古茶会記を読む(45)
さむしろ

では、織部が主体的に関ったものはいつ頃できたのだろうか?
慶長4年(1599)2月2日茶会、亭主:織部において「セト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也<薄茶>」とある。

さむしろ

NO198は宗湛日記(神谷宗湛・博多の豪商)に出てくる。
他はどうか?
同じく宗湛日記、慶長9(1604)2月8日亭主:黒田筑州の茶会で「茶碗セト也、ヒツムツキ候」とある。
同じく宗湛日記、慶長10(1605)9月26日亭主:覚甫の茶会で「黒茶碗、京ヤキ也、ヒツム也」とある。

さむしろ

花入の場合、「備前筒」「信楽筒」としてでてくるが、古いものは備前筒が1578年津田宗及の茶会にでてくる。
ざっとみたところで、「三角」とか「耳付」とかの語はでてこない。
水指では、備前あるいは信楽は早くからでてくる。それらは、鬼桶、種壺などの取り上げものが多いと思うが、それとは別に「造形」がなされたかもしれないと思われるものに、1587年「備前水サシ 尻フクラシタル」と、同年「土水指備前モノ、共蓋 下フクラニアリ、コブモアリ」というのがある。
これが織部様式に則っているかどうかわからない。しかし興味ある記述であることは間違いない。
今段階では、楽茶碗を除く織部が関った「織部様式茶陶」がいつ頃から作られだしたのか検討がつかない。

さむしろ

『「造形」がなされたかもしれないと思われるものに、1587年「備前水サシ 尻フクラシタル」と、同年「土水指備前モノ、友蓋 下フクラニアリ、コブモアリ」というのがある。』「尻フクラシ」「下フクラ」「コブ」がどのようなものか?
これらが織部様式に則っているものであれば、随分早い気がする。

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もう少しさかのぼってみると、
備前、丹波、伊賀、信楽のなかで、最も早く茶の世界に登場するのは信楽と備前で、村田珠光が語った言葉や残した消息のなかに「伊勢物 ひぜん物(備前物)なりとも 面白くたくみ候はば まさり候べく候」、「または当時ひえかるると申して 初心の人体が備前信楽物を持て 云々」とあり(日本の陶磁 備前 P115)、備前や信楽ものが、珠光の時代に使われていたことがわかる。
とあり、唐物茶から侘び茶への移行とともに登場してきたようである。以後多くの茶会で使われだしたことは古茶会記からあきらかである。

さむしろ

NO202で紹介した「友蓋」に注目したい。この友蓋は信楽、備前では初見である。
「共蓋」(あるいは友)が現れるのは矢筈口が現われるのと同時ではないかと推測したいがどうであろうか。

さむしろ

古茶会記にでてくる「友蓋」について調べてみた。
1587.2.13 亭主:宗及 土水指 備前物也 名ヲクヽリハカマト御申候、友蓋ナリ
1599.3.11 亭主:覚甫 水指 シカラキ、友蓋
1601.11.20 亭主:古織部 信楽トモフタ水指
1601.11.21 亭主:小堀作介 信楽トモフタ水指
1605.9.26 亭主:覚甫 水指ハシカラキ也友蓋、ヘウタンナリ也
1608.2.25 亭主:千宗旦 トモフタカラツ水指
ついでながら、1611.9.9にイカヤキ水指 と初めて伊賀焼の水指が現れる。
1580頃から1615頃まで調べてみたが上記のように「友蓋」が出てくるのは以外に少ない。その間、備前、信楽の水指は随分よく使われているのにである。

さむしろ

勿論、友蓋であったのにも関らず茶会記に書いてない可能性もある。

さむしろ

週間モーニング「ヘウゲモノ」を見ました。
場面は1587年、筑前国、箱崎。
利休が野点席で秀吉を迎える。京では聚楽第の完成が間近い。
秀吉は利休に「長次郎を工房ごと聚楽第に移し、今後は『聚楽焼』と称するがよい。」と申し付けます。
聚楽焼の名を許す場面は想定したことがなかった。
このような場面にもってくるとは、さすが山田芳裕。
ただ、その場面でイメージ画として「俊寛」風の長次郎茶碗が出てくるが、宗易形茶碗が初めて現れたのが前年(1586)であったことを考えると、造形はもう少し後と考えたい。

さむしろ

古茶会記にある水指、花入をみているが、「備前筒」「信楽筒」はあるが、織部様式を思わせる記述はない。
100年程下った1701年ころ伊達綱村の茶会で、古信楽異風(桑山左近殿所持)、伊賀焼異風、瀬戸異風、備前異風、信楽異風耳付と「異風」という記載が出てくる。異風がなにを指しているのか今のところ不明。
1723年鴻池善右衛門の茶会に「伊賀四角耳付下丸シ」というのが出てくる。

さむしろ

「異風」が「異様な風体」を指しているのであれば、織部様式茶陶を指していると考える事も出来る。

さむしろ

織部様式茶陶を異風といったのであれば、制作後100年後であるに関らず「異様な風体」にみえたということで、それは100年ものあいだ馴染みの無いものであったということになりそうだ。
茶道具としてよく用いられたり、また普通に流通していたということではないのではないか、ということが考えられるということになるのかもしれない。