開店(1)
マスター

茶房ものはらへようこそ。本日開店です。気ままなお喋りを楽しんで行って下さい。なお、全メニュー無料です。

したり尾

遅れてごめんなさい。機械の使い方に失敗して、何回もアタックしたのだけれど、結局ドアを開けることができませんでした。このお店の敷居が高い訳ではないのだけれど。今日は少々忙しいので、明日にでもまた、出直します。ここのコーヒーはなかなか味わいがあるから、しばしば来るようにします。ところで、お店を見回してみると、なかなかいい物が飾ってありますね。そのうち、いろいろ教えてください。

マスター

順次作品を追加したいんですが、段取りが悪くてなかなかできないんです。いろいろ準備したものもあるんで一段落したら追加します。

したり尾

最近アルバート・シュワイツァーのオルガン演奏にはまっていましてね。アフリカの聖人といわれノーベル平和賞を受賞されたあの人です。彼は、牧師であり、宗教学者でもあり、哲学者でもあり、医師でもあり、音楽家でもあり、バッハ研究者でもあるというさまざまな顔を持った人物です。この人のパイプオルガンの演奏が実にいい。パッションがあるんです。並大抵の演奏家ではありません。医師としての腕前は知りませんが、宗教学、哲学、バッハ研究、現代思想では非常に大きな功績のある人物です。突然こんな話をするのは、私の中では安倍安人さんの活躍とシュワイツァーがダブルのです。ひとつのジャンルに止まらず、様々なジャンルで仕事をするということは、一見大変なように思われますし、ともすると虻蜂取らずなってしまうように思われがちですが、実はそうではない。それぞれの世界が相互に作用しあって、全体を高めていくということがあるように思うのです。ダ・ビンチしかり、ゲーテしかり、光悦しかり、ビートたけしも、そうかもしれません。そのような活躍の仕方をする人々は歴史の中で残って生きていきます。話が少々長くなって申し訳ありませんでした。最近、つくづくそう思っているもので。いかがですか。

さむしろ

想像もしない書き出しに思わず笑っちゃいました。が、読み進むうちに内容が理解でき、なかなか高尚だなと感じながらダビンチを思い起こしました。するとダビンチが出てくるじゃないですか。ということはわたしも高尚? オルガンはわかりませんが、おっしゃることについては同感です。

したり尾

そうでしょう。あるいは魯山人も、いろいろご意見はあろうかと思いますが、そういう人間だろうと思います。好き嫌いは別にして。そのようなオールマイティな人間が多く輩出されるほど、殊に文化の部門は活気付くものですが、映画を除いてこのところ駄目ですね。やはり時代の風のようなものがあるのでしょうか。

マスター

数ヶ月前、美術番組にゲストで出演したニューヨークで活躍中のアーティストが「新しいアイディアを考え付かなくなったらと思うと不安になるけど、この人の気持ちがわかる」といったニュアンスの話をしていました。安倍さんに、安倍さんはどうですか?と聞いたんです。すると安倍さんは「私は考えるんではなく、次々と湧いてくるんです」といった言い方をされていました。だからそのようなことは考えたことがないというように聞きましたので、成る程とすっかり感心してしまいました。

したり尾

「湧く」という安倍安人の言葉は「そうだろうな」と思いました。これは、いろいろなジャンルで重要なキーワードです。ある世界的な生物学者が、重要な発見をしたときのことを振り返って、「頭の隅に転がしていたら、突然湧いてきた」と表現していました。学問の場合は、それを説明するのが大変なのだそうです。その説明を「理論」というのだと教えてくれました。どのジャンルでも、重要なアイデアは「湧いてくる」ものだと思います。それが激しく出てきたとき、人は「閃いた」といいます。物事を習得する場合もそうです。徐々に坂道を登るように習得するのではなく、習得できなくて、もがき苦しんでいるうちに、ある日、突然できるようになってしまうことがある。つまり「湧く」のです。だからニューヨークの作家の言葉は、明らかに間違いです。「考えて」生まれ出るものは、大したものではありません。ただし、湧いたり閃いたりするためには、条件があります。それは、絶えず、そのことを頭のどこかに転がしておくこと。絶えずです。多分安倍安人は、絶えず焼き物のことなどを、頭の隅に転がしているのだと想像します。それは、大したことではないように思われがちですが、実は大変なエネルギーの要る作業です。何よりも、私はそのエネルギーに脅威を感じます。極端な言い方をすれば、エネルギーこそ、安倍安人の価値です。天才といわれたゲーテが「天才とは、努力する才能である」という言葉を遺しています。それは、持続するエネルギーを指す言葉です。その意味で安倍安人は天才であると、私は思います。

さむしろ

むつかしくなってきましたね。一方は考え、思い悩み、変化し工夫する。他方は泉のごとく、地下のマグマのごとく湧き出で、噴出する。前者には限りがあり、後者は無尽蔵である。類まれな才能があるとしても単なる努力の人、頑張る人、工夫し考える人と天才は違うのではないでしょうか?それも桁違いに。「頭の隅に転がしている」は面白いですね。わたしはこう言いましょう。「安人は一体となって同居している」と。

