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No.170 | さむしろ | 2012-02-19 16:47:15.874824 |
![]() 慶長時代の尋書は “宗箇が尋ねた” 龍谷大学付属図書館に所在する、茶道長問織答抄は、書誌情報では“異なりアクセスタイトル:慶長御尋書”と記載されている。 “茶道長問織答抄”は外題であり、“慶長御尋書”は首題(内題)である。首題の記載は“是より幸長 古織部殿御尋候”とある。この記載の意味は重要な要素を持つ。 “宗箇著 古織茶会之記”は 外題である。両書の題名の共通は “古織”であり、“是より幸長・・・” と ”宗箇著・・・”の記載から、浅野幸長が上田宗箇を介し古田織部に尋ねた事が読みとれる。 書き始めは両書共“一 墨蹟の覚 ふうたい左を上に”である。 本文の記載内容が同じ書き方である。慶長期の貴重な茶会記録が、何冊かの同内容の写本を照合する事で判明した。 |
No.171 | マスター | 2012-02-19 17:39:57.23134 |
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No.172 | さむしろ | 2012-02-21 20:01:41.585299 |
![]() ものはら第U部で 「佐賀県資料集成」第9巻「三条之今やき候者共」として紹介した 爰元へ不入候間、馬九疋差下候、とれもわりき馬ニ候条、うらせ候て可然候、 将亦、此比如水同前ニ古織殿其外方ゞへすきニ参候處ニ、其元へ罷居候唐人やき候かたつき茶わん座に出候、其ニ付而、三條之今やき候者共、其地へ可罷下様承候、此中も罷下、やかせ候て持のぼりたる由候間、むさとやき候ハぬ様可申付候、恐々謹言、 二月十日 信守 勝茂(花押) 生三まいる の書状の写しが参考図版として「上田宗箇 武将茶人の世界展」に掲示してあった。絵唐津花生の展示にあわせて、織部と唐津の関わりを示すものとしての掲示であった。 苦労して本文を見つけ出した福岡図書館を思い出した。 |
No.173 | さむしろ | 2012-02-22 19:12:34.156511 |
![]() 宗箇著 古織茶会之記と同内容の写本は何冊か? 思文閣 昭和51年発行 古田織部茶書 宗甫公古織へ御尋書は、3書(国立国会本、桔梗本、慶長御聞書)を校合参照して発行されている。 思文閣に記載の“宗甫公古織へ御尋書”は、 国立国会図書館本の題名を利用して思文閣 発行での書名であった。 同内容記載の写本は合計6冊であり、“宗箇著 古織茶会之記、国立国会本、桔梗本、慶長御聞書、慶応大学本、茶道長問織答抄”である。 桔梗本については詳しい事が解らない、この件は調査中である。 思文閣 昭和51年発行での記載で“熊倉功夫本が伝来本として良質であり、これを定本とすることは妥当と思う“ と記載がある。当時は“慶長御聞書”が最善書の様であったが、その後 茶道長問織答抄と宗箇著 古織茶会之記の2冊の写本が見出された。 現在 定本とすることに妥当と思われる写本は、“宗箇著 古織茶会之記、慶長御聞書”と思われる。 茶道長問織答抄については調査中。 |
No.174 | さむしろ | 2012-02-24 12:08:33.56648 |
![]() “慶長御尋書”は2系統2冊の写本 * 国立国会本(宗甫公古織江御尋書)、慶応大学本(宗甫公古織江御尋書別名慶長御尋書)が確認できる。 疑問= 国立国会本と慶応大学本が全く同名である。慶応大学本は写本をデジタル処理した画像である。推測の一つとした慶応大学本は国立国会本の複写と云う事も有りうる。 其の時は慶応大学には写本は存在せず、デジタル化された画像のみが存在する事になる。 この説が正しいとすれば “宗甫公古織江御尋書”の題名の本は、国立国会図書館にある写本1冊のみである。 * 桔梗本は茶道長問織答抄(刊本)の記載を引用すると、“昭和13年刊 翻刻本”と記載され 写本では無い。 * 上記を踏まえ “慶長御尋書”と称する同類の写本は合計4冊(茶道長問織答抄、宗甫公古織江御尋書、宗箇著古織茶会之記、慶長御聞書)となる。 * 茶道長問織答抄に類する写本は宗甫公古織江御尋書である。 茶道長問織答抄の首題書き文で、浅野幸長筆写と言われる。 * 宗箇著古織茶会之記に類する写本は慶長御聞書である。宗箇著古織茶会之記の外題で上田宗箇筆写ではないか。 数ヶ月前迄は慶長御聞書に類する写本が何冊も存在する様に感じていたが、ここに2系統2冊の写本となった。 * 4書が 一 墨蹟の覚、、、の記載で始まり、一 石とうろ、、、、で終わる同じパターンでの記載文である。この事から元になる原本、元本の類(未発見である)が存在した可能性を否定できない。原本が発見出来ないので、4写本は慶長時代の茶会を記録した貴重な写本と言える。 * 宗甫公古織江御尋書は 所所に文の記載漏れが散見される。依って今後 新たに本を発行する時、又論文書きなどでは此の2系統の写本を照合し参考にする必要性を感じる。 |
No.175 | さむしろ | 2012-02-25 21:53:52.072535 |
![]() “慶長御尋書”の書名違いについて見解を書かせて頂きました。他写本の批判や、茶道や茶道家をどうのと言う気持ちは全く有りません。日本文化の伝承である茶道が日本のみならず国際的に認知され、素晴らしさの感想を海外旅行で何回も経験しています。益々茶道が発展し御隆盛を願い書かせて頂きます。 “慶長御尋書”の書名違いについて−1 写本は継承される過程で誤字、脱字、付け加えが儘ある。原本より正確に書写されたかの意味では瑕疵となる。古典籍や写本でこの様な例として、書名や奥書にも見られる。書名や奥書での後世での変更部分は、其の写本の字体、筆跡などを比較すれば違いが解る。 書名は 外題、見返題、内題、首題、序題、目録題、柱題、奥書題、尾題など色々あり、書籍により書かれる、書かれない色々である。 特に 外題(題箋)は様々な要因で後世に付け変えが儘ある。“慶長御尋書”に類する写本ではその様な後世での付け変え様子が見られる。 写本作成時には外題(題箋)が存在したかも知れない。継承される過程で付け加えが妥当と感じ、新しい題箋が現在の写本に張られているのではないだろうか。又は写本作成時に題名は全く存在せず、後世にて何らかの題名の必要性を感じて付け加えたか。 “慶長御尋書”と類する写本には、茶道長問織答抄、宗甫公古織江御尋書、慶長御聞書、宗箇著古織茶会之記が有る。書名が全く違うが書写されている内容が同じパターンである。4写本全てが、一 墨蹟の覚、、、から始まる、本文の記載内容が同じと言う事は、何れの書名が原本に近い写本の題名か興味がある。この書名違いを検証してみたい。 |
No.176 | さむしろ | 2012-02-26 16:48:42.298044 |
![]() “慶長御尋書”の書名違いについて−2の1 * 茶道長問織答抄= 先ず“抄”これは江戸時代前期頃には古典籍でも盛んに書名に“@@抄”が見られる。 “茶道”これは寛文時代頃以降に感じる言葉。“織“ 本 文中の記載での古織、織部等の記載が何故か書名では”織“の1字で”古織“ではない。 ”長問“幸長が問いたとの略であろうか。 ”織答“で古織が答えたと解釈か。 全体の書名から幸長がこの題名を付与したとは思えない、後世の人の手になる書名と感じる。 |
No.177 | さむしろ | 2012-02-27 23:33:17.916227 |
![]() “慶長御尋書”の書名違いについて−2の2 * 宗甫公古織江御尋書= “宗甫公”写本が公開される頃には、小堀遠州に関わる写本との認識があり、題名には遠州書だとの印象つける意味合いで宗甫公とした感がある。 “公”と自分自身での表現をしないと感じる。 題名に“御尋書”と記載するのであれば、本文の記載でも“御尋書”と記載が妥当ではないか、必ずしも都度“御尋書”と本文には記載されていない。 |
No.178 | さむしろ | 2012-02-28 19:00:31.114782 |
![]() “慶長御尋書”の書名違いについて−2の3 * 慶長御聞書= 平成時代に写本を書くとして、“平成御聞書”とは書かないだろう。何の聞き書か書名の具体性に欠ける。本文の記載では“御聞書”とは書かれていない、書名の為に付けられた語に感じる。 |
No.179 | さむしろ | 2012-02-29 19:07:50.800413 |
