長次郎茶碗と今ヤキ、クロヤキ茶碗、黒茶碗と瀬戸黒茶碗(51)
さむしろ

私は、長次郎茶碗は利休の時代に完成したとの前提で話を進めている。
その根拠は、
「東陽坊」 内箱蓋表 東陽坊の書付は利休筆と伝えられる
「俊寛」  内箱蓋表中央の俊寛の二字をしたためた張紙は利休筆とされる
「北野黒」 内箱蓋裏に江岑が「利休判在…」と書付
「禿」   内箱蓋裏にそっ啄斎が「利休所持禿件翁」
などによって、利休所持とされていることによる。ただ、これらからわかるように利休所持を証明したとまではいえない。

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「長次郎茶碗は利休の時代に完成」というのは、反証がでるまでは仮に正しいとして話を進める、ということと思っていただきたい。
古茶会記には、セト茶碗、瀬度茶碗が多く現れるが、これがどのような茶碗であるか、瀬戸黒を天正黒といったりするが、はたして天正時代に焼かれたのか、もしそうであれば、瀬戸黒も造形的に完成されているので長次郎茶碗と瀬戸黒は利休時代の同時期ころ制作されたということになる。
利休の指導の下、長次郎が楽茶碗を完成したその同時期に、同じ造形理論で瀬戸黒も完成されていたことになる。

さむしろ

「長次郎茶碗と瀬戸黒は利休時代の同時期ころ制作された」ということは、
瀬戸黒茶碗「小原木」は利休所持と伝えられていることにもあらわれている。
ただこれも「伝えられている」ということであって確かなものとはいえない。

さむしろ

宗湛日記の天正18.10.20(1590)に利休が黒茶碗を用いたとの記載がある。古会記をみていると、今ヤキ茶碗と黒茶碗は区別されているような気がする。
宗湛日記だけをみても、セト茶碗、黒茶碗、今ヤキ茶碗、というふうに三種の茶碗を別ものとしているようにしかみえない。
そうだとすると、黒茶碗が瀬戸黒の可能性がある。

さむしろ

黒茶碗が瀬戸黒であったとしてどのようなものであったのか?
初めは写真のようなものであったと思うが、いつごろから小原木のような造形をされたものになったのか? 楽茶碗とどちらが先であったのか?
会記をみる限り黒茶碗より今ヤキ茶碗の方が、登場が早く(宗易形が1586)、セト茶碗と競うように使われている。
1588にクロヤキ茶碗が登場するが、「今ヤキ黒茶ワン」というのもあり、クロヤキ茶碗がどちらを指すのかわからないが、記録者の松屋久政の書き癖をみると、今ヤキとクロヤキ茶碗、黒焼茶碗は別ものと考えたほうがよいのかもしれない。以後黒焼茶碗、黒茶碗、クロ茶ワンが多く使われている。

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長次郎茶碗「北野黒」は、利休が北野大茶湯(1587)に用いたことによると伝えられているという。
宗易形茶碗といわれているものではないかと思われる「大クロ」「東陽坊」とは若干雰囲気が変わってきているが、三点展開による造形はされていないようである。
北野大茶湯での使用が正しいとすると1587当時の形をみるうえで重要である。

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瀬戸黒茶碗の造形が利休健在の頃に作られたのであれば、長次郎茶碗は利休⇔長次郎は成り立つが、瀬戸黒の利休⇔美濃窯は成り立ちにくい。利休⇔織部⇔美濃窯、と、織部が深く関与したと考えたい。つまり織部は当初から深く関与していたと想像できることになる。
ここでの仮説では、美濃窯はヤキ担当であって、制作は長次郎一族のだれかということになる。
(あくまでも名品茶陶についてのことであるので、念のためお断りしておく。)