したり尾

ゲーテの遺した言葉を書き入れてしまったので、話がややこしくなったのかもしれません。「努力」という意味は、「エネルギーを保ち続ける努力」という意味であると理解しているのですが。あるいは「努力」と翻訳してはいけない言葉かもしれません。いずれにしても、ゲーテ以降は、省いて読んでいただいて結構です。もう少し角度を変えて、いつかこの話の続きをしましょう。どう言えばお分かり頂けるか、少々考えてみます。

さむしろ

ほぼわかる気がします。「むつかしくなった」は「いいですね」「おもしろいですね」の意と理解して下さい。天才話のついでに、司馬遼太郎は八木一夫のことを千年に一人の天才であると評した、と記事にありました。八木一夫のことはほとんど知りませんが、千年に一人の天才ということは、その作品は千年後にも評価され、また芸術性を持ちつづけると理解していいんでしょうか?安倍安人を400年に一人の天才造形家と評するさむしろとしては見過ごせない記事でした。八木一夫が本物の天才か、司馬遼太郎は一流の鑑識眼を持つ目利きか、はたまた芸術オンチの大ボラふきか。江戸時代と違い現代では、だれがだれをどのように評価したかの資料・記録が後世まで残り、評論家、専門家といわれる方達には大変な時代ですね。

したり尾

どんなすばらしい活動をした人間も、誰かに発見され評価されなければ、いなかったことになってしまいます。また、その時代に、それこそ天才だと評価された人も、次の時代に消えてしまうこともある。かといってその人間に才能がなかったのかといえば、そうも言い切れない。また、亡くなってから随分後になって評価される場合もあります。音楽家のバッハは今では大変有名ですが、彼が評価されたのは、死後80年も過ぎたあとでした。しかも、評価した人間が大変高名な人でしたから、運良く「天才」の一人になることができたということでしょう。要するに評価の問題ですから、何とも言えないというところです。あらゆるジャンルで、すばらしい作品を制作しながら評価されずに埋もれてしまった人々は、数限りなくいるに違いないと思います。過去に天才と評価された人々の多くは、評価した者が高名であったということが多いのです。そして、一般的に分かりやすいという側面もあるように思います。まだ、多くの面もありますが。この議論は、なかなか難しいですよ。

したり尾

付け足したいことがあります。司馬さんは、そのように思ったということでしょう。そして、さむしろさんは、安倍安人を天才だと思う。客観的にいえば、司馬さんとさむしろさんの価値基準がどうであるか、お互いどのような意味で言っているのか。司馬さんの正確な理由を知る必要がありますね。もっとも、天才は、ひとつの時代に一人というわけでもないしね。やはり、この議論は難しい。私が安易に「天才」という言葉を遣ってしまったのが間違いでした。しかし、個人的には安倍安人は、少なくとも、現代の天才の一人であると思いますよ。(存じ上げない作家もまだまだ、いらっしゃいますから、あまり強くは言えません)

さむしろ

記事をみた直感での印象です。八木一夫は実用を離れたヤキモノ(の造形物)を世に送り出した。それは縄文の火焔土器以来だれもなしえなかったものである。数千年の間誰もなし得なかったことをしたということは稀に見る才能の持ち主である。ゆえに彼は天才である、と司馬遼太郎は、思った。なお直感以外の根拠はありません。まず早い機会に八木一夫の作品を見てみたいと思います。

したり尾

そうですね。見てからですね。今日は、唐招提寺展を観にいってきました。いろいろ思うところがありました。それは、もう少し頭の中を整理してからにしましょう。少々疲れました。おいしいコーヒーが飲みたい。

マスター

お疲れさまでした。おいしいコーヒーです、どうぞ。唐招提寺展、人それぞれいろいろな感慨があるのでしょうね。また、ゆっくり聞かせて下さい。

したり尾

唐招提寺展を観て様々なことを感じ、考えました。いっぺんに書くと長くなりますから、ひとつずつ書いていきます。大変混雑していましたから、私は、金堂の本尊盧遮那佛と鑑真和上像を中心に観てきました。(その他、ついでにいろいろ観ましたが、それは後ほど)まず感じたのは、その精神性の高さです。もちろん、日本は千年以上仏教文化の中にあるのですから、仏像に対する思い入れは、否応なしに、私の中にもあり、それを計算に入れて考えなければいけません。しかし、私はできるだけ、客観的に彫刻のひとつとして観ようと思いました。それにしても、精神性の高さに圧倒されました。(あれを作ったのが、無名の工人、あるいは工人集団であったということにも、個性を重んじる現代人の私にはショックです)精神性の高さは祈りとか、思いとか、志とか、そんな言葉に言い換えてもいいかもしれません。美術作品の説得力は、制作者の志にあると思っていますが、そのことを強く確認しました。現代美術の本質的に欠けている点がここにあると確信しました。(安倍安人の焼き物の作品の本質も、精神性の高さであると思っています)しかし、仏教を信じようが信じまいが、仏教文化の中に育った私が本当に客観的に観ることができたのか、不安は残ります。まもなく、中宮寺の菩薩像も公開されますので、それも観て、私の中のもやもやを整理したいと思います。しかし、精神性とか、思いとか、志とか、作品のどこに、どのように現れているのか、実はうまく説明できないのです。そこが、私が、今回もうひとつ自信を持って書けないところです。その他、西洋美術との違いなど、考えるところがありましたが、次の機会に回します。なお、()に括った部分は、いずれ、一つ一つ、話し合いたいテーマです。