興味深かったところをまとめる(50)
さむしろ

少し読み返して興味深いところをまとめてみよう。
NO301で「それも備前と京都だけの関係ではなく、信楽、唐津、美濃でも同様であることの面白さ、不思議さ。」「これがやはり、桃山時代の特徴」
「各地の人たちがつくったのではなく、中央のどこかでつくられたのではないかと推定しようとする発想も、じつにユニークで面白いとは思うが」

*(以下*はさむしろのコメント)と、不思議さを感じながらも桃山時代の特徴だとして渡辺氏の京都での制作説をユニークと切り捨てている。時代の特徴であんな名品が、京都で、信楽で、伊賀で、美濃で、備前で、唐津で作れるのなら何にも悩む事はない。

さむしろ

NO304で「どちらも同じ範疇にはいるということはわかる。要するに、茶の湯の茶碗にしか使えないという機能限定、用途限定という意味で」

* と述べられているが、このような限定であれば同じ範疇にはいるものが随分と多くなる。光悦の茶碗だって竹内流でいえば織部と同根の範疇といえるのではないか。現代物にもそのようなものが随分たくさんある。長次郎、織部同根説に対する強い反発が感じられる。

さむしろ

NO305「長次郎は明らかに一人の作家がつくったもの。これに対し、織部は無名の職人たちが当時の流行を受けて勝手につくったもの」

* 長次郎ものには数人の手のものがあるといわれている(本書でも他のケ所ではそのように触れられていたと思う。)。また、ここでの「織部」にどれとどれが含まれるのか判然としないが、NO306で書いたように織部茶碗には黒織部、織部黒、緑釉のかかった織部のすべてが含まれているのかもしれない。アーティスト作と職人作ということを含めきちっと区別して話をしないと混乱するだけで話が発展しない。無名の職人が流行を受けて、美濃はもちろん伊賀、信楽、備前、唐津などでも勝手につくったということになると思うが、どうにもそれは考えられない。

さむしろ

NO307「アブノーマルで、あだ花みたいなもので、そんなに長く続かず、およそ五、六十年で終わっている」「本当に素晴らしい造形精神であったら、現在でも続いているはず、」

* 宗易形茶碗の登場(1586)から利休自刃(1591)の間に長次郎の造形は完成していると考えられるので(俊寛の命名が利休によるとの説による)、織部自刃(1615)までの24年~29年間に名品茶陶はつくられた(自説では長次郎一族の手による)。
また、名品茶陶は、徳川と豊臣の覇権争いのなか、家康の意を受けた織部が、徳川方につくか豊臣方につくかによって勝ち負けに大きな影響を与える武将の調略のために贈ったもの(光禅説)と考えられる。現に花入「生爪」は上田宗箇へ、水指「破袋」は大野主馬へ、そして志野茶碗「峯紅葉」が九鬼家に伝わっていたことがわかった。他の名品茶陶もそうであると想像するが、これについては今後調べてみたい。これらの人たちは古茶会記を残していない(発見されていない、あるいは私が知らないだけ)ので、どの程度茶会を行ったかわからないが、当時の有名茶の湯者達がその名品に出会う機会は案外少なかったのではないかと思う。そして徳川の世となり、織部の役割も終り、そして織部自刃によって織部様式名品茶陶はこの世から完全に消し去られてしまった。
このように考えるので、上の竹内さんの見解に同意できない。

さむしろ

NO312「私はただ単にそういう形になっているに過ぎないと思う」
「たまたま渡辺さんの目にとまったものがそうなっているのかもしれない。そうでないものもあると私は考えている」

