嶋筋黒茶碗」である。「一名天正黒とも。瀬戸黒にて縞模様のあるところからの名。」との注記がある。
No.133さむしろ2012-01-13 00:02:13.029432
嶋筋黒茶碗が登場した茶会は「十二月十六日 朝飯後不時」とあり、客は、御成とあるので秀吉、相伴が和尚(大徳寺、笑嶺和尚らしい)、津田宗及とある。

しかし何年なのかについては記されておらず、また疑義ある部分もあり推定できないとある。

しかし、利休の時代に瀬戸黒茶碗が存在したことを想像させるには十分である。今後も注目していきたい。
No.134さむしろ2012-01-14 10:36:59.145237
南方録中に嶋筋黒茶碗についての説明があった。

コレハ休公ヨリ玉ハル、天正元年口切ノ時出来ノナリ、アタラシキ物ナレドモ、休コトノ外出来ヨシトテ玉ハリ、度々御茶ヲモ上ゲ、其冬春、大方日々コノ茶碗ニテタテラレシ、秘蔵ナリシ也、コレヨリ大フリノハ、古田織部ニ被遣シ也

南方録が本物であれば、嶋筋黒茶碗は天正元年に存在したことの証拠となる。
南方録はじっくり読み込む必要がある。
No.135マスター2012-01-14 17:28:27.863578
”ものはら”の読者の方から連絡メールがあった。
内容は、ものはらで取り上げたことのある「慶長御聞書」同一内容と思われる古写本がある、というものであった。

半信半疑で問い合わせ、何度かやりとりした結果、古写本の写真を送っていただくことが出来た。

左の写真が、送られてきた写真である。
「宗箇著 古織茶会之記」と朱書きがある。
内容は、多少の仮名遣いの違いはあるが同一内容である。
驚きであった。

ほかにも南方録の古写本をお持ちだという。

その後、何度かのやりとりで、そのご見解を投稿いただけることとなった。ながらく待っていた状況である。

ものはらでは、本名での投稿はしないこととしてきたので、そのことも了解いただいた。
以後、「福萬神 さん」の名で投稿いただく。
No.136マスター2012-01-14 17:31:47.456641
投稿者:福萬神 さん

お茶は薬

“宗箇著 古織茶会之記 写本”が発見された。慶長時代に伏見城下で催された茶会記録である。慶長8年よりの記録であり、幕府が茶葉献上命令以前の記録も含む。

慶長18年江戸幕府がお茶の献上を命じ、京都より宇治茶を献上した。茶壷道中として、貴重な茶葉の運搬であった。

お茶は武将のみでなく、庶民にも利用できる薬であった。慶長時代以前の病気治療の方法は、中国よりの伝播、文献により学んでいた。

闘茶としての茶会も催され、徐々に一般への茶道の確立が伝播されていった。
No.137マスター2012-01-15 18:11:31.95534
投稿者:福萬神 さん

茶製造の不思議

“宗箇著 古織茶会之記 写本”が発見された。この茶会之記には茶葉に関する記述が無い。南方録と言う茶道書にも茶葉の記述が無い。

茶道では茶葉が非常に重要である。素材は決定的な要素を持つ。専門職の人が茶会用の茶葉(抹茶)を製造していたのだろうか。

煎茶を作るには 生の茶葉を蒸し、熱を加えながら手で揉み込む、其の過程で柔らかい芽の部分が粉状になり粉茶ができる、極上の味である。

粉茶を攪拌して飲んでも茶葉が喉越しに邪魔をする。現在のお抹茶様にするには擂鉢で摺り、より微粒の粉末にする必要がある。
No.138マスター2012-01-16 18:55:33.15027
投稿者:福萬神 さん

自在鈎は戦国時代から

“古織茶会之記に“くさりの間”が記載されている。鎖を使い茶釜を吊すのは、戦国時代にも それらしき事が行われていた。南方録(古織の流派)に記載がある。

其の記載では“天正15年6月18日泉州箱崎の松原にて松に雲竜の小釜を釣り 松葉をかきよせ サワサワと湯を沸かし、、、、、、、、水辺故三本竹にて釜掛けをし” と釣り釜の記載がある。