![]() “慶長御尋書”の書名違いについて−2の4 * 宗箇著古織茶会之記= “宗箇著”具体的表現である、上田宗箇著の意味か。 “古織” 本文中の記載の古織と一致する。“茶会之記” 当時は“茶道”の言葉は存在したかどうかは不確か、当時の行動である“茶会”は言葉として妥当性がある。 “宗箇著古織茶会之記”の書名は慶長時代の茶会記として、時代背景を捉えた書名と感じる。 敢えて書名が最も相応しいかとすれば、“宗箇著古織茶会之記”と考える。 以上 校合し参照し照合して得られた個人の感想である。一写本だけの主張であれば単なる天邪鬼である。諸本を捉えた意見を融合し仮説を唱える事で、より事実に近い真相が見えて来ると思う。間違いの指摘や別意見を知りたい。多くの意見集約により、貴重な写本の重要性が解き明かされていくだろう。 題名こそ各々違うが、記載されている本文は、慶長時代の茶会記録として、非常に貴重な文が記載されている。 上記4写本は個人的には、第1級の一次資料に値する写本と思っている。 |
No.180 | さむしろ | 2012-03-01 19:34:42.219567 |
![]() 「是より幸長 古織部殿御尋候覚」 の記載ですが、ここへ「幸長」と敬称なしで書ける人はどのような人が考えられるでしょうか? これが最初から書いてあった場合と、後で書き加えた場合があるでしょうが・・・。 |
No.181 | さむしろ | 2012-03-02 18:46:16.455453 |
![]() 推測ですが *「是より幸長 古織部殿御尋候覚」の記載は 後世の人によると判断も出来るのでは? 是より幸長 古織部殿御尋候覚の見解 ◎ 是より幸長***古織部殿御尋候覚 この***に当る語をどの様に解釈するかで どの様にも変化する と思います。 1、是より幸長 が書いたと 代々言い伝えられて来た 古織部殿御尋候覚、、、、 確証された文では無くなる。 (幸長 筆写ではなくなる) 1、 古織部殿御尋候覚、、、、、古織部殿 が 御尋候覚、、、、織部が他の人(自分以外)の人に尋ねた事になります。 2、 又は 古織部殿 へ 御尋候覚、、、、 (織部以外の人が古織部殿 へ 御尋候覚、、、、尚 憶測すると宗箇が織部 へ尋ねた。 1、古織部殿御尋候覚、、、、、織部が自分の事を 殿 とは言わない。又 御 と敬語は使用しない。 敢えて 書けば ◎ 是より幸長 が書いたと代々言い伝えられて来た写本であるが 古織部殿 へ(上田宗箇が)御尋候覚 となります。 文の途切れ(幸長の後の空白部分) と助詞などを文中に加えるかで、解釈は変化すると思います。 これは 疑問として提起するもので、確たる裏ずけは有りません。 上記の文の逆説として記せば ◎ 是より幸長 が書いた写本である 古織部殿 が調べた事を 御尋候覚 となります。 (此の文では 幸長が 殿 御 を 何故書いたか?) 以上も 疑問として感じた事を記したもので、確たる裏ずけは有りません。 ◎ 幸長が筆写と、、、、、、、茶道長問織答抄(刊本)著者の熊倉氏がその様に書いています。 |
No.182 | さむしろ | 2012-03-04 17:58:44.102445 |
![]() そうであれば、これは、相当後世に書かれたことを想像させます。 それにしては「宗箇著」とあまりにも著者を明確に書いていますので、宗箇著であることの確信をもたせる何かがあったのではないか? そうであればそれは何か? それと「○○著」の「著」と記載しだしたのはいつ頃からでしょうか? お教え下さい。 |
No.183 | さむしろ | 2012-03-05 22:20:12.259259 |
![]() * 宗箇著であることの確信をもたせる何かがあったのではないか について・・・2の1 根拠は今の所推測しか有りません。 著も 同じく疑問点の一つです。 * 書かれている字は 朱墨で書かれています。朱墨は丹に膠、煤で製造されますが、書かれている字はどちらかと云うと朱が劣化していない様に見えます。 これは染料を加えた安物の朱墨の色とは違うと思っています。江戸時代前期には医学書において、代々その書が受け継がれ勉強される中で朱墨にて多くの追加記事を書く事が非常に多いです。 たまたま私は江戸時代前期の医学書収集をボチボチとしていて、その書の中に多くの朱墨での追加記載部分を見ています。 江戸時代に朱墨が使用されていた場合、大概は注記とか、ここは重要とかに追加記事として記載されている例が多いです。 蛇足ですが 円覚寺に所在する南方録にも紫墨で奥書が記載とのようです。 |
