茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.220さむしろ2012-05-08 00:24:00.727766
NO216で書いたように、当時は今のような稽古というものがなかったという。

体系的な茶書というものもなかったと思われる。

茶会は、
初入

懐石
中立
後入
濃茶
薄茶
という流れで進むが、本書は、この流れに沿って聞いているのではない。思いついた疑問を、流れとは関係なく、前後を問わず問い聞きしたものである。
No.221さむしろ2012-05-08 23:55:37.154357
各本でいくらかの相違がある。
熊倉功夫著「茶道長問織答抄」を読む(59P)の、

濃茶のあと薄茶という条文は「軸は」は森川本では「竹輪」となっていて、この方がよいでしょう。また最後の部分では「播てや」とありますのは「播磨屋」とあって、その方がわかりやすいと思います。また「釜ニ穴のある方」というところは「釜に景のある方」とあり、これで意味が通じます。

と解説がある。森川本とは、旧森川如春庵所蔵本をいうようだ。
No.222さむしろ2012-05-09 23:50:11.88186
茶を習っているという人でも、殆どの人には関係ないことの一つに、夜会(夕方から始まる茶会)の亭主あるいは裏方をするときの露地の灯篭の仕度がある。

露地にある灯篭は飾り物ではなく、夜会では扱いがある。暗闇の道明かりとして火を灯す。

物の本によると、支度の段階で火袋も含めて水を打って洗う、となっていた。


茶道長問織答抄によると、
「石灯籠に火をともすことは、その時石灯籠に水を打っても、そのままでも、時と場合によっていずれでもよい。」
となっている。

普段はなんとも思わないのに、その場に立つと次から次へとわからないことばかりということになる。
No.223さむしろ2012-05-11 00:40:25.456053
「茶道長問織答抄」は上田宗箇が浅野幸長と織部の間に立ってまとめられたものである。

上田宗箇もついこの間までは全国的には無名であったが、最近その果たした役割が評価されてきたようである。

上田宗箇の茶は、今も広島市にある上田家で上田宗箇流として伝わっている。

先日、安倍さんは、ひょんなことから上田宗箇流家元を訪ねられたそうである。そして、新発見に衝撃を受けられたそうだ。

詳しくは、兄弟サイト「EDOICHI」のツブヤキをどうぞ。EDOICHIへは、当HPトップページ画面の下のほうから行けます。
No.224さむしろ2012-05-12 22:36:24.069691
熊倉功夫さんの解説に次のような話がある。

かっての茶会では良いと思ってもやたらに口に出さないのが約束でした。
席入りをしてお礼を述べ、
懐石をいただいて賞め、
別れに際して礼と賞賛の言葉を述べ
れば良い、と記した茶書もある。

ついつい過剰になりやすい。茶の湯に限らず陥りやすいところではある。

No.225さむしろ2012-05-14 23:41:23.10432
袋棚と地敷居の間は六寸五分、
袋棚と畳のへりの間は畳目五目、
短けいとへりの間は十三目、

などのように細かい約束事が次々とでてくる。
見た目に良いところに置いて、畳目を数えたところ上のような位置だった、ということだろうと考える。
No.226さむしろ2012-05-16 00:25:53.019319
前にも書いたように、当時は茶の湯を師匠について習う、稽古をするということはなく、茶会に列して学び、茶会に招いてその機会に教えを請うなどして学んでいったようだ。

学んだり、自らの工夫を加えたりして自分なりのものを形づくっていった。そして上田宗箇流、遠州流、石州流、有楽流、三斎流、不白流、宗偏流、不昧流等などとして今に伝えられてきた。
No.227さむしろ2012-05-17 00:00:52.155679
上田宗箇流、遠州流、石州流、有楽流、三斎流、不白流、宗偏流、不昧流などを武家茶道という言い方をする。

