「千利休とやきもの革命」(河出書房新社)を読む(49)
さむしろ

「千利休とやきもの革命」という本が河出書房新社出版されている。(1998年3月)
副題が「桃山文化の大爆発」とある。
竹内順一氏(五島美術館学芸部長(当時))と渡辺節夫氏(陶芸家)の対談を一冊の本にしたものである。
私の受けた印象だが、竹内順一氏は、桃山茶陶について、このものはらで主張している織部様式論とは最も遠い考え方のようである。対する渡辺節夫氏は織部様式論にたつ立場である。
しばらくの間、この本を覗いてみようと思う。

さむしろ

とはいっても、部分的なつまみ食いならぬつまみ拾いなので、出来れば本書を購入して直接原文を読んでいただきたい。なかなか面白い本である。
本書には、安倍安人さんが「『千利休とやきもの革命』出版に寄せて」との序文を書いておられる。
その部分であるが、「・・・楽代々展において、次々に箱から出される楽の名器を -略-展示する役を私はやった。長次郎の「俊寛」も常慶の「面影」も手に取ることが出来た。
-略- 「峯紅葉」に出会う以前から、なぜ織部はゆがんでいるのか、問題意識をずっと抱き続けてきたのだが、こうした経験が転機となり、私は長次郎や織部に挑戦し始めた。
桃山の名品のほとんどが、 -略- 法則に則って必ず決まった所につけられ -略-。-略- 、目の行く位置を意識してつけられているのである。
また、挽き上げられた土は、反り上がり、切り下がり、三、三、三というリズムを持っている。
-略- 、桃山の名品には、すみずみにまで考え抜かれ、統一された強い意志の表現が貫かれているのである。 -略- 。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社から。
京都市内の遺構から出土した桃山時代の茶陶の展覧会を見た渡辺節夫氏は、
「多くのの陶器片を実際に手にしてみることができて、とても勉強になった」
「これらの織部焼きは全体として、造形的には同じプロセスでつくられていると判断。」
「たまたまできたものではなく、桃山という時代の必然性、かなり明快な裏づけがあってつくられているのではないか」
「どれも皆、変形する手法が一つの統一性を持っている」

*(以下*はさむしろのコメント)といったことを述べておられる。ほぼ同じ考えであるが、私は、現物は見ていないが、発掘された織部焼きはアーティストものとコピー作品が混在していたのではないかと推測している。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社。
これに対し竹内順一氏から、
「織部スタイルの焼物があちこちの産地でつくられたとは思えないほど、統一感があるというようなことを言われたが、それは、備前焼茶陶であっても、備前でつくったのではないように思える、ということか」
と問われ、渡辺氏は、
「そうだ。完全な管理のもと、備前以外の場所でつくられたように思える」そして「たぶん京都周辺ではないかと思う。ただ、あくまで自分の感覚的なとらえ方である・・・」

* と答えている。この部分のみを捉えると、私も同じ見解である。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社。
竹内氏は、
「たしかに、もしかしたら、備前でつくらなかった可能性もあるかもしれないが、茶の湯の陶器はある意味で特殊だ。当時、お茶人が・・・。おそらく五、六百人位、本当の一流茶人は、多くてもだいたい百人位」
「やきものの産地といっても、・・・四百年もたっている、・・・・痕跡が非常に少ない、ほとんどないのも当然ではないか・・・」
「むしろ、京の都に・・・特殊なやきものが集中しているが、・・・色、材質が変わっても、ある種の統一感を持っていて、桃山スタイルというか桃山的な存在感があること、これは驚きだ」
「それも備前と京都だけの関係ではなく、信楽、唐津、美濃でも同様であることの面白さ、不思議さ」「これがやはり、桃山時代の特徴」
「渡辺さんのように、各地の人たちがつくったのではなく、どうも中央のほうのどこかでつくられたのではないかと推定しようとする発想も、じつにユニークで面白いとは思うが」

* との考えを述べ、「桃山時代の特徴」であって、渡辺説は「実にユニークで面白い」だけということである。一流茶人はおよそ百人程度というのはなんとなく納得できる数である。各窯のそれぞれの名品茶陶が「三点展開」という独創的手法で作られているという前提がないと理解ができないのかもしれない

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社。
渡辺氏は、
「造形作家の安倍安人先生とは、よくやきもの・・・造形的なことを・・・お話させていただきますが、先生は「数人以上の複数の職人集団のようなものが想定されるのではないか。そういう職人集団が備前、唐津、美濃・・・・・と各窯場を移動していき、そこでやきものをつくったのではないか」とおっしゃっています」

* と、安倍さんの見解を紹介。現在も同じ見解のように思う。

さむしろ

千利休とやきもの革命』河出書房新社。
竹内氏は、
「漆器では、流れ職人のような者がいた事はあり得るが、焼き物では考えられない」「釉薬をつけたりつけなかったりする焼き物は(漆器の世界と)世界が違うと思う」
「現存作品を見ると、職人が5、6人と限定できるほどある種の統一感があるとは思う」
「しかし、これも色々な事が言えて・・・・、」「産地の問題についてはひとまず置いておくとして・・・・、」

