茶房ものはらへようこそいらっしゃいました。ゆっくり閲覧ください。

No.321マスター2012-09-17 17:22:26.196044
「IAC 45 総会」 サンタフェ 9月17-21、2012
の案内チラシに安倍安人の彩色備前が掲載されている。
No.322さむしろ2012-09-26 23:33:14.888856
南方録に登場する使用茶碗をざっと拾い出してみると、

「黒」 → 6回
「アヤメ」 → 3
「長旅」 → 3
「木守」 → 2
「新瀬戸」 → 1
朝鮮もの → 30
天目 → 4
「絵」とあるもの → 2
「カサネ」とあるもの → 1

以上だが「黒」が6回登場するが「今ヤキ」の記載はない。
No.323さむしろ2012-09-27 22:59:39.294514
長旅、木守は赤楽茶碗であり、アヤメは黒楽茶碗と思われる。茶碗に「銘」があったので「今ヤキ」を用いず銘を記したと考えることが出来る。

では、「黒」はどう考えるべきかだが、今ヤキ黒茶碗か瀬戸黒茶碗が考えられるがどちらとも決め手がない。

No.324さむしろ2012-09-30 13:55:51.766306
「利休百回記」における使用茶碗はどうなっているか。

黒茶碗          9回
せいたか黒茶碗    6回
不明          12回
筒井井戸茶碗     2回
天目          16回
長旅           2回
朝鮮茶碗        7回
木守          36回

やはり「今ヤキ」の記載はない。
利休百回記は、利休が主催した茶会およそ百回分(93回、95回、97回など複数の会記が伝わっているという。)
門流のだれか(古田織部の説あり)によって書き上げられたものと考えられているようだ。
No.325さむしろ2012-10-01 23:44:27.27214
「長旅」「木守」は赤楽茶碗(今ヤキ赤茶碗)である。いくつかの銘のある黒楽茶碗(今ヤキ黒茶碗)があったはずであるがでてこない。

百回記登場の「黒茶碗」が今ヤキ黒茶碗なのか瀬戸黒茶碗なのかはわからない。

6回登場する「せいたか黒茶碗」についても何をさしているのか大いに興味のあるところである。

No.326さむしろ2012-10-03 14:03:33.667004
「せいたか黒茶碗」だが、長次郎茶碗と瀬戸黒の高をみてみた。

長次郎
大黒   8.5p
東洋紡  8.5p
禿    9.0p  (口径 9.3〜9.6p)
杵ヲレ  9.8p  (口径 8.1p)

瀬戸黒
小原木  8.8p  (口径 10.2p)
小原女  8.7p  (口径 13.3p)
冬の夜  10.0p  (口径 10.0p)
ワラヤ  9.7p  (口径 12.1p)
日松   11.0p  (口径 11.0p)

手元の資料からは以上である。
上の中では、杵ヲレの口径8.1pの高9.8pも”せいたか”に見えるが、日松の口径11.0pの高11.0pが”せいたか”と呼ぶににふさわしい。しかし、これだけではなんとも断じようがない。
No.327さむしろ2012-10-08 21:41:28.626493
南方録 10月1日に「水指 長二郎」、10月5日に「香合 長二郎 カキ(柿)」とある。
長二郎の記載が登場するのはこの二つである。

赤楽である木守、長旅は、「木守」「長旅」と茶碗の銘のみの記載である。

黒楽であるアヤメは「黒 アヤメ」と記載されている。(5月4日)

瀬戸黒である嶋筋黒と思われるが、4月1日に「茶碗 黒筋」と記載してある。

茶入について「茶入 黒」として3回登場する。

茶碗以外の二つは「長ニ郎」と作者名を記している。
木守・長旅は、当然のごとく「木守」「長旅」とのみ記している。
アヤメは「黒 アヤメ」と黒であることを特に記しているところから、黒楽がまだ稀であったことを示していないか?