No.184 | さむしろ | 2012-03-06 23:18:15.202326 |
![]() * 宗箇著であることの確信をもたせる何かがあったのではないか について・・・2の2 * “宗箇著 古織茶会之記”は写本作成時の朱墨で書いた字では無いと思います。他写本の題名も同じように感じています。 同内容記載の写本に題名のみが4種類も違う記載は、元々題名が存在しなかった事だと思います。それ故 題名については、どの写本が何年の時代に書かれたかと検証しても本文とは関わり無く、意味する事は二の次と考えています。 本文にもそれぞれの写本に、誤字、脱字、記載漏れなど多くあります。題名の違いは、本文にも微妙に記載内容が違う事の暗示みたいなものです。 本文についての、誤字、脱字、記載漏れは校合する事で補完出来ます。度々書いていますが、慶長時代の茶会記録としての一次資料としての存在は変わりません。 時代背景を知る上で此の写本は貴重な記載の羅列であり、益々重要性ある写本と認識されるでしょう。 |
No.185 | 2012-03-06 23:18:16.000542 | |
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No.187 | さむしろ | 2012-03-08 22:36:56.044576 |
![]() 成る程、違いますね。 でもよくわかりません。 |
No.188 | さむしろ | 2012-03-09 20:24:51.822127 |
![]() * 4畳半茶室での茶点てですが、風炉と炉の場合があります。この時の畳の敷き方を調べて見ました。 具体的には 風炉 手前の時=茶道口(勝手口)の所の“踏込み畳”が半畳。 炉 手前の時=炉がある所の部分が略半畳 のようです。 1、 茶道長問織答抄(刊本)の 93頁 94頁は 4畳半本勝手 の畳の敷き方。、、、当たり前の敷き方 2、 茶道長問織答抄(刊本)の 95頁 は 4畳半逆勝手 の畳の敷き方。、、、、当たり前の敷き方 3、 茶道長問織答抄(刊本)の 96頁 は 切腹の間 の畳の敷き方。 この 96頁の “踏込み畳”半畳を設けない 畳の敷き方は 非常に不思議です。 何故 この図かは 解りません。 慶長御聞書、宗箇著古織茶会之記、思文閣(国会本、桔梗本、森川本を校合して発行)、慶応大学、は 切腹の間 の畳の敷き方にはなっていません。 茶道長問織答抄のみ 96頁が 切腹の間 の畳の敷き方です。 何か 其の内に 情報ありましたら教えて下さい。 |
No.189 | さむしろ | 2012-03-10 19:03:12.27153 |
![]() 床の前については意識がありましたが、それ以外はまったく無頓着でした。 |
No.190 | さむしろ | 2012-03-11 18:03:46.168235 |
![]() “茶道長問織答抄”の線引きについて “茶道長問織答抄”の首題“是より幸長、、、、“に線が引かれています。写本に線を入れる意味は何でしょうか? 古典籍を見ていると朱書きがよくあります。漢文での書で訓点がよく書かれている例があります。書の上部に注釈や備考が書かれる例も多く、頭書とか首書といいます。 其の為 天(本の上の方)が書き入れ易い様に予め空白である事も多いです。後々の人の為に敢えて書き入れをする事も結構多く、朱引きといって二重線や線も引かれます。 |
No.191 | さむしろ | 2012-03-13 09:35:29.170019 |
![]() 江戸時代に どの様な線の引かれ方をしたのでしょうか。 1、文字の右側に引く線の時は 地名の時 2、文字の左側に引く線の時は 官職名 3、文字の中央に引く線の時は 人の名 4、二重線で中央に引く時は 書名 5、左側の二重線の時は 年号 (現代では 申請用紙などの時、二重線で訂正の例もあります。必ずしも江戸時代と今は一致しない部分もあります) * 茶道長問織答抄(刊本)では、文や図に線引きがある箇所があります。上記に準じた線引きかどうかは解りません。 * 茶道長問織答抄は、幸長筆写と刊本で記載あります。幸長が写本の作成時に、この線引きもしたのでしょうか? 意味が解りません。 |
No.192 | さむしろ | 2012-03-14 19:11:39.868557 |