* と、渡辺説を否定する理由の一つを述べおられる。否定は否定で一つの見識でありそれはそれで結構であるが、あの交通の悪い時代に遠く離れた窯で統一感のある作品ができたことの説明は是非聞きたいところである。この部分で私の考えを一つ書き加えておくと、制作(造形部分)は特定のグループ(長次郎一族を念頭においている。)が行い、釉薬と焼きは、織部の指示のもと各窯の陶工が行ったと考えている。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社。
渡辺氏は、
「長次郎の茶碗と織部の茶碗は元の根っこのところでは同じとの確信」「造形のプロセスを考えると同じ」
「織部茶碗を見たときの感激よりも、長次郎茶碗を見たときがはるかに大きな感動を受けた。」
これに対し竹内氏は、
「どちらも同じ範疇にはいるということはわかる。要するに、茶の湯の茶碗にしか使えないという機能限定、用途限定という意味で」
渡辺氏
「ゆがみを単なる変形ととらえたのでは、織部や長次郎にはならない。」

* 竹内氏にとって、「一つの造形理論で作られている」などということは、まったくもって空理空論でしかなく、語りたくも無いといった風情で、渡辺さんの説明は届かない。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、『千利休がやきものの発展史を変えた』の項
竹内氏は、長次郎茶碗と織部茶碗を比較して、
「長次郎茶碗は、唐物茶碗から次のステップに脱するための役わりを果たした」
「長次郎茶碗の延長線上に織部茶碗があるという点において共通性あり」
「唐物茶碗には、天目、青磁があり、薄い、硬い、シンメトリー。長次郎茶碗は、厚作り、軟い、アンシンメトリー」
「陶芸の技術の発展の面からみると、長次郎はある意味逆行している。発展へのアンチテーゼみたいなことをやらせたのが千利休」
「長次郎茶碗には精神的な存在感がある。かなり哲学的。」「織部茶碗にはそれを感じない」
「数も、長次郎は全部で20個位。織部茶碗は100個や200個ではきかない」
「長次郎と織部はやきものの発展の歴史を破ったというアンチテーゼでは共通するが、茶碗の存在感では、圧倒的に長次郎のほうが意味がある」
「長次郎は明らかに一人の作家がつくったもの。これに対し、織部は無名の職人たちが当時の流行を受けて勝手につくったもの。面白いけど、深い意味合いは出てこない」
「美濃の窯からは、織部のゆがんだ系統のものが、何百個、何千、何万とあるかもしれない。大量生産である」
「京都の遺跡から出たものは、ゴミ捨て場では。良くないというので、破棄し、或いは売れ残ったものでは」

* といった見解を述べておられる。

さむしろ

私は、造形理論に則った織部茶碗はそんなに多い数では無いと考えている。数十を超えた部分は今でいう職人のコピー作と考えたい。一度、安倍さんに、図録等をみながら解説をしていただくつもりだ。
また、安倍さんは、長次郎作というものには数人の手がうかがえると話しておられる。
私見だが、数人として考えられるのは、初代長次郎のほか二代長次郎の存在説、宗慶、常慶、宗味、宗味の娘で二代長次郎の妻といわれる者等である。
今、フッと思ったが竹内さんのいわれる織部茶碗には黒織部、織部黒、緑釉のかかった織部のすべてが含まれているのかもしれない。渡辺さんはこの部分をはっきりと分けて話をすべきであった。
京都の遺構からの出土品は、前にも述べたが織部自刃と関係があると考える。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、『織部スタイルの流行が長く続かなかったのは?』の項において竹内氏は、
「やきものは非常に合理的な世界」「全て理屈のもとで可能」「全ての条件が整っていること」「窯はもちろん薪も自由に入手できない」「流通ルートも必要」
つまり流れ歩いてやきものを焼くことは困難である。
「結論として、織部の茶碗は、当時、都で大流行していたのでは」「でありながら、なぜこんな形の茶碗を、といぶかりながらつくったのでは。なぜ焼き続けたのか不思議なくらいだ」
「おびただしい数の織部スタイルが作られたのは、使い手の注文が強かったことも、もう一つの理由」「千利休が新しい形を広めていたので、あまり奇異に思わず、急速に広まった。花入、水指もそのスタイルが大流行した」
「アブノーマルで、あだ花みたいなもので、そんなに長く続かず、およそ五、六十年で終わっている。長くて八十年」
「本当に素晴らしい造形精神であったら、現在でも続いているはずだが、江戸時代になるとパタッと終わる」
「そのようにとらえた方が、焼き物発展史、織部の前後の流れなどから説明しやすい」

* 流れ歩いて焼くことは困難という意見は同感。光禅さんの説(私も支持している)である「織部様式の名品茶陶は調略物資」という見解にたってみたときに、先の「おそらく五、六百人位、本当の一流茶人は、多くてもだいたい百人位。」という前提に立って、調略の相手がどの位の人数いたのか、徳川方の武将は除かれるだろうから、豊臣方で、影響力があって、茶道具が好きという武将ということになるとそう多人数とはならないと思われる。
光禅さんはこの人数をどのくらいの桁と思われますか?
「織部の茶碗は、当時、都で大流行」というのがどの程度のものであったのか、少々疑問である。
ものはらでいっている織部様式茶陶が表舞台にあった(商品としてどんどん流通したとは考えていない。)のはおよそ30年間、織部自刃と同時に表舞台から蔵の奥深くに仕舞いこまれたのであって、「本当に素晴らしい造形精神」ではなかったので終焉をむかえたとは考えられない。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
竹内氏は、「茶碗における渡辺理論みたいな考えは、自分の原点とするのはよい」
ただ「長次郎茶碗のよさを説明するにあたって、造形的な力というものをもって説明するのであれば、仁清、乾山、伊万里のそれぞれの素晴らしさもすべて、同じ論理で説明できなくてはいけない」