* このところの出発点が間違っている。ある一定のルールで造形されているということの理解がないと、どうしても話がかみ合わない。

さむしろ

NO313「要するに変化に富む形といってもいい」「峯紅葉は、そういうもののなかではとりわけすぐれたもの」「すぐれたものをたどっていけば、そういう説明ができるかもしれない」「ただ、何万という織部のかけらがあるわけだから」「そうじゃないものもいっぱいあって、人々の目にとまらずになくなったものもたくさんあるのでは」
NO314「私は、偶然にできた素朴なよさが桃山時代の織部スタイルにあると思う。だから今再現しようと思ってもできないのではないか。」
「茶碗の小さな歪みは作意の過程の偶然の産物。」「偶然の産物の複合体が、たまたま今振り返ると非常によくできているというだけの話のように思える。」
「だから、歪み、造形の一つひとつの意味にとらわれないほうが桃山時代の素晴らしさをうまく説明出来、また現在、なぜ再現できないかも説明しやすい、と思う」

* この部分もNO361と同じく、出発点が間違っているというしかない。偶然とか素朴などということは、こと桃山名品茶陶についてはありえないことである。(一点ごとに設計図があり、完成までとことん追及していくという作り方をしている。安人説)
「今再現しようと思ってもできないのではないか。」というご意見だけれども、安倍さんの「三点展開」による作品は、桃山名品茶陶(織部様式茶陶)と同一の「調子」で出来上がっている。ただ、安倍さんは、同一、直写しのものは一点も作っていないといわれているように、全てが違う作品に仕上がっているので桃山とは違うといわれるかもしれないが、素直に、無心になって安倍作品をご覧になれば「調子」の同一感を感じてもらえるのではないだろうか。
ただ、どうしても「同一理論」を認めたくない御仁は、「仮に同一理論で出来上がっている」と仮定して、ここでの話に耳を(目を?)傾けていただきたい。そうすれば「話としてわかりやすい」ということになるはずである。

さむしろ

NO315「桃山時代、はたしてこれらが本当に人気があったのか?」「今わかっているのは、江戸中頃以降になって人気が出たような気がする。」「検討課題ではあるが同時代の人たちは否定したかもわからない。」
「江戸時代初めくらい、ぱたっと作られなくなる。ゆがんだものだけは少し残るが・・・。」
「峯紅葉はある面で、一時期に咲いた特殊な花。」

* 茶好き武将、大名にとっては垂涎の的であったと思う。上田宗箇が伊賀花入「生爪」熱望したことや、水指「破袋」は大野主馬がかねてより伊賀焼水指を所望していたことが、織部の書状から明らかとなっている。また「峯紅葉」は九鬼家に伝来したことがわかった。
また、
「古田織部は当時、弟子たちを連れて、せと物や町へ赴いていたことも文献的にすでに知られている。茶道望月集(享保8年・1723)には次のような一文がある。『織部殿時分ハ口切前に三条通瀬戸物町へ織部殿好の焼物何によらず瀬戸より数多持参して有しを織部侘の弟子中を連行目利して茶入茶碗花入水さし香合等迄夫々に取らせ侘の弟子中ハ夫にて銘々口切をせしと也 其時分の焼物茶具鉢皿類迄今に沢山に世上に残りしと也 代物ハ其時大かた弐銭目を限しと也』
との記述が正しいとすると、(職人もの、コピーものが)街中で売られていたこととなり、それなりの需要があったことを推測させる。ただ特殊な役割を背負わされた、生爪、破袋、峯紅葉などの名品茶陶は、極限られた人々以外の目には触れることはなかったと想像する。
そういう意味において「特殊な花」といえるかもしれないが、決して「あだ花」ではない。
また、江戸中頃以降になって「人気が出た」のではなく、太平の世となり、織部自刃の忌まわしい記憶も薄れて、わずかではあるがいろいろな形で表舞台に登場するようになったと考えたい。

