空想「造形への端緒」(44)
さむしろ

これから、まったくの想像であり「へうげもの」の世界である。
無一物あるいは大クロのような形の茶碗が10碗20碗あるいは30碗と増えてきたとき、何か新しい形を求め思案をしたのではないか。
あるいは織部にも相談したかもしれない。
「宗易形茶碗」を作り続けていくと、すぐに同一の茶碗が何個も出来てしまい、それでは利休の侘茶の心に適わない。どうすれば宗易形茶碗を作り続けることができるか、相当のあいだ悶々と思い悩んだのかもしれない。
ところがあるとき突然大いなる閃きがあった。

さむしろ

それは利休がバテレンと同席していたときである。それは利休の茶会であったのかもしれない。織部が同席していた可能性も大いにある。宗易形茶碗の限界の話が出たか出なかったかわからないが、バテレンが欧州での彫刻の話を始めた。その話を興味深く聞いていた利休は「そうか!茶碗に「動き=表情」をもたせれば無限になる」と気付いた。
利休は、そのまま茶会を終えると、織部にその話して意見を求めた。さぞかし織部も体中が震えるような感動を覚えたのではないだろうか。(もっとも織部も同じことを感じていたかもしれない。)
早速、長次郎を呼びつけ造形、つまり安倍安人がいうところの「三点展開」を説明し、それによって作るよう指図をした。もっともその間いくらかの試行錯誤はあったと思うが、本質を理解していればそうむつかしいことではない。安倍さんも「初めての人に三点展開を教えた後に茶碗を作らせると楽茶碗(の形)になる」といわれている。
なお以上については最初に断ったように「へうげもの」の世界、空想の世界であるので念のため。

さむしろ

何ゆえにバテレンか?
長次郎茶碗になされた造形は、単に押したり引いたりしたものではなく、一定のルールに則ってなされている。
大きなヒントなしで「三点展開」理論を手中にした可能性は、限りなくゼロに近いと考えている。
HP掲載動画「桃山茶陶の焼成と造形」のなかで安倍さんが詳しく説明をされているので、見ておられる方は理解できると思う。
当時のわが国には、他にそのルールに則って作られたと考えられる造形物はない。
当時、わが国に多くの宣教師が来ていたことはよく知られているし、その宣教師の中に欧州における彫刻理論を理解している者がいてもなんの不思議もない。
「一定のルール」については掲載動画「桃山茶陶の焼成と造形」とともに窯辺論談「安倍備前の造形と焼成考」をご覧いただきたい。

さむしろ

利休が、茶の湯の作法のなかにキリスト教の作法を取り入れているということは、いろいろな書物のなかで書かれているので、ある程度深い交流があったと考えていいだろう。
織部の同席云々については、織部と織部様式茶陶の深い関わりを考えると、織部と長次郎、三点展開の関わりも随分早い時期に始ったと考えるからである。