もし黒楽がまだ稀であったのであれば、黒茶碗や茶入の黒が瀬戸黒である可能性が高くなるのではないかとの思いもするが、今のところ根拠となるものはない。
No.328さむしろ2012-10-11 23:57:15.085566
南方録「滅後」に、

嶋筋黒茶碗
コレハ休公ヨリ玉ワル、天正元年口切ノ時出来ノナリ、アタラシキ物ナレドモ、休コトノ外出来ヨシト玉ワリ、度々御茶ヲモ上ゲ、其冬春、大方日々コノ茶碗ニテタテラレシ、秘蔵ナリシ也、
コレヨリ大フリノハ、古田織部ニ被遣シ也。

とある。天正元年は1573年である。
No.329さむしろ2012-10-13 18:18:35.553861
1573年とは、漠然とではあるが想定したものより随分さかのぼる。

日本の陶磁1「長次郎 光悦」(中央公論社)に次のようにある。
「ー略ー。瀬戸黒と長次郎とはどちらが早く始まったかという点については、美濃は室町時代後期から引出黒を作りうる可能性を技術的にも持っていたので、美濃が先行していたと考えられなくはないが、おそらくはほとんど同時期に始まったのではないだろうか。−以下略」

嶋筋黒茶碗が「瀬戸黒」の範疇に入るのか?入らないのか?

まだまだ分かる状況にはないが、嶋筋黒茶碗の誕生が天正元年(1573年)との記述は驚きの発見であった。
No.330さむしろ2012-10-14 14:36:15.166798
この写真の手のものであれば室町であってもなるほどと思えるのだが、造形あるいは装飾(現物がどのようなものかわからないがシマの筋があるようだ)があるものが1573年までさかのぼるとは・・・。
No.331マスター2012-10-14 14:44:47.772912
安倍安人展 「陶・ミニアチュール画」
2012.10.25(木)〜2012.10.30(火)
ギャラリーかわにし
愛媛県西条市大町1639-2

陶と油絵のミニアチュール画の展覧会です。
No.332さむしろ2012-10-18 00:00:34.835588
南方録「滅後」を読んでいるが、これといって書き出すものはない。

今夜読んだところは、雪隠についての記述で、寸法、扱い方、逸話などが書いてある。お茶をされている方(茶事に興味のある方)が読まれれば結構面白いと思うが、ここでは少々入りすぎるのでこんなことが書いてあるとの紹介に止めておく。
No.333さむしろ2012-10-20 00:00:00.885735
南方録「滅後」中に、「三つ釘にかかる大横物(軸)、三幅対」などの掛物の掛け様などを書いた条に「惣而書院方鎖の間など」の記載があった。

気になったのは「鎖の間」だ。鎖の間は、上田宗箇の茶寮に作られた書院であることが知られている。宗箇の鎖の間が作られたのは1610年ごろの慶長御聞書が著された頃ではないかと想像しているが、そうすると利休没後およそ20年が経っていることになり、少々間が開き過ぎている気がする。

「滅後」がこの頃以降に書かれたのか、これより前に鎖の間があったかそれともなかったかわからない。
No.334さむしろ2012-10-22 00:18:14.978172
今日の南方録「滅後」
茶箱の手前、夜会・暁などの石灯篭の扱い、掛物の扱いなどの記載。
ここで紹介すべきものなし。
No.335マスター2012-10-22 19:10:20.281237
安倍安人講演会が『茶陶備前の今昔』の演題で開催されます。

日時  平成24年11月3日(土)
     13時30分〜15時00分
場所  加納美術館

質問なども大いに受けますので、日頃疑問に思っておられることがありましたらこの機会にお尋ね下さい。多くの質問で盛り上がることを期待しています。
No.336さむしろ2012-10-23 21:24:19.1173
No333で「鎖の間」が気になると書いたが次の記述が出てきた。

書入
・休ノモズ野ノ二畳シキニ、 ―略― 、雲龍ヲ自在にカケラレタリキ、

クサリ自在ニ釜ヲカクル座敷ノコト、―略―

などとあり、「鎖の間」との呼び名はわからないが利休の頃に「自在」が用いられまた「くさり」も用いられていたと思われる。

No.337さむしろ2012-10-28 23:57:00.352001
「休ノ京間四畳半ニテ、紹鴎ヲ御茶申サレシ時、 −略ー 、後ノ座ニハカケ物ノ前ニ、伊賀ヤキノ置花入ニ、 −略ー 」

とある。利休が用いた「伊賀ヤキの置花入」がどのようなものか興味あるところだが、どのようなものなのかわからない。ここでは、古伊賀水指・花入の名品は1600年代に入ってからの作と考えている。
No.338マスター2012-10-29 21:00:19.163342
安倍安人から緊急のお知らせ!!