秀吉、利休が川辺の松原にて茶席を催していたと記している。南方録では 釣釜は“口伝”と記されている。
No.139マスター2012-01-17 19:42:39.36321
投稿者:福萬神 さん

古織茶会之記は慶長時代の写本

“宗箇著 古織茶会之記”は上田宗箇が、慶長8年〜慶長18年の茶会記録を纏めた写本である。

より正確な記載を期する為、古田織部に伺い茶会記録として宗箇が著した。題名は“宗古著 古織茶会之記”とした。

多くの人に公開する写本ではないので、序、跋 著者名を 本文中に記載する必要はなかった。極身近な人に、この写本を写させて欲しいと頼まれ希望を聞いた可能性はある。

写本の写本は“宗古著 古織茶会の記”との題名は使用出来ないので、慶長時代の茶会記なので、“慶長@@@”のように題名を別にした場合が考えられる。
No.140マスター2012-01-18 18:39:23.552064
投稿者:福萬神 さん

古織茶会之記は 10行書きの写本

“古織茶会之記 写本”が発見された。日本古典籍総合目録で“宗箇著 古織茶会之記”の所在場所(図書館等)は確認されない。唯一の写本である。

江戸時代頃は“平家物語“の様に 写本に書かれる行数は8行、10行、12行、13行、仮名交じり、平仮名交じり文と時代により変化する。

時代が過ぎると写本は、13行書きと行数が多くなる傾向がある。書体は御家流、和紙は古い、4つ目綴で、江戸時代の写本形態である。

類似の他写本との検証が必要であるが、極めて貴重な茶会記録と推察される。
No.141マスター2012-01-19 18:53:44.343425
投稿者:福萬神 さん

古織茶会之記は 記録書き−1

“古織茶会之記は そうろう(候)の記載では無い。江戸時代の古文書で“恐乍@@御伺奉申上候”と候文の写本が多く存在する。

候は丁寧を表す助動詞であり、下達・上申・互通で使用されるが、“宗箇著 古織茶会之記”は下達・上申の為の写本では無い。

仮に浅野幸長に上申する為の写本ではないかとの推察は、記入文より一考を要するし、覚えを纏めて書かれた写本である。

類似写本で候文が存在すれば、その写本は下達・上申・互通の意味合いの写本であり、聞き書き書ではないか、又は尋書きと言えるだろう。
No.142マスター2012-01-20 17:59:55.071648
投稿者:福萬神 さん

古織茶会之記は 記録書き−2

“古織茶会之記 写本”が発見された。茶道は口伝部分があり、書写された物は、秘伝中の秘伝であり門外不出であった。

江戸時代は庶民の茶道よりも、一部の特権階級の茶道であったろう。跡目を継ぐ限られた人にのみ知り得る機密書であった。

茶道書の一つ”南方録”には歴代の継承者が連名にて記載されている。古織茶会之記には、写本の過去の保持者が記載されていない。

継承しようとした茶道書ではなく、慶長時代の茶会記録の写本である。其の時代での写本は其の時代の最新の情報であり、又その時代の共通する認識である。
No.143マスター2012-01-21 18:31:39.849804
投稿者:福萬神 さん

南方録は 正しい写本

南方録は偽書ではない。元々茶道は秘伝であり、複数の同一なる記載された物が存在する場合に、その複数の書写された物は時代がずれ、別々の所で校正されたり、脚色されたりする事がある。

文面だけでなく書誌学的の考証での比較をしなければ、甲乙できる事は出来ない。伝記、伝説、口伝などは時代、時代に少しずつ内容が変化するものである。

現代の広辞苑でも、初期と今では語数も内容も変わっている。時代が過ぎ、様々に変化する事を1点のみ見つめ、正偽の論証には慎重さが必要である。
No.144マスター2012-01-22 17:10:40.72236
NO143について福萬神さんに若干の問い合わせをしたところ、丁寧にも以下のように書き改めていただいた。差し替えるより重ねて掲載した方が良いと思うのでに、重ねて掲載する。


