奥高麗茶碗(40)
さむしろ

出光美術館選書6「古唐津」(水町和三郎)を見ていてハタと思ったのでここで書いておきます。なお、引用文はいずれも同書からのものです。
以前より奥高麗茶碗はだれが作ったのかという疑問があります。窯跡から失敗作どころか陶片さえも出てきていないと記憶しています。古来よりいろいろな説があるようです。主なものを記すれば以下のとおりです。

さむしろ

1、奥高麗とは高麗人来たり唐津にて焼きし故高麗の方より奥ということなり。『茶道筌蹄』(稲垣休叟(1770~1819))
ほぼ同意できる。

さむしろ

2、奥高麗とは文明より、天正年間に至って製するところのものなり。此の際点茶盛に行はれ、高麗の茶碗が珍愛されたが舶載のもの少なくして得難きにより唐津にて模造せしむ。後世之を奥高麗といふ。奥は往古の義にして古き高麗といはんが如し。陶膚やや蜜にして釉色枇杷実の如くまた青黄のものもある。糸底に皺文あるを良とす。『工藝志料』(1878)
「文明より、天正年間」について疑念がある。唐津筒茶碗銘「ねのこ餅」が利休所持と伝えられてるが、もし利休所持が正しければ、利休自刃の1591年前にすでにあったこととなるが、唐津焼が茶会記に登場するのは慶長8年(1603)古田織部の茶会が最初のようである。
加えて「ねのこ餅」は日常雑器の取り上げではなく茶陶として作られたと思われる「作り」であると考えられている。茶会記にある「イマヤキ茶碗」に楽茶碗だけでなく唐津茶碗も含まれているとすれば納得できるが、すでに十数年経っているのであるからNO84の鍋島勝茂の書状にある「唐人 焼きし 茶碗」のごとく古田織部が改めて説明する必要もなかったろうにとも思える。

さむしろ

3、奥高麗は満州窯なり。・・・・・・・。『陶寄』
4、奥高麗と称するものは朝鮮忠清道の西北に唐津監あり、唐の船付にて、この地の焼物なり。・・・・。古唐津は似て違へり。『陶器孝』
3、4、は論外。

さむしろ

5、唐津の古きは奥高麗といふ。唐津の奥に竃あり、是へ唐人来て焼く、是を奥高麗と云ふ。・・・・・・。『鑑識録』
古ければ奥高麗というのには異論があるが、その部分を除けばすなおにうなずける、と思ったが、読み返してみると、「唐津の奥に竃」あり、から奥高麗の奥がきているようにも読める。そうであればうなずけない。
鍋島勝茂の書状NO84にある、織部が説明したという「其元へ罷居候唐人やき候かたつき茶わん座に出候」とは一致する。

さむしろ

6、右咄の内に奥高麗と被仰候はいか様成事に候哉と申候に、奥の奥高麗とて井戸などの類にて候都の方にて焼候を熊川杯と申候総て都の物は見事に有之候故古帖佐などの茶碗茶入の薬立はやはり熊川にて候井戸は田舎細工の故鹿相に有之候、唐津などはその奥高麗人を寺澤殿御つれ被成候其焼手故殊の外上方にて賞玩仕候由。
『白鷺洲』(薩摩藩の御用絵師木村静隠(探元)と島津久峰との話を録したもの。久峯は宝暦4年(1754)12月から同10年(1760)7月までの間、足しげく静隠の許に通い、茶の湯、絵画などに関する話を聞いたが、その談話記録が『白鷺洲』である。)
この部分いまいち理解しづらいが、
「奥高麗というのはどのようなものかと申しますと、奥の奥高麗といって井戸茶碗のたぐいです。(朝鮮の)都の方で焼いていたのを熊川茶碗と申しまして、総て都で作られたものは見事で、古帖佐などの茶碗茶入は熊川の釉薬を使っています。井戸は田舎細工のため粗末です。唐津はその奥高麗の陶工を寺澤殿が連れ帰られ、唐津にて焼かせたもので、上方ではたいそう賞玩されているようです。」
というように読んだがどうだろうか?
確かに「深山路」などは井戸茶碗の系統といわれればそうである。なお熊川形の奥高麗もある。