8月15日の盗難事件では、私の不注意により皆様に大変ご心配をお掛けしましたことを深くお詫び申し上げます。

盗難作品が最近、オークション、ネット、他、で出回っております。箱、箱書き、箱印、包布印が非常にうまく偽造されております。
その盗品が入った箱様式は、遠州組盛箱で(徳利、酒器共)大変高級な箱に、箱書きの文字は平成2年から平成7年までの限られた作品のみに使われた文字を真似ています。
不審なことがありましたらご一報下さいませ。
包布の印も偽造です。
箱がないものもあります。
作品は焼成途中のものです。
                   安倍安人


どうか十分にご注意下さい。
またご不審の作品については当HPまでお問い合わせ下さい。(マスター)
No.339マスター2012-10-31 00:12:20.49948
安倍安人講演会が『茶陶備前の今昔』の演題で開催されます。

日時  平成24年11月3日(土)
     13時30分〜15時00分
場所  加納美術館
入場  無料

質問なども大いに受けますので、日頃疑問に思っておられることがありましたらこの機会にお尋ね下さい。
No.340マスター2012-10-31 12:28:04.773555
安倍安人 個展
 伝統と革新−彩色備前

2012年11月10日(土)〜15日(木)
           11:00〜19:00(12日(月)は定休日)

会場:銀座 黒田陶苑 2階、3階
   東京都中央区銀座7丁目8番6号
    tel 03-3571-3223

陶器と小品の絵画の展覧会です。
No.341マスター2012-11-04 16:52:50.526074
11月3日(土)加納美術館で『茶陶備前の今昔』の演題で講演会が催された。
近在や遠方から多くの参加があり、安倍さんの話を熱心に聞き入りました。
No.342マスター2012-11-04 16:59:27.305706
講演終了後、展示品の一部をケースから取り出して安倍さんの列品解説が行われました。思わぬサービスに参加者は大喜びで、質問をしたり手でふれたりして満足げに帰られました。
No.343マスター2012-11-04 17:02:18.646136
伊部竜耳水指を熱心に観察中の参加者。
No.344マスター2012-11-08 00:10:27.432205
安倍さんの講演の模様をICレコーダーで録音し、後日文字起しをしてここに載せようと思っていたが、途中ひょっとICレコーダーをみると”FULL”となっていた。

どれくらいが録音できているか、実は今のところわからない。しかしせっかくの録音なので、一応聞いてみて文字起こしをするかどうかを決めようと思う。
No.345さむしろ2012-11-08 23:57:25.302154
南方録「秘伝」中に「三幅掛絵ノコト」として、床に三幅の掛物を掛ける場合のことが記されている。

ニ間床には色々な掛物を掛けられるが「カネニカナイタル故、三尺六寸巾ノ大軸ヲ以ッテ定メラレシト云イ、左右ノアキ六寸ヅツ、中左右ノアキ三寸ヅツ」

二間床に三幅の掛物を掛けたことがあるが、これまでまったくの感覚で間隔をとっていた。(知っている二間床では、七つ程であったと思うが掛け釘が左右に動くようになっていて自由に調節できるようになっていた。)
No.346さむしろ2012-11-10 08:13:22.536606
南方録「秘伝」
床の真ん中上部には、掛物を掛けるための釘があるが、この釘の打ちように大秘事がるという。

「釘ノ分ダケ、勝手ヘヤリテ打ベシ」 釘一本の巾だけ下の方にずらして打てということのようである。これを「峰ズリ」というそうだ。
No.347さむしろ2012-11-13 23:44:58.057358
南方録「追加」

追加では道具の細かい置きようと「カネ」の話が多く読み難く解りにくいことが多い。

「五ツカネ」「六ツカネ」「三ツワリノカネ」「三ツ折ノカネ」などとして登場する。

「カネ」あるいは「カネワリ」ということがあるということのみでいいだろうと思っている。
No.348さむしろ2012-11-17 07:53:12.008903
南方録中参考文献偏「壺中炉談」中に、南方録の著者である南坊宗啓について、

「南坊宗慶 始宗慶主座、ゆえありて慶の字を啓とあらたむ」と、もとの名が宗慶であったとある。

No.349さむしろ2012-11-18 11:07:24.726135
南坊宗慶は、左海(堺)南宗寺塔頭集雲庵の僧なり、・・・・・・
宗啓は利休茶道の高弟なり、利休はもとより禅宗に参じて、露地の法を了会し、禅林清規によって、諸事を本づかれたるは勿論なれども、この宗啓を門弟にまうけてのち、殊に清規を正し、真味を喫着し、ますます茶道内外熟せり。

