茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.271さむしろ2012-06-28 23:55:12.713316
名品解説。手にとって観察した名品の焼成を解説。

備前茶碗 銘「只今」
 向きを変えて数度の焼成がなされていることなどを解説。

半月形手鉢
 胡麻の感じから、何度も繰り返し焼かれていることを説明。焼成中の破損個所を粘土で補修し、胡麻をかけて隠していると思われることを指摘。
No.272さむしろ2012-06-30 00:06:52.102752
足付角鉢

半月形手鉢との胡麻の質感の相違を指摘し、人為的に出した胡麻でわと。
蝶の文様、梅の文様から型押しではないかと。


矢筈口水指

ろくろの回転を利用したヘラ目を解説。残したろくろ目、正面の炭痕、左側の胡麻、右側の桟切、石はぜ、などの見所が用意されたものであることを指摘。
No.273マスター2012-06-30 08:55:00.911161
桃山から現代
 「金重陶陽・安倍安人」展

が始まります。
加納美術館  島根・安来市
期間 7月1日〜12月24日
No.274マスター2012-07-02 10:14:07.214818
桃山から現代 「金重陶陽・安倍安人」展 がスタートした。

前日、同好の士4人に安倍さんを加えた5人が奥出雲・比田温泉・湯田山荘に入り、山しかないことを幸いに3時過ぎから酒宴を始めた。

酒は、地酒と震災応援の福島の酒を用意した。丁度なくなりかけた頃、加納美術館からの地酒の差し入れがあり、6時の夕食前には全員出来上がっていた。

多分、安人作酒器の持参があると思い、私も火襷を持参していたが、だれも用意していなかった。多少迷いもあったが、火襷酒器はカバンの中に収めたまま、宿備え付けの湯のみワンでの酒宴とした。
No.275マスター2012-07-02 17:55:54.201245
桃山から現代
「金重陶陽・安倍安人」展
No.276マスター2012-07-02 17:57:25.589985
桃山から現代
「金重陶陽・安倍安人」展

山陰中央新報の取材を受ける。
No.277マスター2012-07-02 17:58:37.66671
桃山から現代
「金重陶陽・安倍安人」展

会場風景。
No.278さむしろ2012-07-03 23:20:06.514275
矢筈口耳付水指

「トメ、ハネがしっかり入ったヘラ」
「耳に欠損個所」
「全体に明るい橙色で、一見焼が浅く見えるが、実際にはよく焼けていて、複数回、しっかり焼かれている」

等の特徴を解説。
No.279さむしろ2012-07-05 00:11:47.095595
垂耳付水指

「ゆっくりと力の強弱をつけたヘラ」
「何度か焼成を繰り返したため、口縁部は大きくひずみ、底部内面にひび割れ」
「欠損した上に胡麻」

などの解説。
No.280さむしろ2012-07-07 00:26:35.967089
三角水指

古備前の作品集などの書物的には全国的に無名だが、安倍さんが大名品という伊部水指である。

「黄色と橙色の胡麻が全体に」「山の紅葉を彷彿」
「内面にもしっかりと胡麻、・・・底には厚くたまって」
「何度か繰り返すことにより、胡麻の濃淡」「10回以上焼成を繰り返さないと、この雰囲気はだせない」
「傾いたそこの高さを調整のため、足状のものを付けて再度焼成」

安倍さんの解説から、なんとしても焼き上げると言う発注者の執念を感じる。
No.281さむしろ2012-07-08 00:22:36.122571
最後に「おわりに」としてまとめがある。