さむしろ

NO317渡辺さんは、造形の伝承について、
「造形はどこかで、誰かによって継続してきた」との考えを述べておられる。
この説には同意できない。私の考えでは、ここでいう造形理論、造形技術を完全にマスターしていたのは長次郎一族だけである。伝わるとすれば楽家ということになるが、のんこう以降の楽代々の茶碗にはここでいう「造形」の片鱗も現われていないと思う。
また、美濃で焼かれていたということでさえ、昭和になって初めて明らかになったことの意味も考えなければいけない。つまり織部自刃後、美濃窯は歴史上から完全に消しさられたのではないかとの仮説である。
またここで想定している古田織部の役回りを考えると、小堀遠州にも伝わっていないと考える。遠州の茶会記や遠州蔵帳にもそれらしきものは登場してこない。

さむしろ

NO324山上宗二記の「惣別茶碗のこと、唐茶碗捨りたる也。当世は高麗茶碗、今焼茶碗、瀬戸茶碗、以下迄也。」との記述から、
山上宗二は「今焼茶碗」と「瀬戸茶碗」を別のものとしていることがわかる。これは当時の茶の湯界一般の使い分けであったと考えていいだろう。
今焼茶碗が楽茶碗を指していることはほぼ間違いないようだが、瀬戸茶碗にはどの手の茶碗が入っているのかわからない。茶会記の原本にあたってみれば、茶碗の図や様子が記されているかもしれない。

さむしろ

志野茶碗が焼かれだしたのは慶長3年以降との説が有力のようである。(ものはら1部NO1019)
「へうげもの」が初めて茶会記に現われたのが慶長4年。
これらが正しいとすると、「瀬戸茶碗」には「志野」は含まれず、また慶長4年までの間に使われた瀬戸茶碗には少なくとも激しい造形の茶碗はなかったと考える事ができる。
楽茶碗のモデルとの説もある黄瀬戸茶碗(NO237)風のものや黒茶碗(NO230)風のものであったのか?
瀬戸黒がいつ頃現れるのか?天正黒とはどのようなもので、本当に天正時代(1573~1591)に焼かれたのか?
瀬戸黒茶碗「小原木」は利休所持と伝わっているが、正しいとすれば、長次郎茶碗と瀬戸黒茶碗は同時期あるいは相前後して作られたということになる。

さむしろ

NO329「光悦が楽家に出した手紙には『近くに来ているから、この前焼いた茶碗があったら持ってきてください。それから土も持ってきなさい、こちらでつくります。』と、偉かったこともあるが随分ぶしつけな手紙をかいている。」

* 光悦の、上の手紙がいつ頃のものか大いに興味がある。つまり織部健在のときに、光悦が楽家を自由に使うことができたのであろうか?という疑問である。
NO330光悦は織部の茶の湯の弟子であったようである。
光悦の作陶を伝える資料では、光悦が元和元年に家康から鷹が峯を拝領してからのようである。つまり織部の自刃後である。また、先の楽家宛書状も、鷹が峯以降のものと思われる。本阿弥光悦行状記によると常慶、吉兵衛ノンコウの指導や協力によるものであった、とあるようである。ノンコウ作の茶碗には長次郎と同じ造形はなされておらず、また、光悦の茶碗もなされていない。ノンコウには伝わっていたが封印したということなのか、あるいはまったく伝わっていなかったのかわからない。ただ、織部自刃のとき、ノンコウは16才程度だったようだ。

さむしろ

常慶(1560生)は1635に没しているようである。光悦との接点もあったようであり、ノンコウも指導を受けたと考えられる。伝えようと思えば伝えられなくはなかった。

さむしろ

NO331「都での流行を各地の窯場が察して作り、それらのうち茶人の目にとまったものが取り上げられたのではないか。」
「信楽、備前にゆがみのあるものがあるが、利休や織部が備前などに行ったわけではないので、やはり時代の流行を察知して各窯で作ったと思う。」