![]() * 風炉手前の図に 炉が描かれている事、切腹の間 が書かれている理由が、考えてみましたが、謎ですね。 下記記事 一解釈として、お読み頂きますれば嬉しく思います。 茶室 4畳半での畳敷き方―1 お茶の秘伝書で“山上宗二記”がある。その記載で、紹鴎4畳半は有名である。古田重然の時代も4畳半は常の茶室であった。 慶長御尋書に類する写本でも、4畳半の図が記載されている。紹鴎4畳半と同じ4畳半である。 慶長御尋書に類する写本に記載されている何図かの部分を記すと、4畳半台子左合手(炉使用時の2図)、同(風炉使用時の2図)と4畳半台子右合手(炉使用時の2図)、同(風炉使用時の2図)である。 4畳半台子左合手(風炉使用時の2図)は 手前畳の右横に貴人畳が存在する。右合手では手前畳の左横が貴人畳である。 茶室の畳は、床の前は貴人畳、其の前左が客畳。客畳の前は通い畳、茶道具がある所は手前畳、手前畳の前は踏込畳(この畳のみ半畳)となっている。 4畳半 畳の敷き方は一定のルールがある。例えば、貴人畳が半畳は絶対にありえない。4畳半の畳の敷き方に“切腹の間”と言われる、左回りの敷き方がある。慶長時代に、この畳の敷き方での茶会が行われた事があれば理解し難い、例外は考え難い。しかし此の“切腹の間“4畳半の図が書かれた写本が存在する。その写本は、、、、続く |
No.193 | さむしろ | 2012-03-15 18:46:29.619786 |
![]() 茶室 4畳半での畳敷き方―2 “切腹の間”が描かれている写本は“茶道長問織答抄(刊本)”である。 類する写本での、茶室4畳半の記載図では、“切腹の間”の様式では書かれてなく、踏込畳(半畳)、手前畳、貴人畳、客畳、通い畳にて描かれている。 “切腹の間”が図で描かれている事は謎である。あれこれ推測してみた、一解釈として書いてみたい。謎解明の為、皆様のお知恵を拝借したい。本当の理由を知りたい。 情報が得られれば光栄です。 (NO187の写真参照) |
No.195 | さむしろ | 2012-03-19 18:36:38.59854 |
![]() 茶道長問織答抄 “切腹の間”の真相は? 茶道長問織答抄は、脱字や追加文など散見される。類する写本より、追加文が多い、この追加文に謎である真相を記しているのでは? 利休没(1591年)、幸長没(1613年)、織部没(1615年)、宗箇没(1650年)である。 この時代は豊臣から徳川への移行期である。徳川幕府は、都合の悪い書は世に出回らない様働きかけた。1614年 キリシタン禁止令を出し、其れ迄外国よりの書籍を取り締まった。1641年以降は対外貿易も長崎出島 オランダ商館に限り書の統制をした。 書や写本は徳川幕府に都合悪い事が書かれた物は取り締まり対象になった事が考えられる。江戸時代の例で、保建大記打聞 享保5年に書かれた尊王論。角毛偶語 天保15年 佛教廃止論に異論。等幕府に都合の悪いと思われる書も古典籍として所在する。 堂々と 古田織部の“切腹”について語る時代ではなかった。“切腹の間”の図を書き入れ、軽妙な謎を挿入し後世の人に知らせようとしたのでは? “切腹の間”の他に何を記載内容に書いたか? 他写本に記載のない追加文が書写者の目的か?、、、、、、続く |
No.196 | さむしろ | 2012-03-20 18:46:45.365327 |
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No.197 | さむしろ | 2012-03-20 18:51:45.830555 |
![]() 茶道長問織答抄、類する写本の書写年代 茶道長問織答抄の書写年代は不明となっている。慶長17年 1612年7月27日が記載された文の最終日である。幸長没は 1613年10月9日である。 幸長が筆写した写本とすれば、1年数ヶ月間の没前に筆写されたとなる。宗箇が関与したとすれば、書写の年代は、約38年間の内となる。 又 寛文6(1666年)書く の奥書写本が存在していている。1612年〜1666年となり 54年後に書写された事になる。 寛文時代の写本は54年近い年代を経た書写となり、原本と云うより、転写された写本といえるのでは? この寛文奥書のある写本は“慶長御聞書、宗甫公古織江御尋書である。無刊記は“茶道長問織答抄、宗箇著古織茶会之記”であり、原本に近いか又原本かは解らない。 |
