古田織部自筆書状から(48)
さむしろ

当時の茶の湯の世界において、古田織部がどのような立場にいて、どのような役わりを担っていたか? について、古田織部自筆書状のなかから覗いてみようと思う。(古田織部の書状  伊藤敏子 毎日新聞社から)
奈良の茶匠、松屋久好宛織部書状から。
部分要旨。

昨日は御茶を賜り本望に存じます。殊に御一種拝見しまして畏悦に存じます。御一軸は古人たちが褒められていますので私がとかく申すには及びませんが、確と御秘蔵されますように。
4月19日

年号は記してないが、茶会記から慶長6年というのがわかる。
茶会のなかで久好は、織部に掛軸についてお墨付きを求めたものと思われる。

さむしろ

松井佐渡守(細川家の家老)宛、部分要旨。

霰釜を持たせられ受け取りました。底の修理を申付けます。昨日はご丁寧に使者を使わされ忝く存じます。
3月23日

本状は松井佐渡守の使者が霰釜を届けてきたので、即刻に受け取った旨を認め、使者に持ち帰らせたものである。
目利きのほか補修の取次ぎも行っていることがわかる。

さむしろ

松井佐渡守宛、部分要旨。

肩付二つ請取りました。蓋の受張を申付けておきます。もう一つの茶入は繕いも出来ました。蓋をそちらへお取りになって、持ち帰られたことと思います。もし御入用であればこちらへお持ち下さい。受張を申付けます。
なければ結構です。当方で取合せます。
3月27日

佐渡守から茶入の蓋、袋、繕いなどについて尋ねてきたので、早速に応えた返書である。

さむしろ

松井佐渡守宛、部分要旨。

先日御誂の掛物の表具が出来ました。仕上がりの様子は良いと思います。
  卯月4日

松井佐渡守について。
細川幽斎に仕える。後、細川忠興(三斎)に仕える。松井佐渡守は、細川三斎に代わって尋ね事、相談事をしていたと思われる。利休七哲の一人でもある細川三斎でさえ、何事につけ織部に相談をしないと茶の湯ができなかったと想像される。

さむしろ

松井佐渡守宛、部分要旨。
国師墨蹟の表具は申付け、箱も作って御使者へ渡しました。表具の出来はよいと存じます。
  8月5日

さむしろ

松井佐渡守宛、部分要旨。

御茶入蓋、袋などお気に入りました由、珍重に存じます。今回の御茶入のこと、忠興公がお尋ねに成られたので、お考えよりは良いと申上げました。弥御秘蔵されると良いでしょう。
芝霊石の墨蹟は物が良いと存じますので、表具を申付け、箱もすべて作らせ、緒をつけ封をして御使者へ渡しました。
御茶入の盆の事、今新しいのを御茶入に似合うのを需めては如何でしょうか。唐物の朱盆の小さいのがあれば、取合せると良いでしょう。当方でも探してみましょう。
…、しかも毎々御懇意にあずかり御礼の言葉もありません。この瀬戸茶碗は様子が面白いので、貴殿に進上します。これにて茶をたてて下されば畏悦に存じます。
  6月3日

さむしろ

松井佐渡守宛、部分要旨。

一休の墨蹟は、様子がよくありません。表具をしても数奇屋へ掛けられるものではないと思います。
  霜月12日

さむしろ

松井佐渡守宛、部分要旨。

瀬戸の古い肩衝を掘り出され、形、大きさなど良いと思います。よい袋(仕覆)を覚甫と相談して誂えましたところ、出来上がりましたので覚甫に渡しました。委細は覚甫方より意見申し述べます。
四、五種焼かせ、遠路を上って届けられ、過分に存じます。焼きごろは良いのですが、形、大きさは良くないと、当地の衆は申しています。重ねて様子を申入れますので、焼かせてお届け下さい。
忠興様より花入の筒を仰付かりましたが、充分なものがなく、大略なるのを取出して繕いを申付けました。出来次第伏見の御宿の留守番へお渡しします。
  8月15日

さむしろ

小堀作介(遠州)宛、部分要旨。

御書状拝見いたしました。
一、石燈籠は今朝から十介が来て切りました。
一、来18日昼は羽柴長吉様へ行く約束を致しましたが、これを朝にして、あなたの方へ昼に参りましょうか。
一、鎖はまだ来ません。