多くを知っている訳ではないが、点前が各流派によって微妙に違うのもこのような茶の湯の学び方からであれば理解できる。

茶道長問織答抄は極めて貴重な茶の湯指南書であったことがわかる。ただし、茶の湯を学ぼうとする大部分の者にとって雲の上の、存在さえ知らない茶書であっただろう。
No.228さむしろ2012-05-18 00:16:04.896605
茶室には茶庭がつきものである。茶庭のことを露地という。

露地には、腰掛、飛石、蹲などの約束のものがあるが、同時に”風情”が大変重要である。

その風情について織部は、三井寺で宗長の発句から「夕月夜海すこしある木の間哉」(夕方に出る月のもと、木の間に少し海が見える景色であることよ)を引用している。

なお利休は「樫の葉のもみぢぬからに散りつもる 奥山寺の道のさびしさ」という歌を引用している。
No.229さむしろ2012-05-19 22:29:29.222299
大宰府天満宮宝物殿にて
「ー備前の異彩ー 安倍安人展」
が始まりました。

2012年5月19日→8月26日です。
No.230さむしろ2012-05-20 23:44:02.650406
オープンに先立ち、本殿で作品奉納並びに収蔵の祭事が執り行われた。
祝詞奏上と御祓いの後、感謝状の贈呈がおこなわれた。
No.232さむしろ2012-05-22 13:30:21.868232
祝詞奏上
No.233さむしろ2012-05-22 13:31:20.325459
お祓い
No.234さむしろ2012-05-22 13:32:28.270653
感謝状を頂く
No.235さむしろ2012-05-22 13:34:14.204501
オープン

以上、早速、かわにしさんから提供がありました。
ありがとうございました。
No.236さむしろ2012-05-22 18:37:18.59675
展示作品は、茶入、茶碗、水指、花入、徳利のほかに、油彩、ブロンズなど。

作品数は、会場スペースの都合で、一昨年のミウラート・ヴィレッジ美術館での安倍安人展より少なかったが、近作の安倍備前が圧倒的な存在感を放っていた。

一部を写真で紹介しようと思って写真を撮ったまではよかったが、操作を誤って全て消してしまった。思いがけず許されて、本殿での祭事に参列し御祓いをして頂いたのに、写真の全てをお払い箱にしてしまった。

ギャラリーかわにしの社長さんが、写真をたくさん撮っておられたので、ギャラリーかわにしのホームページに載るのではないかと思う。載らないようであれば、載せていただくようメールを入れれば、期待に応えていただけるだろう。ただし、機嫌の良い日を狙わないと期待はずれとなる可能性が高い。

虎が大暴れした次の日が狙い目のようだ。
No.237さむしろ2012-05-23 17:45:11.559674
今年は、
5月19日〜8月29日大宰府天満宮・宝物殿  −備前の異彩− 安倍安人展
7月1日〜12月24日加納美術館  −古備前から現代へ− 金重陶陽・安倍安人展
が開催される。
そこで、安倍備前を鑑賞する一助になればということで、平成14年9月27日に安倍さんの牛窓のアトリエで伺った「桃山茶陶の焼成と造形」についてのお話しを掲載する。これは現在公開終了となっている「桃山茶陶の焼成と造形」から文字起こししたものである。生憎、作品を示さず発言のみを掲載するため、分かり易くするために意味を変えない範囲で編集してあることをご理解いただきたい。

 「桃山茶陶の焼成と造形」

安倍: 茶陶の中には、まったくの職人の世界の物と、アートディレクターがいて作られた物の二つの世界に分かれていると思う。土着の陶工が作っている物と、いきなり桃山時代になって出てきた茶陶物とはまるっきり世界が違う。ほとんどの人は、それを一緒にして考えてしまっている。これはアーティストの作品、それは職人の仕事(作品)と分けて話さないと、まるきり違った話になってしまう。二つの物が一緒になってしまって理解出来なくなってしまっている。名もなく貧しくの職人の世界と、一方は大名や豪商がバックについたアーティストの世界です。

問: 百点二百点を犠牲にしても一点を求めると云うことですか?