No.198 | さむしろ | 2012-03-21 20:48:37.213649 |
![]() 茶道長問織答抄 謎の記載−1 茶道長問織答抄(刊本)の著者 熊倉氏は、写本の冒頭の記載 「是より幸長 古織部殿御尋候覚」により、幸長説としている。 幸長説 とすれば “切腹の間”の真相はなどと論ずる事は無意味な記事となる。敢えて言えば、利休(没1591年)での“切腹の間” 記事となるか? 仮に 宗箇著の写本とすれば、利休と織部が“切腹”を命じられたとされる謎について、含みのある書写で書き表した事も想像出きる。 全く別の解釈で、茶道長問織答抄の記載された、“切腹の間”の図は、単なる誤写であるとすれば、1次資料でなくなり、後世に書かれた写本で、信憑性にやや欠ける書となるのでは? |
No.199 | さむしろ | 2012-03-22 19:11:33.359867 |
![]() 茶道長問織答抄(刊本)での記載内容を見て感じるのは。誤字、脱字、追加文、図記載違い など散見される。 他の同類写本に無い、顕著な部分は4箇所ある。 1、冒頭の記載 “是より幸長 古織部殿御尋候覚” 1、37頁 瀬戸皿の図に対し記載されている“文” 1、93頁〜96頁に書かれている “図” 1、147頁に記載されている “一 道巴屋敷にて、、、、の文”である。、、、、、、、続く |
No.201 | さむしろ | 2012-03-24 18:33:18.888031 |
![]() 茶道長問織答抄 謎の記載−4 147頁に記載されている “一 道巴屋敷にて、、、、”について。この文は“宗箇著古織茶会之記、慶長御聞書、宗甫公古織江御尋”の同内容写本では、記載されていない。茶道長問織答抄のみに 記載されている文である。 記載されている文は “一 道巴座敷にて茶入と茶碗持て出、風炉の前ニ置合、いかゝと尋候へハ、先水さしの前ニ置合よきよし織部殿御申候”である 此の文は “御茶被下候時之儀尋候へハ、”に一、*** 一、***と書かれた文の一説である。題名の様に“御茶被下候時之儀、、、”の重要な茶会の記載事項である。道巴、織部の名が文中に書かれている事が謎である。 “御茶被下候時之儀尋候へハ、”に書かれた一連の条項と比較して、かけ離れた文である。 推測で “御茶被下候時之儀、、、”の場で道巴の置合について 織部が指導した事になる。同席者が其の時何人かは解らないが、一流の茶人道巴が、茶会の勉強会なら兎も角、“御茶被下候時之儀、、、”の場面を鑑みし、恥ずかしき思いをした と考えるのは無理があるのだろうか? 時々の茶会で宗匠から指導を受けながら、精進していたのは解りますが、時と場合によるのでは? 其の時幸長の面前での出来事と思われるが。 一連の条項と比較して、かけ離れた文を書く事が謎の最終目的ではないか? |
No.202 | さむしろ | 2012-03-25 18:23:53.336115 |
![]() 茶道長問織答抄 謎の記載 茶道長問織答抄 に度々登場する名の “道巴”は服部道巴の事か? 加藤清正が200石で茶の指南役として服部道巴を召抱えた との説もあるようです。清正は1611年に亡くなっている。 この道巴の茶事の指南時代は、織部の年齢47歳以前となる。織部とどの様な師弟関係か解らないが、茶道が師範できる修行期間を考えると、織部は相当若い年齢の時に、道巴に茶事指南をした事になる。 織部は利休の見送りの一人といわれ、利休の無念さを感じて、無言の意志を宗箇に茶を通じ伝えたと思えて仕方が無い。宗箇は秀吉にての”利休切腹“にも何らかの感情 持ち合わせがあった可能性がある。尚 織部迄”切腹“となっている。 |
No.203 | さむしろ | 2012-03-27 19:50:28.785942 |
![]() 茶道長問織答抄の謎は、織部と懇意であった宗箇が、茶会記を写本化する際に巧みに仕込んだ無言の意志表示でなかったか? 茶道長問織答抄の写本の矛盾である、図の違いや、文の挿入の謎は、後世の人に知らせる鍵として書かれていた。 慶長御尋書と言われる同内容の写本“慶長御聞書、宗箇著古織茶会之記、宗甫公古織江御尋書”の記載を照合して、始めて記載内容の違いに気がついた。茶道長問織答抄だけ読んでもこの事は見えてこない。同内容写本を検証しての成果である。 間違いもあろう、一つの解釈である。 |
