当代楽吉衛門の見解を覗く(43)
さむしろ

NO165で織部様式茶陶と長次郎楽茶碗は同一の造形理論によって造られており、その二つは同一人物によって造られている、との仮説をたて、いろいろな資料からその可能性を探るというか立証を試みるというか、そんな作業を続けているところですが、当代楽さんは「楽茶碗」についてどのような見方をされているのかについて目をやってみたいと思います。

本の名は忘れたが、Ⅰ章 楽茶碗ってなんだろう Ⅱ章 楽焼のルーツを見る Ⅲ章 楽家歴代 の三章からなる記事の中で詳しく触れられているので興味ある部分を紹介しようと思う。
特に断らない限り同書に記された楽さんの見解である。
『楽焼をはじめたのは長次郎であり、陶工とも装飾瓦を制作する工人とも伝えられている。』

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『楽五代・宗入が記した文書に、「あやめ倅 長次郎 辰の年まで百年ニ成」とある。「あめや倅」長次郎の父にあたる「あめや」は人の名前であるが、飴を商う人という意味ではない。おそらく中国からの渡来人で、楽焼の技術をもった工人であろう。』といっている。

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『宗旦の慶安二年(1649)の茶会の記述に「シュ楽茶ワン、今、油小路ニテニセテ今焼き候由」とある。』
とある。手持ちの資料でも確認出来た。
1649当時に「コピーもの」があったようであるが、それより前の時代はどうであったか?

さむしろ

『利休自筆の書付があるのは、黒楽茶碗「東陽坊」(箱書に利休の文字)、「俊寛」(箱書貼紙に利休の文字)、赤楽茶碗「一文字」(茶碗見込に利休の文字)の三点と考えられる。』

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『利休が長次郎にあてた手紙も残されていない。あとは状況証拠のように、長次郎茶碗に触れた内容の利休の手紙があるだけ、しかも数は少ない。』

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『利休の秀長宛書状に「御茶碗二ケ唯今到来候又あかく御座候を可仕之由申付候(秀長から依頼されていた茶碗ができあがった。また赤茶碗を造るようにも申しつけておきました)が認められるのをはじめ、
古田織部宛「焼茶碗今日相尋申候間 紹二 ニ渡進之候(織部から依頼されていた焼茶碗ができあがってきたので千紹二にもたせて進呈する)」
瀬田掃部宛「赤茶碗之事長次ニ内々焼セ申者殊に見事候(長次郎に焼かせた赤の茶碗がみごとな出来ばえであった)」
など、長次郎と利休の関係がうかがわれる。ただし「焼茶碗」は必ずしも「楽茶碗」とは確定できない。」

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『桃山という時代を素直に語り時代の美を代表する美濃茶碗や備前、伊賀や信楽の焼物があらわす美意識とは徹底して異なる長次郎茶碗』
楽さんは「織部様式茶陶」と「長次郎茶碗」を対極に置いておられるようである。

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『宗旦の時代まで長次郎のあとを受けた二代常慶やその父田中宗慶も活躍している。宗旦はそれらの人の制作した茶碗もふくめて「長次郎焼」と記したのである。』

さむしろ

『近年の考古学の研究調査で、典型的な桃山様式を色濃くあらわす瀬戸黒や志野茶碗が長次郎よりわずかに時代が下がる慶長年間(1586~1615)と考えられている。』
志野の制作年代が若干下るというはなしを「ものはらⅠ部」NO1109あたりで行っています。

さむしろ

『桃山時代の地層から発掘された陶片のなかには、日本製の三彩陶のほかにもう一つ、注目すべき破片が発見された。それは長次郎の黒茶碗と同じ黒釉の掛けられた抹茶茶碗であった。しかしそれは伝世している長次郎茶碗の優品とはあきらかに作行・釉調が異なっている。なかにはロクロ成形のあと手捏ね風にヘラを入れた、あきらかに長次郎茶碗を模倣した黒茶碗も出土している。』
「注目すべき破片」がどのようなものか、だれの手によるものか大いに興味がある。

さむしろ

『赤楽茶碗「早船」・利休書状添
「此暁三人御出、きとくにて候、とかく思安候ニ色々申し被下候而も、下調候、我等物を切候、大墨を紹安にとらせ可申候、はや舟を八松賀嶋殿へ参度候、又々とかく越中サマ御心へ行候ハてハいやにて候、此里を古織と御談合候て今日中に御済あるへく候、明日松殿ハ下向にて候」』
焼きあがってきた(?)長次郎茶碗をだれに譲るか、迷い、思案をしていたことがわかる。
いろいろな思惑を込めて、利休から次の所持者に渡ったということだろう。