安倍: 違います。これは一点しかありません。一点毎に設計図があって最初から一点しか作っていないんです。二つ三つはないんです。

問: 例えば同じものを十点作って、その内の一番良い物を残すということではないんですね。

安倍: あくまで“太郎庵”はこう云う設計の元にこう作らせている。これはアートなんです。沢山作って一点取るのは職人の世界、破片も絶対ないと思います。焼いたのも、出来て来たのも、今に残っているのも、これ一点限りということです。(つづく)
No.238さむしろ2012-05-24 17:47:40.209214
問: そこのところを素人にも解かるように説明していただきたい。

安倍: アーティストは、最終的な仕上がりが設計図で出ているのでそうなるまで何回でも焼き上げていく。職人は、そんなことは考えずに一回勝負で焼くので、アーティストと職人では焼味も違いますので一目瞭然に解かります。

窯の中で自然にできたものと、意図的に作られたものは、作る過程がまるっきり違います。古備前でも自然に(たまたま)出来たものは沢山あるんです。価格的に云うと数百万円、こちらは数億になります。(つづく)
No.239さむしろ2012-05-25 17:49:55.388868
問: 現代まで残っている、花入、水指は数十点くらいのものですね。

安倍: 花入、水指、鉢と…美術館にも数える程しかありません。完全茶陶として作られたものなので、それらと壺作りのような職人仕事とは分けて考えないといけません。アートディレクターがいて、設計図があって、最終の焼成も完成時の姿も図面がある。

例えば、まず造形、その次に第一回焼きは“赤焼き”、二回目は“ごま焼き”、三回目にはどこ辺りに“さんぎり”を出す、四回目にはどう仕上げる、という設計図。赤焼きなどの焼成は職人にやらせ、このあたりはごまをかけてなどと指導するわけです。自然にこの様な景色になる訳がない。表に向けたり、裏を返したり、或は寝かせたり。その都度ごとに味を付けていく。そして出来上がるという訳です。

問: ではそのアーティストも相当焼き物にも精通していたという事ですね。

安倍: 勿論。只その職人が、窯の中のどの位置にどのように置いたらどういう風に焼きあがるとかという事は知っている訳ですから、アートディレクターは、ここに“ごま”をかけて、ここに“さんぎり”をなどと指示をすれば良いのです。(つづく)
No.240さむしろ2012-05-27 17:43:21.852669
安倍: 作品は、最終的には京都へいってしまうわけです。その破片は備前でなく京都で出ます。伊賀の窯跡からも一切出ません。職人が作ったものの破片は、備前の窯跡でも出て来る。

問: それは唐津焼きでも同じですね。

安倍: 唐津で奥高麗の破片が出ないのに京都の井戸から23ケも出た。焼損じたものも、員数を揃えて送らせる。その内から良いものだけを取り上げる。職人が作ったんでは味がなく只土管のようにあがるだけです。使い込んだからこう云う味が出たというものでもない。窯から出た時からこうです。ここにある徳利も、この世に出て来てまだ一週間しかたってないんです。これは最初からこういう味です。そのように作られる訳です。
(写真を示して)こちらの名品を職人が真似て作ったものがこちらです。

問: この違いを伺いたいのですが。金額的に数百万円と数億円と云う事ですが。

安倍: 全然違います。造形的にも焼き的にも。造形的には、まず面がつながってないです。腰は腰、胴、頭とばらばらです。

問: 只、あるだけということですね。(つづく)
No.241さむしろ2012-05-28 18:34:44.363173
安倍: 寸法的に少しずつ違ったもの、バランスの違ったものは沢山ありますが、あくまでこれはこれ一個です。これ一つが窯の内でたまたまこうなったと云うのではなく、何回も繰り返して焼いてこのように仕上げていった。

問: 今の備前はさんぎりはさんぎりとはっきり分かりますが。

安倍: 現代は炭さんぎりですので、これはこれと人工的に作られています。
炭をほうり込んで物を当ててやった処が赤く残って…

問: こちらはさんぎりがかかって自然にぼけてますが。

安倍: ここあたりは重なってるさんぎりの上へごまがかかってて、何故そこまで求めたか…何故そこまで必要であったか。それはその時代のお茶の世界、思想が要求したんでしょうね。
No.242さむしろ2012-05-29 18:14:28.349888
問: ある日突如として出て来たわけでしょ。何かのきっかけはあったんでしょうか?