No.204 | さむしろ | 2012-03-28 18:37:36.411287 |
![]() 慶長時代の茶会記録 刊本について 慶長時代の茶会について書かれた刊本を 2冊紹介したい。 読んで見ると 非常に勉強になります。慶長時代の茶会事情が詳しく書かれている。 茶道を習っている人に是非読んで頂きたい。 出来れば2冊購入し読んで頂きたい。図書館利用も一方法である。 尋ね書きの体裁であるが、読みやすく書かれていて、改めて著者に“有難う ”と言いたくなる書籍である。 1、和風堂文庫一 茶道長問織答抄 を読む 熊倉功夫著 平成23年発行 1600円+税 1、思文閣刊 茶湯古典叢書二 古田織部茶書一 市野千鶴子校訂 昭和51年発行 古書市場で 6500円位 |
No.205 | さむしろ | 2012-03-29 18:13:05.14775 |
![]() 推理作家ではありませんので 書きませんでしたが。 この文 “一 道巴座敷にて茶入と茶碗持て出、風炉の前ニ置合、いかゝと尋候へハ、先水さしの前ニ置合よきよし織部殿御申候” が茶道長問織答抄 のみに記載されていました。(つづく) |
No.206 | さむしろ | 2012-03-30 17:45:29.169458 |
![]() それで 道巴を 御上様 と読み変えてみました。そうすると。上様(誰か?)が“御茶被下候時之儀尋候へハ、”即ち“御茶被下候 ”の文より 通常の茶会でなく、命を賭けるような、茶人の集まりの中の出来事と思いました。遊び事とか練習のような茶会では無い、と想像しました。その場は、宗箇の取り成しで、一見落着した粗相の事件かも知れません。 後 上様の潜んだ怒りは、豊臣家に内通したなどの言いがかりにより、織部の切腹に結びついた、と推測しました。 状況を知っている宗箇は、茶会之記に 密かに謎として、“上様を道巴”の名前にすり替えて記したと解釈しました。(つづく) |
No.207 | さむしろ | 2012-04-01 18:19:56.311694 |
![]() 利休―織部が命がけで茶の道を貫く姿勢、その継承した宗箇の武人としての茶の道。 今では命はかけませんが、当時は並みの茶会とは、私には思へません。昔は茶会が趣味とは違うと思います。力不足で記事に書けませんが、誰かが記事にして頂けるのを期待したいです。 依って 道巴を 御上様 と読み変えてください と書きたかったのですが、それでは 推理になってしまうので、書きませんでした。 |
No.208 | さむしろ | 2012-04-03 20:26:04.285998 |
![]() 四冊を読み比べるといろんなものが見えてきますね。知らないことが多く、ひたすらうなずきながら読みました。 新しく分かったこと、新しく生じた疑問と数多くの成果がありました。この”ものはら”にアカデミックな息吹を注入していただきました。 私の意見は、読み込み不足のため今段階書けません。今しばらく猶予を下さい。 福萬神さんには、引き続き投稿をいただきますようお願いします。 |
No.209 | さむしろ | 2012-04-04 19:34:33.711776 |
![]() 掲載有難う御座いました。 利休、織部の切腹について、疑問を持っています。それは両者が権力の中枢に近づき過ぎたと感じるからです。権力者は 手を掛け、尽力していた人物が、自分より名声高くなり、ややもすると権力者以上の信認が世相に現れた。 この事が嫉妬的感情になり疎ましくなった、と推測します。言いがかりの様な事態を切腹に結びつけた通説があります。この説は有触れた説です。 さむしろさんは如何ですか、この疑問について一筆見解をお聞かせ頂けませんか? さむしろ 昔から諸説があり、それぞれ「成る程、それも有り得るな」と思いながらみています。利休の場合と織部の場合の違いに、利休の場合は、子の追放で済みました。そして数年程で許されました。 織部の場合は、子共々切腹となりました。 そして織部の死後、 ・織部様式の茶陶が茶会記に出てこない。 ・織部以後の茶の湯を指導した遠州の好み道具のなかに織部好みが見当たらない。 ・楽茶碗についても長次郎の造形が途絶え、伝えられていないようである。