* というふうにいわれている。
そのやり方で説明できなくてはいけないという意味がわからない。長次郎、仁清、乾山、伊万里はそれぞれ別ものであるということではいけないのだろうか? 私の考えでは、「長次郎や織部様式はこのようにできています。好きか嫌いか、素晴らしいと思うか思わないかはご自由です。他の仁清、乾山、伊万里の評価をどうこうというものではありません」というしかない。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
竹内氏の本阿弥光悦の茶碗をどう思うかとの問に、渡辺氏は、「文人趣味のようだ」、長次郎より劣ると思うかとの問に、渡辺氏は「ある意味そうだ」と答えている。
竹内氏の見方は「造形的には優れている」「長次郎の茶碗は国宝になっていないが、光悦は国宝になっている」

* と、光悦のほうを高く評価されているようである。安倍さんは「アーティストでなくアマチュア」といった見方をされていたように記憶している。私は安倍さんの「アーティストでなくアマチュア」という見方の方が受け入れやすい。また、箱書きなり鑑定なりがしっかりしていての光悦茶碗であって、光悦茶碗といえども、もしはだかで出てきたのであれば、だれも高い評価をしない。そのことは茶碗そのものが評価されているのではなく、「光悦作」であるということが尊くて、高い評価になっているということになるのではないか。長次郎茶碗の場合も同じ事がいえるかもしれないが、他の織部様式茶陶はすべて作者の名はない。ただ長次郎茶碗は造形から長次郎作と断定できる可能性が高いと考える。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
渡辺氏が一生懸命に「三点展開」の説明を試みるが、竹内氏には理解してもらえない。
竹内氏「その説が弱いのは、造形には手づくねだけでなく、ロクロもあれば、型づくりもある」
「やきものの発展はロクロから型づくりになり、現代に至っている」
「その発展段階を否定するような造形理論というのは、成り立たなくなってしまう」

* なぜ竹内氏の「発展段階を否定」するという考えにいたるのかわからない。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
話題が志野茶碗「峯紅葉」に移り、竹内氏は、
「峯紅葉は、渡辺さんのいう造形理論で説明しやすい形だと思う」
「私はただ単にそういう形になっているに過ぎないと思う」
「たまたま渡辺さんの目にとまったものがそうなっているのかもしれない。そうでないものもあると私は考えている」

* 竹内さんは、(ここでいう)織部様式、三点展開によって造形されたものは、たまたまの偶然の産物との考えのようだ。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
ゆがみの茶碗が使われなくなったことについて、竹内氏は、
「江戸時代になると、個性の強い茶碗が飽きられるんです」渡辺氏は、飽きられる理由として「織部スタイルをただ単に真似してしまったから」といっておられる。
渡辺さんが、志野茶碗「峯紅葉」の造形について、図に書いて解説。
竹内氏「要するに変化に富む形といってもいい」「峯紅葉は、そういうもののなかではとりわけすぐれたもの」「すぐれたものをたどっていけば、そういう説明ができるかもしれない」「ただ、何万という織部のかけらがあるわけだから」「そうじゃないものもいっぱいあって、人々の目にとまらずになくなったものもたくさんあるのでは」

* 飽きられたかどうかについてだが、我々がに入手できる古茶会記をみると、これは織部様式の茶碗と解かる(推測できる)のは、記憶では「ひょうげたるもの也」とある一点だけである。もう一度その気で見直してみるつもりだが、どの程度使われていたのかよくわからない。
光禅説の調略物資であるとすると(その可能性が高いと考えている)、茶人達に飽きられるほど広く茶会に現われたかどうか疑わしい。なお、織部様式茶陶とコピーものはきっちり分けて考えたり、また話したりしないと話が混線して出口に向かわない。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
竹内氏からの「利休は、長次郎に対し、どのように茶碗作りの指示をしたか?」との問に、
渡辺氏は「利休は自身のお茶の世界観をとくとくと語って聞かせ、長次郎は利休の精神を大変よく理解していたと思う。ゆがみは、はじめにゆがみが生じたのではなく、初めに精神ありき、だと思う。」と、精神が極めて重要な要素であったとの認識。
対して竹内氏は「私は、偶然にできた素朴なよさが桃山時代の織部スタイルにあると思う。だから今再現しようと思ってもできないのではないか」
「茶碗の小さな歪みは作意の過程の偶然の産物。」「偶然の産物の複合体が、たまたま今振り返ると非常によくできているというだけの話のように思える」
「だから、歪み、造形の一つひとつの意味にとらわれないほうが桃山時代の素晴らしさをうまく説明出来、また現在、なぜ再現できないかも説明しやすい、と思う」