さむしろ

松浦昔鑑(宝永年間(1704~1710)記録)について、
「文禄・慶長の役に出征した初代唐津城主志州公が高麗より連れ帰った陶工活動の動静が記されているが、前文の『佐志山道北方に焼物やき候云々』の記事は年代こそ記されていないが、前後の文意より察して、朝鮮役以前、唐人(高麗人を意味する)によって陶器が焼かれたような意味に解される。」
と解説している。
朝鮮役より前に渡来した唐人による唐津焼もある可能性があるかもしれない。

さむしろ

「飯胴甕上窯祉から織部の影響を受けたと思われる彫唐津の残欠が出土するから、この窯は慶長期の唐津全盛時代に復興しているから、同残欠は復興期の所産と考える。」
とある。

さむしろ

茶会記の中で「奥高麗」が出てくるのがいつの頃からか調べたいが、手持ち資料の不足で、現在取り寄せ中。奥高麗という呼び名は案外遅く、織部健在の頃には「奥高麗」なる呼び名はなかったと思われる。
織部が唐津に、三條の「イマ焼き」候者どもを行かせて焼いたものの中には「奥高麗」はなかったが、唐人に焼かせた「奥高麗」は一緒に持ち登った可能性があると考える。

さむしろ

奥高麗とは、
①唐津で焼かれた。
② a.朝鮮役以前に渡来した唐人によって焼かれた。 b.朝鮮役の折連れ帰った唐人によって焼かれた。 c.朝鮮役の折、高麗の奥地から連れ帰った唐人によって焼かれた。
③「奥高麗」と呼ばれるようになるのは暫く後のことである。
④奥高麗茶碗を、唐人に焼かせたのは古田織部である可能性が高い。「其元へ罷居候唐人やき候かたつき茶わん」、の茶碗は「奥高麗」のことではないかと想像している。
これまで奥高麗がどういうものであるかよくわからぬまま「オクゴウライ」と呼んできましたが、今回改めて資料を見直して、以上に述べた①、②のabcのいずれか、③についてはほぼ間違いないと思うところにたどり着きました。
早(古)い資料でも、織部が亡くなって100年近く後の伝聞話のようで確定的なものに欠けていましたが、鍋島勝茂の書状にある織部の言「其元へ罷居候唐人やき候かたつき茶わん」は、「奥高麗」誕生の由来を決定づける有力な資料になりうると考えています。
光禅さん、話の途中に割り込みましたが、随時書き込んで下さい。

光禅

唐津焼は、肥前一帯で広範に焼かれ、生産時期も長期にわたっており、奥高麗、絵唐津、無地唐津、青唐津、黒唐津、朝鮮唐津、三島唐津、斑唐津、彫唐津、瀬戸唐津、献上唐津に至るまで、様々な種類が見られる様です。
ご指摘の様に、奥高麗の茶碗は、明らかに桃山調の茶陶として形成されている物の様で、古田織部の指導色が濃厚だと思われます。また、奥高麗の呼び方についても、正確な資料的な裏付けをまだ取っておりませんが、もしかすると小堀遠州あたりからの様な気がしますがいかがでしょうか? 遠州七窯と云われる中で、上野、高取あたりの九州系の窯などは、朝鮮唐津の影響そのままですし・・・・。あるいは遠州あたりが、九州系の茶陶を分類して体系付けた際に『奥高麗』と、一種の格付けをした可能性があると思います。有名な茶碗の伝来や箱書き等の見直しをしてみるのも、一つの良い方法かもしれませんネ。
そしてさらには、唐津焼で忘れてはならないことがらに、ほかの国焼に比べて、古来、実に巧妙な贋物が多数存在するという点です。唐津焼は、上記の様に種類も多く、窯数も多く、使用されている土の種類も多いことから、土からでは真贋の判断がまず出来ません。
有名なところでは昔から、『三角屋』というものすごい偽物作りの名人がいたそうです。そして一番間違われるのが、『京唐津』でしょう。元々が「三條之今やき候者共」と云った位ですから、微かな時代の息吹の違い以外には、もしほぼ同時代に製作された物だったとすれば、例えどんな目利きでも、本来、見分けが付く道理が無いと思います。