故にこの啓において、書院・台子・露地・草庵とも残らず相伝と云々、休の子孫、茶を好むものあらば、啓に導きたまはれと、遺言にも申されし程の茶人なり。

「壺中炉談」が著されたころ、宗啓のことがうえのように伝わっていたようである。
No.350さむしろ2012-11-18 23:46:47.800355
「南方録」が、
「近年、茶道史研究が進むにつれて南方録についても種々の疑義が生じ、時には、真書か偽書かということさえ論じられてきたほど見解が分かれ、どちらとも決めかねる茶書とされているものである」
ことは最初に書いた。

しかし今回読み返すことにより、これまで気付かなかったがいくつかわかった。
No.351さむしろ2012-11-19 20:17:27.62479
一つは、南方録の茶会記録と今井宗久茶湯日記抜書の茶会記録が一致したことである。これにより南方録が真書であるとの思いを強めた。

ニつめは、嶋筋黒茶碗の誕生について「これは休公より玉わる、天正元年口切の時の出来なり」との記述である。天正元年とは1573年である。想定外に早い誕生である。なんとか現物を写真でなりと見てみたいものである。
No.352さむしろ2012-11-20 22:24:29.366607
「南方録」は種々の異本が、数多く伝わっていて、そのいずれもが例外なく「南方録」の第七巻が出来上がったといわれる1593から約100年後の1686と1690に、博多の立花實山が書写した「南方録」を原本として、次々と伝写されたものばかりである、という。

實山の書写本を原本としないものはないということで、しかし、伝写が度重なるにつれ、写し誤りも多くなり、内容の異なった写本が数多く存在することとなった。
No.353さむしろ2012-11-21 22:20:30.568713
實山書写本があれば、それと校合して、どこが誤っているか直ぐにわかるのだが、近年まで(昭和年代)その存在がわからなかったため、異本(誤写本)同士で比較、校合しても混乱を深めるだけであったと思われる。そういうことで、研究者の間で實山写本の出現が熱望されていたと思われる。
No.354さむしろ2012-11-23 08:04:25.881393
昭和27年、久松真一氏(これまで読んできた『南方録』の著者)は、博多円覚寺の住職から、同寺に伝わる實山自筆本とされる秘蔵の「南方録」の存在を知らされる。

その後昭和30年春、再び閲覧、諸種の流布本と対照し、流布本における夥しい誤りが判明、と同時に円覚寺伝来本の信憑性を確かめることとなった、
と記されている。
No.355さむしろ2012-11-23 21:17:35.999894
久松真一氏の校訂作業のための諸々資料調査中、立花實山の後裔といわれる立花氏より同家伝来の『南方録』七冊が呈示されたという。部分写真が掲載されているが、円覚寺本同様「實山」の署名 印判 がある。
No.356さむしろ2012-11-24 23:50:11.822798
『南方録』全七巻は、一〜六巻が利休在世中に、利休の校閲を経て成立し、第七巻が利休の滅後三年目に成立し、1593年2月28日に全巻完成したことになっている。

No.357さむしろ2012-11-26 23:18:16.104714
南坊宗啓によって完成された『南方録』はどのようにして伝来してきたか、であるが、實山の記するところによると以下のようであったという。

宗啓は、利休の三回忌を終えて、利休茶の奥旨である『南方録』七巻を完成して、一ヶ月後の3月28日に、世をはかなんで、永年住んだ集雲庵を飄然として出で、行方知れずになったとのことだが、その時『南方録』がどうなったか、それは今のところ知る手がかりになるものはないということである。
No.358さむしろ2012-11-27 23:42:31.549757
それでも『南方録』が今日まで伝わっているのは、宗啓が集雲庵を出てから百年の後、博多の立花實山が南方録に出会い、書写し、實山書写本が出来、以後次第に伝写されてきたためである。そのため、現在知られている『南方録』は例外なく、その源は實山書写本にたどり着く。
No.359さむしろ2012-11-28 23:37:31.026851
立花実山が「南方録」を書写するにいたった経緯はどのようなものであったかについては既に書いたが、次のようなものであった。

1686年、實山は、藩主黒田光之のお伴として江戸へ登ることとなったが、その途中、京都の何某から「利休の秘伝書を持っている人がいるが、それを内々書写する手づるがあるので貴殿が望めばそのように取り計らうがどうか」との持ちかけがあった。

茶書としての価値の判断がつかない実山は、同行の藩士の意見を聞き、その勧めで、京都何某に書写を依頼した。そしてやがて翌年正月に、江戸のお屋敷内の実山のもとへ届けられたという。