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日本の陶磁1、長次郎・光悦に、
「常慶印の捺されているものに、一連の織部好みの茶碗と共通した沓形茶碗が作られていることは興味深く、あるいは黒織部となっているもののなかに、宗慶や宗味、常慶の作品が紛れていることもありえないことではない。有名な「島筋黒」などはその一例であり、かつて古田織部の贈箱に収まった黒沓茶碗を見たことがあるが、それも楽焼に近いものであった。」
という記述がある。
一方(楽茶碗)は長次郎、他方(楽以外)は地方の陶工ものという分け方をすれば、「紛れていることもありえないことではない」ということで終わってしまうのも止むを得ない。
桃山名品茶陶が、たまたま出来たものの内、特別に良いものという考え方でなく、造形理論において根っ子の部分は一つであるとの理解があれば、「すごく当然のこと」ということになる。

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「島筋黒」なる茶碗を是非とも見てみたいが、手元の図録には見あたらない。

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南方録に「島筋黒茶碗、コレハ休公ヨリ玉ワル、天正元年口切ノ時出来ナリ、アタラシキ物ナレドモ、休コトノ外出気ヨシトテ玉ワリ、度々お茶ヲモ上ゲ、其冬春、大方日々コノ茶碗ニテタテラレシ、秘蔵ナリシ也、コレヨリ大ブリノハ古田織部ニ被遣之也」
とある。

マスター

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

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天王寺や会記(宗達他会記)に志野茶碗が出てくる(1553年)。志野については、大阪城の遺構発掘により、考古学者間において慶長2年を遡らないとの統一見解がなされたという。それでは天王寺屋会記の志野茶碗はなにかという疑問がでてくる。

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「堺鑑」に「志野茶碗 志野宗波風流名匠にて所持せし茶碗也 但し唐物茶碗の由申伝」
また、
天王寺屋会記(宗及他会記)に志野茶碗 ひびきわれらの茶碗よりこまかに覚候、なりそへに有之、あめふくりんふかし、土紫也、茶碗うすく候、われら茶碗より少也
とある。「志野」は所持者で、その名を冠したようである。永らく気になっていたが、これで一応解決した。

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NO375で、長次郎茶碗と瀬戸黒は利休時代の同時期ころ相前後して制作されたということになる。
利休の指導の下、長次郎が楽茶碗を完成したその同時期に、同じ造形理論で瀬戸黒も完成されていたことになる。
と書いた。
長次郎茶碗は小振り(杵ヲレ8.1禿9.3~9.6俊寛10.7)であるが、これは利休の好みと考えていいだろう。また利休所持といわれる瀬戸黒茶碗「小原木」も口径10.2㎝と小振りである。織部の好みは、織部様式のものをみるとわかるように大振りのものを好む。これは「小原木」の利休所持説の信憑性を高めるといっていいだろう。(その他の瀬戸黒、冬の夜10.0、ワラヤ12.1、小原女13.3、ほかに12.2、10.0、10.5、12.3、12.6など)

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「桃山陶の華麗な世界」(愛知県陶磁資料館)に「瀬戸黒の成立と展開」(井上喜久男)と題して次の記述がある。
「瀬戸黒は、・・・引出して、急冷させ・・・、茶碗に限られている。瀬戸黒は大窯Ⅲ期に出現し、最初に瀬戸黒を開発した窯に多治見市・尼ケ根窯跡があり、以前より瀬戸黒茶碗が採集されていたが、1986年の発掘調査によって同1号窯跡で焼かれていることが確認された(NO378の写真の茶碗)。尼ケ根1号窯跡出土の瀬戸黒茶碗は2個体の陶片があり、半筒形で口縁部が僅かに外反して口辺が少し絞られ、腰が丸く箆削り整形され、台形状に高台が削り出されている。(つづく)

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-略- 。高台内を除いて高台脇まで総掛け施釉され・・・。従前の採集品は腰張りが強い半筒形でやや薄くなる造りのもので、幅広い台形状の輪高台となり、高台とその周辺部は土見せに残して内外面に施釉されている。その器形は1号窯跡出土品と異なり、後出する半筒形の腰丸茶碗が完成する大窯Ⅳ期に比定されるものである。
その他、瀬戸黒茶碗とは別に鉄釉半筒茶碗が存在し、胴張りの丸腰に薄造り成形されており、丸く撫で仕上げされた高台が付けられているものがある。
大窯Ⅳ期(推定1580~90年)の瀬戸黒茶碗は、尼ケ根窯から採集されている瀬戸黒茶碗を端緒として、器高が低いものや胴に箆目と口部に波状の高低が付けられた形への展開が見られ、半筒茶碗の焼成が本格化している。