さむしろ

小堀遠州あたりは大いにあり得ますね。織部亡き後の第一人者であり、遠州が「奥高麗」と名づければ皆すなおに従うような気がします。
遠州の茶会記にいつ頃出てくるか、興味あるところです。また「罷居候唐人やき候」ということを知りうる立場にあったことも大変重要な要素ではないでしょうか。 『三角屋』というのはいつ頃の人でしょうか? いわゆる唐津焼(古唐津)は江戸初期で終わっています。
いつ頃か定かではありませんが後世「古唐津」が大層もてはやされ、それこそ「ものはら」から掘り出してきて「掘の手」として大変珍重したというふうに聞いています。
京唐津も確かに判定が難しいものですが、これについても掘の手などが珍重される頃とほぼ同時代ではないかと想像しています。「確かな京唐津」というのをみたことがありますが、ポイントさえつかめば案外判定はできると思います。ここでは「古唐津」の目利きが本論ではありませんのでふれません。目利きについては、いつか一杯やりながら話しましょう。
「唐津」に人気がでたのは一時代経った後ではないかという気もしてきました。

さむしろ

遠州蔵帳には奥高麗どころか唐津も載っていません(茶入1点有)。雲州蔵帳には奥高麗が5~6点載っています。
丸屋嘉兵衛が主人の茶会記に奥高麗が出てきますが、12月11日とあって年は不明、いつ頃の人かわかりません。
松平不昧の茶会1787、12、23、酒井宗雅の茶会1789、9、20にやっと奥高麗がでてきますが、「奥高麗」は驚くほどでてきません。
伊達綱村の茶会1699、10、3に古唐津遠州所持というのがでてきますので、遠州も唐津を所持したことはあるようです。
ただ遠州は、織部がかかわった道具は遠ざけていたのかもしれません。そんな気がします。
『白鷺洲』(1754~1760間の記録)とあわせて考えると、奥高麗という呼び名はこの頃から使われだしたのかもしれませんね。

さむしろ

昨夜のテレビ番組、その時歴史は動いたで「黒田如水」をやっていました。少しだけ「身近な人」のような気がしながら見ていました。

さむしろ

光禅さんの「全くの私見と推理」について、ここらへんで一度感想を書きましょう。
NO100
文化的特殊兵器
織部が調略にかかわったというのは、(関が原の後?)茶道の弟子であった常陸の佐竹義宣を東軍へ調略したとして家康から七千石の加増をうけたという実績があります。光禅さんの「文化的特殊兵器」説を支持します。
名品がまず誰にわたったのか? ということは極めて重要です。ただ、残念なことに当時は箱書付をするということはなかったようで、添え状でもないとなかなかわからない。
茶会の参会者名の重要性が増してきます。
NO105
「極限の隙の無さ」として、反面ある種の恐怖と映り、・・・。とてもとてものどかに茶の湯を楽しんで・・・、などといった呑気、優雅なものではなかったのでしょうね。
NO109
家康が織部に、新しい権威ある「数寄の御成」の基本様式を工夫し、作成することを命じた。」 茶の湯を楽しみというより「治世の道具」と位置づけていたと考えられるわけですね。

さむしろ

NO114
当時の勢力図はNO100の名品のルートとともに真実を明かすカギになるかもしれません。
NO117
矢部良明の著書「上田宗箇」が出版されていますね。
NO119
高台院は反淀君、秀頼で結果として反豊臣だったのですか?
「豆を煮るに、豆の皮を持ってする。」知りませんでした。
浅野幸長や上田宗箇に仕事をさせるようなふりをして実は動向を監視していたということですか。奥が深いですね。
とはいえこの時代の「もし」の多くはその後の日本を大きく変えたかもしれない「もし」であったわけですね。