このような話であるが、實山と京都の何某の関係がどのようなものであったか、どのような経緯から書写の話があったのかはわからない。
No.360さむしろ2012-11-29 23:18:56.778713
實山は、五巻入手後読みあさりますます宗啓への関心を深め、大坂への伝手をたより堺南宗寺集雲庵などを探ったところ、宗啓の血縁がいて、宗啓の遺物を所持していることを聞き込み、藩侯の江戸行きに従って大坂に入った折、その縁者に会い、「墨引」「滅後」の二巻を秘蔵していることを知り、懇望、速写したという。
No.361さむしろ2012-12-01 00:10:28.084295
實山は、この七巻が利休・宗啓の秘奥であることから、容易に他に見せることを許さず、許す場合にも、他言しないという誓紙を取り、血判まで押させ永く秘蔵したという。
No.362さむしろ2012-12-04 00:14:16.296971
『南方録』の意義

南方録ほど、整然と体系化され、組織的に利休の茶が説明されているものは、他にない。

利休の茶が、作法的にも、精神的にも、思想的にもここに組織化され、体系化され、しかもこの南方録が源となって、以後の茶書の多くを続出した。

No.363さむしろ2012-12-05 00:00:34.701438
南方録の校訂出版者である久松真一氏は、南方録の評価、意義について、次のように書いておられる。

『利休の茶道の史的意義も、思想史的に画期的なる所以も、この南方録を離れては、到底説明することができないのである。だから又、われわれが利休の露地草庵のわび茶に直参するにも、この南方録無くしては、暗中に模索をつづけねばならぬであろう。茶道におけるこの南方録は、利休迄の茶の結晶であり、又以後の放光であって、利休の正風の茶に到る燈びであり、指南書であり、又奥義書である。あえて、茶道第一の書として聖典視すべく、古典中の古典として、誇稱する所以である。』
No.364さむしろ2012-12-06 23:58:15.843284
最後に實山について。

實山は筑前黒田藩の藩士で、藩主黒田光之に仕える。
禄は二千五百石。
姓は、立花、名は重根、通称名は五郎左衛門。
極めて鋭敏で、博学多才、詩文に長じ、和歌は後水尾院より勅点を拝するといった、当時としては最高の文化人であったという。
禅は、江雲宗龍の嗣で、古外宗少和尚に学ぶ。博多矢倉門に東林寺を創建。
南方録を伝え、南方流の祖となる。

と記されている。

No.365さむしろ2012-12-23 22:32:09.239887
12月22日、光禅さんの所属会で、テーマを『織部桃山様式の茶陶からみた時代背景』として光禅さんの講演があった。

わたしもご指名をいただいて、前座として「桃山名品茶陶の造形と焼成」について話させていただいた。

すでにここで書かれたものを再編集されたものであるが、光禅さんから転載の了承を得たのでこれから分割して掲載する。
No.366さむしろ2012-12-23 22:38:50.541725
『織部桃山様式の茶陶からみた時代背景』by光禅

最初に誤解のないように断っておきます。この小文は少々物々しい題目ですが、決して現状の日本中世史の通説を否定しようなどという大それたものなどではなく、ただ一つの造形理論と史実から、極めて自由な発想を展開し、「織部桃山様式の茶陶」の秘密を、その時代的背景と経緯を辿って大胆に推理し、そして浅野家広島移封の意味あたりまでを、ひとつの可能性として考察してみたものです。桃山時代の作陶は、茶人ならば興味のあるところで、少しばかり茶道を学んだものにとっては、その美的世界の頂点にあるものとして、とてもロマンを感じるものなのです。茶人ならずとも、日本文化に関心のある人は同じような感慨を持たれるようで、例えばピカソも、「日本の文化はみな海外から到来したものだけど、縄文土器と織部・志野だけは日本独自の文化である」などといっています。
私の場合、禅から茶道に入り、その流派が上田宗箇流でありましたので、桃山時代の作陶といえば、広島藩家老職の上田家のことにも関心があり、若い時からのこうした関心が、岡山の作陶家 安倍 安人 氏 とのお付き合いで、一層深くなり、ここに作陶や茶器を通じて戦国武将の繋がりを興味のあるままに調べたり、考えたり、推論したりして、小論を纏めてみることにしました。
(つづく)
No.367さむしろ2012-12-26 00:02:46.88977
『織部桃山様式の茶陶からみた時代背景』by光禅