投稿者:福萬神 さん

南方録は茶道の秘伝書であり、複数の同一内容に近い記載された物が存在する。その複数の写本された物は、時代がずれ、別々の所で書写され、記載文が相違する例がある。

古典籍の記載内容は、書誌学的に推察すると。何時頃書写されたか、和紙は何時の時代の和紙か、木版印刷か、字句はどうか、出自は、など考えられる色々な考証により、資料の変遷などが見えてくる。

現代の広辞苑でも、初期と今では語数も内容も変わっている。時代が過ぎ、様々に変化していく。南方録は大切に継承された写本として、末永く伝えられるべき写本である。


以下は独自の解釈である。

好奇心を持つ、推論するなど意見を交わす事で進化すると思う。「反論あり」も世にあり得る事。細かい事を言えば、私が使用している “茶道” この言葉は現代の言葉だ。多くの反論 意見を聞きたく思う。

「南方録は偽書である」との主張者は、懐石、路地、掛け物、人名の記載などが不適 としているようだ。

私は、利休時代に懐石、路地、掛け物などが存在(語句として)していなくても、南方録が書写された年号の時はこの字句が既に存在していたと思う。書写された年代により字句に違いがあるのは当然であり、書写された年代の書写物は其の時代の「正」である、これが私の見解だ。
No.145マスター2012-01-23 20:04:49.787451
投稿者:福萬神 さん

南方録 の奥書

南方録には第一巻の最後の頁に奥書が書かれている。この奥書に年号の記載が無い例がある。

刊本の例
“右数々之雑談 御書留ニ成、、、、、、、、、本録交合 無相違者也 実山”
 と書いてある。

所持する南方録例
“右数々之雑談 御書留ニ成、、、、、、本録交合 無相違者也 宝永二乙酉蝋月日 実山
 と書いてある。

宝永二乙酉蝋月日 の記載の有無は重要な意味を持つ。書写年代を表す根拠として、公開する記載文には、年号記載が望ましい。
No.146マスター2012-01-24 19:24:16.461776
投稿者:福萬神 さん

南方録 台子について

南方録 其のうち1冊に“台子”の記載がある。他の茶道書に“台子12伝伝書”が存在する。茶道を学び最後に皆伝される奥義が 台子12伝伝書である。

南方録にある“台子”と“台子12伝伝書”は記載内容が基本的に違う。両書を比較すれば一目瞭然である。

南方録も台子12伝伝書も、秘伝であり写本は見かける事が難しい。

台子12伝伝書は 真之真 行之行 等12項目に記載されている。

南方録は刊本として市販されているが、台子12伝伝書は 影印など刊本は見当たらず、秘伝書中の秘伝書である。
No.147マスター2012-01-25 19:52:17.151674
投稿者:福萬神 さん

茶碗の記載は

古織茶会之記、台子12伝伝書、南方録 何れの写本にも、茶道具の記載がある。

古織茶会之記は、使用された時の年号が記載されている。南方録、台子12伝伝書には使用された年号が記載されていない。

この事により、古織茶会之記は記録書であり、南方録、台子12伝伝書は、茶道を色々纏め集大成した書と言えるのでは。

南方録では“器物”の諸々の記載の中で、例えば水指では 青磁、古銅、白銅、釣瓶、真ノ手桶などの様に詳細な記載がある。

しかし茶碗についての項目は無く、茶碗の種類が記載無し。文中に単語としての記載である。

No.148マスター2012-01-26 18:02:49.725492
投稿者:福萬神 さん

台子の記載は

“台子12伝伝書” 春夏秋冬として記載があり。真之真 記載は “奥秘十二伝之内 真之真(草行之真手前也) 第拾弐伝 真之真 (対之手前と云う) 2図 記載あり ○真之真風炉手前之順序” 注)秋の25頁に記載されている。