さむしろ

浅野弾正宛、部分要旨。

一、文琳はよく藤元に見せました。形はてくら物(にせもの)ではないとのことです。薬の事も心配ないということです。ほしく思召されるならば、お取りになられたらよいでしょう。代金のことは、お使者に申しておきます。
一、蓋と袋のことは書状にて御申越下さい。茶入れは当方にとどめておきます。出来ましたら、こちらからお知らせします。
  正月27日

さむしろ

上田宗箇宛、部分要旨。

花筒、爪をはなすような思いです。宗是にことづけて進上します。
拙子より差上げた茶入を宗是にお渡し下さい。来春、お目にかかり、万々御意を得たいと存じますので詳しくは記しません。
  大晦日

さむしろ

宛名不明、部分要旨。

昨日は御自筆の御書状を頂戴仕りました。この頃は御意を得ることなく迷惑致しております。御句は金隆に申上げました。これらの旨を然るべきように、御披露して下さい。尚、内澁の灰器は見ました。面白いものです。
  極月29日

宛名が中途で切れているため、宛名は不明であるが、「御自筆の御書状」に対する返書で、しかも家人から主人へ披露を頼む形式がとられているので、高貴な人の家司に宛てたものである。

さむしろ

以上「古田織部の書状 伊藤敏子 毎日新聞社」から古田織部の書状をのぞいてみた。
織部の書状は、利休や遠州ほど多くは残っていないようである。
この資料には68通が収録されている。内18通が特に親しい間柄であった松井佐渡守宛であることもあって、取り上げた書状の大部分が松井佐渡守宛となっている。

さむしろ

以上、書状の内容は、用件を簡潔に書いたものが多く、活動実体が窺えるものは少ない。
茶道具の鑑定や墨蹟の表具を引受けたものや、茶碗作りを、依頼したものがある。
道具の鑑識は、さすがにきっぱりと述べられていて自信のほどが窺われる。

さむしろ

“ひょうげもの”の茶碗を用い美濃の織部焼を指導したといわれるが、それを裏付ける書状は一通も見出せなかった。ただ一通、細川家御用の上野焼の茶碗を注文したところ、届けられた茶碗の形が気に入らないので焼直してほしいという内容のものがあるが、茶碗の作意についての意見は一言も示されていない。
以上「古田織部の書状 伊藤敏子 毎日新聞社」から興味のある部分を紹介した。

さむしろ

ということで古田織部の書状からは、織部様式茶陶の解明につながるかもしれないと思われるものは上田宗箇宛生爪花入の添え状以外にはなかった。
伊賀水指「破袋」は藤堂家に伝来したところ、関東大震災で箱は焼失したという。その際、水指に添っていた大野主馬宛の古田織部の消息も失われたという。そしてその文面は次のようなものであったという。

「内々御約束之伊賀焼の水指令進入候 今後是程のものなく候間 如此候大ひヽきれ一種候か かんにん可成と存候 猶様子御使に申渡候  恐惶謹言
  霜月二日    古織部
大主馬様 人々御中」

この消息が焼失したことは大変に残念であるが、その文面はこうであるということが伝わっていたことは幸いであった。
つまりこの二つの消息によって、織部から、織部が高く評価した花入と水指が、徳川と豊臣の覇権争いのなかにあって重要な人物二人に送られたことがわかるからである。

さむしろ

向いの喫茶店で昼飯を食べながら、モーニング連載の「へうげもの」を見てきた。
第59席 ときは、1588年1月
「大茶湯以降欲しいものがなくなってしもうた」と気の晴れぬ織部は、上田左太郎(後の宗箇)を誘って大和国・興福寺に仁王像をみるために訪れる。
なにを思ったか織部は腹を抱えて大笑い。いぶかる左太郎に、
「首の青筋といい腰付きといいこの『必死さ』がわからぬのか!? 人の身体はかような形にはなり得ぬ・・・。
それを心得てはいても仏師は凄まじさを醸し出すために・・・。
写実に加えてこれでもかと曲げたりしておるのよ。
像も必死なれば仏師も必死」。
と。
それでも合点のいかぬ左太郎

さむしろ

「織部様式」誕生への序章と感じたがどうであろうか?
NO195を参照。