* 渡辺さんの「精神」の意味がまったくといっていいほどわからない。わたしは、利休が釣瓶を水指としたり、竹を切って花入にしたりした感覚と同じものではないかと考えたい。ところが「無一物」のようにシンメトリーな茶碗を、赤黒はあるとしても3個、4個、5個と何個もつくっていくことの限界(同じものをつくるような物足りなさ)から悶々としていたところに、バテレンからのヒントを得て、動きをもたせる、表情をもたせることを考えた、との仮説をたてている(既述)。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
竹内氏、
「桃山時代、はたしてこれらが本当に人気があったのか?」「今わかっているのは、江戸中頃以降になって人気が出たような気がする」「検討課題ではあるが同時代の人たちは否定したかもわからない」
「江戸時代初めくらい、ぱたっと作られなくなる。ゆがんだものだけは少し残るが・・・」
「峯紅葉はある面で、一時期に咲いた特殊な花」

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
また、竹内氏は、
「黒織部「わらや」のような茶碗は、うんと数が多い。窯跡にいくと、茶碗の破片がたくさんころがっている。」

* といっておられる。「わらや」がアーティストものの一品ものなのか、あるいは職人ものなのか、手元の写真では判然としない。
この手は職人ものが多く作られたかもしれないとの気もしている。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
渡辺さんは、造形の伝承について、
「造形はどこかで、誰かによって継続してきた」との考えを述べておられる。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
竹内さんの、
「渡辺さんの目から見ると、渡辺さんの法則にかなったものは桃山期以降のものにはないわけですね」
との問に、
渡辺さんは、「非常に少ないと思う。」答えておられる。

* さきの「誰かによって継続してきた」と「非常に少ない」から、わずかではあるが作り続けた可能性があると考えておられるようである。
このことについては、織部自刃とともに終焉したと考えている。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
竹内氏「桃山時代しか説明できない理論というのは、やはり一般化しづらいのではないか。」
「渡辺理論が正しいとすれば、桃山時代を説明するのに陰、陽、三角の理論は非常に明快」
「ただ、かなり恣意的で、又曖昧な尺度でしかない。立体である以上、そういう側面というのはみんな持っている」
「追体験、追試ができなければダメということ」

* この部分の竹内さんの話は、恣意的、曖昧な尺度の部分を除き理解できる。しかし追体験できるまで詳しく指導することは「企業秘密」を公開することになり、渡辺さんにしても、もちろん安倍さんにしても出来ない相談ということになる。

さむしろ

とはいっても安倍さんは、繰り返し再現を続けておられるといっていいと思う。渡辺さんについては、作品に接する機会がないのではっきりした事は言えない。ただ、写真で見たいくつかの作品については、それとわかるものがある。

さむしろ

竹内さんがいわれる「追体験」に、同一人による「再現」も含まれるのであれば、竹内さんが求めておられる条件は十分に満たされているといえるだろう。

さむしろ

千利休とやきもの革命』河出書房新社
「ゆがみの美は日本独特に感性」の項で、竹内氏は、
茶碗のゆがみが生まれてくる基盤が何であったか知りたい。なぜなら「造形理論のなかでゆがんだものがいいとするのは、世界中でも日本だけ」だから、
といっておられる。

さむしろ

「ゆがみ」があって、その「ゆがみ」が美であるとの見方は正しくない。
唐物茶碗を直立不動の肖像写真に例えると、「ゆがみ茶碗」はスナップ写真に例えることができる。スナップ写真では、動きや表情をみることができる。
動きや表情を表現するためには、その造形が理にかなっていなければならない。決して偶然にできるものではない。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
山上宗二記から「惣別茶碗のこと、唐茶碗捨りたる也。当世は高麗茶碗、今焼茶碗、瀬戸茶碗、以下迄也。」との記述を紹介している。
山上宗二は「今焼茶碗」と「瀬戸茶碗」を別のものとしていることがわかる。
今焼茶碗が楽茶碗を指していることはほぼ間違いないようである。しかし、瀬戸茶碗にはどの手の茶碗が入っているのかわからない。
ただ「今焼茶碗」が、少し時代が下ってからも楽茶碗のみを表しているのかどうか定かではない。

さむしろ

志野茶碗が焼かれだしたのは慶長3年以降との説が有力のようである。(ものはら1部NO1019)
「へうげもの」が初めて茶会記に現われたのが慶長4年。
これらが正しいとすると、「瀬戸茶碗」には志野は含まれず、また慶長4年までの間に使われた瀬戸茶碗には少なくとも“激しい造形”の茶碗はなかったと考える事ができる。

さむしろ

「へうげもの」といわれた茶碗は、黒織部あるいは織部黒ではないかと考えたい。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、楽焼の発祥と楽家の盛衰の項、
竹内氏は、「今の機内の遺跡からは、楽家以外でつくった楽茶碗がたくさん出てくる」「楽焼はかなり広がっていて、かならずしも楽家ばかりが焼いていたわけではない」「楽焼というネーミングが適切かどうかという提案もあるくらい」