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「胴に箆目と口部に波状の高低が付けられた形」という造形は、長次郎茶碗におこなわれた造形と同一のものと推測できる。
大窯Ⅳ期が推定どおり1580~90年であるとすると、宗易形茶碗が登場した1586年から利休自刃の1592年とほぼ同時期となる。

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仮に同時期とすると、長次郎茶碗は、利休の指導によって長次郎が造った、ということで異論はないと思うが、では、瀬戸黒はだれが造ったのか。
先に紹介した、「私は、偶然にできた素朴なよさが桃山時代の織部スタイルにあると思う。だから今再現しようと思ってもできないのではないか。」「茶碗の小さな歪みは作意の過程の偶然の産物。」「偶然の産物の複合体が、たまたま今振り返ると非常によくできているというだけの話のように思える。」
という考え方が成り立つのだろうか。

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つまり、偶然にも美濃の陶工も瀬戸黒茶碗に「ゆがみ」を施すことを思いつき、それがたまたま三点展開の理論と同じだった、といえるのだろうかということである。

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長次郎茶碗のうち造形された茶碗の制作年代については、利休所持の伝来から取りあえず推定している。
瀬戸黒茶碗については、
①大窯Ⅳ期(推定1580~90)からの出土、という調査結果
②利休所持の伝来
③天正黒というよび方
④長次郎茶碗に通じる小振りな形
から、天正期の制作の可能性が高いのではないかと推測している。

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それではどのようにして美濃で瀬戸黒茶碗が誕生したのであろうか?
シナリオはいくつか考えられる。ただし、利休、織部、長次郎のいずれかの関与なしでは考えられない。
その1 利休が指導して美濃の陶工が作った。

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その2 利休の意を受けた長次郎が指導して、美濃の陶工が作った。

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その3 利休の意を受けた織部が指導して、美濃の陶工が作った。

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その4 利休の指示を受け長次郎が作り、美濃で陶工が焼いた。

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その5 利休の指示を受け長次郎が作り、織部の指示により美濃で陶工が焼いた。

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その6 織部が指導して、美濃の陶工が作った。

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以上1~6のようなことが考えられる。
1、3、6、であるためには利休あるいは織部が三点展開を完全に理解していなければならない。

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また、1、2、3、6であるとすると、限られたものとは言え、美濃の陶工が、利休あるいは織部の監視を逃れて制作し、あるいはまたその技術が独自に後代に伝わる可能性がある。

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可能性としては上記のものなどが考えられるが、利休、織部は三点展開の理論を理解していた可能性はあると思うが、美濃の陶工に理論を教えた可能性は極めて低いと思う。

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利休や織部が理解していた可能性があると書いたが、自分で作る技術をもっていたかとなると可能性は低いと思う。
長次郎に理論を教えたのは、利休あるいは利休と織部と考えたいが、その指導によって身につけた技であっても、長次郎は他人には教えないだろうという気がする。また、利休や織部もそれを許さないだろう。

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独占こそ力の源泉となるからである。

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造形された長次郎茶碗と瀬戸黒茶碗がほぼ同時代に作られたとした場合、どちらが先に作られたのか?

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古茶会記をみると、
1572年 「瀬戸茶碗」亭主・納や宗久
1579年に「黒茶碗」が登場する。(松屋会記)
以後、1580年「ハタノソリタル茶碗」
1583年 「せと茶碗」(天王寺屋会記)亭主・宗栄
1585年 「瀬戸茶碗」(天王寺屋会記)亭主・古田佐介
同年   「セト茶碗」(松屋会記)亭主・上院ノ乗春
1586年 「瀬度茶碗」亭主・草部屋道設
同年   「瀬戸茶碗」亭主・小西立佐
同年   「瀬戸」  亭主・曲庵
同年   「宗易形ノ茶碗」亭主・中坊源五
これ以後、今ヤキ、セト茶碗が多く使われ出す。

