これまで、見たことがあるがなんとも思わず見過ごしていた。
同じくこれも。
同じく。
同じく。
同じく。
同じく。
いずれの茶碗も「瀬戸黒」を思わせる。
ところが、この中に長次郎時代の楽茶碗がある。
どれが長次郎時代の楽茶碗か当てていただきたい。
なお、瀬戸黒、長次郎時代の楽茶碗は共に時代は良い。
NO461の茶碗について、
黒茶碗 銘枯樽 仙叟書付
長次郎焼のなかでも、古来道安黒と呼ばれる類の作行で、瀬戸黒に極めて類似、高台畳付は広く平ら
と紹介している。
NO462の茶碗については、
黒茶碗 銘力足 箱蓋裏に道安黒茶碗 力足ト云 と如心斎の書付
と紹介している。
NO463の茶碗について、
黒茶碗 銘槙垣 箱蓋裏に 宗味やき茶わん 槙垣 と書付
ほぼ同じ作行の三碗を、長次郎、道安黒、宗味と別々の呼び方をしているのは、後世の古楽に対する認識や判断が極めて曖昧であったことを物語っている。
と書いている。
NO464、NO465、NO466の三碗は瀬戸黒。
思ったとおりだと納得される御仁もおられるかもしれないが、私はNO461、NO462、NO463のような瀬戸黒風の長次郎黒茶碗がその図録にあるとの認識がなかった。以前から見続けている図録の中にあったのに、見落としていたのか、無意識に見過ごしていたのかわからないが、今回見つけて
”お!あるじゃないか!!”と少し興奮した。以前から(写真を)探している「島筋黒」なる茶碗も同じようなもののようである。
瀬戸黒茶碗と今ヤキ黒茶碗(造形したもの)は、どのようにして生まれたのか?
最初に瀬戸の陶工が瀬戸黒を作り、長次郎(一族)がその瀬戸黒を真似て今ヤキにその手法を取り入れて作ったか?
日本の陶磁1 長次郎 光悦 (中央公論社)の解説に「常慶印の捺されているものに、一連の織部好みの茶碗と共通した沓形茶碗が作られていることは興味深い。あるいは黒織部となっているものの中に、宗慶、宗味、常慶の作品が紛れているかもしれない。「島筋黒」はその一例。かって古田織部の贈箱に収まった黒沓茶碗を見たことがあるが、それも楽焼に近いものだった。
また、宗味作と伝えられている茶碗が幾碗も残っているが、後世、長次郎でも常慶でもないものを宗味としたようで、極めて曖昧であるよう思われ・・・、
と記している。
わたしはこの”ものはら”で、桃山名品茶陶は長次郎一族によって制作されたとの仮説をたて、その検証を試みている。
三点展開による造形については、利休(或いは利休と織部)の指導により、まず長次郎茶碗において試みられたのではないかと考えていた。
ところが、茶会記に登場する「セト茶碗」をながめていると、セト茶碗はどうも瀬戸黒を指しているのではないかと思えるようになった。
もしそうであると長次郎茶碗より瀬戸黒が先に誕生した可能性が高いことになる。
では瀬戸の陶工が偶然作ったものが「三点展開理論」に合致していたのか。
それとも最初から「三点展開理論」に則って作ったのか。
(ただし、瀬戸黒茶碗といわれているものすべてが三点展開理論に則ってつくられているということではない。図録等を見る限りだが、未だ完成前との趣きのものが多く、あるいは陶工物が混ざっている可能性も十分にある。)
瀬戸の陶工が偶然作ったものが「三点展開理論」に合致していたとして、その後長次郎(一族)が学び或いは真似て、遂に完成させた、との考えが成り立たないわけではない。
天正年代の終り、1590年代になると茶会記への「セト茶碗」の登場が極端に少なくなる。後世「天正黒」と呼ばれることとも併せ考えると1590年代には瀬戸黒の焼成は止んでいたのではないだろうか。
1599年の「へうげもの」茶碗、黒織部、織部黒や同時期(1600年代初頭)と思われる志野茶碗の完成をどう説明するか?つまり、仮にではあるが瀬戸黒の作り手である陶工が1590年代に「三点展開理論」による焼成を休んだとして、1600年頃になっていきなり美濃の陶工の手によって「織部菊文茶碗」「峰紅葉」「卯花垣」などといった大名品が誕生するのだろうか?という疑問である。
ただ、同時期に突然ということには限らず、数年間という時間がある、との反論もあるだろう。