三点展開の規則のもとの製作、繰り返しの焼成で独特の質感をだしていたと安倍氏は考える。

三角形をらせん状に展開させるという造形になるため、まったく同じものをつくることは不可能。

1,350度という高温と焼成方法については、安倍氏は明確な根拠をもっている。

特に優れた作品は、「職人」ではなく「アーティスト」と呼ぶべき人が、緻密な技術と徹底した作為のもとに製作したと安倍氏は考える。

安倍氏は、決して「桃山の優品」の模倣や再現を目指している作家ではない。紹介したような作り方、焼成を行うと、同じ質感の作品が出来るということを説明しただけである。

安倍氏が考えた方法で、実際に桃山時代に製作されたかは分からない。
今後、様々な分野から検証が必要だろう。

ただ、備前焼のみならず、現在「桃山」の作品と呼ばれているすべてのやきものについて考える上で、非常に魅力的な視点であると考え、ここで紹介した。

と、誌上報告の理由を説明した。
No.282さむしろ2012-07-08 23:58:44.795307
最初に安倍さんの「数度焼」「三点展開理論」「織部様式」などの主張は、僻事、邪道、異端者とされて来たがここに来て風向きが変わって来たように思われる、と書いた。

三角形の中に属する人の中でも、これまでも安倍さんの主張に共感する人たちもいたかもしれないが、公の場で語られることは間違いなくなかったであろう。

私には分かるのだが、安倍さんの理論は極めて合理的で、実際の作品(安倍さんの作品、桃山の名品ともに)で矛盾なく説得力をもって受け入れられる。

安倍理論に触れた備前市教育委員会の方々が、これからも安倍さんのいろいろな角度からの説明で、より深く理解されるだろう。

このたびの備前歴史フォーラム2011資料集「備前と茶陶」の中で誌上報告がなされたことは、安倍備前、安倍理論を公に語ることが解禁されたとの思いがする。そのような意味で今回の誌上報告は極めて大きな出来事と受け止めている。
No.283さむしろ2012-07-14 18:26:48.562656
聞くところによると、すでに桃山古備前(桃山時代作とされている備前茶陶)の見直しをしようという話が出ているようである。

古備前茶陶について、安倍さんが、土、造形、焼の三つの視点から検討を加えれば、その素性は一目瞭然であろう。

”不都合な真実”が明らかになることもあるかもしれないが、長い目でみれば望ましいことである。(もっと言えば遅きに失したとさえ言いたいくらいではある。)

そして備前以外の古茶陶についても再点検されることを熱望する。
No.284さむしろ2012-07-24 21:03:18.393476
茶道の奥義を書き留めた茶書として『南方録』がある。この書は、堺の南宗寺塔頭であった集雲庵の南坊宗啓首座が、その師千利休に親しく接して見聞した事を詳細に書き留め、それを七巻に編成したということになっているものである。

しかし、近年、茶道史研究が進むにつれて南方録についても種々の疑義が生じ、時には、真書か偽書かということさえ論じられてきたほど見解が分かれ、どちらとも決めかねる茶書とされているものである。

南方録については、ここでも時として触れてきたが、改めて読み直してみようと思う。
No.285さむしろ2012-07-25 20:15:47.481877
南方録 茶会記録
12月16日 朝飯後不時  御成  相伴 和尚、宗及

掛物 了庵清欲   釜 雲龍   
香盆ニ香炉・香合・香箸・焼カラ入、組合テ持出、一シュタク
茶入 圓座   茶碗 嶋筋黒茶碗
水指 瀬戸

とあり、注に「今井宗久の天正14年同月同日の茶会記にほぼこれと同じ内容を示すので天正14年のことと推定されている。しかし相伴衆のうちで宗久と宗及の相違、和尚を笑嶺和尚に比定する是非など疑問が多い。」とある。
No.286さむしろ2012-07-26 22:26:55.320287
そこで「今井宗久茶湯日記」を見ると、

12月16日 朝飯後  宗易会   上様御成   笑嶺和尚  宗久
ヰロリ  雲龍釜 ツリテ
床  了庵清欲   
前ニ長盆ニ千鳥香炉・布袋香合置合、御前ニテ東大寺一シュタキテ
瀬戸水サシ    圓座カタツキ   黒茶ワン

このようになっている。
No.287さむしろ2012-07-28 15:19:09.291913
上の二つの茶会記録から、同一の茶会とみるか、それとも別々とみるかということである。