* と、「楽焼」の広がりを紹介しておられる。ただ、それらが楽家以外でつくられたのがいつ頃であったのかについては触れられていない。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
渡辺氏「埋蔵文化財研究所の永田先生も、点数は少ないが三彩のような色がついている、薄づくりで、上手の感じがする破片が出ていると話しておられる」
「楽焼は、ある日突然、世にあらわれたのではなく、どこかにモデルとなるものがあったのではないか?」
竹内氏「それはわたしも考えていた。古い文献に押小路焼という名前が出てくる。」

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
竹内氏「楽家は、秀吉から『楽』の字をもらっていたことで徳川政権下で生き延びるには大変であった。楽家そのものは二つに別れ、楽の窯印を持った方は絶えた。」「生き延びた楽家と家康を取り持ったのが本阿弥光悦である。」
「光悦が楽家に出した手紙には『近くに来ているから、この前焼いた茶碗があったら持ってきてください。それから土も持ってきなさい、こちらでつくります。』と、偉かったこともあるが随分ぶしつけな手紙を書いている」

* 光悦の、上の手紙がいつ頃のものか大いに興味がある。つまり織部健在のときに、光悦が楽家を自由に使うことができたのであろうか?という疑問である。

さむしろ

光悦は織部の茶の湯の弟子であったようである。
光悦の作陶を伝える資料では、光悦が元和元年に家康から鷹が峯を拝領してからのようである。つまり織部の自刃後である。また、先の楽家宛書状も、鷹が峯以降のものと思われる。
本阿弥光悦行状記によると常慶、吉兵衛ノンコウの指導や協力によるものであった、とあるようである。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
渡辺氏の「利休は高麗茶碗についても、特別に焼かせている。それが後の長次郎への楽茶碗注文にたどりついたのでは。そのあたりにについては?」との問に、
竹内氏は「利休の注文によるのは楽だけではないか。他に利休好みといえるものがあったとしても、都での流行を各地の窯場が察して作り、それらのうち茶人の目にとまったものが取り上げられたのではないか。」
「信楽、備前にゆがみのあるものがあるが、利休や織部が備前などに行ったわけではないので、やはり時代の流行を察知して各窯で作ったと思う」

* と答えておられる。
利休がいる間に信楽、備前で「ゆがみ」のあるものが存在したとの資料は見ていない。古茶会記(製本された市販されているもの)では、今段階見つけられないでいる。古茶会記の原典にあたれば、あるいは絵図のようなものがあるのかもしれないが・・・。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
話は、何故楽焼は手づくねでつくったのか、という話に進む。
竹内氏「窯業の発展史では、一品制作から大量生産へ、不整形からシンメトリーへと、技術革新の歴史がやきものの歴史。楽はその例外である」「ロクロでなく手づくね、というのも逆行」
渡辺氏「ロクロでしなかった理由はなにであったか? それは、長次郎に利休との接点があって、あえて時代の流れに逆行する形でつくっていった。俊寛には、それがよく表現されていると思う」

* と、ロクロが使えることは当然との前提にたっておられるようである。はたして長次郎はロクロを使った仕事をしていたのだろうか? つまり茶碗をつくる前の本業はなにであったかということである。長次郎作という獅子瓦が図録には紹介されている。また、長次郎作として二彩瓜文平鉢も紹介されている。解説文には、高台内に残っている指跡などから、ロクロを用いず手づくねで成形したことがわかる、と記されている。

さむしろ

最初につくられたのが、赤茶碗「無一物」や黒茶碗「大クロ」のような茶碗であったのであれば、あえてロクロを用いず手づくねによった、との論が成りたち易いと思うが、最初につくられたのが赤茶碗「道成寺」のようなハタノソリタル茶碗や赤茶碗「白鷺」のような茶碗であったとすれば、あえてロクロを避けたとの考えはとりにくいと思う。
利休は、侘びを求めてあえてロクロをつかわない瓦職人・獅子瓦職人である長次郎につくらせたと考えたい。一説には、長次郎は焙烙を焼いていたというのがある。焙烙は楽茶碗と同じような造り方をするという。興味深い説である。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
渡辺氏「織部と楽には共通性がある。」
竹内氏「織部と楽は造形的には近くても、使う側からすれば違うように思う」
「使い勝手からすると、こんな機能的でない器はない」
「一時期の流行で終ってもしかるべきだが、ものすごく数が多い。」
「ものすごく流行したと考えられる。なぜ、アブノーマルなものがおびただしい数焼かれたのか、その背景がわからない」

* 平家にあらずんば人にあらず。織部にあらずんば茶の湯にあらず、というほどの織部の権勢か。またこれだけの人気が「特種兵器」としての威力を大いに発揮したのではないか。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
渡辺氏「非日常の空間での茶の湯において茶碗には相当な思い入れがあった。思い入れとは、お茶のなかに精神的なものを求めるような凝縮された形での茶碗のイメージではないか」
「今までにあった形を全て否定しながら、自分の理想とするイメージを長次郎に伝え、まったく新しい形の茶碗をつくらせたのではないか」
「利休の精神性とは、一個の茶碗のなかに永遠性、無限性を表現するため、こういう形でなくてはならないというところに行き着いた」
竹内氏「織部というのはたくさんあるけれど、また逆に急に滅びてしまう」「一挙にぱっと咲いたけれどもある面ではあだ花のようなもので定着しなかった。多少、ゆがみは残るがこの時代が最後で織部焼というのは終わってしまう」