安倍: これの原形は楽茶碗です。まったく楽茶碗同じ原形です造形的には。

問: 一般的には、千利休が無作為の楽茶碗。古田織部が“ひょうげもの”とか“いびつ”とかの作意の両極と云われますが…

安倍: 私はそれを否定してるんです。織部様式も原形は楽茶碗です。誇張しただけで造形的に云えばまったく原形は利休の楽茶碗です。

問: それはどういう処で分かりますか?

安倍: やきものと云うのは点と線しかない。同心円でろくろを廻してますから。楽茶碗はそこに面が出て来ます。面を求めた事が特性です。それまでのやきものには点と線しかなかったんです。ビール瓶とか一升瓶とか点と線です。(つづく)
No.243さむしろ2012-05-30 19:57:49.287442
安倍: そこで何故三角が必要となってきたかという事は、物には量があって量を求める、大きさであったり深さであったり、奥行きとか量を求める手段として面を使う。

点と線だけでは量が出て来ない。彫刻ではそうです。体積、目方、大きさを現わしようがない。

彫刻の思想を何故持ち込んで来たか。楽茶碗にも…。より日常から遠い物、それが侘び、寂びですから。例えば、壁が黒いとか柱もくさったような、日常から遠い。で西洋が遠い、手が届かない訳ですから。

より具体的に宇宙は無限である事。
無限に広がってゆく。そこで三角で広がってゆくという事で無限を表わしてゆく。楽茶碗が禅からとかいうけど私は西洋の造形、彫刻からだと思います。

その時代の門を開いたのは利休です。西洋からあらゆる文化、衣食住と取り入れて、今私達も肉を食べてワインを飲んでいるけど、その時代にもうしていたんです。西洋かぶれして。で衣食住が入って来たんですから精神文化が入っていない筈はないんです。美術文化も入って来ない訳がない。で日本の無限の禅思想と、西洋の思想が合体して出来たのが楽であり、もっと具体的極端になったのが織部。

そのとき西洋はどうなったかと云うと。

エルグレコが絵画は平面ですから二次元です。それにもう一次元作れないかと考えて三角の構図にもっていったわけです。で頭を全部天に向けてずっと描いていったのがエルグレコの世界でしょ。

それを分解して平面的にしたのがセザンヌです。三角三角とね…。でそれをもっと具体的にかこんでしまってデフォルメしたのがキュービズムピカソです。無限を表現したんです。

それと同じものがこれです。キュービズムの物体、オブジェ、ピカソのした事を日本でも利休が楽にさせたんです。400年前にすでに利久がしていたわけです。

宇宙は無限である事を具体的な物体として見せたらこうなんだと云う事です。すごい物ですよ。楽茶碗は、三角、三角でなりたっているんです。口も波、腰も波打つしね。(つづく)
No.244さむしろ2012-05-31 19:34:16.056978
問: 楽は、単なる思い付きではないんですね。

安倍: この花入は展開図にしてもつながらないです。それほど複雑な方向性があるんです。

問: そうして見ると(別の写真を示して)これなんかは完全にごまかしですね。

安倍: 三角の構図構成の一番の成功作品でしょうね、こちらは。

問: とても高度な…(つづく)
No.245さむしろ2012-06-01 18:31:05.438407
安倍: 職人のものは写真で平面的に見ているだけで、これなんかは三角がずっと無限に繋がっていってこうなっているんです。楽茶碗もそのように出来ていて、どれも同じです。

問: 元もとの造形理論は現代まで伝わってきているんですか。

安倍: 技工としては伝わっているけど、理論としては伝えていなくて、伝わっているのは長次郎、常慶まででしょうね。山を作って谷を作って、でも意味は違うんです。色々な面がある事、線だけではない。アールがついている処と鋭く入っている処、溝ではないんです。
これらには穴目があり、ほとんど掛花になっていたんです。表裏と穴を埋めてます。