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1579年登場の「黒茶碗」がNO378の茶碗のようなものであるとわかりやすい。

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1583年以降登場する「せと茶碗」がどのようなものであったのかについては推測するしかない。
利休所持と伝わるNO237の黄瀬戸茶碗のようなものもあったと思うが、瀬戸黒であった可能性も十分にあると考える。

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1572年「瀬戸茶碗」亭主・納や宗久の次に瀬戸茶碗が登場するのが1583年であり随分間が開く。数年後、今ヤキ茶碗とともに多くの茶会で使われだす瀬戸茶碗とは別もの(趣の異なるもの)と考えたい。

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天王寺屋会記(宗及自会記)をみると、
1579年5月に「せと茶碗(紅花台)」を使っている。
ついで、
同年6月「瀬戸茶碗」
同年6月「瀬戸茶碗(紅花台)」とも記されている。
うえの三つは同一の茶碗かもしれない。

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早い時期に登場する瀬戸茶碗は写真のような茶碗かもしれない。

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あるいは左の写真の茶碗のようなものか。

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このような茶碗もあったようである。

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紅花台がどういう意味なのかは解からない。
しかし前で紹介したもののうち1579年までのものは、写真三点風のものあるいはNO378風のものだったのではないだろうか。

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「今ヤキ茶ワンと競うように使われだしたセト茶碗」は、古茶会記によると限られた茶人が繰り返し使ったというのではなく、多くの茶人が亭主となって、それぞれ用いている。いっきに広まったようである。
1580年のハタノソリタル茶碗の後最初に登場するのが1583年に宗栄が用いたせと茶碗である。
そして1585年に古田佐介が瀬戸茶碗を用いた茶会を催している。
いずれも宗易形茶碗の登場より早い。

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セト茶碗と今ヤキ茶碗の古茶会記への登場回数を調べて見た。
1583年  セト茶碗  1
     今ヤキ茶碗 0
1584年  セト茶碗  0
     今ヤキ茶碗 0
1585年  セト茶碗  2
     今ヤキ茶碗 0
1586年  セト茶碗  14回
     今ヤキ茶碗 5回(注:宗易形茶碗1を含む)
1587年  セト茶碗  23回
     今ヤキ茶碗 19回(但し、ヤキ茶碗を今ヤキ茶碗として数えた、以下同)
1588年  セト茶碗  0回
     今ヤキ茶碗 15回
1589年  セト茶碗  2回
     今ヤキ茶碗 4回
1590年  セト茶碗  3回
     今ヤキ茶碗 21回

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1591年  セト茶碗  0
     今ヤキ茶碗 6
1592年  セト茶碗  7
     今ヤキ茶碗 2
1593年  セト茶碗  1
     今ヤキ茶碗 6
1594年  セト茶碗  1
     今ヤキ茶碗 8
1595年  セト茶碗  0
     今ヤキ茶碗 4
1596年  セト茶碗  1
     今ヤキ茶碗 3

さむしろ

NO415で「宗易形茶ワン登場のあとのセト茶碗の使われ方は半端ではない。」と書いたが、落ち着いて調べて見ると上のようになる。
各年の茶会の回数が異なるので登場回数のみでは意味をなさないが、セト茶碗と今ヤキ茶碗の使用回数を割合で比較すると、セト茶碗はいっきに広まったが、今ヤキ茶碗の登場とともに主役の座を今ヤキ茶碗に奪われ、使用回数は激減している。

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これらをみると、長次郎茶碗より”セト茶碗”のほうが先に広く用いられたことがわかる。
では”セト茶碗”とはどのような茶碗なのかということにもどることになるが、瀬戸黒だけとすると多すぎるので混在したと考えるしかない。

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これまで三点展開による茶碗制作は、まず長次郎茶碗についておこなわれたと考えていた。
ところが、長次郎茶碗より先に瀬戸黒が作られたとなるとその考えは成り立たない。もちろん瀬戸黒が三点展開によって作られているならばの話ではあるが・・・。