1.「織部桃山様式の茶陶」、 安倍安人 から 古田織部 へ

〜 桃山茶陶 の 作家 安倍安人 〜
岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)に窯を構える備前焼の作家で、安倍 安人(あべ あんじん、1938年〜 )という人がいます。その作風は大胆さと繊細さを兼ね備えていると云われ、美に関する該博な知識と、独自の造形理論で陶芸活動をされています。そしてその作品は、備前焼の作家としては、まだそれほど有名でもありませんが、安土桃山期の「古備前」を正当に継承するアーチストとして世界的な評価を受けられ、ニューヨークのメトロポリタン美術館にもその作品が収蔵されています。

この私の小文は、まずこの安倍安人氏が提唱されている、「織部の桃山茶陶の名品は、他の物とは明らかに異なった、一定の共通した造形法則によって創作されている」という指摘に基づいています。
その造形法則を文章で表現することは至難なことですが、強いて表現すれば「三点展開の流動的動きとその調和」とでもいえるでしょうか。つまり「偶然に出来たものなどではなく、明らかに初めから一つの美術作品として、一定の共通した造形法則によって、高度に特殊な創作がなされたもの」だということです。
そしてこの「織部桃山様式の茶陶の造形理論の解明」に基づいて、安倍氏は、安土桃山期の「古備前」を再現してみせたことで、世界的な評価を受けるようになりました。
(つづく)
No.368さむしろ2012-12-26 21:39:39.200239
『織部桃山様式の茶陶からみた時代背景』by光禅

それならば、次に、これらの「織部桃山様式の名品」は、「ある限られた一部の陶工たちによって、はじめから天下の名器として特別に制作されたものだったのではないか」という疑問が起こります。

さらには、この時代の名工である「長次郎の楽茶碗が、この同じ造形理論によって造られている」という事実理解から、「織部の桃山茶陶の名品は、同一人物によって造られ、そしてそれは、楽長次郎一族(楽一族の工房)なのではないか」という一つの推定が成り立ちます。

安倍安人の「織部の桃山茶陶の名品は、他の物とは明らかに異なった、一定の共通した造形法則によって創作されている」という指摘から目が醒め、以後は誰がどうやって作陶し、名品がどのように人に渡って残ったのか、ということを追究するようになりました。
(つづく)
No.369さむしろ2012-12-27 22:07:34.991245
『織部桃山様式の茶陶からみた時代背景』by光禅

先に名前の出た古田織部は、戦国武将として遂には大名にまで列せられるのですが、敵将の生首を斬り取って功名を揚げるとか、手柄を立てるとか云われた、おぞましい戦国乱世の只中にあっても、「もしかしたら、この武将は自らの手で人を殺めたことがなかったのではないのだろうか」とつい思ってしまうような、類稀なる温厚な平和主義者です。

現代においても、より一層高く評価され、多くの人々を魅了していますので、織部の普遍的な芸術性や、卓越した審美眼については誰も疑う余地もないでしょう。

ただ、近年の美学史家たちが提唱している織部像として、「利休なき後に、太閤秀吉の認知によって天下一の茶の宗匠となり、自由な創造性に満ち溢れた桃山の気風の中で、各地の窯において自発的に工夫された茶陶等を、その芸術的実力において当時の茶人達から篤い支持を受けた織部が、茶の湯における社会的権威の第一人者として、その独自の審美眼で選択していったものが、織部様式の名品の数々である。」といった見方には、個人的に若干の疑問があります。
(つづく)

No.370さむしろ2012-12-29 00:45:29.066192
『織部桃山様式の茶陶からみた時代背景』by光禅

どうも私には、古田織部という人の持つ、「多くの人々を魅了する、その普遍的な芸術性や、卓越した審美眼」と、信長、秀吉、家康ら天下人の使番としての「敵方の説得交渉工作の才能と技術」とが、同一の表裏一体のものだと感じられるのです。

どちらも、心底から平和的解決を切望する温厚な人柄から発し、困難な時代の中で、命がけで練成せられた、希代の「人の心を魅惑する技、スキル」に違いありません。つまり、もし戦国における評価が、主として武力による戦闘成果でなされていたとすれば、それに対して織部は、例外的に平和的文化力による成果という評価で、戦国武将として小大名にまで成り上がったということです。

平和的文化力で小大名になれたのは何故か、この説明のために、交友関係を調べてみました。
(つづく)

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