問: で、掛けなくても良くなった時代の“写し”が、こちらですね。(つづく)
No.246さむしろ2012-06-02 17:22:27.550759
安倍: 裏表あるという事は、景色を花によって使い分けたんでしょう。それ位高価なものだったんでしょ。“あたり”がある事で、何回も焼かれた事がよく分かります。ぼたもちも何重にも重なっています。先に裏を焼いて、すごくごまがかかってます。伏焼きです。で、返して内を又焼いてゆく。

伊部の黒は何回も焼く事によって出来る。江戸時代の物などで見ると、全部黒くなるものを塗っています。
土味と火だすき、……伊部も室町時代末位からでしょう。かさかさは火が甘い状態で、溶けて黒くなってゆく。で、最初から黒くなるのを塗っている物(江戸時代)があり、同じ伊部でも室町桃山時代から江戸時代のものが一緒になってしまってるけど、価格的にケタが違ってくる。区別がついていないようです。

古いものから江戸時代まで、一回で焼いたものと何回も焼いたもの、ごまの色がだんだん変わってくるので分かる。(つづく)
No.247さむしろ2012-06-03 17:41:19.206594
問: 同じ調子でなく、複雑な感じで何回も焼かれている事が分かる。深いですね。窯の内の湿度で違った上がりもある。

安倍: ヘラ目の事、形が強すぎる時、やさしくなる。只めちゃくちゃ入れれば良いという事ではなく、逃げもあるでしょ。ヘラの方向性がある。

問: 職人のものって云うのは、只思いつきで入れている?

安倍: むだベラは沢山ある。計算しつくしたところのヘラ目、一本のむだもない。ヘラ目の形と量、方向性。

問: 下の方が“××”文なので上の方が“〜〜”文、なおかつその量のバランス。むだが一本も無い。一本取ってもバランスが崩れると云う事でしょうね。
(つづく)
No.248マスター2012-06-03 17:52:28.082584
内田江美展が開催中です。
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HEIS GALLERYでは、国内外で活躍する若手アーティストの作品をはじめ、たのしくておもしろい作品を、個展形式やグループ展などでご紹介して行きたいと考えています。
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No.249さむしろ2012-06-04 17:51:13.863841
安倍: 耳の事、取っ手ではないんです。上と下をつないでいるもの。只、取り付く位置でバラバラの感じになることも。上の大きさと下の大きさのバランスを取る。

問: 先生のものを見ると、前から見ても、横から見ても、裏から見てもバランスが取れているように思えます。

安倍: 一体化している。造形も、耳も、ヘラも、それはきちんと設計されている。

問: 元の形をろくろで作って、それからですね。年単位の仕事ですね。備前との間で行き来すると云う事ですね。

安倍: 桃山と云うのは、そう云う名品が美濃で出来て、唐津でも出来て、朝鮮半島にまで行った訳です。
あっちもこっちも同時進行でしょうね。ここが仕上がったから次と云う事ではなしに。桃山独特の造形と云うのは、それまでの歴史が繋がってと云う事ではなく、突然出てきた形です。
(つづく)
No.250さむしろ2012-06-05 18:22:33.169917
問: 利休の造形が桃山で一旦途絶えて、その後無くて、魯山人の場合は、その理論と一致しているんでしょうか。

安倍: 魯山人は素人です。

問: ゆがみがあるとか云うだけの事ですか。

安倍: それは利休の時にすでにあって、織部がいて、光悦がいる。光悦は楽に焼いてもらってた訳ですから。

問: 注文したと云うのがありますね。

安倍: 利休がいて、その下にプロの陶芸家がいて、かたやアマチュアの陶芸家、それが光悦です。アマチュア二ズムがその時出来てるんです。で、戦後日本の工芸の復活は、アマチュアの魯山人が復活させるから、光悦のアマチュアニズムが伝えられていて、現代の工芸はアマチュアニズムです。で、プロの世界と云うのは、清水焼の高級食器のように、器屋さんになった人です。
(つづく)
No.251さむしろ2012-06-06 18:40:15.244348
問: この造形の組み方はプロと云う事ですか。

安倍: これはプロのアーティストです。私も同じ様に作ろうとしましたが、出来ません。どうしてもここから(スタートして)ここまで返ってこれません。つながらないです。それ位複雑です、彫塑としてね。

問: 例えば、それは日本人ではなく、桃山期に向こうから来た人に作らせたと云う事は考えられませんか?

