「ものはら」をかいつまんでまとめると(46)
さむしろ

ここらでいちど、このものはらでなにをやっているのか少しまとめてみたい。
一応、話題に制限はないことになっているが、最も興味のある織部様式茶陶が中心になっている。
その織部様式茶陶とは、安倍安人がいうところの三点展開によって造形され、設計図にある“焼ナリ”となるまで焼き続け、茶陶とされた名品群で、備前、信楽、伊賀、志野、瀬戸、織部、唐津などがある。
また、安倍安人は長次郎から常慶までの楽茶碗も、初期のものを除き同じ三点展開によって造形されている(ここではこれらを長次郎楽茶碗という。)と主張している。
わたしは、安倍安人の三点展開論をいろいろな角度からいろいろな表現で繰り返し聞く機会を得て、まがりなりにも理解し、その説が正しいと思っている。
従って、ここでは織部様式茶陶と長次郎楽茶碗は同一の理論で造形された同根説を前提に話を進めている。(もちろん同根論に異論を述べることはかまわないことになっている。)

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「三点展開」による造形にもとづく茶陶を最初に作ったのが長次郎であるということについては一致している。 「三点展開」という理論がどこからきたのか、あるいは生まれたのか、について主張がわかれている。
一つは長次郎の創案であるとの説。
もう一つはヨーロッパの造形理論がヒントとなり、長次郎に造形を指導した。
後のほうがわたしの主張であるが、指導したのは千利休または千利休と古田織部であると考えている。
わたしは、限られた資料ではあるが、それらを参考にいろいろな仮説をたて、また意見を聞き、そして反論をしているうちに大胆にも織部様式茶陶を作ったのは長次郎一族であるとの仮説をたてるに至った。

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その後、光禅さんから「後の佐賀藩初代藩主、鍋島勝茂が領国に送った書状」があるとの情報をいただく。
おおざっぱな内容は別の書物で読んで知っていたが、「これは『佐賀県資料集成』第九巻に収録されている」と具体的な出典を示すものであった。
早速収録されている原文の読み下しをみると、勝茂が「織部が、京都・三条で今やきをしている者達を唐津に行かせ、焼かせて持ち登っているので、軽々に焼かせないように」と国許に申し付ける内容であった。

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「京都・三条で今やきをしている者達」は長次郎一族の可能性を示すものである。長次郎には、初代長次郎、二代長次郎があり、二代常慶までに宗慶、宗味、宗味の娘で二代長次郎の妻などが作陶に関わったとの説がある。
私が知る範囲では、絵唐津花入二点が図録に紹介されている。この二点は明らかに織部様式によって作られていると思われる。茶碗においても、彫唐津など何点かの名品が、京都・三条で今やきをしている者達によって、唐津で焼かせて持ち登られたものではないかと想像している。
この書状は織部様式茶陶を作ったのは長次郎一族であるとの仮説を裏付ける可能性のある重要な資料である。

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同様のことが備前、信楽、伊賀、志野、瀬戸、織部などでも行われたと考えても不思議ではない。
ただ直接各窯場へ行ったかどうかについては判断がつかない。
というのも、わたしは、織部が土を織部屋敷に取り寄せて、長次郎一族のだれかを屋敷に呼び、作陶をさせ、素焼きの後、ヤキを指示して各窯場へ送ったのではないかとの仮説もたてているからである。

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黒楽茶碗「俊寛」の命名が利休によるものとの説が正しいとすると、利休自刃の1591年までに三点展開理論は完成されていたことになる。
古茶会記に初めて唐津がでてくるのが1603年(カラツ水サシ)、イカヤキ水指が1611年である。この二つが作られた年代はおおよそその年代であろうと推測している。
備前筒、信楽筒は早くからでてくるが、どのようなものか推測する材料がない。
従って備前、信楽、志野、瀬戸、織部などの織部様式茶陶がそれぞれいつ頃から作られだしたのか大きな研究課題である。