26頁の記載は “ 一 初飾り付は 台子の天井真中に 長盆に袋入茶入二個を載せ 茶杓も二本図の如く飾りおき 盆の左右に袋入天目を”、、、、、、以下続く。

天目 が重要な道具也 のような記載である。 
No.149マスター2012-01-27 19:57:15.237377
投稿者:福萬神 さん

南方録の冒頭

南方録は何種類かの写本が存在し、冒頭の記載部分が異なる。古典籍(写本)は序文、目録の順に記載される事が多いが。

南方録では 序文なしで記載が始まる例がある “宗易ある時 集雲庵にて茶湯物語ありしに、、、、、”の様に記載が始まる例がある。 

序文、茶道の歴史解説から記載が始まる例もある。

序より始まる写本では、南方録の経緯が詳細に語られ、又偽書が出回っている事を示唆している。

南方録は何れも継承された履歴として、連名が記載されている。

この連名者を辿れば、継承された履歴が解るのが、写本として貴重である。
No.150マスター2012-01-28 17:28:09.127339
投稿者:福萬神 さん

南方録の 奥書−1

南方録の本文に写本が成立された経緯の記載がある。本文の記載以外に奥書として、写本の書写に携わった時々の人名が記されている。

誰から誰に継承されたかの記載が有る事が南方録の履歴として、貴重な記録となっている。記載されている例を示す。

正徳五年龍次乙未 無華斎翁拝書。
正徳丙甲 半原庵 廓巌撲 。
享保十七壬子 止止斎道桂 安藤定房公 炉下。
元文三年 木下伊賀守 炉下。
安永2年 直村服房。
文化五年 下里延秋。
文化九年 堀田寧郷。
嘉永3年 渡邊謙。
万延2年 今井田光秋。

の様に書写者が連名書きされている。この記載の南方録は唯一である。別写本での、南方録は当然連名者の違いが生じる。


(これより追記)
福岡市博物館保管の“南方録”に次の様な記載があります。

福岡藩士立花実山によって書写された利休秘伝書、、、、、を宝永2年(1705)実山の弟である寧拙(〜延享2・1745)が書写したものです、、、、、宝永2年(1705)、「南方の清風」が断絶することを怖れた立花実山は本書発見時からの僚友衣斐了義と図って、実弟である寧拙、、、、、に書写を許し伝授しました。

No.151マスター2012-01-29 13:47:55.441298
投稿者:福萬神 さん

南方録の 奥書−2

秘伝書写の経緯 一部分を記すと、次の様な記載となっている。

安藤定房公 多年懇望浅カラサルヨリ 南方録七巻 享保七年ニ書写シ玉フ 許す今
秘伝一巻自書写〆呈進ス 他見有間敷者成之。
享保十七年壬子年 正月日 止止斎道桂、
安藤定房公 炉下

道桂より安藤定房に継承された事が解る。秘伝書の写本が時代を経て 次次と継承されて来た。道桂よりの茶道が継承された事は周知の事実であるが、それ以降の歴代の継承者がどの様な経緯か、南方録の所持者は公開して頂きたいと願う。今ではコピー機で簡単に複写が出来るが、江戸時代に七巻の書き写しは大変な労力を必要とする。
いやそれ以前に 香を焚き 神に誓い必死に書写した思いが南方録の写本から伝わってくる。
No.152マスター2012-01-30 19:30:35.114856
以上で福萬神さんの投稿が終わりです。福萬神さん、ありがとうございました。

極早い時期の写本ではないかと思われる“宗箇著 古織茶会之記”の写真をメールで送信していただき、本当にビックリしました。併せて南方録の写本もお持ちということで、重ねてのことで大変におどろきました。

南方録は現代語にて出版されていて、読んだことはありますが大変難解な本で、ほとんどそのままにしている状態です。

宗箇著 古織茶会之記(私が見たのはコピーで「慶長御聞書」仮名遣いの違いがある程度で同一内容)はまさしく古文書でなかなか読み下しが出来ずこれも難解。

福萬神さんの記述もなかなか難解でしたが、いくつかの成る程という新発見をさせていただきました。
福萬神さんの方で追加の投稿がありましたら歓迎しますのでお送りください。
No.153さむしろ2012-01-31 18:48:04.081937
NO138で鎖を使う茶について解説がある。今のところ私は、古織茶会之記についての光禅さんの仮説、つまり古織茶会之記は、将軍御成りにふさわしい茶の湯を組み込んだ御成形式確立の一環としてまとめられたものである、との説を支持している。