* やはり織部の自刃が、織部との関わりのすべてを隠しあるいは世の中から消し去ってしまったと考えたい。織部自刃の理由がわからないが、反逆あるいはそれに近い許しがたい行為があったとみなされ、織部との関わりを疑われれば即わが身にかかわる状況にあったことは容易に想像がつく。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
竹内氏「茶碗をつくるのに、どのくらいの時間をかけるのか?」
渡辺氏「ロクロで茶碗を挽く場合は一分でできるが、デフォルメを加えるると、私は一日に一、二個ぐらい。」
「時間をどれだけかけたかは、表面を見ると確実に現れる。手を加えたことをどれだけ見せるか、長次郎の場合、それを出来るだけ見せないように、織部の場合は大胆に見せている」

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
竹内氏の、なぜ織部スタイルは滅びたのか?との問に、
渡辺氏は「滅びたように見えて、滅びていないと思う。」

* と述べている。しかし、だれによって、どのように、いつの時代まで伝えられた(伝わった)かについての説明はよくわからない。

さむしろ

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
渡辺氏「志野茶碗「峯紅葉」は、どこから見ても非の打ち所がない名碗」
竹内氏「でも桃山時代にはあまり認められず、認められるようになったのは江戸時代になってからだと思う。茶人が手を出したのは瀬戸黒のようなもので、志野は当時まだ人気がなかったが、たまたま焼き上がりがいいので大事にされ、江戸時代になって注目されたという気がしないではない」

* 私は、「峯紅葉」は長次郎一族のうちの一人の手によってつくられ、織部のもとに届けられ、ある時期にある意図をもって東西激突のなかでの重要人物に贈られたとの仮説をたてたい。

さむしろ

「峯紅葉」の伝来を調べてみたところ、四日市の九鬼家の伝来だという。(日本の陶磁2、中央公論社)
九鬼家。九鬼守隆は九鬼嘉隆の長男。慶長2年(1597)家督を相続して、志摩鳥羽3万5千石の大名となる。会津征伐に従軍し、そのまま東軍に属して伊勢湾の警備を務めるが、留守中に父・嘉隆が石田三成の「三ヶ国を与える」という勧誘に乗ってしまう。二つに割れて刃を交えた九鬼家だが東軍が勝利すると、2万石の加増と嘉隆の助命を許される。守隆は喜んだが、既に父は妹婿の豊田五郎右衛門の独断で自刃せしめられていた。領内で守隆は善政を行ったといわれる。
以後、守隆は徳川家に忠実に従い、西国大名の安宅船没収と破却・名古屋城築城工事の鉄の海上輸送など水軍の力をもって事業に尽くした。大坂の陣では徳川軍として参戦。鉄甲船6隻、早船50隻、総勢3千5百人の陣営だった。徳川方水軍の主力となり、冬の陣では野田・福島の戦いで豊臣水軍を破るなど大坂湾の封鎖に貢献。夏の陣では大坂の沿海を警備。大坂落城後は家康の命で沿海にて残党狩りを行った。戦後、1千石を加増される。寛永9年(1632)死去。守隆の生前から起っていた御家相続争いの解決策として幕府は、三男・隆季を丹波、五男の久隆を摂津にそれぞれ分けて、九鬼家を解体。「海賊大名」は消滅した。(大坂の陣白書・大坂の陣人物列伝から引用)
今のところ、九鬼家が峯紅葉を織部から直接入手したのか、あるいは他の誰かを経由して入手したのかは不明であるが、織部の茶会に九鬼が招かれていたなどの状況証拠があると説得力をますことになる。
この九鬼家伝来の経緯次第で光禅説を裏付ける重要な傍証となる。(その後光禅さんは、海路では、三河の伊良湖岬と志摩半島は20キロほどしかないことに気付かれた。)
織部茶会記(全72回)300人(名ある者152人)、古織会附(全49回)277人が招かれているという。その中には大工、塗師竹屋その他の商人・職人も多数含まれているようだ。ただ、それがすべてであるかどうかはわからない。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
渡辺氏の「織部が長次郎から変化したとすると、別の方向に変化したのが高麗茶碗系の御本手、また別の方向に変化したのが光悦になるのではないか。」
との考えに対し、
竹内氏は「渡辺さんにとっては、もとは楽、つまり長次郎がすべてだということですね。(渡辺さんは根本はそうだと肯定)遠州の活躍や、光悦の人気、仁清、乾山が出てきたという事実についても造形理論に取り込まなければならのいのでは」
渡辺氏はこれに対し「そういわれると、私は一言も無い」と降参の体。

* ここら辺の展開がさっぱりわからない。
「ある一時期、織部様式の茶陶が人気をはくした。アーティストが作った一品ものがあり、他に職人が作ったコピーもの(あるいは二・三流品)がある。一品ものが今にいう大名品である。織部様式には織部が深く関与していたので、織部自刃後、災いが及ぶのを恐れた関係の人々は、人・ものとも一切を闇の中に隠し、また隠れてしまった。光悦、仁清、乾山などはまったく別ものであって、どちらが良い悪いの話ではない。」
と単純化したほうがわかりやすいと思うのだが・・・。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
竹内氏は「わかりやすくするには、同じようなものを比べて示す。そして、その相違を明らかにするといい。違ったもので違うといっても、それは当たり前のことになってしまう。」
「いい理論というのは、子供や何も知らない人でも理解できるものだと思う。ある特定の人あるいは自分しかわからないのは理論ではない」