安倍: それは分かりませんが。
(つづく)
No.252さむしろ2012-06-07 17:59:37.576505
問: 彫刻流に云えば、それ位高度な訳ですよね。「あ、分かった」と云うようなものではないですね。

安倍: 只簡単に三角の構築をしろと云って、粘土を持たせてやらせたら、すぐ出来ます。三角三角と積み重ねて茶碗でも作らせたら、アマチュアでもすぐそれらしく出来ます。

問: でも安倍さんは何十年も制作されていて、なお出来ないと云われる。

安倍: 例えば、カルチャーセンターで土を渡して茶碗を作ってもらうと、初めての人でも皆光悦のようなものを作れます。三角の構成を教えれば、全員楽茶碗になるんです、長次郎風の。
(つづく)
No.253さむしろ2012-06-08 17:52:39.988585
問: そうすると、逆に離れるのに苦労するんですね。

安倍: 新しい三角の組み方と云うと、そら難しい。

問: 守りながら離れてゆく。

安倍: 家康が天下を取ってから、織部の茶碗は全然違うんです。一品生産から大量生産へ、でも理論(ぽいもの)は一緒。だけど違いは歴然です。織部黒が京都で無傷な物が400個ほど埋まってたんです。何故かと云うと、桃山末期の陶器やの屋敷跡で、信長と利休が居る。秀吉と利休が居る。秀吉が利休の思想に適わない訳です。で、利休の息のかかっていた者を端からきっていった。で最後には、織部もきられた。ところが、一塊りに埋めてるんです。
(つづく)
No.254さむしろ2012-06-09 18:31:38.923581
問: 桃山様式は、遠州の時には消えてしまって、後は石州の代になり、不昧の好みの内にもちょっと無いですよね。

安倍: 結局、織部の息のかかっている物を扱ってたら家康にたたかれる。だから使わない。備前も伊賀も。見直されたのは、戦後です、使われ出したのは。

これは種壷ではないです。元々から水指として作られているように思います。口を意識的に内側へ押さえ込んでいるんです。押さえてあったり、ヘラが入っていたり、あくまで種壷を造形的に写したと云う事です。これは唯一重文の水指で、最高の物です。小さい物ですけど。
No.255さむしろ2012-06-10 17:54:03.317931
問: この火襷と云うのは、線が出たところとか面のところとか、はっきりしたり、ぼかしたり、それぞれある方が良いのでしょうか?

安倍: これはたまたま線のところが残ってるけど、ほとんど面の部分が多いんです。面にするのも、又難しい。ワラが入るから、白い所が残らず全面真赤になる事が多い。火襷の焼成温度は800〜900℃で、素焼きの時は全面真赤で、1200〜1300℃まで上がって、焼成物(ワラ)を入れてなかった所は白くぬけてくる。古い物では全面真赤な火襷が多いんです。白が残っているのは少ない。このワラの線が、1200℃位まで上がってくると、細い線は無くなってくる。太い赤だけが残る。
ワラの厚い薄いで変化がつく。細い線がたくさん入っていても、温度が上がってくるとどんどん消えてゆくんです。
No.256さむしろ2012-06-11 18:22:25.126908
問: 先生の作品で火襷の中に文字が出ているのがありますが、そう云う意味ではコントロール出来ると云うことですか?

安倍: あれはあの時たまたまで。窯の条件がうまくあったんでしょう。本当なら、あの字はすべて消えてしまうんです。
低火度でいくと火だすきはきれいに残ってゆく。それが今の作り方です。

問: 赤の色は、濃い程良いとか云う事ですか?