さむしろ

『織部茶碗は古田織部が指導したとされている。しかし織部個人のはたらきに帰するよりも、むしろ慶長という時代の気風が織部茶碗を造り上げたといえる。いくぶん投げやりな自己主張、かぶき者が個性を謳歌する時代であった。
常慶はいち早くその気風をくみ取り、作品に取り入れている。口部を一段張り出し、大きく沓形に変形した常慶の黒楽茶碗、織部茶碗と通じる造形。まさに動きをともなった造形、常慶のバロックである。』
「常慶はいち早くその気風をくみ取り、作品に取り入れ」に注目したい。

さむしろ

『高台付近に土を見せているところも長次郎茶碗とはちがう。しかし織部茶碗と異なる点もある。黒釉一色に終始したこと。 さらにじっくり見れば大きなゆがみを加えているにもかかわらず、織部茶碗ほど強い動きを感じさせない。静かである。
常慶のなかで長次郎様式と織部様式が同居している。』
楽さんは「常慶のなかで長次郎様式と織部様式が同居している」ことをどのようにみておられるのだろうか。大変興味深い。
以上で楽さんが述べられた見解の紹介は終りです。

さむしろ

これまで、何度か読み返していますがあまり気に留めていなかったことに気付きました。
『桃山・・・の美を代表する美濃茶碗や備前、伊賀や信楽の焼物があらわす美意識とは徹底して異なる長次郎茶碗』
このような見かたをされているという認識はありました。
『桃山時代の地層から発掘された陶片のなかには、・・・、あきらかに長次郎茶碗を模倣した黒茶碗も出土している。』
『常慶のなかで長次郎様式と織部様式が同居している』
この二つに気をとめていませんでした。

さむしろ

『桃山時代の地層から発掘された陶片のなかには、・・・、あきらかに長次郎茶碗を模倣した黒茶碗も出土している。』の部分は、
NO87で書いた「三條之今やき候者共」も光禅さんと同様の解釈ですが、他に「今やき」を焼く者達がいたかいなかったか、注意しておく必要があるように思います。の、他に「今やき」を焼く者達がいたかどうかとの意味においてです。
『常慶のなかで長次郎様式と織部様式が同居している』の部分は、「織部様式茶陶を作ったのは長次郎一族」である、との仮説をたてている立場からいえば「織部様式の同居」は当然で、仮説にそったものといえます。

さむしろ

「へうげもの」を見た。時は1587年。利休が織部へのお返しに「今ヤキ茶碗」を贈ったという場面でのイメージ画に、楽茶碗「ムキ栗」と思われる四方の茶碗が出てきた。
中央公論社・日本の陶磁1「長次郎 光悦」には、「ムキ栗」の外箱蓋裏に「利休好 長次郎焼 四方黒茶碗」、同蓋表「四角 長次郎作 利休所持」とあるように利休好みであったように思われる。
とある。
宗易形茶碗が茶会記に初めてでてくるのが1586年で、最初に現れる宗易形茶碗は「無一物」のような造形のないものと考えたい。やがて造形を加えだし「俊寛」に至る。四方茶碗が作られたのはもっと後、伊賀焼と同時代頃ではないかと考えている。上述の書付は後世のもので、内容が正しいとはどうも思えない。
あるいは「長次郎焼楽茶碗」を焼いたのは一人と考えていたからそのような書付になったのか?
もちろん「へうげもの」にケチをつけるつもりはない。山田芳裕さんには、いつもガンバレと応援している。

さむしろ

「桃山茶陶の焼成と造形」の再連載をしていますが、その中で「楽茶碗」という言葉が再々出てきます。ここでの「楽茶碗」は、長次郎茶碗のことで長次郎、常慶までのものをいい、のんこう以降のものは含まれませんので誤解のないようにお願いします。
この連載の中で安倍さんは「長次郎楽茶碗と織部様式茶陶は同根」であると語られ、その理論が、わたしの「織部様式茶陶は長次郎一族制作説」の論拠となっています。
安倍さんの解説は、かってなかったほど詳しい解説です。

さむしろ

宗易形茶碗が茶会記に初めてでてくるのが1586年で、最初に現れる宗易形茶碗は「無一物」のような造形を加えていないものと考えたい。(NO189)
千宗易の1580年(天正8年)12月9日の茶会に「ハタノソリタル茶碗」が現れる。「勾当」「道成寺」あたりかこれに類似のものがハタノソリタル茶碗ではないかと考えている。その後「白鷺」「曲水」風のものになり、「宗易形茶碗」と思われる「一文字」「無一物」「太郎坊」(いずれも赤楽)となったのではないだろうか。「大クロ」「東陽坊」「北野黒」「まこも」なども、写真で見る限り造形は加えられていないようである。