御成りの茶において“くさりの間”は、濃茶が終わって献盃他のセレモニーに移る途中に立ち寄り、飾り道具の鑑賞と、薄茶を召し上がりながら休息をする場として設けられている。(将軍の御成りと茶の湯:佐藤豊三)

福萬神さんが紹介された「泉州箱崎の松原にて松に雲竜の小釜を釣り」から =「便宜的応用」=「セレモニーと一線を画す」=「休息の設え」となったのではないかとの想像をした。
No.154さむしろ2012-02-01 18:54:27.313889
NO139“宗箇著 古織茶会之記”の上田宗箇は、ついこの間まで一地方である広島のみで知られた武将茶人であったが、宗箇の生涯を描き出した歴史小説として「週刊朝日」誌上で1998年1月から約1年間「風流武辺」(津本陽:著)として連載され、その後単行本が出版されたことなどで知られ始め、数年前から週刊誌「モーニング」で連載の「へうげもの」に登場し、昨年頃よりNHKBSプレミアムでも「へうげもの」として放映されるなど、一躍全国区となった。

そしてその茶道史上における足跡が徐々に評価されつつあるところだといっていいだろう。

つい最近、12/30-1/16 松屋銀座8階で「上田宗箇 武将茶人の世界展」が開催され、この2/11-3/25で ひろしま美術館においても開催される。

松屋銀座の会場をのぞいた方にによると人が多くてゆっくり見られなかったとのことで、多くの来場者があったようである。別々の二人から聞いたので本当に多かったのだろうと思う。

私は、“宗箇著 古織茶会之記”の一番の元本は、宗箇あるいは宗箇の主君である浅野幸長により完成されたものと思っている。また遠州より来た(?)といった記述もあり、領主以上の地位にある人たちの間で書き写されたものかもしれない。
No.155さむしろ2012-02-02 19:13:07.019835
福萬神さんのお持ちの「宗箇著 古織茶会之記」は、上田家には「慶長御聞書」としたものが、また龍谷大学大宮図書館には「茶道長問織答抄」としたものが存在する。

ほかにも「宗甫公織部へ御尋書」としたものがあるという。この「宗甫公織部へ・・・」から、従来本書は遠州が織部に尋ねた聞書きとされていたが、先の茶道長問織答抄の発見により上田宗箇の聞書きと判明したということである。(既述by光禅)

このことが、上田宗箇を表舞台に引き出す大きな切っ掛けになったのかもしれない。
No.156さむしろ2012-02-03 18:34:34.844875
織部への聞書きが作られた背景については、以前、光禅さんが仮説を述べておられる。改めて読み直してみて、再度載せた方が変にまとめるより良いだろうと思うので、部分ではあるが次に再掲する。

光禅
慶長8年(1603)2月に征夷大将軍の宣下を受けた家康は、わずか2年後の慶長10年4月には将軍職を秀忠に世襲しました。

そこで記録によると家康は、慶長9年4月に浅野幸長邸への御成を手始めに、結城秀康、池田輝政、金森長近、伊達政宗、藤堂高虎の各邸を訪問しています。
「慶長御聞書」は、慶長9年5月13日朝から始まっています。

したがって私は、この家康の浅野幸長邸への御成が関係しているものと思うのです。
つまり、この時、家康が、浅野幸長に対して、徳川将軍としての、新しい権威ある「数寄の御成」の基本様式を工夫し、作成することを命じたのだという推理です。

そして、二代秀忠が将軍としての御成を催したのが、家康崩御後の翌年、元和3年(1617)5月13日に前田利常邸においてでした。
この時の御成が「数寄の御成」であったことは記録にあります。

そして「慶長御聞書」は、遠州を通じて前田利常へ献上されたことが明らかになっています。
このように、これはまだ今は、全くの推論ですが、ストーリーの流れと時代は一致します。



光禅さんは「「慶長御聞書」は、遠州を通じて前田利常へ献上されたことが明らかになっています」と書いておられるが、これは、
写本末尾に、
「小遠州より○○へ来た由」とあるが○○が読めないので、どのような経緯をたどったかよくわからなかったが、この部分には遠州から前田利常へ伝わったと記載されているようだ。