日及び朝飯後という日時が同じ。
亭主が利休で同じ。
正客は秀吉で同じ。
掛物が了庵清欲で同じ。
釜が雲龍で同じ。
水指が瀬戸で同じ。
茶入が圓座と圓座カタツキで同一と思われる。

香盆、香炉等を持ち出して御前で焚くなど内容がほとんど同一。
茶碗が嶋筋黒茶碗と黒茶ワンという興味深い記載。
相伴(連客)一方が和尚と宗及、他方が笑嶺和尚と宗久


南方録の「注」では同一性に疑問を投げかけているが、問題にするにあたいせず、と思う。
両書とも自らの「覚え」としての茶会記である。
明白な相違は「宗及」と「宗久」であるが、ともに「ソウキュウ」であり、南方録の著者宗啓が「久」を「及」と誤ったと考えて何の不思議もない。   
No.288さむしろ2012-07-29 22:34:01.658814
先に述べたように南方録については真偽両説があるが、わたしは真書の可能性が高いと思っている。
今のところ一つの茶会についての記録であるが、両書ともその茶会に立ち会ったからこそ記録しえたように思う。

「香盆ニ香炉・香合・香箸・焼カラ入、組合テ持出、一シュタク」は、勝手(裏方)にいたればの記録であると思う。

「前ニ長盆ニ千鳥香炉・布袋香合置合、御前ニテ東大寺一シュタキテ」は、詳しく記すと、
「床 欲了庵文字、カケテ、前ニ長盆ニ千鳥香炉・布袋香合置合、御前ニテ東大寺一シュタキテ上様御キキナサレ、御相伴ニモ玉ワリ候」となっており、席中にいなければ書けない記録である。

No.289さむしろ2012-07-31 19:17:46.451482
今井宗久(1520〜1593)の茶湯日記である「今井宗久茶湯日記」は、現在、全体としては残っておらず、ほとんどその姿はないに近いという。

今井宗久の茶湯日記があったということは、静嘉堂文庫に『今井宗久茶湯書抜』が二巻所蔵されていることによるそうである。

茶道古典全集第十巻には、
昭和31年のことであるが、宗久の子孫は現存しておられ、同家を訪れ伝承の関係文書を調査させて頂いたが茶湯関係のものは失われており、宗久茶湯日記も見当たらなかった、
と記されている。
No.290さむしろ2012-08-01 22:33:00.095133
南方録では、茶碗が「嶋筋黒茶碗」となっており、今井宗久茶湯日記では、茶碗が「黒茶ワン」となっている。
黒茶ワンがどういう茶碗かということだが、これがどうもはっきりしない。
この頃の茶会記に登場するものに、「瀬戸茶碗」「セト茶碗」「今ヤキ茶碗」「ヤキ茶碗」「今ヤキ黒茶ワン」「黒焼茶碗」「クロヤキノ茶碗」「黒茶碗」「黒茶ワン」「黒碗」「やき茶碗」などがあるが、それぞれがどの茶碗をさしているのか、どうもよくわからない。

瀬戸茶碗      どの茶碗をさしているか不明
セト茶碗       どの茶碗をさしているか不明
今ヤキ茶碗     楽茶碗(赤か?)
ヤキ茶碗      今ヤキ茶碗のことか?
今ヤキ黒茶ワン   黒楽茶碗の可能性が高いと思っている
黒焼茶碗      どの茶碗をさしているか不明
クロヤキノ茶碗    どの茶碗をさしているか不明
黒茶碗        どの茶碗をさしているか不明
黒茶ワン      どの茶碗をさしているか不明
黒碗         どの茶碗をさしているか不明
やき茶碗      どの茶碗をさしているか不明
No.291さむしろ2012-08-02 22:05:24.681194
南方録では嶋筋黒茶碗,、今井宗久茶湯日記では黒茶ワンとなっているが、両書が間違いのない資料だとすると、嶋筋黒茶碗あるいは嶋筋黒茶碗と同種の茶碗を黒茶ワンと呼んでいたのではないかと想像できる。