さむしろ

NO121
「生爪」「破れ袋」が織部から出ていること、二つが極め付きの名品でありその目利きを行っていることは、織部が「織部様式茶陶」のすべてを取り仕切っていたことを示しているのではないでしょうか。
「破れ袋」の添え状には、「内々御約束の伊賀焼水指・・・」、「如此侯大ひゞきれ」であるが「今後是程のものなく候間・・・」とあり、内々の約束ができる立場であったことや、その水指が二度と出てこない程の名品であると断じられるほど精通していたことが推測できるのが、そう思う理由の一つです。
大野和馬(治房)へ送られた「破れ袋」に込められたメッセージはなんであったか?
「破れ袋」は調略ではなく主戦論への誘導のための兵器となった、というお考えですね。
とすると、NO124の絵唐津花入もある狙いをもって宗箇に送られたかもしれませんね。

さむしろ

古田織部が松井佐渡守に宛てた書状です。
八月十五日
四、五種焼かせ、遠路上って届けられ過分に存じます。
焼きごろは良いのですが、形、大きさは良くないと当地
の衆(茶人たち)は申しています。
重ねて様子を申し入れますので、焼かせてお届け下さい。
慶長15年と推測されているようです。松井佐渡守は、細川三斎、忠興に仕える。関が原では東軍。上野焼ではないかとの解説があります。
形紙・指図書の類により焼かせていたこと、ただ思うようには焼けなかったことがわかります。

さむしろ

NO124の絵唐津花入について安倍さんに聞いてみたところ、写真でみるかぎりでは「織部様式(三点展開)」によってつくられている、とのご意見でした。
そうすると、古田織部、三條の今ヤキ候者共(NO84参照)、絵唐津花入、上田宗箇が繋がってきます。
わたしは、絵唐津花入れは上田宗箇の時代に上田家に入ったと考えていますが、光禅さんはどう考えられますか?
今NO84を見直して気付いたのですが、三條の今ヤキ候者共は唐津へ複数回行っているように読めますね。

光禅

「此中も罷下、やかせ候て持のぼりたる由候間」ですので、恒常的に往来させていたと考えるのが自然な解釈だと思います。
絵唐津の花入れが、織部から宗箇に渡った記録の様なものが有ればいいのですが・・・・
あるいは宗箇が、絵唐津の花入れを使用した会記でもあれば少しは推測出来ますが・・・・
宗箇展等の図録から造形上の推定が付くものは他にも御座いますか?

さむしろ

どれが伝来のものか、必ずしも定かでないのでたしかなことは言えませんが、元預り師範であったお宅にあった信楽水指と備前水指を今の目でみてどうか、興味あるところです。
記憶では大変な名品であったように思います。
歴代の中で茶の湯に相当夢中になられた方がおられますか?
あの手の絵唐津花入れは他にも1点ありますが(NO125)、それ以外はほとんど無いように思っています。
10点、20点とあればもう少し本とか美術館とかで見ることができそうに思いますし、茶会記にもほとんど出てきません。
相当夢中になって探すか、あるいはよほどのご縁がないと手に入らないように思います。
手持ち資料(松屋会記・久好)で慶長16年9月に「カラツヤキツツ」が一回出てきます。亭主は舟越五郎右衛門です。

さむしろ

NO133を修正しました。
『白鷺洲』が書かれた年代を誤っていたので書き直したものです。
その内容は、
(薩摩藩の御用絵師木村静隠(探元)と島津久峰との話を録したもの。久峯は宝暦4年(1754)12月から同10年(1760)7月までの間、足しげく静隠の許に通い、茶の湯、絵画などに関する話を聞いたが、その談話記録が『白鷺洲』である。)