「数寄の御成」とは、将軍が御成りになってまず茶室へお通りいただき一服を差し上げる。
その後“くさりの間”で休息の後、書院へ移り献盃他のセレモニー、続いて能鑑賞などを行う、という流れで行われるお迎え形式といってよいと思う。


光禅さんは、
家康は、「なぜ浅野幸長に対して、『数寄の御成』の作成を命じたのか?」という疑問です。
ここでいよいよ、上田宗箇の登場となるのですが、長くなるので今夜はこれで筆を置きます。
として、続きを”ものはらU部”の初めの方で掲載しておられますので、興味のある方は読み返して下さい。ただ展開によってはこちらでも取り上げます。


No.157さむしろ2012-02-05 17:49:35.235147
福萬神さんに、「宗箇著 古織茶会之記」の題箋は最初からこのように書かれてたものでしょうか?「宗箇著 古織茶会之記」には、何時、誰が書き写したかなどの奥書がなく、書式が古書体様式であるということから思ったのですが、何時、誰がなどを書く必要のないものであったとの可能性があるのではないかということです。
つまり、浅野家側で写本し(あるいは最初から数冊作成し)、しかるべき大名に贈られた可能性です。

という質問を送ったところご返事があった。
No.158さむしろ2012-02-06 18:51:21.48753
投稿者:福萬神 さん

この “南方録”円覚寺の所蔵本の題箋である、出版本です。

私の独断の見解は この円覚寺の“南方録”の題箋 字は 後世の人の手になり、写本作成時の 書かれた字かは ? です。根拠は “方”の字です、3画目の筆順が違います。 江戸時代の人は 御家流と言って 何方が筆写しても 同じ様な字体を書きます、筆順も同じです。この字は 御家流では 無いと思います。

写本の中身 即ち記載内容(本文)は 推測で 円覚寺や 南坊流茶道家に敬意を払い 本物でしょう。但し題箋は後世に書かれた物 と推測も一考です。

所持の “宗箇著 古織茶会之記” 推測で 後世に書かれたとの一考です。

慶長御聞書(先にお送りの画面を見て)これも後世にて書かれたと推測も一考です。

何れも 題箋は 当時の物と私は断言できません。偽物とは言わず「一考」と表現させて頂きます。
No.159さむしろ2012-02-07 19:01:34.458636
投稿者:福萬神 さん

江戸時代の 古典籍、写本は 題箋(本の題名)は左端に 貼り付け 又は 手書きされます。

1615年〜1665年頃の本 古典籍の題箋を 参考として画面添付します。(多くの古典籍を見て 題箋を 本の真ん中に貼り付ける例は 多くありません)

敢えて 結論としては、

題箋は 当時の書かれた物か どうかは不明です 

となります。

別の言い方で 最初に書きましたが 何れの写本も所持者に敬意を払い 解らない との表現になるでしょうか。

題箋についての疑問であって、本文は正当性有り でしょうか。

無地の(ノートの様な)製本された物に 筆写は直接に 聞き書き等を書かないと思います。懐紙(昔は書き物の時は懐紙に書いていた)このメモ書き用の懐紙を 書き写しが 今 目にする写本と解釈しています。
 
原本に当る懐紙が存在しないので、元本 原本は存在しない、と判断しています。よって、何れも 原本に準ずる、貴重な写本と判断しています。

No.160さむしろ2012-02-08 18:01:50.986842
ネットで関わりのある人物の検索をしていたところ、「宗甫公古織御尋書」にたどりついた。なんと上下巻の全文が閲覧出来るではないか。いささか感動した。すぐに福萬神さんに知らせたところ、福萬神さんもご存じなく、感動したとの返事をいただいた。

早速、取り急ぎの感想が送られてきた。

投稿者:福萬神 さん

1行目の書き出しは 何と書いてある?