嶋筋黒茶碗がどのような茶碗かについて必ずしも明らかではないが嶋筋黒茶碗について次のように書いてある。(日本の陶磁)

「常慶印の捺されているものに、一連の織部好みの茶碗と共通した沓形茶碗が作られていることは興味深く、あるいは黒織部となっているもののなかに、宗慶や宗味、常慶の作品が紛れていることもありえないことではない。有名な「嶋筋黒」などはその一例であり、かって古田織部の贈箱に収まった黒沓茶碗をみたことがあるが、それも楽焼に近いものであった。」

と。
No.292さむしろ2012-08-04 00:23:51.586993
嶋筋黒は黒織部に紛れ込んだものの一例との解説であるが、二つは時代が異なると考えている。
嶋筋黒は茶会記から天正14年(1586)に存在した。対する黒織部、織部黒は「ひょうげもの」登場の1599以降と考えている。
直感的には嶋筋黒は、「天正黒」と呼ばれるものではないかと考える。
No.293さむしろ2012-08-05 00:23:30.637847
何かの本で「瀬戸黒茶碗、別名天正黒」との記述を見たことがあるが、瀬戸黒茶碗がいつの時代に作られたものか(いつ頃から使われ出したか)について確たる証拠となるものがないかと、永い間さがしているが見つけられないでいる。

「日本の陶磁」の記述の様子から嶋筋黒は現存すると思われるので、どこかの図録に写真が載っていないか探し中だが、日本の陶磁の記述と南方録の記述が正しければ、瀬戸黒茶碗の誕生は1586年以前となる。
No.294マスター2012-08-05 21:05:23.165006
炎芸術 8月号(111 2012秋)に、
「アトリエ・インタビュー」として8ページにわたって安倍安人「アウトサイダー”備前”」が取り上げられています。読み応えがあります。
No.295さむしろ2012-08-06 21:28:40.100897
松屋会記に「今ヤキ黒茶ワン」が登場するのが1588年9月17日の茶会である。「宗易形ノ茶ワン」(楽茶碗の初出か?)の登場の後に「今ヤキ茶ワン」が登場するが、この二つは赤楽茶碗ではないかと思っている。

黒楽茶碗(長次郎茶碗)より先に嶋筋黒茶碗が登場した可能性が高いが、もしそうであればますます嶋筋黒茶碗の造形がどのようなものか見てみなければならない。
No.296マスター2012-08-08 19:12:35.216152
「加納美術館」(島根・安来市)で

桃山から現代
 「金重陶陽・安倍安人」展
期間 7月1日〜12月24日

が開催中です。
安倍安人の代表作(の一つ)ともいえる水指「象の足」(左写真)が展示中です。
形が象の足に似ていることから、古くからの仲間内で「象の足(ぞうのあし)」と呼ばれていると聞いています。
伝説の名作といって良いと思いますが、私も数回しか見たことはありません。この機会にご覧ください。安倍備前の深淵をかいま見ることが出来るでしょう。
No.297さむしろ2012-08-09 23:11:53.033312
南方録に、

12月26日(前後の記載から天正14年と思われる。)朝、立春
客 小西摂津守(行長)織部 宗久 紹林
一、古渓春風一陣大文字
一、釜 アラレ
一、水指 シカラキ
一、籠ニ梅
一、四方盆ニズン切 (ズン切=茶入。その頭部が水平に切られてあるもの。)
一、モンサスコホシ
一、茶碗 木守

の記述がある。
No.298さむしろ2012-08-10 21:39:57.35226
今井宗久茶湯日記は、

天正14年12月26日朝、立春ニテ、宗易会
客 小西行長 古田重勝 宗久
一、イロリ アラレ釜 ツリテ
一、床 古渓和尚大文字、春風一陣
一、床 籠花入 梅生テ
  信楽水サシ  
  金輪寺茶入、四方盆ニ
  茶碗 木守
  モンサス水下