安倍: 濃い程と云う事ではなく、ほとんどあずき色をしていたり、オレンジがかった明るい色と、どちらも酸化で上がっていくんですけど、多少還元が残っているか少なかったか、どちらが良いとか悪いとかではないです。濃い色と弱い色の複雑な色がある方が、景色にも変化があって良いと云う事。1300℃以上にならないと難しい。(つづく)

No.257さむしろ2012-06-13 17:52:08.356204
問: 1200℃〜で10℃の違いは?

安倍: もう1000℃越したら、すごく違いが出てくる。

問: それをコントロールする事により、色々違った(味の)物を作る事が出来るんですね。

安倍: 難しいのは、温度の上げ下げではなくて、窯を止める時期を探すことです。手前でも向こうに行き過ぎでもいかん。窯の状態を見分けるのが難しい。一人で居ると大体炊きすぎる。焼けてないと不安になる。
で、多人数いると、勢いで早くに止めてしまう。炭さんぎりの様に、しっかりと焼かないんだったら100%易しい。温度が上がっていないから。(つづく)
No.258マスター2012-06-14 13:23:01.369407
『アート・サンタフェ』
 7月12日〜15日 アメリカ、ニューメキシコ州、サンタフェ、で開催
アート・サンタフェの公式サイトのFacebookに安倍安人の作品が取り上げられています。

http://www.facebook.com/pages/Art-Santa-Fe/64548428501

No.259さむしろ2012-06-14 18:05:50.523555
問: 10個入れれば10個取れるような。
地下穴窯で歩止まりっていうのはどの位ですか?

安倍: %で云ったら、0の時は0。年間何回もありますよ。100個入れて10〜15個で良い方かな、最高でね、年1回位。ま、5〜6個ですか。まあ、焼けるのは焼けるけど、自分で気に入った物と云うと、その位です。

仕上がりをここで止めると云う事。

問: 伊部は溶ければ黒くなるんですか?

安倍: そうではないけど、ゴマのかかり方も、どんどんかけると流れてゆく。小さいのがパッとかかっているのが良い。窯の構造にもよるんですが。

どれも名品は1個だけ。色々あっても1個だけ。備前が1個だけ良い物があると云うのは、種類として色々なものが100も200もできると云う事です。(つづく)
No.260さむしろ2012-06-15 19:17:05.615864
問: 焼き続ければどんどん変化してゆくんですね。で、どこで止めるかと云う事が、一番難しいんですね。一回一回の窯の炊き方もそうでしょうが、もう一回入れるかどうかもでしょうね。

安倍: もうこの辺で止めとけば良いのに、もう一度窯に入れた為にダメにしてしまったり。入れてよくなることは、本当に少ないです。

問: 高い温度で回数を焼いていくと耐えられる物でもゆがむんですね。

安倍: ゆがんだから良くなった物ということもなくはない。(完)
No.261さむしろ2012-06-18 19:24:57.357716
あくまで私見であるが、これまで備前焼の世界は金重陶陽を頂点とした三角形で構成され、その中で位置決めがなされ、安倍安人は三角形の外にあったように思う。

安倍の「数度焼」「三点展開理論」「織部様式」などの主張は、僻事あるいは邪道その他理由はそれぞれあるかもしれないが異端者とされて来たことは否定しようがないだろう。

ところがここに来て風向きが変わって来たように思われる。
No.262さむしろ2012-06-19 21:36:00.591774
平成24年1月21日(資料による)に備前市教育委員会主催で、

備前歴史フォーラム2011
 「備前と茶陶〜茶道の視点 考古学の視点〜」

が開催された。以下「ごあいさつ」から抜書き。
備前市教育委員会では、十数年前からの窯跡群の発掘調査を実施、備前焼を歴史学や考古学の視点からとらえなおそうとする試みをしてきた。
これらの成果をもとに国史跡の追加指定を受け、範囲を広げた近世の大窯を一体的に保護する枠組みができた。今後も備前焼の歴史をより深く読み解く作業が進み、備前焼についてのさまざまな情報発信ができることを期待する。
No.263さむしろ2012-06-21 00:27:11.46179
フォーラムは次のように行われた。