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写真でみる限り瀬戸黒は三点展開によって造形されているようにみえる。ただ、このことについては安倍さんによく聞いてみたいと思う。
瀬戸黒が三点展開によって造形されているとして、見た感じではおぼこい、ざつっぽい、未熟といった感じを受ける。
これに対して長次郎茶碗は、手馴れた、完成したとの印象を受ける。
このことが制作年代の前後を物語っているのかもしれない。

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つまり瀬戸黒の造形は、造形初期を感じさせ、長次郎茶碗は、造形の完成期を思わせるということである。
三点展開理論による造形が、美濃の陶工によって誕生したとの考え方もあるとは思うが、私はやはり長次郎一族説にこだわりたい。

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では、何故長次郎が美濃へ行ったのか。美濃でなければならない理由があるのか?
たまたま光禅さんが、本当に久しぶりにお出でになった。当然のごとく食事をしながら飲んだ。
光禅さんは、もし長次郎が美濃へ行ったのであれば引出し黒の製法の習得が目的ではないか、との見解であった。
成る程。それならあり得る。

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本来、よそ者が美濃へ行って技術の習得をするなどということはとんでもないことだが、利休あるいは織部の威光をもってすればそうむつかしいことではなかったのではないか。

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技術習得も見ているだけでは芸がない。自分で作って焼いて見よう、というのは自然の成り行きであろう。
ただ、ここでいきなり三点展開の造形か、と言われそうな気がしないでもない。

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当初長次郎茶碗での造形が先になされたと考えていた。そのためNO194で「無一物あるいは大クロのような形の茶碗が10碗20碗あるいは30碗と増えてきたとき、何か新しい形を求め思案をしたのではないか。あるいは織部にも相談したかもしれない。」ということを書いた。
また、「宗易形茶碗を作り続けていくと、すぐに同一の茶碗が何個も出来てしまい、それでは利休の侘茶の心に適わない。どうすれば宗易形茶碗を作り続けることができるか、相当のあいだ悶々と思い悩んだのかもしれない。」とも。
しかし、古茶会記に登場する「セト茶碗」は、どうも瀬戸黒茶碗ではないかとの思いが強まってきたので、必然的に瀬戸黒茶碗の造形が長次郎茶碗の造形よりも先でないとおかしくなってきた。

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瀬戸黒茶碗が先に出来たとして、では、だれが作ったのか? 単純に考えれば美濃の陶工が作ったということになる。
ところがこのものはらで一貫して論じているように瀬戸黒茶碗になされている造形は、思いつきで出来るような単純なものではない。理論を持つ者の指導、あるいはヒントをもとにしての熟慮、試行錯誤を経てのみたどり着く程、理に則ったものである。
つまり美濃の陶工が作ったというのであれば、その陶工はまさに名人ということであり、以後の作品への展開も必要となる。つまりセト茶碗は今ヤキ茶碗の登場により主役の座を追われ、ときたま顔をのぞかせる程度となって、次の美濃ものの登場は1599年のへうげもので、13~4年の空白が生じると思われるので、その間の説明が出来ないといけない。
また、他の窯への伝播、つまり楽、備前、信楽、伊賀、唐津等での造形との関係も説明できないといけない。

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やはり新しい作意をほどこす事を日夜考えていた(と思われる)利休、織部とその指導下にいた長次郎によって、美濃において初めて三点展開による造形がなされ、出来上がったのが瀬戸黒であつたと想像したほうが、話としては筋が通るように思われる。

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「新しい作意をほどこす事を日夜考えていた」ことについて、以前次のような空想を述べた。
「あるとき突然大いなる閃きがあった。それは利休がバテレンと同席していたときである。それは利休の茶会であったのかもしれない。織部が同席していた可能性も大いにある。宗易形茶碗の限界の話が出たか出なかったかわからないが、バテレンが欧州での彫刻の話を始めた。その話を興味深く聞いていた利休は「そうだ!茶碗に「動き=表情」をもたせれば無限になる。」と気付いた。利休は、そのまま茶会を終えると、織部にその考えを話し意見を求めた。さぞかし織部も体中が震えるような感動を覚えたのではないだろうか。(もっとも織部も同じことを感じていたかもしれない。)早速、長次郎を呼びつけ、造形、つまり安倍安人がいうところの「三点展開」を説明し、それによって作るよう指図をした。もっともその間いくらかの試行錯誤はあったと思うが、本質を理解してしまえばそうむつかしいことではない。安倍さんも「初めての人に三点展開を教えた後に茶碗を作らせると楽茶碗(の形)になる」といわれている。
なお以上については最初に断ったように「へうげもの」の世界であるので念のため。
と。