となっている。
No.299さむしろ2012-08-12 00:47:37.224686
南方録に客「紹林」があって、今井宗久茶湯日記に客「紹林」がない。

南方録に茶器「ズン切」で、今井宗久茶湯日記は茶器「金輪寺」となっている。

ズン切と金輪寺が同一のものをさしているかどうかわからないが、金輪寺は「その頭部が水平に切られてあるもの」と言えばいえなくはない。

モンサスコホシとは建水のことであろう。

今井宗久茶湯日記で客が1名足りないが、二つの茶会記の茶会は同一の茶会を指していると考えたい。
No.300さむしろ2012-08-14 21:12:25.086235
南方録に、

正月5日 昼 子日(5日が子の日となるのは天正10年)
客 日野殿 幽斎 宗久
一、床ニ足付ニノシアハビ・根松
一、古渓 春風
一、釜 雲龍
一、茶入 リュウコ(立鼓)
一、茶杓 筒井 折タメ
一、水指 シカラキ

とある。

No.301さむしろ2012-08-15 21:41:03.968889
今井宗久茶湯日記は、

正月5日 昼 宗易会子ノ日也
客 日野殿 幽斎老 宗久
一、床 古渓和尚墨蹟 春風一陣カケテ 前ニ足打ニ熨斗鮑・根松
一、イロリ 雲龍釜 ツリテ
一、茶入 リウコ
一、折りタメ茶杓
一、信楽水サシ
一、茶碗 天目

となっている。
No.302マスター2012-08-16 11:34:44.348331
緊急告知!

安倍安人からの緊急のお知らせです。


残暑お見舞い申し上げます。

私儀
この度8月15日窯場より、焼成途上の伊部団子三ツ足獅子耳花入1点、伊部獅子耳花入2点、彩色瓢徳利の未彩色自然釉途上(全作品丸の中に富士山の絵)7〜8点、他徳利、水指など数点、計二十数点の盗難が判明しました。警察当局へ通報調査中でございます。
いずれも未完成作にて、善意の購入者につきましても一切箱書き等できませんので今後ともご協力お願い申し上げます。
                                          安倍安人


今後、箱無しのものとかニセ書付のものが出て来ることも考えられますので、ご不審の作品に出会われたときは、お問い合わせ下さい。ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。(マスター)
No.303マスター2012-08-16 13:28:11.754979
盗難被害作品の特徴、状態等の続報です。盗難品の流通により被害者を出さないよう情報の共有、情報の提供をお願いいたします。


このたびの盗難にあった制作途上の作品は、彩色瓢徳利の自然釉を十分にかける為、半年以上焼き続けて来た。回数にして8回以上は焼いたと思われる。

瓢の図柄は、一方面は丸に富士山の絵が全8点に描いてあり、丸に富士はこの盗難されたものが後にも先にも最初の試みである。

裏面には桐紋で、すでに自然釉はかなり着いている。彩色用の彫り紋になっているので、自然釉状態では不自然で面白くない。多少色ガラスが入っているが、これは自然釉とも融合のためで色は本窯で焼き飛ばす予定であった。未完成の不自然なものである。

伊部団子三ツ足獅子耳花入は、1年以上数十回焼き続けて来たもので、花入の高台が棚板にくっつき、裏面がはがれ大キズになっている。花入は立ちづらく、団子足を三ツ付けて平均を保つ様になっている。

伊部獅子耳花入は、先記と同じような回数と年月で焼き込んである。三点とも同じ瓢型の口開き様式で、高さ23cmぐらいで、私の作る花入としては背が低い。

他、あまり記憶の確信が無いのであるが、伊部用徳利5、6回焼き込んだものと水指、酒器等数点含まれていたのではと考えられる。

この20数点は、私のここ1年半ばかりの仕事全てと言って過言ではない。
この点数は、この何倍かの生地制作から始まってここまで集約したものなのである。
昨年超小窯に窯を改良してその窯に1年半情熱をかけた作品全てであった。
No.304さむしろ2012-08-19 23:07:28.222985
NO300 南方録の茶会と、NO301今井宗久茶湯日記の茶会は、同一の茶会を指していると考える。