(以後の楽家からは長次郎風の茶碗がない。) ・楽家では長次郎からのんこうまでの家系図の確かなものがないようである。 ・志野等の美濃焼の生産地(窯跡)が明らかになったのさえ昭和になってからである。 ・近年になって京の焼き物屋跡から数百点に上る茶碗、水指、鉢等々が出土していること。(ある時期井戸の中へ隠したのではないかとみられている。) 織部切腹の後、織部に係るものには全ての者が触れなくなり、すべてが封印された。 利休の場合は、”反逆”より”嫉妬”あるいはいうことを聞かないことへの”怒り”といった匂いを感じますが、織部の場合は、”絶対に許さない”という強い意志を周りの人々が感じたことがわかる。 こんなところですが、やはり”謎”ですね。 |
No.210 | さむしろ | 2012-04-05 18:23:26.433768 |
![]() 利休、織部、切腹の見解有難う御座います 織部について、此れでもかと形跡を抹消した所業は謎ですね。 この様な状況の中で、”宗箇著古織茶会之記”写本が存在する事は奇跡ではないでしょうか。 抹消されたであろう、貴重な写本の記事を”ものはら”に書けた事嬉しく思います。 新発見の記事が出るかも知れません。 こちらこそありがとうございました。 「宗箇著 古織茶会之記」の存在が明らかになったこともすばらしい成果だと思います。これからも新事実が明らかになることを期待しています。 引き続きの投稿をお待ちします。(さむしろ) |
No.211 | さむしろ | 2012-04-23 23:57:54.378476 |
![]() ここでは茶道長問織答抄が、徳川将軍の数寄御成りの形式を確立する目的で編纂された、との仮説をたてて読み解こうと試みている。 そうしたなか思いがけず福萬神さんから、茶道長問織答抄と同一内容の別本が存在するとの情報を頂き、併せて各本を読み比べた考察文の投稿を頂いた。 福萬神さんの投稿をうけ、私なりに感想を書こうと思いながら、なかなかキーが進まなかった。やはり読み返して見るしかないとの結論にいたった。 |
No.212 | さむしろ | 2012-04-24 21:21:27.386554 |
![]() のように、道具を置く位置について細かく触れたところが随分多い。 |
No.213 | さむしろ | 2012-04-26 00:14:49.095451 |
![]() 肩衝茶入のような大切な道具を扱うのは慎重の上にも慎重に、盆に茶入れを置くときは、茶入れの底が強く当たらないように、まず添えた手の指を先につけ、それから茶入れをそっと置くとよい。 というふうに。 |
No.214 | さむしろ | 2012-04-26 23:48:31.40587 |
![]() 唐津焼の花筒 水指 唐津焼 茶碗 唐津焼 普通、同じ窯の器(ここでは唐津)を使うことは避ける。 当時はあまり頓着しなかったのかもしれない。また、唐津が好きだったようにも見える。 |
No.215 | さむしろ | 2012-04-27 23:15:39.256678 |
![]() 「給仕口の二枚障子のこと、座敷の中が詰まって狭いときははずしてもよいし、そのままにしてもかまわない。」 のように席の使い方についてもふれている。 給仕口の二枚障子は、織部が考案した相伴席付の茶席の場合のことである。 |
No.216 | さむしろ | 2012-05-01 23:43:52.727924 |
![]() 客もそう、亭主もそうであったようだ。 |
No.217 | さむしろ | 2012-05-02 21:57:46.906953 |
![]() 一、主君が腰掛におられる時、供の者は円座を飛石の上に敷いてそこに座る。 一、主君が手水を使う時は、お供の物が柄杓を取って水をかける。 などの、主君の供をする時の作法が書いてある。 |
No.218 | さむしろ | 2012-05-03 22:50:20.135902 |
![]() 「駿府にて後庄三(後藤庄三郎)、露地よりせんけんの山多く見え候を、道巴に木を植えて隠すように御申候、・・・」 後藤庄三郎は江戸金座の総監督に当たる人物。大変裕福な代官的な豪商。 ・・・織部の弟子の茶人道巴に山を隠すよう命じ・・・。 と解説されている。 |
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