さむしろ

なぜここでバテレンが登場するのか?
三点展開による造形は、作者の単なる感覚で押したり引いたりしたものではなく、一定のルールに則ってなされている。
大きなヒントなしで「三点展開」理論を手中にした可能性は、限りなくゼロに近いと考えるからである。

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バテレンとの出会いは京あるいは堺を考えていたが美濃も考えられるようである。というのは、「美濃焼」奥磯栄麓著、奥磯太覚写、平成14年3月9日改訂、に次の記述があった。

美濃においては、信長以来吉利支丹が非常に盛んであった。資料によると、
厚見郡  全村数 51  吉利支丹村数 47
可児郡  全村数 49  吉利支丹村数 33
武儀郡  全村数 78  吉利支丹村数 36
各務郡  全村数 29  吉利支丹村数 12

吉利支丹村数というのがどのような数字なのか定かでないが、相当広まっていたであろうことは想像できる。

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となると、閃きの舞台が京あるいは堺でなければならない訳ではないので、閃きの場が美濃であった可能性もありうる。美濃には、宣教師たちが滞在していた可能性が十分にあるからである。

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当時のわが国には、他に三点展開のルールに則って作られたと考えられる造形物はない。
宣教師が、欧州における彫刻理論を理解していてもなんの不思議もない。逆に言えば、そこにのみその可能性があるといってもいいのではないか。

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利休又は(及び)織部と長次郎が関わったとして、かねてから思い巡らしていたことを美濃で試してみたのか、いきなり美濃で閃いたので試したのかについても想像するしかない。
利休好みの小さめな茶碗の数の少なさから、利休よりも織部の影響の方が大きかったのではないかという気がしてきた。

さむしろ

NO379で
長次郎茶碗「北野黒」は、利休が北野大茶湯(1587)に用いたことによる、という。
宗易形茶碗といわれているものではないかと思われる「大クロ」「東陽坊」とは若干雰囲気が変わってきているが、三点展開による造形はされていないようだ。
北野大茶湯での使用が正しいとすると1587年当時の形をみるうえで重要である。
ということを書いた。
ただ、この北野黒をもって、その当時、まだ長次郎茶碗には造形がなされていないと決めつけることはできない。同時に両方のパターンの茶碗が作られた、あるいはじっくりと熟成させるように一、二年試行を続けた等等、どちらとも断じられない。

さむしろ

いずれにしても造形がなされた長次郎茶碗を(図録で)見て、これは初期のもの、と思えるような稚拙さを感じさせるものはないように思う。
1587年は、前年のセト茶碗14に対し今ヤキ5に続いてセト茶碗23、今ヤキ19と急激に使用頻度が増え、翌1588年はセト0、今ヤキ15と完全に今ヤキの世になつている。
これらの状況から、長次郎茶碗より先に瀬戸黒に造形がなされたと考えるのである。

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その後のセト茶碗の使用頻度はNO417、NO418のとおりだが、取り上げた茶会自体が少なく、あまり参考にならないとの考えもあるかと思うが傾向は顕れていると思う。
茶会の少なさだが、実際に茶会が行われなかったのか、茶会記を残した茶匠を招く茶会が少なかっただけなのか今のところわからない。