* と言われている。まことにもっともであり、私も十分に気をつけなければいけない。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社
渡辺氏「この時代の茶の湯のやきものを見ると、窯詰めのときの技術とか焼き上がりは、壺甕や擂鉢とは比較にならないほど徹底的に丁寧な工夫と努力がなされている。」
竹内氏「多数作ったうちから、最終的にいいものだけを残したということは考えられませんか?」

* この部分の竹内さんの考え方が、桃山名品茶陶についての議論が噛合わない出発点なのかもしれない。現在連載中の動画のなかで、順次名品茶陶の誕生の過程が紹介されるようなので、是非ともご覧いただいて、どちらの主張が正しいか、あるいはどちらもおかしいということになるか、判断の参考としていただきたい。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
「千家の好みと小堀遠州の好みとは」の項
竹内氏「茶碗「わらや」の高台脇にある漆書きの『わらや』や宗旦が書いたものだが、千家のほうでは美濃物はあまり重要視されていなかった。」
「江戸時代は大名の時代。千家流は町衆の茶なので、武家が取り上げるとは違うと思う。もっとも、代々あちこちの殿様の茶堂はしていたが」
「ただ、全体の美意識の問題として、千家の好みのものではない美濃焼にはあまり価値をみいださなかった」

* 美濃焼は千家の好みではなく、また評価しなかったのだろうか?
NO340で書いたように織部自刃とともに織部にかかわる一切(といっていいほど)のものは表舞台から消えた。千家においても同様に、織部とのかかわりは消していったと考えるほうが自然だ。また、今日天下の名品といわれる「一品物」は織部からしかるべき大名、武将等へ贈られ、千家といえども入手は困難で、織部亡き後は、蔵の奥深く仕舞い込まれたと考えれば、そこら辺の事情を百も承知の千家が美濃物を取り上げないことは容易に想像がつくのではないだろうか? ただ、美意識の問題であり、あながち否定はできない側面もある。あるいはそのようなことを窺わせる資料でもあるのだろうか。

さむしろ

名古屋学芸大学 教養・学際編・研究紀要 第2号 2006年2月「古田織部とオリベ陶」に、織部について、次のような記述がある。
三條界隈の陶磁器出土の話からの展開であるが、「織部屋敷とせと物や町が身近なものになると、慶長の織部茶会も非常に身近なものになってくる。しかも古田織部は当時、弟子たちを連れてせと物や町へ赴いていたことも文献的にすでに知られている。
茶道望月集(享保8年・1723)には次のような一文がある。
『織部殿時分ハ口切前に三条通瀬戸物町へ織部殿好の焼物何によらず瀬戸より数多持参して有しを織部侘の弟子中を連行目利して茶入茶碗花入水さし香合等迄夫々に取らせ侘の弟子中ハ夫にて銘々口切をせしと也 其時分の焼物茶具鉢皿類迄今に沢山に世上に残りしと也 代物ハ其時大かた弐銭目を限しと也 古風成事也 道具の風ハ面白く古織とて一手の宗匠ぞと也 其後古織なとの先達も不出遠州宗旦にてととめしと也』
①瀬戸より多数の焼き物を仕入れていた。②代金は二銭まで。茶道具といえ高価ではなかった。③織部自刃後100年余り後にも多くのヤキモノ類が残っていた。
織部とは関係なく、多くの茶陶類が安価で流通していたことが想像できる。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
渡辺氏は「埋蔵文化財研究所の永田信一先生も、「このなかには名品といわれるものはない。これは打ち捨てられて当然だ」と話しておられた。」と。
また、竹内氏の「打ち捨てられた織部でも、焼き上がりには織部スタイルの造形理論があらわれているわけですね?」との問に「そうです。ですからものすごく勉強になった」

* と答えている。どの程度「織部スタイルの造形理論があらわれている」のか興味あるところである。つまり、造形理論は学んでいるが下手なのか、あるいは真似てそれらしく作っているだけなのか、ということである。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
桃山時代(様式)をどのように見るか。
竹内氏「これまでは桃山時代という80年間を一つの概念で見ていたが、研究が進むにつれ、一つの概念ではくくりきれなくて、はじめと中頃と終わり頃にわけることにしたんです。それを判別する方法論も、とても興味があるところで、それが正しいかどうか、もう一度見直したほうがいいのではないかと最近では思っている。」
「例えば、信長が出てきてこうなった、秀吉が出てきてこうなった、利休が出てきてこうなった、というふうに人で説明する。」
また「桃山という時代全体の流れの中で説明できないかと考えている。たとえば古田織部を全面に出さずに、時代の流行という意味で説明できないか、という視点です」

