09.1.4付 日本経済新聞「ギリシャにかえれ」 「静」なるものに「動」を(59)
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「古代、ギリシャ人はポーズを発見した。静止した彫刻で、いかに動きを表現するか。残された貴重なブロンズ像から、独創の精神を探ってみよう。」 との特集があった。

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09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。 「前からも、後ろからも、一目で全体の動きが見渡せます。紀元前四、五世紀のギリシャ彫刻は完璧でした。」 「後世の彫刻になると、いろいろな角度から眺めないと、動きがつかめない。後の時代の人はどうすれば追いつけるのか、わからなかったほどです」 という、アテネ国立考古博物館の学芸員アレキサンドラ・クリストプールさんの解説を紹介。

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09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。 真の実在の追及からおそるべき高みに到達。 ギリシャ人はあらゆることに秩序を見いだそうとした。ギリシャ語のカオス(混沌)、つまり不安定で不透明な状態には不安をいだいた。原理の説明を求め、哲学や科学を生み出し、彫刻家も理想の人体のあり方を数学的に解明していった。

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09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。 「数学を駆使して、このゼウスは造られました。この像は縦も横も2・09メートルで、まったく同じ。かかとを上げるポーズで安定させるのは非常に難しい。後世の人には造れません。バランスを計算し尽くしていたはずです。」 と、クリストプールさんは解説。

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09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― から。 国立西洋美術館長は言う。 「静止した像にいかに動きを与えるか。動きの中にどうやって静止した状態を見つけるか。途方もないことをギリシャ人は150年、五世代かけて解決した。すさまじい努力の継承が紀元前四世紀半ばには完成します。後世、創造力が疲弊する時代になると、ギリシャが見直される由縁です」

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長々と09,1月4日付日本経済新聞・「ギリシャにかえれ」 ―ポーズの発見― を引用してきた。 これは、これまで桃山織部様式名品茶陶が、ミロのヴィーナスやミケランジェロなどに代表される中世ヨーロッパ彫刻の造形理論を茶陶に取り入れたものであると考えてきたこと、従って、その原点であるギリシャ彫刻をあらためて紹介して、安倍安人がいう「織部様式」の理解の一助になればという思いからである。 まさに、「古代、ギリシャ人はポーズを発見した。静止した彫刻で、いかに動きを表現するか。」 この命題を、「焼き物=茶陶」で表現した者たちがいたのである。 「残された貴重なブロンズ像から、独創の精神を探ってみよう。」 「残された桃山織部様式名品茶陶と安倍理論から、誕生の秘密に迫ってみよう。」

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引用連載のキーワード部分は、「静止した彫刻で、いかに動きを表現するか」にあると思っています。 本来「静」であるものに「動」きを与え、見る者に「動」を感じさせる。このことを焼物で表現した偉人か才人か天才(かわかりませんが。)が、この日本の桃山という時代にいたということを論じ続けています。 多分、「動」を茶碗、花入、水指などの「茶陶」という、人間や動物以外のもので表現したのは、世界で最初のことではないかと思います。

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そしてその表現方法は古田織部の死(1615年)とともに封印され、近年になって、安倍安人によって解明され、そして再現された。 『その「静」であるものに「動」きを与え、見る者に「動」を感じさせる。このことを表現した焼物』が、桃山という短い期間に、京で、美濃で、備前、唐津、伊賀、信楽などで次々と誕生した。このことの不思議は、従来の説明では理解できない。 『「織部の茶碗は、当時、都で大流行していたのでは。」「でありながら、なぜこんな形の茶碗を、といぶかりながらつくったのでは。なぜ焼き続けたのか不思議なくらいだ。」』 という説明もあるが、このようなことで納得できるのであろうか?

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ただ、 「織部の茶碗は、当時、都で大流行していた・・・、で、なぜこんな形の茶碗を、といぶかりながらつくった」 というのも、アーティスト物と職人物とに分けて考えると理解できる。 つまり、三点展開によって造形された物と、単に押したり引いたりして似せた物とを分けて考えるということだ。

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アーティスト物(ひょうげたるもの)がまず作られ、少し遅れて職人物が、注文を受けてか、あるいは勝手にかわからぬが作られたと考えている。 まず歪んだものが作られ、やがて各地に広がり、それぞれの地で名人が歪みを完成させた作品を作った、とは思っていない。

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歪んだ茶碗は、朝鮮ものの茶碗、特に鶏竜山のように薄手のものによく見られるが、火の力で歪んだものである。それがヒントの一つとなったといえるかどうか。 それを考えるうえでは、鶏竜山など朝鮮茶碗がいつ渡来したかが大きく関わってくる。秀吉の朝鮮出兵の際持ち帰ったとの説が有力かと思うが、朝鮮出兵は1592年(文禄の役)と1597年(慶長の役)である。 造形された長次郎茶碗はその前にできているとすれば、その説は消えるだろう。(長次郎の没年は1589年)

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織部のひょうげたる茶碗と、長次郎茶碗のうち俊寛のような動き(歪み)を持った茶碗は同じ造形理論で作られているので、「俊寛」の名が伝来どうり利休(1591没)の命名によるものであれば利休時代に動き(歪み)は作られたことになる。 従って朝鮮茶碗の歪みがヒントになった可能性は低くなる。

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すでに述べてきたように、黒織部、織部黒、志野茶碗は1590年代の終わり以降に作られたというのが現在の説である(大阪城の発掘結果による)。 これもすでに述べたように瀬戸黒茶碗がいつ頃作られたのか、もうひとつよくわからない。別名天正黒と呼ばれていることを考えると、天正時代まで遡るのではないかとも思えるが、天正黒という呼び名がいつ頃から言われだしたのかもよくわからない。

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しかし間違いなくこの日本の桃山という時代に、本来「静」であるものに「動」を与え、見る者に「動」を感じさせる焼物が作られた。 長次郎茶碗が先か、瀬戸黒茶碗が先か、今のところどちらが先かわからないが、とにかく作られたのである。

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安倍さんは、桃山名品茶陶(ここでいう「静」であるものに「動」を与えた作品)は一品ものであるという。 同一のものを数点作り、その内の出来のよいものを残した、あるいは残った、ということではないということである。 前者がアーティストもので、後者が職人ものという分けかたをしている。

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そうすると、アーティスト物の誕生はどういうことからであったのか? 古代ギリシャの「アルテミーシオンのゼウス」(これが最初かどうかはわからないが)は紀元前460年ごろ、いきなり表情を持つ像として誕生した。 これがヒントとして日本の桃山時代に伝わったのではないか。

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ギリシャで動き(表情)をもたせて作られた像は、やがてローマで模造されルネサンスへと引き継がれていく。 1549年以降渡来した宣教師によって、利休あるいは織部にその造形思想が伝えられたのではないか。 利休か織部が茶碗に動き(表情)をもたせることを思いついた、との仮説である。そして実際に形にしたのが長次郎ということになる。