* 上の見解が正しいとするためには、「名品茶陶」は偶然の産物であり、また偶然にできるものである。遠い唐津でも流行を察することができたし、唐津でも偶然にできた。ということが言えなければいけない。
そしていずれの窯場においても失敗作の陶片がなぜ出てこないかの説明が要る。
仮に偶然に出来るとしても、普通に考えれば、一つの名品が偶然できるのには数百あるいは数千という数、同じものを作らないと難しいように思う。陶片が出てこない事はどう考えても不思議だ。
昭和以降も多くの人間国宝や名人といわれた人々が、沢山の名品を写真で見たりガラスの外からあるいは直接手にとって見ながら、桃山名品茶陶に挑戦しながらその域にたどり着けぬまま終えてしまった。それが桃山では、流行を察したくらいでいともたやすくできたということになる。繰り返しになるがこの部分の考え方の違いが、全体としてちぐはぐな議論に終始させてしまっている。

さむしろ

NO124、NO125で絵唐津耳付花入を紹介した。大変な名品であり、あの手の花入は私が知る限り2点のみである。
発掘陶片を多く載せた図録などをみても、それらしき陶片はない。
あの花入が「時代の流行を察知」して「偶然」に出来たものとは到底考えられない。
もし唐津の陶工が作ったのであれば、あの域に達するまでにどれだけの数をこなしたのだろうか。そして伝世品ももういくつかあってもいいだろうし、それらの陶片が一つも無いということも考えられないことである。
織部が派遣した”今ヤキ候もの共”によって作られ、そして持ち帰られたと考えたほうが納得し易いと考える。

さむしろ

NO124の絵唐津耳付花入であるが、以前この花入は瀬戸と考えられていたようである。昭和8年の売立目録には「絵瀬戸掛花生」となっている。
いつ頃から絵瀬戸となったのか大変興味のあるところである。
織部から宗箇に譲られたものと推測しているが、そうであれば唐津ということは双方共わかっていたはずである。そして後代になって、唐津ということがわからず、間違って書付をしたと想像できる。もう一つの可能性は、後代になって入手した場合である。

さむしろ

NO333で、・・・最初につくられたのが赤茶碗「道成寺」のようなハタノソリタル茶碗や赤茶碗「白鷺」のような茶碗であったとすれば、あえてロクロを避けたとの考えはとりにくいと思う。
利休は、侘びを求めてあえてロクロをつかわない瓦職人・獅子瓦職人である長次郎につくらせたと考えたいがどうだろうか。
と書いたが、「道成寺」「白鷺」は決して上手いとはいえない。仮にロクロ技術を持っていたとしたら、そのロクロ技術を封印してまで作るとの発想は生まれないのではないか。長次郎が茶碗作りに入る前にロクロを使っていたか、いなかったかはわからない。伝えられるように瓦職人であったのであれば、細工物には長けていたと思われるがロクロを覚える必要はなかったのではないか。
長次郎作「二彩瓜文平鉢」というのがある(東京国立博物館)。この鉢について、日本陶磁1長次郎、光悦に「轆轤を用いず手捏ねで成形したことは、高台内に残っている指跡などからうかがわれる。」と記されている。口径33㎝の大きいものである。ロクロが使えるのであれば、ロクロで作ったほうが早くきれいにできると思うのだがどうだろうか。
(このことについて先に「一説には、長次郎は焙烙を焼いていたというのがある。焙烙は楽茶碗と同じような造り方をするという。」を補筆した。)

さむしろ

ここまで『千利休とやきもの革命』河出書房新社、から、竹内さん、渡辺さんの考え方をのぞいてみた。多分、竹内さんの意見が大方の専門家の方々の意見であると思う。多数説といっても大がつく大多数説あるいは「ほとんどの人説」といってもいいだろう。
しかし、今回、本書を読み返して見て、多数説には多くの疑問、多くの無理があって、ほとんど成り立たないとの思いを強くした。
2ヵ月半の間お付合いただいた皆さんには、私がこれまで、又、今回主張したことについての理解を深めていただいた(同調するしないは別として)事と思う。
今後、どのような事実、あるいは資料がでてくれば解明が進むといったことも理解されたことと思う。
なにか参考となる資料をお持ちの方は、どちらの説にそったものでも結構なのでご一報いただきたい。