ピカソの語った有名な話(42)
光禅

アートにおける造形理論といえば、「対象を自由に分析し、解体し、それを画面に再構成することによって新しい美学を創りだす。」と云う、まるで陶芸的、あるいは彫刻的な絵画理論であった、パブロフ・ピカソのキュービズム運動を、つい想起してしまいます。
また、そのピカソの語った有名な、
「日本の文化はみな海外から到来したものだけれど、縄文土器と織部・志野だけは日本の独自文化である。」
と云う言葉を思い出します。
つまり「織部桃山茶陶の造形理論の解明と再現」は、世界美術史上での一大快挙として、日本発の重大な歴史的発信情報としての重みと価値を持つものだからです。

さむしろ

ピカソの話は記憶にありませんでした。いい話を聞きました。
安倍安人は広義の織部・志野等の桃山茶陶を「三点展開による織部様式茶陶」と、陶工によるいわば「倣織部様式茶陶」を区別しています。そして前者と長次郎楽茶碗は同一の造形理論によって造られていると断じています。
なお、光悦茶碗はそのいずれにも属さないとしています。「素人仕事」との考えと理解しています。
ピカソが、広義の織部・志野等の桃山茶陶を安倍安人のように二つに別けて考えていたかどうかについては疑問がありますが、「アート」として見た可能性は大いにあるように思いますがいかがでしょうか?
安倍さんがよく言われることに、陶芸は文科省所管でなく経産省の所管である、というのがあります。芸術作品としての捉え方ではなく産業製品であるとの捉え方しかされていない、といっておられるのです。
「三点展開による織部様式茶陶」が、「アート」である理由と、「倣織部様式茶陶」との違いについて詳しく述べられているのが、近々再掲載されるという「桃山茶陶の焼成と造形」です。
じっくり見ていただけば、大いに理解が深まるでしょう。

さむしろ

「三点展開による織部様式茶陶」と「倣・織部様式茶陶」とを区別して説明したのは安倍安人が最初です。
残念なことに、現在この考え方を理解している者は少数です。出版物等でこの説を紹介あるいは主張している者も皆無といっていいでしょう。
理解者が増え、声も大きくなれば文科省の扱いも変わるかもしれません。
(ただここでは文科省の考えを変えてもらいたいなどということは全く考えていませんので、かりに文科省の方がご覧になっていても気にしないで下さい。

さむしろ

三点展開による織部様式茶陶ということをある程度理解することが、長次郎楽茶碗は同一の造形理論によって造られているということを理解することにつながり、それによって、わたしが大胆にも主張している「その二つは同一人物によって造られ、そしてその人は楽長次郎一族である」という突飛ともいえる仮説(ものはらⅠ部NO1220)が、あながち突飛と決め付けられない、というところにつながるのではないかと思います。

さむしろ

向いの喫茶店で、今日発売の週刊モーニングの「へうげもの」を見てきました。
場面は1587年、九州征伐です。茶会記に「宗易形ノ茶ワン」が出てきた年(1586)の翌年です。
美濃茶碗という言い方をしていますが、「美濃」をつかうのは、なにか考えがあってのことかもしれませんが、艶消しと感じました。当時は美濃茶碗という言い方はしていないようです。(会記ではセト茶碗です。)