No.305さむしろ2012-08-20 23:51:39.47121
南方録に、
6月13日(年不詳)朝 御成  醒ヶ井屋敷六畳敷
御相伴 黒田勘解由(如水) 幽斎 宗久
床 上様後自筆御自詠カケ物
茶碗 引木のサヤ  折タメ
以下略
の記録がある。
しかし今井宗久茶湯日記には該当する記録がない。

しかし、最初に述べたように「今井宗久茶湯日記」は、現在、全体としては残っておらず、ほとんどその姿はないに近いということなので該当部分は紛失したと考えられなくはない。
No.306さむしろ2012-08-22 23:05:11.751748
南方録に、
8月25日(年不詳)昼 約束にて宗久へ茶持参
 四畳半  宗久 薬師院 藤重 良寿 宗本
床 円悟所望故持参
以下略
の記録がある。
しかし、これも今井宗久茶湯日記には該当する記録がない。
No.307さむしろ2012-08-26 10:17:55.417447
南方録と今井宗久茶湯日記の両書に記載があって同一の茶会と思われるのが3ツ、
南方録に参会者として今井宗久があって、今井宗久茶湯日記に該当の茶会記録がないものが3ツ、
また、今井宗久茶湯日記にあって南方録にないものが4ツあるが、この4ツの茶会は永禄以前の茶会記録である。

「南方録 会」の最初に、
「宗易茶湯日記、去年十月より、此九月廿九日迄日会之内、品有之分、所々書抜」とあり(ただし、注記に「疑義多くして、年起の推定はできない。」とある。)、1年間、つまり今井宗久茶湯日記の記録との照合から、天正14年10月から天正15年9月間での1年間の記録であることがわかる。

このことから両書の記録中で、一方にあって他方にないものがあっても該当の1年以外であれば問題とはならない。
No.308さむしろ2012-08-29 22:17:21.623399
南方録は、

「覚書」   11月5日付     
「会」    11月5日付
「棚」    日付なし
「書院」   日付なし
「台子」  11月5日付
「墨引」  12月15日付  
「滅後」   文禄2年(1593)2月28日付
七巻から成っていて、内一〜六巻は利休の校閲・自署証明がなされていた。

宗啓本が出来て約百年後、博多の立花実山が偶然にも宗啓本に出会い、それを書写して実山書写本「南方録」が出来、それがやがて多数転写され、その間誤写もあり信憑性に疑義をもたれる理由の一つとなった。

元もとの宗啓本はどうかであるが、どこでどうなったのか、はたして現存するのか、等等まったく不明だという。
そのようなことから実山書写本「南方録」がもっとも正統なものだろうと考えれれている。
No.309さむしろ2012-08-31 22:27:03.247619
立花実山が「南方録」を書写するにいたった経緯はどのようなものであったか。

1686年、実山は、藩主黒田光之のお伴として江戸へ登ることとなったが、その途中、京都の何某から「利休の秘伝書を持っている人がいるが、それを内々書写する手づるがあるので貴殿が望めばそのように取り計らうがどうか」との持ちかけがあった。

茶書としての価値の判断がつかない実山は、同行の藩士の意見を聞き、その勧めで、京都何某に書写を依頼した。そしてやがて翌年正月に、江戸のお屋敷内の実山のもとへ届けられたという。
No.310さむしろ2012-09-05 21:46:43.401399
立花家本「覚書」の巻末、実山の識語を記す丁の前に一紙を加綴、朱墨で注記があるという。

(注記)
「南方録ノ本書ハ、南坊宗啓師自筆ニ利休居士奥書判等有之正本也、其内滅後一巻ノミ利休ノ判等無之、居士滅後ニ書スル故也、イツレモ巻物、反古渋紙ノ表紙、竹軸モメンノ平緒アリ
       以下略 」