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光禅さんの織部様式茶陶「特殊兵器説」は、非常に大きな指針となった。これは関が原以降(あるいはその前も含まれるか?)徳川方と豊臣方が勢力拡大のせめぎあいのさなか、家康の指示を受けた織部が、調略のため「茶陶名品群」を利用した、という説である。
この説は、伊賀生爪花入が上田宗箇に譲られ、伊賀水指破れ袋が大野治房に譲られていることなどから、大いに可能性のある見解であると思う。上田宗箇家には、先に書いた絵唐津花入二つのうちの一つが伝わっていた。
わたしは歴史に疎いのでよくわからなかったが、上田宗箇、大野治房はともに徳川軍、豊臣軍のせめぎあいのなかで重要な役回りを演じていたようである。

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このような事情から「織部様式茶陶名品群」は、必ずしも茶人として高名な武将、商人ということで渡ったのではなく、主に特殊な地位・立場にいる武将達のもとに調略のために贈られ、古茶会記に現われようがなかった可能性考えられる。

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そうすると備前、信楽、志野、瀬戸、織部についても制作年代を下げる必要が出てくる。
もっとも志野については制作年代が下って1598年以降との説が主流のようである。
(NO1019から:「大坂城の遺跡調査で、慶長2年(1597)以前の層から志野が出土していないという調査結果が発表されたことで、その後考古学者の間で志野の発生年代が大幅に修正された。という記述がある。」)

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NO626で「1600/7/20 織部の茶会記に三角筒(備前花入)」と書いているが、出典は今思い出せない。この三角筒というのは織部様式による花入と考えたい。
そうであるとすると、織部様式茶陶としては、備前が唐津、伊賀よりも先に作られた。遅くとも1600年には存在したということができることになる。

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「へうけもの」が初めて登場するのが慶長4年(1599)2月28日の茶会である。
亭主:古田織部
セト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也(薄茶)
茶会記は『宗湛日記』である。

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NO222の備前三角筒は「宗久茶湯書抜」にあるようである。
利休歿(1591)後、織部様式と推定できる唐津花入が使用された1603年、同じく伊賀が使用された1607年までの間に、備前、信楽、瀬戸、志野のうち何が、いつ頃作られたのか?
それは茶碗?
花入?
水指?
この点について確かな資料をみつけられずにいる。そしてこの点の解明がものはらでの中心テーマである。引き続き限られた資料のなかから、可能性のある記述を拾い出し、仮説につなげていこうと考えている。
なにか参考となりそうな資料をお持ちの方、あるいは見かけられた方から情報をいただければ大変ありがたい。

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1587年1月17日亭主曲音の茶会「備前水サシ 尻フクラシタル」
同年同月19日亭主圭音の茶会「土水指備前モノ、友蓋 下フクラニアリ、コブモアリ」
というのがある。
「尻フクラシ」「下フクラニアリ、コブモアリ」から造形されたものではないかと想像をするがどうであろうか。
また、友蓋からは矢筈口を想像してみた。

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へうけもの。
博多の豪商神屋宗湛が織部の茶会に招かれたときの様子を記したものである。宗湛とへうけものとの初めての出会いであったと考えてもいいと思う。宗湛日記の記録から随分多くの茶会に招かれており、単に出会う機会がなかっただけとは考えにくい。
宗湛が「へうけもの」と記した茶碗は、織部茶碗の中で歪みの造形の代表ともいえる織部黒の沓形茶碗であったのではないか。

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宗易形茶碗が初めて登場した1586年に相前後して瀬戸茶碗が多くでてくる。
1585~1586にかけて瀬戸茶碗を使っているのが、乗春、曲音、草部屋道設、小西立佐、荒木道薫、曲庵、最福院、本住坊、大和屋立佐、新屋了心など十数人。
(馴染みのない名前ばかりである。)
1586以降瀬戸茶碗の使用が急増する。桃山時代から江戸前期頃までに美濃で焼かれた茶碗であることは明らかである。江戸前期頃までに美濃で焼かれた茶碗は、瀬戸黒、黄瀬戸、志野、織部などである。しかしながら1585頃から多く登場する瀬戸茶碗がどのようなものであったか、茶会記からは具体的に断定できない。
(茶の湯の名碗 -和物茶碗- 茶道資料館から抜粋)

