三点展開理論は秘中の秘(47)
さむしろ

瀬戸黒茶碗「小原木」の利休所持という伝来が正しいとすれば、小原木が黒茶碗にあたる可能性もある。
小原木は写真でみる限り織部様式の造形なされている。

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小原木の造形が確かな造形であるとすると、「美濃へ注文して焼かせた」といったような簡単なシロモノではなくなる。
私は、安倍安人のいうところの三点展開による造形(織部様式)は、指図書で職人(例え名人といえども)が焼ける(作れる)ほど単純ではないと理解している。
ただ、安倍さんがいうように、素人に粘土を持たせて、ああして、こうしてと教えるとみな楽茶碗風になる、というのは理解できる。

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利休が「俊寛」と名づけたとの言い伝えが正しければ、そのときには三点展開は完成されていた。
小原木は俊寛と比較すると荒いつくりである。
わたしには、三点展開によって作ることができるのは長次郎(長次郎一族)しか考えられない。なぜなら三点展開理論を我がものとした長次郎が、他に教えることは考えられないからである。
ただ、別の可能性が無いわけではない。

さむしろ

利休あるいは織部が、三点展開を完全に理解していたならば、美濃の職人を指導して作らせることはできたかもしれない。
しかしその可能性は極めて小さいと考える。

さむしろ

秘中の秘であったはずであり、美濃の職人といえども、利休や以後の織部の独占が不可能となる。
それに長次郎茶碗でさへ作れてしまうし、理論が後世に伝わっていても不思議でない。
美濃へ伝わっていれば、備前も、信楽も、伊賀も、唐津だって、ということになるのではないか。

さむしろ

京都・三条界隈から発掘された桃山期茶陶のなかに楽茶碗風のものも出土しているようである。なかには「京焼黒茶碗」と品名書きされたものもある。
ニーズがあれば作り手も現れる、というのは今も昔も同じようだ。

さむしろ

備前、信楽、伊賀、美濃、唐津の各窯で織部様式茶陶が作られていることは紛れも無い事実である。
安倍さんに言わせると、各窯で茶陶が多く焼かれているが、織部様式茶陶といえる作品はわずかであって、ほとんどが職人ものである、ということになる。(伊賀の場合は状況が異なるようである。)
古田織部自刃以後、長次郎楽茶碗を除いて織部様式茶陶は表舞台から消えてしまった。京都・三条界隈のヤキモノや跡などから発掘されたおびただしい数の茶陶群は、隠すために井戸のなかに棄てたものではないかとの説もある。(写真でみる限りでは、その多くが職人ものではないかと思われる。)
各窯に三点展開の理論を身につけた職人がいたのであれば、もっと多くの織部様式茶陶が現存していても不思議でないし、窯跡からは陶片もでてくるはずである。
今のところ、小原木に代表される瀬戸黒茶碗が美濃の職人によって作られた可能性は極めて低いというのがわたしの結論である。

さむしろ

「長次郎楽茶碗を除いて」と書いたが、三代のんこうの作品には三点展開により作られたものはないようである。
長次郎楽茶碗においても、織部自刃後三点展開による制作は止まったと考えられる。

さむしろ

ものはらⅠ部NO1200、NO1201で、
「常慶以前の楽焼には、宗味の娘も作陶したとすれば、六人あるいは五人の人々が茶碗などを作っていたことになる。長次郎の茶碗にさまざまの作行きのものがあるのも当然のことであろう。ところが、こうした楽家の消息をすべて知っていたと思われる千宗旦が、その箱書などにも、また手紙にもいっさいふれていないのであり、また江岑や仙叟もその箱書には単に「長次郎」または「長次郎焼」と書しているのみである。楽家とはあれほど密接であった宗旦やその子供が、常慶以前の楽焼をすべて「長次郎焼」としているのはおそらく単なる無頓着ではなく、なんらかの理由があってのことと思えてならない。」
「それは後世楽焼の系図を長次郎、常慶、道入としてしまうことと無関係とはいえないようである。すなわち楽家を取りまく社会情勢に大きな変動があり、故意に宗慶や宗味が系図の上から後退させられる現象が起きたものと推測されるのである。」
との記述を、日本の陶磁1(中央公論社)から紹介した。
千宗旦は1578生、1658没であり、上の記述のとおり全てを知っていたはずである。にもかかわらずそのことに一切ふれることがなかったことが、逆に長次郎一族の秘密性、つまり織部様式茶陶は、織部と長次郎一族による秘密組織によって制作されたのではないか、ということを推測させるのである。