書写の元本は宗啓自筆の原本で、巻物であったということが書いてあるようである。
No.311マスター2012-09-06 18:15:34.475284
大宰府天満宮・宝物殿で開催中であった 『−備前の異彩− 安倍安人展』(5月19日〜8月29日)が終わりました。期間中、随分多くの方にご来場頂きました。ありがとうございました。

なお加納美術館(島根・安来市)では、
『ー古備前から現代へー「金重陶陽・安倍安人展」』
が12月24日まで開催中です。
ちょう度この時期、敷地内に植えられた白色の萩が咲きそろっているころではないかと思います。結構見ごたえがあります。
一見の価値ありです。
No.312さむしろ2012-09-09 23:23:43.131825
今日、安来市の加納美術館へ行き『桃山から現代 「金重陶陽・安倍安人」展』を見てきた。

オープニング以来二度目だが、目指す作品とともに、敷地内に植えられた「白萩」が見たかったからである。
No.313さむしろ2012-09-10 11:28:05.249831
白萩。
今週いっぱいが見ごろか。
No.314さむしろ2012-09-10 11:28:41.253037
白萩。
No.315さむしろ2012-09-10 11:29:19.1358
白萩。
No.316さむしろ2012-09-10 11:29:42.519804
白萩。
No.317さむしろ2012-09-10 18:17:35.947296
加納美術館からの帰途、横田町で蕎麦を食べた。

メインでもない通りから、田んぼの横の坂道を少し上ったところにある、普通に考えると客が来そうにないそば屋さんだが、人づてに聞いていたので寄ってみた。

結構知られたお店らしく、午後3時半なのに結構客がいて、出入りの車は県外車のほうがほとんどであった。

蕎麦の味だが、実はよくわからない。自分の序列では、奥出雲町で2番にいれることにした。
No.318さむしろ2012-09-11 18:07:29.283905
写真の備前鉢が展示されているが、実に見事であった。少し前の作だが、よくぞここまで焼けたものだとビックリするほどの焼き上がりである。

安倍備前に共通することだが、山土がしっかり焼き切ってあるからこその備前の魅力である。

水指「象の足」もそうだが、五回、六回と繰り返し見て、その後やっと、いかに大変なものかが実感としてわかってくる、というのが私の実感である。
No.319さむしろ2012-09-15 17:38:15.034374
南方録にある茶会記(天正14年10月から天正15年9月29日迄)に登場する茶碗に注目してみた。

天目、そして割高台、三嶋、井戸などの朝鮮もの、赤楽茶碗の「長旅」「木守」、瀬戸黒茶碗といわれる「嶋筋黒」、その他一部種類不明のなかで、天正15年5月4日の茶会に黒茶碗「アヤメ」がある。

MOA美術館にある長次郎作黒茶碗「あやめ」がこの茶碗であれば、この時つまり1587年5月には黒楽茶碗が登場していたことになる。

黒楽茶碗「北野」が北野の大茶会(1587年10月1日)で用いられたことによるともいわれていることなどから、1587年には黒楽が登場していたと考えてもいいように思う。

ただ、天正14年10月29日の茶会に茶碗「黒」の記載があり、その後も翌正月7日、そして後4回登場する。しかし、今のところこの「黒」が何であるかわからない。
No.320マスター2012-09-17 16:59:32.351671
アート サンタフェ で安倍安人の彩色備前が紹介されている。

http://www.chasingsantafe.blogspot.jp/search?updated-max=2012-08-03T18:46:00-07:00&max-results=20&start=5&by-date=false

http://www.facebook.com/pages/Art-Santa-Fe/64548428501

「サンタフェ」は、アメリカ・ニューメキシコ州にあり、次のように紹介されている。

アートの街サンタフェ
「サンタフェの最大の特徴は、ユニークな歴史と文化にあります。アメリカ国内の観光人気において「行ってみたい場所」の上位に毎年選ばれている理由はここにありますが、文化面において10の各種美術館、博物館をはじめ、旧市街周辺には約200軒を超えるアートギャラリーがあります。人口7万人に満たない小都市としては他に例を見ません。まさにサンタフェはアートの街なのです。」

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