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それでは宗易形茶碗がどのようなものであったかということになる。茶会記に赤茶碗が記されている時期と1586年まで四年間以上の隔たりがある。長次郎の茶碗は、-略- かなり目立つ存在であったと思われる。
しかしながらその間、長次郎の茶碗らしき記載は見られない。そして天正14年(1586)に突然「宗易形ノ茶ワン」という記載があり、また続いて今焼茶碗という茶碗が登場して大いに使われることになるのである。ちなみに瀬戸茶碗の使用が急増するのもこの時期である。
(茶の湯の名碗 -和物茶碗- 茶道資料館から抜粋)

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宗易形茶碗がどのようなものであったかということについては、
黒楽茶碗「大クロ」のような造形の加えられていないものであったのではないかと想像したい。

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1579.6.11 亭主:筒井順慶  黒茶碗(薄茶)
1579.10.17 亭主:山上宗二  赤色之茶碗
1580.12.9 亭主:千宗易   ハタノソリタル茶碗
1585.2.13 亭主:古田佐介  瀬戸茶碗
1585.3.13 亭主:上院ノ乗春 セト茶ワン(薄茶)
1586.2.16 亭主:曲音    セト白茶碗
1586.4.19 亭主:草部屋道設 瀬度茶碗
1586.4.20 亭主:小西立佐  瀬度茶碗
1586.9.28 亭主:曲庵    瀬戸茶碗
1586.10.13 亭主:中坊源五  宗易形ノ茶ワン
宗易形茶碗が登場するまでの赤楽茶碗(と思われるもの)あるいは瀬戸茶碗の登場順に書き出してみた。他のほとんどが、唐物茶碗、高麗茶碗である。瀬戸のうちの天目茶碗と備前茶碗は書き出していない。
土岐市立陶磁器試験場の研究成果資料の中に、黒茶碗の焼成時代順が記されていたのでここで紹介する。
①天目茶碗のテストピース(大窯時代)
②瀬戸黒(大窯時代)
③織部黒(大窯・登り窯重複期)
④黒織部(登り窯時代)
左の茶碗は、初期の瀬戸黒茶碗ではないか推測している茶碗。

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1579.6.11 亭主:筒井順慶  黒茶碗(薄茶)、がどのような茶碗であったか。
写真のような(初期?)の瀬戸黒である可能性もあると考えている。

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NO205で「ついでながら、1611.9.9にイカヤキ水指 と初めて伊賀焼の水指が現れる。」と書いたが、そうではない記述を見つけた。
天正15年(1587)1.24 「伊賀焼、水指置合」(利休百会記)
慶長6年(1601)1.29  「伊賀焼の水指」
慶長7年(1602)1.9  「三角ノ伊賀筒」
慶長7年(1602)5.13  「水指伊賀焼」
慶長8年(1603)4.29  「伊賀焼水指」
慶長8年(1603)5.23  「伊賀ノ筒」(古田織部自会記)
手元の資料の1611年の初見では、筒井氏が伊賀にいた時代には焼かれていなかった可能性を想像させられ、???の思いがあった。
手元資料とは、松屋会記(久政、久好、久重)天王寺屋会記(宗達他会記)、天王寺屋会記(宗及他会記)、天王寺屋会記(宗凡他会記)、宗湛日記である。

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天正15年(1587)1.24に利休が用いたという伊賀焼水指がどのようなものであったかわからないが、織部様式に造形されたものとは考えにくい。

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慶長7年(1602)1.9「三角ノ伊賀筒」は織部様式に造形されたものである可能性が極めて高いと思われる。
また、慶長6年(1601)1.29「伊賀焼の水指」、慶長7年(1602)5.13「水指伊賀焼」、慶長8年(1603)4.29「伊賀焼水指」、慶長8年(1603)5.23「伊賀ノ筒」についても織部様式に造形されたものである可能性が十分にあると考える。

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NO222で『NO626で「1600/7/20 織部の茶会記に三角筒(備前花入)」』と書いているが、1602年の三角ノ伊賀筒をあわせ考えると、あるいはこの頃に三角花入れが作られ出したのか?

