宣教師達の見た茶の湯  ジョアン・ロドリーゲス(60)
さむしろ

では、宣教師達は茶の湯をどのようにみていたのか?
ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。
「この国の優雅な習慣の中でも、主要で、日本人が最も尊重し全力を傾倒するのは茶を飲むことに招待することであろうが、それと同じく、彼らはまた、客人に茶を出す場所を造るについても、特殊な建物、その建物への通路や入口、またこれらの場所の目的に適したその他さまざまなことに丹精をこらすのである。」
日本人は茶の湯についてこのように考えていると理解していたようだ。

さむしろ

ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。
「この建物なり、その場所で飲食その他すべてのことに使う道具なりは、宮廷にあるものと同じような、優美で、完全で、形がよくて、光沢があるものを甚だしく嫌い、また山中や僻地のものを使うのでもなくて、無造作に自然らしく造られた、粗末でゆがんだものなどが使われる。」

さむしろ

ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。
「日本人は、客人がいつ来ても接待できるように、一定の場所にいつも湯を沸かして用意して置く。 ―略― 
日本人はこの茶に招待する普通の方法の他に、別の方法を持っているが、それらについては一般的に、また個別的に述べることにする。
日本人は茶に大きな価値を認めた。そして、茶を最高度のものと考えるので、客人がたとえ高貴な人であっても、また、天下殿自身であっても、茶で客人に敬意を表し、歓待する。
そして、そのことをあまりにも重視し、評価するので、その茶に自分の主な財宝、貴重な宝物を使い、金、銀、宝石のために使うことはしなかった。」

さむしろ

ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。
彼らは万事について非常に謙虚で静寂にふるまう。従って、この饗応と礼法の仕方は、普通一般の儀礼とは違っていて、むしろそれとは反対の別の形式による交際や話合いのものである。
それは、華美壮麗なところがなく、隠遁的孤独的で、世俗的儀礼的交際から遠ざかって茅屋の中に閉じこもり、自然の事象の観照に耽る僻地の隠者を真似た孤独の様式なのである。
従って、この茶を勧め、会話を交わす招待は、たがいに長い話をするためではなく、大いに静寂と謙虚さを保ち、その座で目にする事物を家の主人に向かって讃めることをせず、心の中で黙考し、その中に蔵された神秘さを自身で悟るためである。
そのことからして、この儀礼に用いられる物はすべて、野趣を帯び、素朴であって、なんら人工を加えることなく、自然がそれを創った通りにただ自然のままであって寂寥、孤独、野趣にふさわしい。

さむしろ

ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。
日本人は、茶にこのような方法で招待することをたいそう喜び、重視しているので、前述のようにあるがままで人工を加えない家を造ることや、茶にこのような方法で人を招くのに必要な品物を買い求めることに大金を費やす。
そのために、とるに足りない陶土でできているにもかかわらず、一万、二万、三万クルザード、さらにそれ以上の価格に達するものもある。
(イルマン、R・D・アルメイダは1565年10.25付福田発の書翰で、堺の日比屋了珪所有の茶の湯道具のことを述べた後に、都の一領主が三万クルザードの茶碗を持っていて、それが彼らのいうほどの価値を持っているにしても自分はほしいと思わないが、一万クルザードならばそれを買う王侯は多数いるだろう、としたためている。)

さむしろ

記述内容から侘び茶になってからのものだとわかるが、ジョアン・ロドリーゲスは、茶について随分と詳しくまた深く理解していたようである。
相当深く茶の湯を学んだ者たちとの交流があったものと思われる。
宣教師たちが日本に深く入り込もうとすると、上級階級とのかかわりが必要となり、茶の湯の作法や理念をも学ぶ必要があったのかもしれない。
これまでのところどのような茶人達と交流があったのかについて触れたところはない。
宣教師たちは、茶の湯者たちから(もちろんそれら以外からも)多くのことを学んだ。
それは単なる雑談レベルのものではなく、使命を帯びた調査官による、日本の風俗、習慣、嗜好、礼儀、文化、価値観等々の多岐にわたる情報収集であったように思われる。

さむしろ

ジョアン・ロドリーゲスの日本教会史から。
「その後、時がたち、また、全国にわたり、特に都や堺では、この道に丹精をこめて、その習練に専心していた人が多くおり、従って彼らは世間の意向に応えてこの芸道に傑出し、そういう人として認められ重んじられた。
これらの人はあまり重要でないことを取り除き、また、都合のよいと思われる事を新しくつけ加えることで、東山殿の古い様式を部分的に改めて、茶の湯の様式をますます完成してゆき、その結果、現在流行している数寄と呼ばれる別の様式を作り上げた。」 このようにジョアン・ロドリーゲスは、書院茶から侘び茶への移行をきっちりと見届けていた。このことは、茶の湯とのかかわりが永い期間続き、また深かったことを現していると思われる。