さむしろ

もうすこし調べてみた。
1597年  セト茶碗   2
    今ヤキ茶碗  4
1598年  セト茶碗   1
     今ヤキ茶碗  2
1599年  セト茶碗   1「へうげもの」
     今ヤキ茶碗  13
1600年  セト茶碗   0
     今ヤキ茶碗  0
1601年  セト茶碗   0
     黒      1
1602年  セト茶碗   1
     黒ヤキ茶碗  1
1603年  セト茶碗   0
     黒今ヤキ茶碗 1
1604年  セト茶碗   2(黒田筑州:ヒツムツキ候とあり)
     今ヤキ茶碗  0
1605年  セト茶碗   0
     今ヤキ黒茶碗 2
     黒、黒茶碗(京ヤキ也、ヒツム也) 2
1606年  セト茶碗   1
     今ヤキ    1
     黒(亭主織部)、京焼き黒、黒  5
1607年  セト茶碗   0
     今ヤキ    0
1608年  セト茶碗   0
     シュ楽黒茶ワン、今焼黒、クロ、黒  5

さむしろ

1599年のセト茶碗「へうげもの」は特筆すべきものであろう。大きく或いは大胆に変化させたものの初出ではないかと思う。
その後「ヒツム」と書き加えたのが2回あるが、1604、1605年頃になっても「ヒツム」ものが珍しかったのだろうか。
またこの頃の黒茶碗(京ヤキ)、クロがなにを指しているのかはっきりしない。

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古茶会記をみる限りでは、ほんのわずか茶会に招かれている程度である。
NO346で、
三條界隈の陶磁器出土の話からの展開であるが、「織部屋敷とせと物や町が身近なものになると、慶長の織部茶会も非常に身近なものになってくる。しかも古田織部は当時、弟子たちを連れて、せと物や町へ赴いていたことも文献的にすでに知られている。」
という論文の一部を紹介したが、これをみるかぎり茶会が減ったとは考えにくい。ただ、古茶会記の主役達の登場場面は減ったかもしれない。

さむしろ

「瀬戸黒は茶碗に限られる。すなわち瀬戸の黒茶碗という意味である。」との記述があった。もっともである。成る程と思いながらいると、では「黒茶碗」の中には瀬戸黒もあるのだろうかとの疑問がわいてきた。
また「ちなみに茶の湯の世界では今なお楽茶碗を今焼茶碗と呼んでいる。ただし、慶長年間の記録に記されている「今焼」は、その記事内容から美濃物などが含まれていることを留意する必要がある。」
との記述もあった。
ますます解からなくなる。

さむしろ

そこで記録者ごとの記し方を拾ってみた。
松屋会記(久政)
1586、瀬戸茶碗、宗易形の茶ワン、今ヤキ茶ワン、セト茶ワン、
1587、今ヤキ茶ワン、今ヤキ茶ワン、今焼茶碗、今ヤキ茶ワン、今ヤキ茶ワン、今ヤキ茶ワン、
1588、今ヤキ茶ワン、今ヤキ茶ワン、今ヤキ茶ワン、今ヤキ黒茶ワン、今ヤキ黒茶ワン、
   ヤキ茶ワン、クロヤキ茶ワン、クロヤキ茶ワン、
1589、ヤキ茶ワン、セト茶碗、ヤキ茶碗、
1590、クロヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、黒焼茶碗、クロヤキ茶ワン、セト茶碗
1591、クロヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン
1592、クロ茶ワン、クロ茶ワン
1594、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン
1595、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、

1588年に今ヤキ黒茶ワンが登場する。「黒」を特に書き入れているところをみると、単に「今ヤキ茶ワン」とあるのは「赤」焼であった可能性が高いように思う。

さむしろ

ここでは、セト茶碗については他の呼び方は考えられず、「セト茶碗」で一貫しているようだ。

さむしろ

松屋会記(久好)
1586、瀬度茶碗、瀬度茶碗
1587、ヤキ茶ワン
1588、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、クロヤキ茶ワン
   ヤキ茶ワン
1589、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン
1590、クロヤキ茶ワン、クロ茶ワン、クロ茶ワン、黒茶ワン、黒茶ワン
1591、クロ茶ワン、クロ茶ワン、クロ茶ワン
1593、クロ茶ワン、アカ茶ワン、クロ茶ワン、クロ茶ワン
1594、黒茶ワン、ヤキ茶碗、クロ茶ワン
1595、クロ茶ワン、クロ茶ワン、ヤキ茶ワン
1596、黒茶ワン、セト茶ワン、クロ茶ワン、クロ茶ワン
1598、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、ヤキ茶ワン、今ヤキ茶ワン、
   ヤキ茶ワン
1602、黒ヤキ茶ワン
1604、セト茶ワン
1606、クロ茶ワン、ヤキ茶ワン
1608、クロ茶ワン
1610、ヤキ茶ワン
1613、クロ茶ワン、