“宗箇著 古織茶会之記”には 最初の1行目は 何と書いてあるのでしょうか。所持するこの写本以外に 同様の写本が存在するか、又は同じ書き出しの写本があるか、確認して見ました。
 最初の 書き出しは 序文や 目録など書いてなく、 「一 何々」 と書き始めています。

一 墨蹟の覚 ふうたい 左を上に

続いて 2行目は

一 かける時 緒を 右へよする と書写されています。

“宗箇著 古織茶会之記”だけの記載でしょうか。いいえ“慶長御聞書”“宗甫公古織御尋書”の3写本 全てが同じ書き出しです。

写本の題名(題箋)が違うのに、書写されている記載内容が同じに感じます。全ての頁の参照、検証が必要ですが、後ほど照合をする予定です。

秘伝書として、別別の場所に保管された3写本が、同じ内容とは驚きです。3写本が書写された元になった資料は同一である事が考えられます。

それとも 何処かに記載内容の大幅な違いが有るのでしょうか? 全て記載内容が同じではない予感もします。
No.161さむしろ2012-02-09 17:56:14.707578
投稿者:福萬神 さん

書写元は 同じである証拠見つけた

“宗箇著 古織茶会之記”
“慶長御聞書”
“宗甫公古織御尋書”
この写本は 同じ引用先より書写した事実を掴んだ。

1、行の書き終わりから次の行に書き始める時、意識的に字を数字分下げて書いた箇所が共通にある。字下げでの書き出しは、元資料が同じである証拠と考えられる。 

1、図の記載で、同じ元資料を見ての写本作成で無ければ、書けない箇所が見られる。

1、序文 目録などの記載が無くて 冒頭文句が 

 一 墨蹟の覚、、、、    と 最終の行に書かれている
 一 、、、高さ5尺一寸

迄同じ様な書き方である。

No.162さむしろ2012-02-10 19:16:02.071267
投稿者:福萬神 さん

「宗甫公古織御尋書」は記載内容が部分で違います
お教え頂いた インターネット上の「宗甫公古織御尋書」は 従来より言われている 小堀遠州の手になる「宗甫公古織江御尋書」の写本に似ていますが、少々違う様に感じます。

この写本は 小堀遠州の手になる「宗甫公古織江御尋書」より 文を簡略したり、抜けたりしているからです。

又 文中に 上巻 とか 下巻 の表現があります。

“宗箇著 古織茶会之記、宗甫公古織江御尋書”には 上巻 とか 下巻 の様な記載は有りません。

元資料に近い初期の写本は、“宗箇著 古織茶会の記、宗甫公古織江御尋書(遠州家)“と感じます。

インターネット上の写本は、“宗箇著 古織茶会の記、宗甫公古織江御尋書(遠州家)と少し本文内容が違うので、今後の課題で参考として扱います。“宗箇著 古織茶会の記、宗甫公古織江御尋書(遠州家)“を重点参照し照合になります。

No.163さむしろ2012-02-13 10:31:08.201622
福萬神さん所持の「宗箇著 古織茶会之記」のほか、「慶長御聞書」「宗甫公古織御尋書:慶応大学提供」「熊倉功夫氏所蔵本」「国会図書館所蔵本」「桔梗会本」「幸長自筆本(未確認)」の計7冊が少なくとも存在しているのではないかと思われ、その内容は、仮名遣いの相違と一部欠落部分があるもののほぼ同一内容である。

ただ、奥書について、わたしが奥書のルールを知らないせいもあるが、理解できないまま混乱している。
整理をするにはしばらく時間がかかりそうだ。
福萬神さんからメールが届いた。

投稿者:福萬神 さん

取り敢えず判明したこと。

1、本文は 6写本が同内容。

2、題名(写本の名)は全てが違う。 この事により 題名違いの推測は確定した。

3、書写年代は 略 寛文時代と公表しても良いと判断する。(思文閣の本、私の見 解)

No.164さむしろ2012-02-13 18:34:36.857434
投稿者:福萬神 さん

宗箇著 古織茶会之記と慶長御聞書の写本は同じ元資料よりの書写である。

左写真、右側より 2行の 9文字目よりの筆記 “茶入所望ならば 客へ出し、、、、、、”の
書き方は 添付画面(NO165の写真の右より7行目に記載)が同じパターンでの書き方をしている。
これは 同じ資料を見て 写本を書いた筆者が、記入する際の元原稿を忠実に書写した結果、写本に同じように書写された。