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先に、
宗易形茶碗が初めて登場した1586年に相前後して瀬戸茶碗が多くでてくる。
と書いたが、この「瀬戸茶碗」が何を指しているのか? ということであるが、瀬戸黒茶碗や利休所持と伝えられる黄瀬戸茶碗が考えられる。

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瀬戸黒茶碗はNO230の写真のようなものが考えられる。
左は利休所持と伝わる黄瀬戸茶碗である。
ともに(織部様式の)造形はなされていないようである。

さむしろ

NO237の写真の黄瀬戸茶碗が長次郎茶碗の原型ではないか?との説がある。可能性のある説だと思う。
この手の茶碗もある程度の数が作られたであろうと思われるが、どの程度の数が現存しているのかさっぱりわからない。

さむしろ

黄瀬戸茶碗が長次郎茶碗より先に造られたとの確証はないようである。
ただ、箱の蓋表に「北向道陳 お好み」とあり、もしこれが正しいのであれば、黄瀬戸茶碗が先であったといってよいであろう。

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加藤唐九郎氏によると、発掘品の中から文禄二年の年起をもつ陶片を採集した。それは完成された油揚手の膚であった。これらの陶片が出土した所より下の層に、やや失透明性の黄釉のかかった茶碗があったという。
それらはNO237の写真の利休所持と伝えられる茶碗と類似したものであったらしい。

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文禄二年は1592年で利休自刃の翌年である。
陶片ということで失敗作と考えられるので(たぶん窯跡からの発掘であろう。)、1592年は確かと考えていいのではないか。それよりも古い層であるから、NO237の茶碗が利休の時代には存在したことは確かということかもしれない。

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天正黒と呼ばれる茶碗がある。天正時代に焼かれた瀬戸黒茶碗と説明されている。天正年間とは1573~1591の間である。
瀬戸黒茶碗のうちのどれがはいるのか?

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瀬戸黒茶碗「小原木」は利休所持と伝わっているようである。

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「素朴な溜塗りの曲物におさまり、蓋表に黄漆で「小原木」と記されているが、利休の筆と伝えている。」 と記されている。それが正しいとすると、利休は小原木を随分大切にしていたように思われる。
ほかの利休所持と伝わる茶碗がどのような仕度になっているのか当ってみる必要がある。

さむしろ

長次郎茶碗がどうなっているのか調べてみた。
黒茶碗「大クロ」:内箱蓋裏 江岑宗左 による朱漆書
黒茶碗「東陽坊」:内箱蓋裏 東陽坊の書付は利休筆と伝えられる。
黒茶碗「俊寛」:内箱蓋裏中央の俊寛の二字をしたためた貼紙は利休筆のものとされ…、 となっている。
黒茶碗「北野黒」:内箱蓋裏に江岑が「利休判在ヲ之覚 今程キエ見不申候 黒茶碗 左(花押)」と書き付けている。

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黒茶碗「禿」:内箱蓋裏にそったく斎が「利休所持 禿 件翁(花押)」と利休所持であったことを記している。
赤茶碗「一文字」:一文字の銘は古筆了佐が記しているように茶碗の見込中央に「一(花押)」と利休が「一」の文字と判を朱漆書していることによる。
赤茶碗「無一物」:内箱蓋表に「無一物 宗室(花押)」と仙そう宗室が書付ている。
長次郎茶碗を見る限り以上のような仕度で、小原木の仕度が特別に丁寧であるようにみえる。

さむしろ

であれば、茶会記の中に出てきてもいいのではないか。
ざっとみたところ天正18年9月に「黒茶碗」がでてくる。

さむしろ

天正18年9月に「黒茶碗」は、利休の茶会で宗湛日記に記されている。宗湛日記の中の前後をみてみると、
今ヤキ茶ワン、セト茶碗、黒茶碗、黒碗、今ヤキ碗、黒ヤキ茶碗、ヤキ茶碗
などがあらわれる。

さむしろ

「今ヤキ茶ワン」と「今ヤキ碗」は同一と考えられるが、黒ヤキ茶碗、ヤキ茶碗 はどうであろうか?
セト茶碗はどんな茶碗がふくまれるのか?
特に黒茶碗、黒碗がどちらにはいるのか、あるいは黒ヤキ茶碗と同一の茶碗をさしているのだろうか?