さむしろ

ここでも、セト茶碗と今ヤキ茶碗(赤)と今ヤキ茶碗(黒)をきちっと別けているように思う。

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天王寺屋会記(宗及)
1583、せと茶碗
1585、瀬戸茶碗
1586、瀬度茶碗、瀬度茶碗

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宗湛日記1(神谷宗湛)
1586、茶碗今ヤキ、今ヤキノ茶碗、セト碗、セト茶碗3、今ヤキノ茶碗、セト茶碗6
1587、セト茶碗5、ヤキ茶碗4、セト茶碗2、ヤキ茶碗、セト茶碗、ヤキ茶碗、
   セト茶碗6、ヤキ茶碗、セト茶碗2、ヤキ茶碗5、セト茶碗6
1589、セト茶碗
1590、黒茶碗、セト茶ワン、黒茶碗2、黒碗、セト茶碗、黒茶碗2、
1592、セト茶碗、今ヤキ碗、セト茶碗6
(セト茶碗3、はセト茶碗が3回出現したことを表す)

さむしろ

宗湛日記2
1593、赤セキ茶碗(赤ヤキ茶碗か?)、セト茶碗
1594、今ヤキ茶碗、黒ヤキ茶碗、ヤキ茶碗2、セト茶碗
1597、ヤキ茶碗3、今ヤキ茶碗、セト茶碗2
1598、セト茶碗、今ヤキ茶碗、ヤキ茶碗
1599、今ヤキ茶碗3、セト茶碗(ヒツミ候ヘウガモノ也)、今ヤキ茶碗3
1601、黒茶碗
1602、セト茶碗、碗黒今ヤキ
1605、今ヤキ碗、黒茶碗、今ヤキ茶碗、黒茶碗 京ヤキ也
1606、黒茶碗、黒茶碗 京ヤキ、黒茶碗2、セト茶碗

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1586年に「宗易形の茶ワン」を用いたのは中坊源五であり、また、
1588年に「今ヤキ黒茶ワン」を用いたのも中坊源五である。
「宗易形」「黒茶ワン」のいずれも茶会記の上で初めて登場したのが中坊源五が開いた茶会においてである。
利休とは相当近しかったと思われる。

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ウィキペディアに、
・・・。天正14年10月、豊臣秀吉の代官中坊源五は、旧来奈良で使われていた升の使用を一切禁止し、新たな升の使用を義務づけた。この新たな枡は、京都を中心に使われていた升であったことから京枡(きょうます)と呼ばれた。後の新京枡と区別するために古京枡ともいう。・・・(部分)
と中坊源五を紹介した部分があった。代官であったらしい。

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長次郎茶碗「北野黒」は北野大茶会に用いられたことによって銘がつけられた、と言い伝わっているということはすでに書いた。
北野大茶会は1587年10月1日に催されたとある。中坊源五の茶会に登場する1年前である。

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1583、1585年に登場するセト茶碗が瀬戸黒茶碗であるとすると、今ヤキ黒茶碗が登場する1588年まで5年あるいは3年(北野黒を1587年とすると4年あるいは2年)という年数があることになる。

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京・三条あたりの屋内で黒茶碗(黒楽茶碗)を焼くには、いろいろと試行錯誤が必要であったのであろうか。

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屋内では温度を上げるのが一番大変かもしれない。

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安倍さんに聞いてみた。1200度程度であれば、ふいごを使えばむつかしいことではない、とのことであった。

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釉薬は、瀬戸黒と長次郎黒茶碗では違うものを用いているということであった。

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瀬戸黒は1300度以上、長次郎黒茶碗は1200度程度ということで納得。
どういうものを用いた釉薬がいいのか、またその調合はどうか、この点は色々試してみる必要があったと考えられる。