* 同じ元資料の忠実な書写を示す写本検証での決定的な事柄である。

* 慶長御聞書の奥書に“寛文6年”の記載がある。私の所持本は無刊記であるが、同内容の書き方をしているので、両書が“寛文6年頃”との時代検証が出来る。

又思文閣発行 古田織部茶書一にて、二書誌の記載文で“寛文年間の書写と思われる”とあり、慶長御聞書の奥書記載の“寛文” と一致する。

又インターネット上の画像(慶応大学提供本)でも“寛文”の記載が見れる。

以上の事から、書名は別別であるが“寛文時代の書写された写本”と推測される。


思文閣の本では この“茶入所望ならば、、、、”記載については、“一 茶入所望、、、”と 別項目として記載としている。

思文閣の本では この“茶入所望ならば、、、、”記載について、国立国会図書館本には 条項記載抜け と記している。

続いて 1行おいての行記載 “取おき候時は茶入、、、、、、”の記載について、桔梗本には 条項記載抜けと記している。

インターネット上の写本画面は、“茶入所望ならば、、、、”の記載についてやや準じた書き方をしている。
No.165さむしろ2012-02-13 18:37:26.73909
投稿者:福萬神 さん

本文NO164の参考写真。

右から7行目
No.166さむしろ2012-02-15 00:09:43.883025
福萬神さんから「長門職答抄」が入手できそうだとのメールが届いた。複写か、写真か、それとも印刷されたものかは不明であるが、楽しみである。

No.167さむしろ2012-02-17 09:52:11.863436
福萬神さんからのメールで「上田家茶書集成 上田家文書調査報告書」の存在を知った。

同報告書によると、史料中に「宗箇自他会記」があることがわかった。

伊賀花入「生爪」が、古田織部から上田宗箇に贈られたことはその添え状からはっきりしているが、何年に贈られたかについてはっきりしていない。

宗箇にかかわる茶会記である「宗箇自他会記」のなかに生爪の使用が記されていれば、いつ頃贈られたかや古伊賀がいつ頃制作されたかの推測に役立つと思って期待している。
No.168さむしろ2012-02-17 18:17:26.493704
投稿者:福萬神 さん


台子12伝 の目録

秘奥 台子12伝 の伝書が存在する。内容の一部は一子相伝と言われる。所持する本の“台子12伝書”の目録を紹介する。

その目録は 次の様になっている。

春之巻 

第四伝 草之草台子(真の二つ置と云う) 仝 炉の手続


第五伝 草之行台子(真の一つ置と云う) 仝 炉の手続

第六伝 草之真台子 (草の古体と云う)  仝 炉の手続

夏之巻

第七伝 行之草(乱の古体と云う) 

第八伝 行之行(乱荘りと云う) 仝 炉之作法

第九伝 行之真 (真の古体と云う)   仝 風炉点作法

秋之巻 目録

第十伝 真之草(行の古体と云う)

第十一伝 真之行(奥儀と云う)  仝 炉之作法

第十二伝 真之真 (對の手前と云う) 

冬之巻 目録

第一伝 草之真行台子(真之茶*(草冠に全)荘と云う) 仝 炉の作法

第二伝 行之真草台子 (真之台子と云う) 仝 炉之作法

第三伝 真之行草台子(長盆点と云う)  仝 炉之作法



この中身については、大変むつかしそうなので、その雰囲気を嗅いでいただければいいのではないかと思う。
No.169さむしろ2012-02-18 19:17:55.804629
ひろしま美術館で開催中の「上田宗箇 武将茶人の世界展」を見てきた。

驚いたことに、龍谷大学所蔵の「茶道長問織答抄」が展示されていた。
展示では、あるページを開いてみせていて、見たいところは見られなかったが図録で確認できた。

左の写真である。
最初の一行目に「是より幸長 古織部殿御尋候覚」の文字が確認できる。

「是より幸長 古織部殿御尋候覚」の記載から本書が上田宗箇によってまとめられたことが明らかになった。

ところが、福萬神さん所持写本には「宗箇著 古織茶会之記」と書名が記されている。事情を熟知した者の手にあったものではないかと思われる。 

過去分へ 新しい分へ


クリックすると日本語トップページに戻ります。