基調講演
「茶陶としての備前焼−「原点の茶碗」と織部スタイル−」  竹内順一氏 永青文庫館長

研究報告《茶道の視点》
@「「茶陶」の定義について−モデルとコピーの視点から−」  梶山博史氏 兵庫陶芸美術館
A「備前焼の茶陶」   上西節雄氏 吉兆庵美術館顧問

研究報告《考古学の視点》
B「堺における茶事と備前物」   森村健一氏 関西近世考古学研究会会長
C「備前焼をめぐる茶陶−岡山城下町跡の出土品を中心に−」   乗岡実氏 岡山市教育委員会
D「桃山スタイル−窯跡資料からの視点−」   石井啓氏   備前市教育委員会

討論「備前と茶陶 〜茶道の視点 考古学からの視点〜」 
コーディネーター   伊藤晃、上西節雄
パネリスト       竹内順一、梶山博史、森村健一、乗岡実、石井啓
No.264さむしろ2012-06-21 21:27:45.518431
NO262の写真は、「備前歴史フォーラム 2011」の資料冊子の表紙部分であるが、この資料集には、上の研究報告とは別に「誌上報告」として二つの報告がされている。

その内の一つが「製作技術からみた「桃山」」と題してなされた重根弘和氏(備前市教育委員会)の報告である。
左の写真が、その報告の一ページ目である。

写真の二つの茶碗を見て「この形は」と、ある茶碗を思い起こされた方もおられるのではないか。
No.265さむしろ2012-06-23 08:58:26.071772
重根氏の報告は、はじめに、として、安倍氏は「桃山時代のやきものには1つの規則性がある」「楽茶碗”俊寛”、志野茶碗”峯紅葉”、織部の沓茶碗、備前茶碗”只今”は基本的には同じ造形であり、違いは強調の度合いだけである」と言っていることを紹介。

そして安倍が「俊寛」と「峯紅葉」を製作する様子を記録し、安倍の説を紹介する、と報告の目的を述べる。
No.266さむしろ2012-06-23 22:22:38.517645
まず同じ形の碗を2つ作り、一方を俊寛に、もう一方を峯紅葉に加工していく。

最初の形が同形、大きさも同じところからということで、出来上がりが「俊寛」は少し大きく、「峯紅葉」は少し深くなっている。
No.267さむしろ2012-06-25 00:13:06.275012
「俊寛」の製作工程の写真の頁であるが、次のような解説がされている。

高台を3か所けずる。
高台脇、腰、胴、口縁をそれぞれ3か所けずる。けずる位置はらせん状にずらしていく。
口縁の形を整える。
全体の形を整えて完成。
No.268さむしろ2012-06-25 23:46:21.641856
同じく「峯紅葉」の製作工程の写真と解説。

高台を右手の人差し指、中指、親指でつまみ、3か所くぼませる。
高台脇、腰、胴、口縁をそれぞれ3か所けずる。けずる位置はらせん状にずらしていく。
口縁の形を整える。
全体の形を整えて完成。
No.269さむしろ2012-06-26 22:28:05.103456
同じく口縁と高台。左が「俊寛」、右が「峯紅葉」
No.270さむしろ2012-06-27 22:24:09.051417
次いで焼成についての報告。

現在の備前焼は、登り窯で10〜14日、1,200度程度で焼成、それも1回のみの焼成で完成する。

「桃山」の優品は、温度1,350度、5回から6回、多い場合は10回以上焼成を繰り返していると安倍氏は考える。

これまで発掘調査をした窯跡で、桃山の作品を焼成したと考えられている窯は5例。しかし、窯跡調査で発見されるのは、現在優品といわれるものの陶片さえ稀。現状の調査成果では、どの窯で「桃山の優品」を焼成したかは不明。

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