* なるほど、いろいろ苦心をされてはいるようだ。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
桃山のゆがみはなぜ生まれたのか、の項
渡辺氏「利休と長次郎がいたからこそ、歪みが現われた。」
竹内氏「たしかに、そういってもいいでしょう。」
利休が唐物を学び取る時代を前半として、「後半の利休の選択基準ともいうべき概念は「そ相」といって、粗末な感じのするものを選ぶ。もう一つは和物。それがあるからこそ、ゆがみに至る。ゆがみは突然変異ではないということです」

* たしかに「そ相」は重要なキーワードになると思う。ただ私は、「ゆがみ」という言い方は、彼らがやろうとしたものを見誤る表現であると言いたい。彼らがやろうとしたものは「動き」と「表情」をもたせることであった、と思っている。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
竹内氏「そ相なるものと和物が一体化したものが楽茶碗」
渡辺氏「俊寛は利休の精神的イメージをもっとも特徴的・理想的に具現化している作品」
「利休が求めたものは、単に用をなす(だけの)ものではなかったはず」
また「俊寛が楽茶碗の一つの頂点である」とも。
「ある一方向から見た場合、その裏側もわかる。彫刻の造形で見ていくとそうなる。」
竹内氏「渡辺さんのおっしゃることがだんだんわかってきた」

* 少しかみ合ってきた・・・。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
竹内氏「長次郎が頂点だとしたら、それ以降のものはすべて堕落ですか?」
渡辺氏「堕落というより工芸と美術が元に戻ってしまったんだと思う」

* どうも視点違うようだ。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
竹内氏「織部というのは、どういう位置づけで考えるか」
渡辺氏「「織部と長次郎は同根」「織部の後、織部以上のものが発展しないというのは当然のこと」「長次郎の造形が時をおかず、ほぼ同時代に織部に引き継がれたことが、特異中の特異な出来事」「長次郎の造形を理解したからこそ、織部の造形が生まれ、織部の造形がそこで消えてしまったのは、後の人がそれを理解できなかったから」
竹内氏「美濃の陶工は例えば俊寛のようなすぐれた作品は見ていないと思うが、どうか?」(渡辺氏は見ていないだろうと、同意)
「古田織部と美濃焼との関係を考えた場合、利休と長次郎との関係のようにはならない。するとなぜ織部焼が生まれたかを別なことで説明できなければいけない」

* ここでの竹内氏の指摘は大変良い指摘だ(織部焼を織部様式茶陶の意に解釈する)。伊賀、信楽もそうだし、遠く離れた備前、唐津についても同様の説明が出来る理論でなくてはならない。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
竹内氏「(楽茶碗)一文字とか無一物のように、底部に独特な丸みがある茶碗があるが、これをその後の茶碗の変遷のどの方向に当てはめるかということが、目下の課題。天正14年の茶会記に登場する宗易形の茶碗というのはこのような形をいったのかもしれない」

* 一文字とか無一物のような茶碗が先に作られたとの見解に私も賛成である。
NO314でも述べたが、一文字とか無一物のような茶碗だけでは、みな同じような形の茶碗になってしまう。そのことが新しい茶碗の形を求めることとなり、ヒントを得て「動き=無限」という造形に至った。そして、その「動き=無限」という造形の必然として「底部に独特な丸み」から張り出した形になっていった、というふうに仮説を立てたい。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
竹内氏「もう一つ考えに入れておくべきことは、今、峯紅葉だけが残っていたとしても、他に同じようなものが山ほどあったという可能性もあるわけだから・・・。だから見えない部分も頭に入れておく必要がある」

* この部分もご指摘のとおりである。今、このHPで連載中の動画のなかで、安倍さんの「名品解説」があると聞いているが、その中で、名品、例えば峯紅葉(と同形の茶碗)が複数あってその中の特にいいものが現在まで残った、という広く信じられている見解への反証を、特定の名品の制作過程を順を追って説明しながらされるはずである。私は、すでに話として聞いているが、極めて説得力のある説明であったので、見逃しの無いようにおすすめをしておく。

さむしろ

『千利休とやきもの革命』河出書房新社、
渡辺氏「彫刻についてですが、西洋の彫刻の理論が実際に日本に入ったと考えてよいか」
竹内氏「桃山時代を語るということが今回のテーマなわけですから、海外の彫刻理論が入ってきたという仮説だけでは弱いと思う。きちんと証明するためには、裏づけとなることが最低でも三つか四つはないと理論としては弱すぎる」

* この点での材料は今のところ見つかっていない。

さむしろ

しばらく覗いてきた河出書房新社の『千利休とやきもの革命』もおおかた終りに近づいた
これよりあと「峯紅葉に意味のない線はない」「現代作家はなぜ桃山を超えられないか」などの項があるが、ここでは触れない。これまで取り上げた発言は部分的であり、必ずしも発言者の真意を表していないかも知れない。もちろん出来るだけ注意は払ったつもりである。全体として反論を述べた部分が多かったように思う。とはいえ竹内氏が主張される見解が現代の圧倒的多数説であることは間違いない。しかし今回あらためて読み直して見て、自分の主張への自信を深めた。もちろん大いなる勘違いということも頭の端においておかなければならない。桃山名品茶陶の解明に興味のある方は、直接『千利休とやきもの革命』河出書房新社に当たっていただきたい。